13 間奏曲:デカルトの我(コギト)

文字数 2,664文字

さて、デカルトの話から入ろう。

愛理さんでも知ってるくらい、<わたし>とは何か、ってな話がでてくるとさ、必ずっていいくらいルネ・デカルト(1596-1650)の有名な「我思う、故に我あり」ってのがでてくるじゃない?

でも、が余計!

ホント失礼

ごめんごめん
通俗的には、デカルトのいう我(コギト)が、まさに<わたし>とは何か? の本丸的なイメージで語られたりもするんだけど、デカルトのいう我はアートマンじゃない

ごめんなさい。

デカルトの我(コギト)って何なんですか~。

さっきは知ってることをテキトーに言っただけで、じつはよくわかんないです

一言でいうと、思考作用の主体だよ
はい?

さっき言った社会=他律的な自己定義はね、デカルトに言わせればアテにならない(確固たるものではない)。

というのも、デカルトはね、こんな思考実験をするんだ。

神様が、あるいは悪魔でもいいんだけど、そういった存在がいてね、きみを騙すかもしれない、と。

あなたは釈愛理ではなく、[田中道子]だと思いこまされてしまう。

あるいは、あなたは女ではなく男だと思いこまされてしまう、神的あるいは悪魔的な力でね。

そうすると、あなたの社会=他律的な自己定義はぐらんぐらんと揺らいでしまうことになる。

もっと言うとね、釈愛理ってのも、じつはそう思い込まされてるだけなのかもしれない、とね。

だから、アテにならないんだ

神様とか悪魔を持ちだすなんて、なんか、無茶苦茶な論法に思えるけど・・・・・・
もちろん、ぼくもそう思うよ

まぁとりあえず、続けようか。

さて、[田中道子]さんだと思い込まされてる釈愛理さんはね、そうだね、たとえば腹が減る。

[田中道子]それ自体はニセ愛理さんなんだけど、ウソの存在なんだけどね、この「腹が減ったなぁ」という感覚だけはリアルなものだろう、って、そう思うよね?

でもね、これもまた違う。

やはり神様(あるいは悪魔)がいてね、イジワルして、「腹が減ったぁ」とか思わせているだけかもしれない。そう考えられるからね。

とはいえしかし、まさにこの「腹が減ったぁ」とか思っていること自体はね、そのような「腹減ったぁ」という思考作用があること自体、それ自体はね、リアルと言えるんじゃないか、って、そうデカルトは考える

腹減ったぁというのはウソで、騙されたニセの感覚だったとしても、腹減ったなぁと考えている、この考え、思考作用があること、それ自体はリアルってこと?
つまりは、そう

でね、デカルトは言うわけよ。

リアルだと思われているもの、その一切、すべてを疑ってみようとすればね、それこそ神様(あるいは悪魔)を持ちだせばさぁ、なんでも疑えてしまう

かなり強引な思考実験ですけどね
うん、まぁ

でもね、その思考実験をベースにしてだ、デカルトはこう結論づける。

すべてを疑うことができるにしても、まさに今「疑っているという、そのこと自体」は疑いようがないだろう、と。

つまり、疑う<わたし>は存在している(我思う、ゆえに我あり)、ってことだ。

ちなみにニーチェはもっと簡単にね、思考作用がある、ゆえに思考作用の主体がある、ってな感じに超訳していたはず、どこかでね、それがどこかは忘れたけど・・・・・・

リアルだと思うもの、そのすべてをニセモノだと疑ってみることはできるけど、まさに今、こうして疑っていること、疑うという思考作用があること、それ自体はリアルってことですね。

なんか、とても単純な理屈に聞こえますが

そう、単純な発想だよ。

でね、デカルトはさ、そこから飛躍して、単純なものは正しい、と考えるわけ

はい?

余談にはなるけど、そもそもデカルトはね、この世界で絶対確実だと言えるのものは何か? について思索してたんだ。

なぜなら、その絶対に確実なるものを土台にしてね、哲学という建物を建てるべきだと思ったからだ。

この絶対に確実なるものをね、哲学の第一原理という

でね、「我思う、故に我あり」、つまりすべてを疑ってみたところで疑うという思考作用があること、および思考作用があるのだから、思考するもの(思考する主体)があること、これだけは絶対に疑えないと気づき、絶対確実なる第一原理とした
その上で、なぜ第一原理が正しいと言えるのかについて、次のように語っている
「私は考える、ゆえに私はある」という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せねばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない、ということを認めたから、私は、「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である」ということを、一般的規則として認めてよいと考えた。※)下記参考文献P189より引用
つまり、明晰かつ判明に、それは正しい! って思えるものは真理だろう、と
はぁ・・・・・・

で、この明晰かつ判明な推論は真とみなしてよい、ということをベースにね、今度は神の存在証明へ向かうわけだが、もう暴論としか思えないので割愛しよう。

そもそも、シャンカラの話とは関係ないしね

そうしてください。それ以上は興味ありませんから

一言だけ余計なことを足しておくと、デカルトの哲学はね、いったんすべてを疑い、いわば世界をカッコに入れてしまった上でね、①疑うことのできない第一原理があることに気づく、そして、②第一原理をベースに、神の存在を証明するんだ。

でね、③神の存在が確証されたことにより、④世界をくくったカッコが消されていく。世界の存在がね、いわば神の担保により、確かなものになっていくんだ。

なんていうかな、循環的なものになっているし、神の存在証明はとても重要な柱になっている

わたしは無神論者ですから、そういう話は・・・・・・

ぼくも無神論者だよ。

ちなみに、何度も言うけど、デカルトによる神の存在証明はね、バカバカしくて、長々と引用する気になれない・・・・・・

さて、シャンカラに戻ろう
シャンカラの言うアートマンはね、このデカルト的疑う主体、「我思う」の我、コギトっていうんだけどね、それでもないってことになるんだわ
思考作用や、考える主体ってことじゃない、ってことですね?
うん

つまりアートマンは意識じゃないってことですか?

言い換えると

まぁ、そうだね。

意識でもなければ、意識してることを意識する主体でもない

社会的な属性でも、個性やパーソナリティでも、アイデンティティでも意識でもないなら、じゃ、アートマンって、何なんですか?

[参考文献]

・『世界の名著22 デカルト』野田又夫責任編集、中央公論社、1967

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色