第5話:イラク紛争とジュリアナ東京

文字数 1,532文字

 しかし、フセインは、クウェートからの撤兵をかたくなに拒否した。さらに強気な発言としてクウェートは、今後もイラクの一州にとどまるであろうと主張した。戦闘は、1991年1月16、17日の夜、アメリカ軍の率いる対イラク大規模航空作戦により幕を開け空爆は戦争の期間中、継続され、数週間も続いた。この空爆は「砂漠の嵐作戦」と命名された。

 まず、イラクの防空施設、続いて通信網や政府建物、兵器工場、石油精製所、橋や道路が破壊された。2月中旬までに多国籍軍は空爆の目標をクウェートやイラク南部に展開するイラク前衛の地上軍部隊へと転換しイラク軍の防御用構築物や戦車を破壊した。多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」は2月24日に始まった。

 そして、サウジアラビア東北部からクウェート,イラク南部へと北上する形で進められた。散発的なイラク側の抵抗にあってもアラブとアメリカの部隊は3日間で首都クウェート市を奪還した。アメリカ機甲部隊主力はクウェートの西方、2百キロの地点からイラク領内に侵入した。そして、イラク機甲軍の予備兵力に後方から襲いかかった。

 その部隊はイラクの精鋭、共和国防衛隊がイラク南東部のバスラ南方に拠点を構えようとした。それを見て2月27日までに大部分を破壊した。ブッシュ米大統領が2月28日に停戦を宣言する頃にはイラクの抵抗は完全に押さえ込まれた。敗戦の直後、イラクではフセインに反対する人民蜂起が各地で発生した。しかし、フセインは、なんとか制圧に成功。クウェートの独立は回復された。

 しかし、国連が制裁として打出した対イラク貿易禁輸措置は戦争終結後も続けられた。国連特別委員会は、この間、イラクの中距離ミサイルや化学、核兵器研究施設の破壊を監視した。イラクの軍事作戦に関する公式の数字は一切発表されていない。クウェート戦域に展開していたイラク軍部隊の兵員数を推計すると18万人~63万人と幅があった。

 そして、イラク軍の戦死者数も8千人から10万人の間と正確さに欠けた。これとは対照的に多国籍軍で戦闘中に死亡したのは約3百人だけであった。5月15日、東京芝浦に日本最大級のディスコ「ジュリアナ東京」が誕生した。その場所は田町駅から徒歩6分ほどの東京ポートボールと言うボーリング場が入居する港区芝浦のビル1階で広さは1200平方メートル、最大収容人数は2千人と大きかった。

 お立ち台の高さは3メートルと高かった。オープン前日、5月14日に行われたマスコミと関係者向けの先行体験会の時点で、すし詰め状態。招待状がないと入れないが5千人も来場した。バブル景気が崩壊し、景気は、すでに後退し始めていた。しかし、世の中は、まだ「この好景気が終わるなんて本当?」という空気感であった。そこから3年間、世の中が次第に危機感を募らせていった。

 その中でジュリアナ東京はバブル景気終焉のまさに最後の花火であった。1991年6月7日、世界では湾岸戦争が勃発。ソ連が崩壊した。アウン・サン・スー・チー氏がノーベル平和賞を受賞。雲仙・普賢岳で大規模な火砕流が発生した。1989年の東欧諸国での革命とともにソ連の崩壊は冷戦の終わりを告げた。この過程はソ連を構成する各共和国の不安の高まりから始まった。

 ソ連中央政府との政治的・立法的対立が絶え間なく続いた。1988年11月16日、ソ連で初めて国家主権を宣言したのはエストニアだった。1990年3月11日、リトアニアがソ連からの独立を宣言し2ヵ月後、ラトビアと南コーカサス地方のグルジアが独立を宣言。1991年8月、ソ連共産党内の保守派と軍部のエリートがゴルバチョフを打倒し失敗していた改革をクーデターで止めようとしたが失敗した。
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