まほうのかぎ
文字数 3,256文字
ある日、おとぎ話が『歪 み』に汚染 された。
歪みはまたたくまに世界中に広がり、勝手に話を書き換 える。
やがては現実をも。
これは、歪んだおとぎ話を浄化 する双子 のお話 。
※
歪んだおとぎ話の中では、幸せな話 が不幸な話 に変わる。
よい人が悪い人になる。
では、もしも。
もしも悪い人が、歪みにとり憑 かれたら?
※
その朝、ティーカップが落ちた。
大きな屋敷の上と下で。
「ねえさんっ」
すがりつく手の中で、優しい指が消えた。さらさらと砂になってくずれ落ち、それさえも宙 に溶 けた。
「おじさん……うそだ……」
歪んだおとぎ話は、現実をも書き換 える。
「行こう、ルナ」
「行こう、カナ」
小指に結んだ赤い糸。その先には、大事な人がいる。
「おネェちゃんがいってた。今ならまにあうって」
「そうだよ、今ならまだ」
そして、二人は本の中へ。
※
ぴぃちちち、ぴぃ、ちちち。
木漏れ日 ゆれる森の中。足下 をつつむやわらかなコケ、枝葉 の合間 を飛 び交 う小鳥。
「さぁて、どうしたものか」
目の前には二つの道。
道のそのもは一本。だが、進む方向によって二つとなる。
一つは城に帰る道。もう一つは城から去る道。
「ふぅむ」
金糸銀糸 の縫い箔 きらめく上着、上等の革のブーツ。男爵 はなやんでいた。馬から降りて、路辺 の石にこしかけて。
「男爵さま、忘れ物」
赤いずきんの女の子。いったいどこから来たのだろう? 足下にくるくるすりよる銀色子猫 。
「これ、落ちてたよ」
さしだす手の中には小さな鍵 。ぴかぴか光る金色の鍵。表面に赤い染 みが蠢 いている。
「ああ、拾ってくれたのか。ありがとうお嬢さん 。しかしそれはもはや、私には必要無いものなのだ」
「どうして必要無くなったの? 教えて」
「よかろう、急ぐ旅ではなし。聞いていただけるかな」
「うん」
少女はうなずき、ちょこん、と男爵のとなりに座る。
「私は罪人 なのだ」
「わるいひと、ってこと?」
鍵をさし出す少女。
「そうだ。私は、妻を罰 することに喜びを感じる。いけないと思いながらもやめられない」
ためらいながらも男爵は受け取る。
「この鍵は、そのための忌 まわしい道具なのだよ」
鍵の表面で蠢 く赤い染み。まるで生き物のようにはいずりまわる。
「これは魔法の鍵なのだ。二つで一組 。一つは自分で持ち歩き、もう一つを妻に渡してあるのだ。この部屋に決して入 ってはいけないと言いふくめてね」
「逆効果だよ、男爵さま。入 っちゃだめと言われると、逆に入ってみたくなる」
「ああ、その通りだよお嬢さん 。実際、妻は今朝 、部屋に入った。そして見てしまったのだ。私がずっと、隠していたものを」
「何を隠していたの?」
「かつての妻たちだ。罰 し、吊 るして葬 りもせず、全部で六人。したたる血は床 に溜 まり、地下の湿気 にとらわれ乾 く暇 も無い。妻はさぞかし驚いたろう。おびえて、すくんで、鍵を落とし、赤い染みを作った。それが、これだ」
ぼこり。
赤い染みが泡立ち、はじける。
「じゃあ、これから帰るの?」
「いや。もう、いいのだ」
男爵は空をあおぐ。
「自分から裏切 るようにしむけて、勝手に罰する。そのような行為 に何 の喜びも見出 せない。あまりに無意味だ。わかっているのに、己 を止められなかった……今までは」
「今はちがうの?」
「そうだよ。今の私は、何と言えばいいのかな。そう、清 められた。あの狂 おしい衝動 から解放 された」
