20 梵我一如(2)

文字数 1,654文字

インド思想の研究者である山下博司さんの本から、ちょっと引用してみよう
【ウパニシャッドにはさまざまな教えが説かれるが、なかでも「梵我一如」の思想がその核心をなすとされれている。「梵我一如」とは、ブラフマン(梵)と呼ばれる根本原理と、アートマン(我)と呼ばれる個人の本体とが究極的に同一であるという考えかたで、複雑で多様な現象世界の背後・根底に最高原理としての「唯一なるもの」を認め、森羅万象がそれから分化し、それに由来し、あるいはそれに支配され、依拠して成立しているとする。この真理を悟れば、輪廻の連鎖を断ち切って解脱することができるという】[山下:P181]
【ウパニシャッドの中心的な概念の一つである「梵我一如」は、おそらく次のような単純な発想に由来している。すなわち、アートマンは、語源を同じくするドイツ語・アーテム(息)のように、本来個人個人の「呼吸」を意味する。それに対し、ブラフマンは大宇宙を統べる原理である。その意味で、大宇宙としての本体(ブラフマン)に照応する小宇宙(アートマン)の関係とも捉えられる。「梵我一如」とは、ミクロコスモス(個)とマクロコスモス(全体)は、突き詰めれば同じものであるとする思想なのである。感覚的な喩えを用いれば、アートマンが呼吸する一つ一つの命とするなら、ブラフマンは風や大気、言い換えれば大宇宙の息吹のことである。人間は息をしなければ生きていけないから、呼吸こそ命の根源・本質であり、魂のよりどころである。人間は死ぬと呼吸をしなくなるが、呼吸が消えてしまったのではなく、宇宙的な呼吸と一つになったからである。それは死ではなく、個が全体のなかに合体・融合した結果なのである】[山下:P181-182]

山下さんは語源をたどり、アートマン=個体の呼吸、ブラフマン=いわば大地の呼吸、

でもって、アートマン=ブラフマンという連結を直観的に描いてみせた

なんか、「千の風になって」みたいだね
うん、だからぼくはね、ちょっと審美的すぎてね、賛同しかねる
むしろアートマンの語源がさ、呼吸、息、だとするなら、それが身体の中には入っていない、ってことに注目すべきだと思う
もっと言うと、実体的なものではない

アートマンはね、意識ではないし、自己意識でもないし、通俗的な意味での心でもない。

さらには、脳の中にも心臓の中にも入っていない。そもそも身体の中に入っているものではない。

息は、呼吸は、身体の中にあり、かつ同時にない、と言えるだろう?

出たり入ったりしてるとも言えるし、どこか一点に局在するものでもない


古代インド思想においては、息、呼吸が、身体に生気をみなぎらせている、とかいう観念があったのだろうとぼくは思うけど、要するにアートマンはぼくたちを生かしている<はたらき>なんだよ
そう理解すると、ストンと腑に落ちる

ちょっと話が逸れるけど、たとえば、ぼーっと車を運転しててさ、いつの間にか家に着いてた、なーんてことがあるよね。

このとき、べつに脳は眠っていたわけじゃない。

半ばルーチンワーク化した運転作業を、脳-身体は巧みに行っている。だから事故らずにすむ。

ちなみに、ぼーっと運転してて、知らない道に迷い込んだりしちゃってね、「あれ?」なんて思ってさ、ふいに運転してるってことの自覚が戻ってきたりすることもある。

これは、半ば自動運転と化していた脳-身体がね、見知らぬ道っていう環境に遭遇した結果のものだろう。

つまり、何が言いたいのかというと、脳-身体-環境はね、密接に接続しループしながら、それこそシステム論的にね、カップリングしてるってこと。

ぼくらの心は、あらかじめ脳というハコの中に入っているものじゃなく、脳-身体-環境という相互作用の渦中において、都度、立ち上がってくる、生成してくるものなんだよ。

心とは単体ではなく実体ではなく、<はたらき>なんだ。

くどいけどね

うん、なんとなくだけど、イメージがつかめてきたよ

[引用文献]

・山下博司『古代インドの思想 ―自然・文明・宗教』ちくま新書、2014

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


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