ゆめのねこ
文字数 9,073文字
去年の春は都に悪い病が流行り、たくさんのひとが亡くなりました。
優しかった乳母も、三月の初めにあっけなく亡くなってしまった。
そして、大納言の姫君も病で亡くなられたと聞きました。
わたくしは悲しくて悲しくてたまりません。
お父様の任地から都にやってきたばかりで、右も左もわからず心細かった頃。
「これを手習いのお手本となさい」と、たいそう美しい書をいただきました。それを書いたのが大納言の姫君とうかがい、「このように美しい字を書くのは、どのように素敵な姫君なのだろう」と、あこがれておりました。
いつかお会いできたらいいのに。せめて文をしたためて、「ありがとうございます。あなたの美しい字がとても好きです」とお伝えできたら。ずっと胸に秘めてきた願いは、二度とかなわないのです。
残された書を見ると、
「さよふけてねざめざりせば時鳥 人づてにこそ聞くべかりけれ(夜がふけて目を覚まさなければ、ほととぎすの声も人づてに聞いてばかりであったろうなあ)」
「鳥辺山たにに煙のもえ立たば はかなく見えしわれと知らなむ(鳥辺山の谷に、亡くなった人を焼く煙がもえ立つのを見ていると、我知らず悲しくなってしまう)」
などと拾遺集の歌をお美しい字で記されていて、また涙があふれてしまうのでした。
そして今年もまた、桜が咲きました。
ああ、また姫君が亡くなられた季節が来てしまったなあ、とさみしく思いながら夜更けに物語など読んでいると。
不意に、一匹の子猫が現れたのです。
「まあ、かわいい」
雪のように、花のように真っ白な美しい子猫。
その子は不思議な猫でした。わたくしの顔をじっと見て、まるで言葉がわかるようなのです。
「もしかしてあなたは、大納言のお姫様?」
たずねると、赤い口をあけて「にゃあ」、と鳴きました。あまりに愛らしいので、飼うことにしました。
いつでもわたくしの後をついてまわり、可愛くて可愛くてたまりません。
可愛い白猫と暮らしはじめてまもなく。わたくしは病にかかり、床から起きられなくなりました。
身体のどこが苦しいと言う訳でも無いのです。ただ力が抜けて食べ物ものどを通らず、水ばかり飲んですごしております。
けれど幸せです。
あれほどお慕いしていた大納言のお姫様が、いつもわたくしによりそってくれているのですから。
お父様とお母様はたいそう心配して、お医者様や陰陽師を何人も呼びました。けれどわたくしの病は一向に治りません。
お父様は嘆き、お母様とお姉様は泣いておられます。けれど全ては水の中から見あげる月のようで。春の宵の桜のように、ぼんやりと霞んでいるのでした。
まるで夢の中をふわふわただよう心地です。わたくしはこのまま、煙のように消えてしまうのでしょうか……。
そうして四月も半ばをすぎる頃、都でも名高い「月代の君」と呼ばれる方がやってきたのでした。
黒い狩衣に蜘蛛の巣のような紅い縫い取りをあしらい、色の白いおだやかな顔立ちのお方でした。
正直もうしあげて、これまで来たお医者様も陰陽師の先生も怖い方ばかりだったのですが、月代の君はちっとも怖くありません。
お供は小さな女の子が二人。わたくしより少し年下でしょうか。うり二つの顔立ちはまるで子猫のように愛らしく、おそろいの単衣におそろいの唐衣を羽織り、やはりおそろいの被衣をかぶっておりました。何もかも同じ、ただちがうのは色だけ。
一人は白、一人は赤。
一人は小さな薬箱を下げ、もう一人は布でつつんだ壷を抱えておりました。
二人の女の子は月代の君の後を音も無く歩き、ちょこんと部屋の隅に座ります。
月代の君はわたくしの脈をとり、じっと目を見ました。ご祈祷もせず、護摩も炊きませんでした。
「かなちゃん、箱を」
「はい、どうぞ」
