11 『ウパデーシャ・サーハスリー』散文篇(2)

文字数 808文字

さて、それなりに資質と素養のある弟子を前にしてね、シャンカラが問う最初のセリフは・・・

「おまえは、誰か?」

なんだよ

あ、なんかちょっとカッコイイ感じ・・・・・・
愛理さんなら、なんて答える?
えっと、まずは名前でしょ。私は神楽坂愛子で、法名は釈愛理。そこのお寺で真宗大谷派の住職をやってます・・・・・・

ちょっと待って。そういった社会的な属性をね、シャンカラは問うてないんだよ。

それは真実の自己、すなわちアートマンではない、とシャンカラは言う

はい?

シャンカラはね、解脱の第一歩として、真実の自己=アートマンへの気づき(自己がアートマンであることを知ること)、へ誘う。

他でもない、ここにいる、こいつ、この<わたし>がじつはアートマンであったと気づくこと、それにより、人は苦しみの大海から逃れられる、とする

う~ん、じゃ、そのアートマンって何なんですか?

まずは今言ったように、社会的な属性のことじゃない。

要するに、履歴書や経歴書に書くようなものじゃない。

自己紹介で語られるようなものじゃない。

なぜならそれらはすべて他律的なものであり、アートマンは自律的なものだから

はい?
たとえば名前は、他の人と区別するためについてるんだよね?
まぁ、そうでしょ
愛理さんが「浄土真宗で住職をやってます」とかいって自己紹介ができるのは、浄土真宗ではない宗派があり、また、同じ真宗門徒でも住職ではない人たちがいるから、だよね?
当たり前でしょ

あるいは「私は女性で・・・」とか、もっと言うと「シャネルが好きで・・・」とか「B型で・・・」とか、そういったものは全部、他のものと比較して、ってことでしょ。

要するに、これはね、錯綜とした社会の網の目の中で、<わたし>とは●●だ、と立ち位置を印づけるようなものだ。

だからぼくはね、それを(社会的な関係性の中で位置が定まる)他律的な自己定義って言うんだよ

で、アートマンはね、他律的な自己定義によって見つかるものではない
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色