6 ヤージュニャヴァルキヤ
文字数 2,248文字
さて、その思想だが、まずは(1)自己の本体はアートマンであり、このアートマンは身体が滅びても残存し、かつ輪廻する、と考えた。
しかも輪廻に際しては、生前に行った行為が関係し、良い行為は良い来世へ、悪い行為は悪い来世へつながるという業(カルマ)という考え方をもっていた
うん。
それとね、輪廻は欲望(執着)に囚われているかぎり延々といつまでも続いてしまう、とヤージュニャヴァルキヤは考えた。
逆にね、欲望(執着)を滅却することができたなら、輪廻を免れて解脱することができる、とも考えた
それまで、聖職者であるバラモンの仕事はね、たとえば更地に結界をつくり、祭壇と炉を築き、神々を勧請した上で、生贄を炉(火)の中へ投じ、神々からの恩恵を受ける、といった祭式が主だったんだよ。
それがね、そういった現世利益的(あるいは生天といった来世利益)なことではなしに、欲望(執着)から離れて解脱を得ることが聖職者にとっての最大目的になった。
解脱して、輪廻から解放されることがね
うん。
べつにぼくは学者じゃないから、厳密に古代のインド思想を理解してみたところで益するところは少ない。
それよりもね、インド哲学をベースにちゃんと哲学してみようと思うんだ。
つまり何が言いたいのかというと、教科書的にアートマンを理解しようとするのではなく、もっと深く?切り込んでみたいと思うんだよ
愛理さんの存在は、認識対象にすることができるでしょ。
ぼくからも、愛理さん自身からもね。
たとえば、愛理さんは美人さんだけど、ほら、こういうふうに、「あー綺麗な人だなぁ」とか、愛理さん自身を認識対象とすることができる
まぁそうだね。
愛理さんって背が高くて綺麗ですよね、とか、愛理さんって〇〇な人ですよね、とかいうのは全てアートマンのことを指していない。
認識対象とすることができるものは全てアートマンじゃないから。
じゃ、意識、がアートマンのことかな?
なんて思ったりするのかもしれないけれど、意識それ自体もまたアートマンではない
だって、ぼくらは意識を意識することができるから。
「あ、今ぼく喋ってるよな」とか、〇〇してることを意識し、かつ、そう意識してることもまた意識することができるんだけど、このように、意識してることを意識することができるがゆえに、意識もまたアートマンじゃない
それじゃいったんヤージュニャヴァルキヤの話はここでストップ、中断してね、インド哲学の最大派閥であるヴェーダーンタ学派と、最も偉大な哲学者といわれるシャンカラの思想にふれたいと思う。
というのも、シャンカラが『ウパニシャッド』を註釈しているからだ。
天才シャンカラを通過すれば、ぼくらはわりと容易にアートマンへ近づけるようになる。
シャンカラ様様だ
[参考文献]
・宮元啓一『インド哲学の教室 哲学することの試み』春秋社、2008
・前田専学『インド哲学へのいざない ヴェーダとウパニシャッド』日本放送出版協会、2000