「るなちゃん、壷を」
「はい、どうぞ」
薬箱から袋に入れたお薬を。壷からよい香りのする小さな香炉を出して、侍女に渡したのです。
「これを煎じて、お嬢様にさしあげてください。日が暮れたら、この香を炊いてください」
「はい、かしこまりました」
何とやわらかく、心地よいお声でしょう。
「あたくしはこれから庵に戻り、仕度をしなければいけません。その間、この子たちがお嬢様に付きそいます」
「かしこまりました」
「この子たちは、あたくしの代理です。この子たちの言うことはあたくしの言葉と思い、従ってください。お嬢様を助けるためです。よろしいですね?」
その時だけ、月代の君の声は、底知れぬ深い穴から聞こえてくるような……そんな気がいたしました。
※
「ぴゃあん」
「ぴゃあ」
どこから入ってきたのでしょう。ふわふわの銀色の子猫が二匹。それぞれ女の子のひざに乗っています。
「まあ、かわいい、あなたたちの猫?」
「そうだよ」
「ぼくたちの猫だよ」
「わたくしも猫を飼っているのよ」
「うん、知ってる」
「白い子猫だよね」
「ええ。はずかしがり屋さんだから、今はどこかに隠れているけれど……きっと、そのうち出てくるわ」
うれしくて、しゃべりすぎてしまいました。
のどにうまく力が入らず、せきこんでしまいます。
「無理にしゃべらないで、お嬢様」
「はい、お薬」
「ありが……とう」
月代の君のお薬は、とても甘く、火照った身体に心地よく。横になると、すうっとまぶたがおりてきます。
「おやすみ、お嬢様」
「おやすみ、お嬢様」
※
「眠ったね、カナ」
「眠ったね、ルナ」
深い深い眠りに落ちる少女を、ルナとカナはじっと見守る。
西の空を茜に染める夕陽と、足下からひしひしと迫る鉄色の暗がり。光と影のせめぎあう、たそがれ時がやってくる。
「日が暮れるよ、ルナ」
「お香をたかなきゃね、カナ」
ルナは火ばしをあやつり、火鉢の炭をひとかけら、器用につまんで香炉に入れた。
枕元におかれた白い香炉。蓋の網目からうっすらゆらゆらたちのぼる煙。少女の眠る御簾と几帳の内側を満たす。
「いいにおい」
「きもちいい」
目をほそめてうっとりと二人は空気をかいだ。
「っ!」
すずやかな香りを乱す、生臭い風。
白い衣のルナが、はっと身を起こす。
遠くから悲鳴が聞こえた。
「行ってくる。ここ、お願い」
「わかった、気をつけて」
白い衣がふわりとなびき、ルナの姿は廊下の彼方。
残されたのは、赤い衣のカナと銀色子猫が一匹、そして眠る少女。蒼ざめた頬はやせこけて、目の下にはくっきりと青黒いくまが浮いている。つやを失った腕と首は、今にも折れそうにか細い。
咲く前にしおれかけた花一輪。
「んびぃ」
「うん。あぶないね」
「びゃあ」
「とても、あぶない」
血の気の失せた唇が震える。
「おひめ……さま」
かぼそい声で少女がつぶやく。夢うつつの中、猫の声を聞いて。
「大納言のお姫様……わたくし……あなたの……」
※
ふわり。
白い衣がひるがえり、か細い光が宙を舞う。
ルナが駆けつけたのは屋敷の北側、東の隅。『丑寅』の方角、いわゆる鬼門。
早くも灯された紙燭に浮かぶ影が膨れあがり、いびつな人に似た姿となって襲いかかる。
「あれぇえ」
「もののけがぁ」
逃げ惑う下女たち。
しかして鋭い爪が女たちに今にも触れんとした、その時だ。
影の鬼、てんでんばらばら切り刻まれふて、ふわふわり。
切れ切れの芥となって夕風に散る。
ルナはいぶかしげに首をかしげて、まばたきひとつ。
「手応えが無い。いや、無さすぎる……まさか!」
所変わって少女の部屋。ひょっこりと白い子猫が顏を出す。
「んびゃーっ!」
銀色子猫が毛をさかだて、唸る。
ぐにゃり。
