5 ウッダーラカ・アールニ(2)
文字数 1,689文字
アートマンについて教科書的な説明をすると、私たち自己の本体ということになるんだけど、余計に混乱し、ややこしくなってしまうから、さしあたり次のように考えておく
(1)この世界は「無」から生まれたのではなく、根源的な「有」=<はたらき>から生まれた
と、ここまでなら、ただ単に諸要素が生まれただけであり、そこからは何も展開しない
そうではなく、この諸要素にも<はたらき>が内在している。
ゆえに、諸要素が<はたらき>、さまざまにからまりあい、さまざまなモノを生んでいくこととなった。
そうしてついには、この世界が今あるように成り立つ。
その、世界を生んだ<はたらき>ではなく、世界内に内在する<はたらき>を、アートマンと呼ぶ
ちなみに、世界を生んだ<はたらき>をブラフマンとし、世界内に内在する<はたらき>をアートマンとするなら、本質的にはどちらも同じ<はたらき>であり、ブラフマン(梵)=アートマン(我)となる
まぁ、あまり先を急ぐのはやめましょう。混乱するから
超訳とはいえ、アートマンは自己の本質、正体だって本に書いてありましたよ。
まぁそのへんで、私はこんがらがっちゃったんですけどね。
アートマンを世界内に内在する<はたらき>とするのは分かりやすいンですけど・・・・・・
まぁ確かに、アートマンは他でもない、この人間の本質、みたいに理解したくもなるけれど、ウッダーラカ・アールニは、獅子であれ狼であれ蛾であれ蚊であれ、いっさいの生類はアートマンを本体としており、あなたもまた同じである、としている
アートマンは生きとし生けるものを、まさに生きさせている<はたらき>であり、べつに人間に限定されるものじゃないだろう。
ただし、自己(の本質)がアートマンに他ならない、と知ることができるのは人間のみ、という含みはあるがね
さて、以上、ウッダーラカ・アールニの思想(哲学)の、その半分をみてきた。
次は残り半分だ。
それを一言で表現するなら輪廻の思想だね
人間は死んだら身体を失う、ただしアートマン=<はたらき>そのものは消えることがなく、永遠に<はたらき>続ける、と連想していくならさ、まぁ自然と輪廻の思想につながっていくんじゃない、と、ぼくは思う
ちなみに、輪廻(転生)の思想は、じつはインドに入植してきたアーリア人ではなく、その先住民にルーツがあるらしいね。
それが、アーリア人の文化的土壌に浸透していたったらしい。
ウッダーラカ・アールニもまた、その思想に感化されたわけだ
ただし、さっき言ったように、身体が消滅しても<はたらき>そのものが消滅するわけではない、とするなら、その<はたらき>がまた新たなる生命を生む、という点に着眼すれば輪廻(転生)になるのだし、そうではなく、<はたらき>は<はたらき>であり、この世界全体を育んでいる<はたらき>と一つである、言い換えれば一つの<はたらき>が終息し、大きな<はたらき>の中へ帰入した(帰っていった)、という点に着眼すればさ、輪廻からの解脱に見えなくもない
つまり輪廻も解脱もコインの裏表であり、同じものを別の角度から眺めているだけ、と言えるだろう
ただし、以上のことをウッダーラカ・アールニが言っているわけではない。
普通に、ぼくらが知っているような、やや通俗的な輪廻転生についてふれているだけだね。
今ぼくが言ったことは、ぼく自身が輪廻と解脱について、超肯定的に再解釈したものだよ
私たちは普通、死にたくないって思うものですから、やっぱり生まれ変わってまた人として生きていたいな~、なんて考えたりするものですよね?
けれどインドの人は逆で、生まれ変わってしまうのはいわば敗北であり、解脱、つまり二度とこの世へ生まれてこないことのほうを成功と見なしていたんですよね?
はいはい。
じゃ、次はもう一人の哲人、ヤージュニャヴァルキヤの話をしましょう
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