第9話「チャシャと証」
文字数 4,602文字
証は施設の外に出て、先ほどのバグの調査班と通話をしに行った。
チャシャは外の椅子に腰かけ、気がかりなことがある様子で顎に手を当てて考え込む。
「……あの。刑事とICPOの取締官って、どういう組み合わせなんすか」
正生は疑問に思っていたことをチャシャに投げかけた。
ICPOにはサイコ関連の事件を担当する、サイコ取締局が設けられている。
必要に応じて各国の警察にサイコやバグの調査要請をしていた。
日本ではサイコ取締機関と警視庁が調査を受けているが、特異な事件が起きた場合はICPOの取締官が直接赴くこともある。
しかしこの二人のように、バディを組んでいることは珍しい。
組むにしろ、バグと戦う可能性があるためICPOの取締官の相棒はサイコ取締機関に所属する者のはずである。
「本来ならICPOの取締官がバディを組む相手は、ICPO内の取締官じゃないとダメなんだけど、定原君が私の相棒を嘆願してきてね」
「え、あの人がですか?」
「うん。でもこれまでの体制を歪めることになるから、ICPOの上層は反対して彼に無理難題を叩きつけて諦めさせようとしたの。けど定原君、それを全部クリアしちゃってね」
短期間で一人でバグを五十討伐しろだとか、一介の刑事はおろか並みの取締官でも難しいものを彼はやってのけてしまった。
何をやらせても完遂して帰ってくるもので、そこまで有力な者とのバディを棄却する理由もなくなっていった。
結局、ICPOの者たちは証の実力を認めざるを得なかったのである。
「でもあの人、機械嫌いの機械種取締官なんですよね」
証は機械種を毛嫌いしているようだったが、チャシャは機械種である。
なぜそんな人物がそこまでして、わざわざ機械種の相棒になったのか正生は納得できずにいた。
「正直なところ、機械種の相棒を大事にする人とは思えないっすよアイツ。さっきも再子のこと無能呼ばわりしたし」
正生は学校で彼に助けられた時のことを思い返し、眉を寄せる。
助けてもらった相手ではあるが、幼馴染の再子を見下したことは許せない。
チャシャはそれを聞いて困ったように眉を下げ、証のいる外へと視線を向ける。
「ごめんね。あの子、不器用な子だから」
「不器用?」
「正確に言うと、定原君は機械種を嫌いなわけではないと思うの。そういう風に言葉を選んで演じてはいるけど、内心はちゃんと機械種を一つの生命体として扱っている。でもだからこそ無理をしたり、平気で死にかけるような機械種が気にくわない……実力不足な機械種が戦闘に出ることを、毛嫌いしているんだよ」
機械種は機体を破壊されても、バックアップを取っていて核データが無事であれば再び意識を取り戻すことができる。
だからこそサイコで痛覚を消し人間より無理をして、平気で壊されに行く者が多い。
先ほど戦った時の再子もそうだったが、機械種は自分が破損することになっても「死ぬ可能性の高い人間を守るためなら、機械の自分が体をもってでも攻撃を防ぐことは『合理的である』という」判断を下す傾向にある。
それは無意識に算出された、本人にとっての最良の選択だった。
誰かを守りたいという善性が働いているわけでも、自分たちが盾になるべきだと考える従属性でもない。
ただただ、効率的かつ合理的な判断を下しているだけなのである。
しかし誰から指示されたわけでもない、本人の意思と判断でやっていることなら、なおのこと証は気にくわなかった。
正生は証の考えが分かる気がして、うつむき手を組む。
「アイツ、そんなこと考えてたんですね……けど俺も、盾だとか道具だとか、そういうのは嫌いっすよ。いつかそういう、潜在的な意識そのものがなくなるときが来ないかって思うんすけど」
「……それはきっと、難しいんじゃないかな」
(根本的に、人間種 と機械種 は違うから。それに、これ以上二種族の境界線を薄めてちゃダメだ。じゃないときっと……)
チャシャは物憂げに視線を下げた。
しかし上から影が降ってきてすぐに顔を上げる。
彼女の前に証が戻ってきていた。