白い子猫の影がふくれあがり、実体化する。黒い髪、黒い耳、黒い装束、白い目。何もかも子猫と正反対。半ば人、半ば猫。異形の姫が姿を現した。
「どこ……どこにいる」
白い目の真ん中、黒い瞳がばっくり割れ裂ける。
くたり、と白い子猫が床に倒れる。
カナは銀色子猫を抱いて後ずさり。
「そこかぁっ」
異形の姫は眠る少女に歩み寄る。だが、香炉の煙に顏をしかめて立ち止まる。
「くっ、忌々しい煙!」
「思い出して、お姫様。あなたは大納言のお姫様でしょう?」
「おのれ、邪魔をするな。この子は、私のモノ……冥府につれて行ク! 私の、わた、わた、わた、わたしぃいいのぉおおおモノぉおおお」
「話しても、無理っぽいか」
「おのれ、おのれ、おのれぇえっっ」
異形の姫は、遮二無二結界の内側に押し入った。
じゅわわ、じゅわわと音を立て、身体から青い炎があがる。
「おのれ、これしき!」
焼けた場所からぞろろ、ぞろろ。
まがまがしい黒い毛がのびる。結界に焼かれれば焼かれるほど、姫の姿はゆがんで行く。
ひらり。
カナは袂から、白い紙片をとり出した。紙で折られた小さな一角獣。
「来て、ぼくの一角獣」
ふっと息を吹きかける。紙がむくむくとふくれあがり、白馬が。いや、白馬に似た別の生き物が飛び出した。
うずまく銀のたてがみ。額にのびる螺旋の角と二つに割れたひづめは真珠の輝き。
ユニコーンだ。乙女の守護者、あらゆる毒を浄化する白銀の幻獣。
『あたしのカナちゃんに、近づくなぁっ!』
いななき、前脚でがつんと一撃、後脚でさらに一撃。
几帳も御簾も吹っ飛ばし、もろとも庭に蹴り飛ばす。
地べたに激しくたたきつけられ、異形の姫がひるむ。
『トドメぇっ』
鋭い角で狙い定めて駆け寄るが、途中でぺらり。
紙に戻って床に落ちた。
「あちゃー、時間切れ」
起き上がろうともがく異形の姫。もはやカナに身を守る術は無い。
「でも、役目は果たした」
ひゅん。
糸が巻きつく。わずかに残る夕陽を照り返し、ちらちらまたたく不可視の糸。異形の姫の手を、足を、首をからめとる。
「大丈夫? カナ」
「大丈夫だよ、ルナ」
「そう、よかった」
いかなる力か、か細い腕、か細い糸からめられ、異形の姫は動けない。
「囮作戦とは、しゃれたマネしてくれるねお姫様」
「うぐぐ、はな、はなせぇえっ」
「だめだよ。だってあなた、もう死んじゃってるじゃない」
「そうだよ、お姫様。この子を殺したら、本物の悪霊になってしまうよ?」
「イヤだいや、いやだぁあっ! 一人で死ぬのはさびしい……さびしいよぉ」
きりきりきゅっと糸が締まる。
「死ぬときはみんな、ひとりぼっちだよ」
くいっとルナが手首をひとひねり。途端に姫はばらんばらん。
まるで紙人形みたいにばらんばらん。
あっさりすっぱりぺらんぺらん。
「ねぇ、お姫様。この子が言ってたよ。『わたくし、あなたの美しい字がとても好きです』って」
「この子……が?」
もはや物の怪でもなく、人でもなく、猫でもなく。はかない霞となった姫がつぶやく。
「小夜ふけてねざめざりせば時鳥 人づてにこそ聞くべかりけれ」
すうっと夕暮れに溶け入って、煙も残さず消え失せる。
きょっきょっきょ。きょっきょっきょ。
夕闇の向こう側、どこかでさえずる時鳥。
「あれ?」
「あれれ?」
「消えちゃった」
「まだ歌っていないのに」
後に残るはおだやかに、寝息をたてる少女が一人。
※
次の朝、目をさますと二人の女の子は消えておりました。
「ああ、あの二人でしたら、役目を終えて帰っております」
月代の君は、新しく薬湯をせんじてくださいました。
「もはや憂いはありませぬ。これからはゆるりと養生なさいませ」
「……はい」
この方の声を聞いていると、不思議と思えるのです。「それでよいのだ」、と。