「朝日 の輝 きのようにおだやかで、満 たされている。もう、殺さない。殺す必要は無いのだ」
男爵の声も、表情にも、一点 のくもりも無い。
「私はこの道を行き、二度と城には帰らない。妻は自由に生きるだろう」
「それはこまるよ、男爵さま」
ごぼっと、血の滴 が泡立つ。
「あなたの奥さん殺 しのお話は、これから本になる。何十人、何百人、何千人もの子どもが読む。そして学ぶんだ。危険からどうやって身を守れば良いか……」
「一人の生き延びた子どもからは、たくさんの未来が続く。ここであなたが退場しちゃったら、全て断ち切られる。消えてしまうんだ。助かったはずの子どもから続く命が、全部」
きつくにぎった少女の左手。
「その中には、ぼくの大事な人がいる」
そっと立てられる小指の先に、結ばれた赤い糸。先端は虚空 に消えている。
「ねえさんを取り戻すために、あなたは、城に帰らなきゃいけないんだ」
「そうか。私の罪深い行いが、救いとなるのか……」
男爵は目を閉じ、胸に当てる。にぎりしめた、小さな鍵を。
「ならば、受けよう」
歪みにとりつかれ、青ひげ男爵は善人 となった。
善人故 に彼は受け入れる。
再び悪人になる運命 を。
「……話はすんだ? カナ」
「話はすんだよ、ルナ」
白いずきんの少女が歩 み寄る。
黒い瞳は迷い無く男爵を見据 え、華奢 な手には鋏 が握 られている。
木漏れ日 を受けてぴかぴか光る、銀色の鋏。
「痛みは無い。一瞬 だよ、男爵さま」
じょきり。
※
青ひげ男爵は目を覚 ました。
手にした鍵を見て、笑う。
「ははは、ふは、はははは!」
割れんばかりの哄笑 は、苔 に吸われ枝間 に響 く。
小鳥のさえずりに混じり、どこからか聞こえるかすかな歌。
「もはや迷いの霧は、吹き払われた。待っておれ愛 しの妻よ! すぐに罰してくれよう。好奇心の罪を、己 が血肉 であがなうのだ!」
男爵は馬にまたがり、走り出す。
城へ。城へ。おびえる妻の待つ城へ。
血塗 られた結末 目がけてまっしぐら。
※
「ねえさん!」
「おじさん!」
本屋に戻ったルナとカナ。
「おかえり、カナちゃん」
「おかえり、ルナ」
出迎 えるのは、大事な人の変わらぬ笑顔。あたたかな手。
「っ、カナちゃん?」
カナはおねえさんに飛びつく。力いっぱいしがみつき、確かめる。
生きてる。生きてる。ここにいる。
「ダメなんだからね。もう二度と、ぼくのそばから勝手にいなくなっちゃ、ダメなんだからね」
「うん……うん……」
「ねえさんは、ずーっとぼくのそばにいなくちゃダメなんだからね」
「わかった。ずっと、カナちゃんのそばにいる」
「約束だよ」
「うん。約束するよ、マイプリンセス」
「もうっ、こんなときまで、かっこつけないの!」
ルナは何も言わずにおじさんを抱きしめる。
体にまといつく赤い蜘蛛 の巣。
不安定になった存在を、つなぎとめていた魔法の糸。
役目を終えてほろほろと、抱き合う二人の周 りを舞う。
歪みは取 りのぞかれ、現実 が戻った。
めでたし、めでたし。
歪みはまたたくまに世界中に広がり、勝手に話を書き
やがては現実をも。
これは、歪んだおとぎ話を
※
歪んだおとぎ話の中では、
よい人が悪い人になる。
では、もしも。
もしも悪い人が、歪みにとり
※
その朝、ティーカップが落ちた。
大きな屋敷の上と下で。
「ねえさんっ」
すがりつく手の中で、優しい指が消えた。さらさらと砂になってくずれ落ち、それさえも
「おじさん……うそだ……」
歪んだおとぎ話は、現実をも書き
「行こう、ルナ」
「行こう、カナ」
