第8話

文字数 2,233文字

自宅に戻るとアブさんはそれはもうテキパキと朝食を作ってくれた。
軽く片手で卵を割り、理想的な半熟具合に、パンもトースターでこれまた理想的なカリカリ具合に仕上げ、見事にラピュタのあれを再現。
やりっぱなしではなく、何なら調理前よりも綺麗に片付けてくれるところも憎い。
「悔しいくらいにおいしいですね……」
「これはね、パンがうまいのよ」
「このパン、普段食べてるのと全然違います」
「米粉だからね」
「へぇ、米粉のパンは初めてですよ。おいしいんですね」
「もうね、これ食ってから普通の食パンに戻れなくて……」
「あとでお店、教えてください」
「はいはい」
ふたりでの朝食を終えて、時計を見てみると普段起き出すくらいの時間になっていた。
この時間からしっかりとした頭で仕事を始められるのはなんだか新鮮。
「ぼちぼち調査を始めましょうか。調査って言っても、たちまちは目の前のこれを調べることになりますけど」
「そうねぇ。俺はこっちのダンボールの中身でも確認していこうか?」
「はい、私はまずパソコンから行きます」
「パソコン、パスワードとか大丈夫なの?」
「……そこで引っかかったら、初っ端からどん詰まりですね」
茉麻さんのノートパソコンを立ち上げてみると、幸いなことにパスワードの設定はされていなかった。
アイコンをクリックすると、生前の茉麻さんが最後に見ていたのであろうページが表示された。
いくつかのタブがあったが、最初に出てきたのはやはりカウンセリングルームのブログ。
ブログのプロフィール欄には茉麻さんの写真が載っている。
白衣を着ていて、髪は肩にかからないくらいの長さ。
いかにも優しそうな穏やかそうな表情の女性。
夢の中でその顔ははっきりとはわからなかったものの、夢の中で見たあの女性はやはり茉麻さんだったのだと確信した。
ブログの最後のほうは更新頻度が落ちているようだったが、最初は割とこまめに更新していたらしい。
最初のほうから順番にブログの投稿を見ていく。
近所においしい定食屋さんがある、差し入れでもらったお菓子がおいしかった、天気がよかった、季節の花が咲いていたなど日常の何気ない話から、悩んでいる人に向けてのリラックス法や思考法まで本当にいろいろな内容が投稿されている。
写真の撮り方はやや不慣れな印象があったが、それが逆に親しみやすい。
どれも優しく語りかけるような口調で、確かにこのカウンセリングルームになら行ってみようかと思わせるものがあった。
どれもほのぼのとする内容だったが、こういう人がこの世から去ってしまったのかと思うとより虚しさを感じてしまう。
投稿をひとつひとつ確認していくと、ある時期からブログの投稿に対してコメントがつくようになっていた。
「今日は気持ちいいお天気でしたよね」「先生に教えてもらったリラックス法、実践してみます」など本当に何でもないコメントばかりだったが、その中にひとつだけ異質なコメントがあった。
「あの定食屋はおいしくない、嘘つき」「あのお菓子がおいしいわけがない、嘘つき」「今日は天気が悪かった、嘘つき」「季節の花なんて咲いていなかった、嘘つき」……とにかく茉麻さんがブログに投稿している内容を否定し、茉麻さんを嘘つき呼ばわりしているコメント。
そのコメントに対して、「今日は間違いなく晴れていましたよ。全国的にも快晴のはずです。嘘つきはあなたではないですか?」と他の人がコメントをするような始末。
ただ、その後も誰に何を言われても茉麻さんを嘘つき呼ばわりするコメントは続いていた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れてしまう。
「どした?」
「いやぁ、なんか……心理カウンセラーの仕事って本当に大変なんだなって。茉麻さんのブログのコメント欄見てたら明らかにおかしな人に粘着されてますもん」
「まぁ、もうどうしようもなくてただ縋りに来てる奴もいただろうしなぁ」
「自分が見たことや感じたことを発信してるだけなのに、そのたびに嘘つき呼ばわりされるとか私だったら気が狂いますね」
おそらくコメント欄を閉鎖したり、特定のユーザーだけを拒否したりすることもできたのだろうが、あえてそれをしなかったのはそういう人間でも受け入れたいという思いゆえだったのか。
そのうち、徐々に更新頻度が落ちていき、文章も短くなり、最初の頃のような柔らかい印象が失われていった。
投稿内容も命の大切さや人の気持ちを考えることの重要性などを訴える少し重たいテーマのものが目立つように。
茉麻さんというひとりの人間から、確実に何かが削り取られていく。
それがよくわかる。
「しばらくお休みします」という最後の投稿が痛々しく、切なかった。
きっと茉麻さんにも吐き出しことはあっただろうし、言いたいことは山ほどあっただろう。
それを何枚、何十枚、何百枚ものオブラートに包んで、絞り出したのがここに紡がれている言葉なのだ。
何にも包まれていないそのままの茉麻さんの思いが知りたいのだが、カウンセリングルームのブログからはそれを見つけ出すのは難しい。
他のタブを確認していくと、最後のタブで背景が真っ黒いページが表示された。
カウンセリングルームのブログとは別のブログサービスらしいが、非公開の設定にされている。
つまり、生前は茉麻さん本人以外の誰も目にすることがなかったもの。
トップには最後の投稿が表示されていたが、浮かび上がる文字に思わず顔をしかめてしまう。
古いものから遡っていくと、そこには誰にも言えなかったのであろう茉麻さんの思いが綴られていた。
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