「あの、猫は。わたくしの子猫は?」
「ここにおりますよ」
にゃぁん、と愛らしい声で鳴く白い子猫。
ひしと抱きしめます。ふわふわとあたたかく、よいにおいがしました。
「ああ、よかった」
「大事になさい」
「はい」
※
しゅううっと本から蠢く染みが消えた。
その下から現れたのは、千代紙の枠に縁取られ、春霞を背に薄紅の花びらの散る美しい表紙。満開の桜の下で、平安装束の少女が白い猫を抱いている。
重ね色の緑で記されたタイトルは『更級日記』
「これも、おとぎ話なんだ」
「はい、子ども向けにわかりやすく書き改めた本です」
本屋の主はほほみ、二人の前にココアとクッキーを置いた。
「おつかれさまでした」
「わかんない」
「さっぱりわけがわかんない」
ルナは右に、カナは左に。ちょこんと首をかしげる。湯気の立つココアにも、焼きたてのクッキーにも目もくれず。
ふふっと笑うは月代の君。ただし陰陽師の狩衣ではなく、今風のモダンな和装を粋に着こなしている。
「浄化の力はカナちゃんの魂そのものにあるからね。歌はそれをひき出すやりかたの一つなの」
「そうなんだ」
「そうなんだ」
「あの時、カナちゃんはお姫様が一番聞きたかった言葉を伝えたの。だから浄化されたのよ」
「ずーっとあの子、言ってたと思うんだ。あんなに弱っていても、つぶやくくらいに」
「歪みにとらわれているとね、まっすぐな言葉は届かないの。ルナちゃんが物の怪を切ったから、お姫様は解放されたのよ」
「そうなんだ」
「そうなんだ」
ルナはうなずき、ココアをひとくち。
カナもうなずき、ココアをひとくち。
「おいしいね」
「あまいね」
一方、心配性のおねえさんは……
「おーい、姐さん、大丈夫かー」
「しんどい」
「それって物理的に? 精神的に?」
「どっちも」
ぐったりと、読書スペースの長椅子に突っ伏していました。
「力抜けたぁあ……」
「月代さんが言ってたろ? たとえかりそめの姿でも、大人が『汚染された本』に入るのはリスクが高いって」
「うう……カナちゃんのためだもの……」
よれよれと右手をかかげ、ぐっと拳を握り、親指を立てる。
「悔い無し!」
ぱったり。完全に沈黙。
「やれやれ、かついで帰るか」
「それがよろしいかと。当店ではお茶は飲めますが、泊まれる本屋では無いので」
「だよね」
「それにこの椅子で眠ったら、筋肉痛確定です」
「あー腰がイくね、確実に」
その姿を横目で見ながら、カナはクッキーをかじる。ココアが甘いぶん、砂糖はひかえめ。メープルの香りほんのり、バターはたっぷり、歯ごたえサクサク。
「ぴぃうるる」
「うるるぴぃ」
のどを鳴らして銀色子猫、並んで小皿のミルクをなめる。
カリカリと音を立てて、猫用のクッキーをかじる。
「ごちそうさま、おいしかった」
「ごちそうさま。ねえ、本屋さん」
「はい、何でしょう、カナさん」
「この本、もらっていい?」
「更級日記を、ですか?」
「うん」
「もちろんです。どうぞ」
「ありがとう」
その夜。
「……のどかわいた」
カナは見た。
「ううっ、尊い……」
リビングで涙を流しながら、本を読むおねえさんの姿を。
「大納言の姫ぇ……尊い。めっちゃ尊いぃい」
「やっぱりね」
「ぴぃ」
「好きそうだなって、思ったんだ」
「わーマジ泣きしてる」
「うん、マジ泣きしてる」
「そっとしとこう」
「そうだね、そっとしとこう」
二人はキッチンで水を飲みました。月明かりをたよりに、息さえひそめて。
それから抜き足、さし足、忍び足。そろりそろりとベッドに戻ったのです。
めでたし、めでたし。
(おとぎ探偵ルナカナ~ゆめのねこ/了)
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