小指に結んだ赤い糸。その先には、大事な人がいる。
「おネェちゃんがいってた。今ならまにあうって」
「そうだよ、今ならまだ」
そして、二人は本の中へ。
※
ぴぃちちち、ぴぃ、ちちち。
「さぁて、どうしたものか」
目の前には二つの道。
道のそのもは一本。だが、進む方向によって二つとなる。
一つは城に帰る道。もう一つは城から去る道。
「ふぅむ」
「男爵さま、忘れ物」
赤いずきんの女の子。いったいどこから来たのだろう? 足下にくるくるすりよる
「これ、落ちてたよ」
さしだす手の中には小さな
「ああ、拾ってくれたのか。ありがとう
「どうして必要無くなったの? 教えて」
「よかろう、急ぐ旅ではなし。聞いていただけるかな」
「うん」
少女はうなずき、ちょこん、と男爵のとなりに座る。
「私は
「わるいひと、ってこと?」
鍵をさし出す少女。
「そうだ。私は、妻を
ためらいながらも男爵は受け取る。
「この鍵は、そのための
鍵の表面で
「これは魔法の鍵なのだ。二つで
「逆効果だよ、男爵さま。
「ああ、その通りだよ
「何を隠していたの?」
「かつての妻たちだ。
ぼこり。
赤い染みが泡立ち、はじける。
「じゃあ、これから帰るの?」
「いや。もう、いいのだ」
男爵は空をあおぐ。
「自分から
「今はちがうの?」
「そうだよ。今の私は、何と言えばいいのかな。そう、
「
男爵の声も、表情にも、
「私はこの道を行き、二度と城には帰らない。妻は自由に生きるだろう」
「それはこまるよ、男爵さま」
ごぼっと、血の
「あなたの奥さん
「一人の生き延びた子どもからは、たくさんの未来が続く。ここであなたが退場しちゃったら、全て断ち切られる。消えてしまうんだ。助かったはずの子どもから続く命が、全部」
きつくにぎった少女の左手。
「その中には、ぼくの大事な人がいる」
そっと立てられる小指の先に、結ばれた赤い糸。先端は
「ねえさんを取り戻すために、あなたは、城に帰らなきゃいけないんだ」
「そうか。私の罪深い行いが、救いとなるのか……」
男爵は目を閉じ、胸に当てる。にぎりしめた、小さな鍵を。
「ならば、受けよう」
歪みにとりつかれ、青ひげ男爵は
善人
再び悪人になる
「……話はすんだ? カナ」
「話はすんだよ、ルナ」
白いずきんの少女が
黒い瞳は迷い無く男爵を
「痛みは無い。
じょきり。
※
青ひげ男爵は目を
手にした鍵を見て、笑う。
「ははは、ふは、はははは!」
割れんばかりの
小鳥のさえずりに混じり、どこからか聞こえるかすかな歌。
「もはや迷いの霧は、吹き払われた。待っておれ
男爵は馬にまたがり、走り出す。
城へ。城へ。おびえる妻の待つ城へ。
※
「ねえさん!」
「おじさん!」
本屋に戻ったルナとカナ。
「おかえり、カナちゃん」
「おかえり、ルナ」
「っ、カナちゃん?」
カナはおねえさんに飛びつく。力いっぱいしがみつき、確かめる。
生きてる。生きてる。ここにいる。
「ダメなんだからね。もう二度と、ぼくのそばから勝手にいなくなっちゃ、ダメなんだからね」
「うん……うん……」
「ねえさんは、ずーっとぼくのそばにいなくちゃダメなんだからね」
「わかった。ずっと、カナちゃんのそばにいる」
「約束だよ」
「うん。約束するよ、マイプリンセス」
「もうっ、こんなときまで、かっこつけないの!」
ルナは何も言わずにおじさんを抱きしめる。
体にまといつく赤い
不安定になった存在を、つなぎとめていた魔法の糸。
役目を終えてほろほろと、抱き合う二人の
歪みは
めでたし、めでたし。