少し悲しげな表情のチャシャを見て眉を寄せ、正生を睨む。
「なに話してたんだ」
「なんでこっち睨むんだよ。別になんもしてねーって。アンタは性悪なハゲじゃなくてツンデレなハゲってことが分かったって話してただけだ」
「は? ツンデレじゃねーしハゲでもねーよガキ」
「ガキじゃねー舐めんなコラ」
(どっちも子供だなあ……)
戻ってきてそうそう言い合いを始められチャシャは苦笑いして二人をなだめた。
しばらくして博文が部屋から出てきて、正生たちに再子の様子を見せる。
彼女の負傷部は全て完治しており、今は静かに眠っていた。
正生は安堵の息を吐き、寝台のそばにしゃがんで再子の手を握る。
「時間はかかったが、元の身体に修復できた。脳芯も全て戻っている。ただ明日の朝までは目を覚まさないだろう。術後のエラーが起こるかもしれないから、一旦彼女はここで預かる」
「分かりました。急に押しかけてしまってすみません。ご対応ありがとうございます」
「そこの定原といい、お前はよく変なの拾ってくるからな」
博文に言われてチャシャは否定できずに苦笑いする。
証は名前を出されて顔を背けた。
「細川君はどうしますか」
「黒岩のおっさんが良いなら、再子が起きるまでここにいたいんだが」
「別に構わないが、寝るところがないな。悪いがそこのソファーで寝てくれ」
チャシャと証は帰っていき博文は器具を片付けに部屋を出ていった。
正生は電子ウインドウを出し、両親に今日は帰らない旨のメールを送る。
再子のそばに椅子を持ってきて彼女の手を握り、寝ずに再子を見守った。
しばらくして博文が部屋に戻ってくるが、正生は寝台に突っ伏して寝てしまっていた。
博文は小さくため息をつき、正生を担いでソファーに寝かせる。
風邪を引かないようにブランケットを被せて自室に戻っていった。
翌朝、窓から差し込む太陽の光に充てられて、再子は目を覚ました。
小さく声をもらし、ゆっくり体を起こす。
「あれ、私……」
学校でバグと戦った後の記憶がなく、顔を手で覆う。
知らない場所にいて少し困惑しつつ辺りを見回した。
すぐそばのソファーで正生が眠っていて不思議そうに首をかしげる。
前方でドアが開く音がしてそちらへ視線を向ければ、博文が部屋に入ってきた。
「ああ、起きたか」
「あなたは?」
「俺は機工医師の黒岩博文だ。負傷したお前の治療をしていた。腹部の損傷が酷かったが、調子はどうだ」
「え、黒岩さんって……あ、ありがとうございます。特に痛みはないので大丈夫です」
「そうか」
再子も特務零課にいた頃の博文について話には聞いていたので少し驚いていた。
彼からここに来た時の一連の状況を聞く。
「あ、あの治療費」
「レイから前払いで受け取ってるから大丈夫だ」
「え、そうなんですか……じゃあそのレイバレンさんに払わないと。連絡先分かりますか」
「分かるが、たぶんアイツ金は受け取らないと思うから礼を言うだけにしておけ。どっにしろ、あの脳芯の数だ。普通の値を付けたらあまり学生が払えるような金額でもない。ここはレイに甘えておけ」
「……分かりました」
博文は電子ウインドウを開いて再子の通信網に追加する。
再子は他人に治療費を払わせてしまって申し訳なさそうにしていた。
彼女の様子に博文は眉を下げて小さくため息をつく。
「レイに何かしてやりたいんだったら、アイツの調査に少し協力してやってくれ」
「調査、ですか?」
「ああ。なんでも最近、特異な性質を持つバグが発生しているらしくてな。アイツはその調査をしているんだが、特務零課の嬢ちゃんたちならある程度の調査協力もできるだろう。アイツが何か困っていたら助けてやってくれ」
「! はいっ」
博文に言われて再子の表情が明るくなり、笑顔で返答した。
「ああ、それとお前の脳芯のことなんだが」
彼が何か言おうとしたが、それを遮るようにソファーの方から大きなあくびが聞こえてきた。
正生は目を覚まして体を起こし、大きく上に伸びをする。
いくつか骨の鳴る音がして肩を回し、ソファーから降りた。
「再子、起きたのか。体は大丈夫か?」
「あ、うん」
