12 『ウパデーシャ・サーハスリー』散文篇(3)
文字数 1,306文字
アートマンは他律的な自己定義によって見つかるものではない、とぼくは言った。
つまりそれは、「私はどこどこに住んでる●●です。職業は●●です。趣味は・・・・・・」とかいう自己紹介で語られるような内容はすべてアートマンではないってことだね
一例を出そうか。
たとえば、東京大学に入りたいと思ってる学生がいたとする。
「なんで東大に入りたいの?」と問う。
「そりゃ東大が1番だからさ」という答えが返ってくるかもしれない。
けれどね、そもそもなんで東大が1番なのか、誰が1番だと決めたのか?
一言でいうなら<社会>だろう。
で、そいつが実際に東大に合格したとしてね、「すごいボクちゃん」なんていうアイデンティティを身にまとうのだとしたら、それはアートマンではない。
そんなアイデンティティはアートマンではない。
所詮は<社会>が用意した服を着せられてるだけなんだから、ボクちゃんは。
アートマンは自己に着せられる服ではなく、自己の本体なんだ
「わたしって●●な人なの~」とかいうセリフで語られるものは、すべてアートマンではない。
「●●な人なの~」というのを個性、キャラクター、パーソナリティと呼ぶなら、個性もキャラクターもパーソナリティもアートマンではない
お! デカルトときましたか。
一歩踏み込んだね、そこはパチパチパチと拍手したくなるんだけど、残念ながら、違う。
我思う、はアートマンではない。
こう言ってよければ、ぼくはね、デカルトの哲学よりもシャンカラの哲学のほうがレベル的に<上>だと思ってる。
ので、次回はね、なぜ我思うはアートマンではないのか、について説明するのと同時に、シャンカラ哲学の偉大さについても語りたいと思う。
[参考文献]
・宮元啓一『インドの「一元論哲学」を読む シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」散文篇』春秋社、2008