再子は博文から身体に異常がないか診てもらったあと研究室から出る。
帰ろうとするが、博文が二人を呼び止めた。
「お嬢ちゃん。アンタの身体を修復治療できる奴は、おそらくほぼいないだろう」
「え……」
「何が原因でそこまで脳芯が増殖しているのかは分からんが、また何かあったら他の機工医療所じゃなくここに来い。費用の面は気にするな。俺が生きているうちは、俺が嬢ちゃんの治療をしてやる」
再子は驚いて目を見開いた。
機工医師は普通、富豪や要人以外の専属医師になることはない。
特務零課で武力をもって名を馳せていた彼なら、なおさら一介の学生の専属医になるなど有り得ないことだった。
「分かりました。これから、よろしくお願いします」
再子も、普通の機工医師では自分の治療ができないことを何となく察していた。
博文の申し出を承諾し、礼をいってその場を後にした。
直接学校に向かいながら、正生は昨日のバグのことを思い返す。
「今回は無事にお前を治せたが……あのバグがまた来たら、次は二人とも死ぬ可能性もあるな」
「あのバグ、SAシステムを使ってたね」
昨日のバグの問題点は、そこだった。
SAシステムの能力を使えるバグなど、今まで一体もいなかった。
バグの原型が人間であるからには、その体を浸食したバグがSAシステムを使えることもあり得るのかもしれない。
しかしSAシステムはシステムのIDを持つ者にしか使えない。
IDを持つのは機関の取締官と機関に認められた数名だけである。
「取締官の誰かが、バグになったのかな」
「……いや、それはない。取締官の名簿は変わっていないからな」
正生は電子ウインドウを出して機関の業務サイトに飛び、機関に所属する取締官の名簿データを開いた。
このデータはリアルタイムで記録されており、誰かが死亡すれば即座に名前が赤字になり死亡リストに移動するようになっている。
昨日のバグが取締官なら殺してしまったので人数が減っているはずだが、名簿データは数日前から変動がない。
「バグの進化って可能性もあるが、問題はそれだけじゃない。あの時、俺のSAシステムがサイバー攻撃を受けて動かなくなった」
「! それって」
「誰かが俺のシステムに干渉してきた。あの状況で妨害をするってことは、俺たちを始末したい連中がいるってことになるが」
突然二人の手元に電子ウインドウが出て業務通知が流れてきた。
二人とも立ち止まり通知内容を確認する。
てっきり二人とも昨日の件かと思っていたのだが書かれていたのは、特務零課に配属される者との顔合わせをするので機関本庁に来るようにとの旨だった。
指定された場所は会議室ではなく、境崎が普段使う部屋である。
(なんで俺たちだけ)
新しい取締官が来て顔合わせするときは、通常なら全員に業務通知が送られる。
しかし今回、宛先欄に入っていたのは正生と再子の名前だけだった。
しかも会議室ではなく境崎の部屋となると、おそらく公務として話をする類のものではない。
正生は少し嫌そうな顔をして通知を消し、再子と共に機関本庁舎へ向かった。
チャシャは外の椅子に腰かけ、気がかりなことがある様子で顎に手を当てて考え込む。
「……あの。刑事とICPOの取締官って、どういう組み合わせなんすか」
正生は疑問に思っていたことをチャシャに投げかけた。
ICPOにはサイコ関連の事件を担当する、サイコ取締局が設けられている。
必要に応じて各国の警察にサイコやバグの調査要請をしていた。
日本ではサイコ取締機関と警視庁が調査を受けているが、特異な事件が起きた場合はICPOの取締官が直接赴くこともある。
しかしこの二人のように、バディを組んでいることは珍しい。
組むにしろ、バグと戦う可能性があるためICPOの取締官の相棒はサイコ取締機関に所属する者のはずである。
「本来ならICPOの取締官がバディを組む相手は、ICPO内の取締官じゃないとダメなんだけど、定原君が私の相棒を嘆願してきてね」
「え、あの人がですか?」
「うん。でもこれまでの体制を歪めることになるから、ICPOの上層は反対して彼に無理難題を叩きつけて諦めさせようとしたの。けど定原君、それを全部クリアしちゃってね」
短期間で一人でバグを五十討伐しろだとか、一介の刑事はおろか並みの取締官でも難しいものを彼はやってのけてしまった。
何をやらせても完遂して帰ってくるもので、そこまで有力な者とのバディを棄却する理由もなくなっていった。
結局、ICPOの者たちは証の実力を認めざるを得なかったのである。
「でもあの人、機械嫌いの機械種取締官なんですよね」
証は機械種を毛嫌いしているようだったが、チャシャは機械種である。
なぜそんな人物がそこまでして、わざわざ機械種の相棒になったのか正生は納得できずにいた。
「正直なところ、機械種の相棒を大事にする人とは思えないっすよアイツ。さっきも再子のこと無能呼ばわりしたし」
正生は学校で彼に助けられた時のことを思い返し、眉を寄せる。
助けてもらった相手ではあるが、幼馴染の再子を見下したことは許せない。
チャシャはそれを聞いて困ったように眉を下げ、証のいる外へと視線を向ける。
「ごめんね。あの子、不器用な子だから」
「不器用?」
「正確に言うと、定原君は機械種を嫌いなわけではないと思うの。そういう風に言葉を選んで演じてはいるけど、内心はちゃんと機械種を一つの生命体として扱っている。でもだからこそ無理をしたり、平気で死にかけるような機械種が気にくわない……実力不足な機械種が戦闘に出ることを、毛嫌いしているんだよ」
機械種は機体を破壊されても、バックアップを取っていて核データが無事であれば再び意識を取り戻すことができる。
だからこそサイコで痛覚を消し人間より無理をして、平気で壊されに行く者が多い。
先ほど戦った時の再子もそうだったが、機械種は自分が破損することになっても「死ぬ可能性の高い人間を守るためなら、機械の自分が体をもってでも攻撃を防ぐことは『合理的である』という」判断を下す傾向にある。
それは無意識に算出された、本人にとっての最良の選択だった。
誰かを守りたいという善性が働いているわけでも、自分たちが盾になるべきだと考える従属性でもない。
ただただ、効率的かつ合理的な判断を下しているだけなのである。
しかし誰から指示されたわけでもない、本人の意思と判断でやっていることなら、なおのこと証は気にくわなかった。
正生は証の考えが分かる気がして、うつむき手を組む。
「アイツ、そんなこと考えてたんですね……けど俺も、盾だとか道具だとか、そういうのは嫌いっすよ。いつかそういう、潜在的な意識そのものがなくなるときが来ないかって思うんすけど」
「……それはきっと、難しいんじゃないかな」
(根本的に、
チャシャは物憂げに視線を下げた。
しかし上から影が降ってきてすぐに顔を上げる。
彼女の前に証が戻ってきていた。
少し悲しげな表情のチャシャを見て眉を寄せ、正生を睨む。
「なに話してたんだ」
「なんでこっち睨むんだよ。別になんもしてねーって。アンタは性悪なハゲじゃなくてツンデレなハゲってことが分かったって話してただけだ」
「は? ツンデレじゃねーしハゲでもねーよガキ」
「ガキじゃねー舐めんなコラ」
(どっちも子供だなあ……)
戻ってきてそうそう言い合いを始められチャシャは苦笑いして二人をなだめた。
しばらくして博文が部屋から出てきて、正生たちに再子の様子を見せる。
彼女の負傷部は全て完治しており、今は静かに眠っていた。
正生は安堵の息を吐き、寝台のそばにしゃがんで再子の手を握る。
「時間はかかったが、元の身体に修復できた。脳芯も全て戻っている。ただ明日の朝までは目を覚まさないだろう。術後のエラーが起こるかもしれないから、一旦彼女はここで預かる」
「分かりました。急に押しかけてしまってすみません。ご対応ありがとうございます」
「そこの定原といい、お前はよく変なの拾ってくるからな」
博文に言われてチャシャは否定できずに苦笑いする。
証は名前を出されて顔を背けた。
「細川君はどうしますか」
「黒岩のおっさんが良いなら、再子が起きるまでここにいたいんだが」
「別に構わないが、寝るところがないな。悪いがそこのソファーで寝てくれ」
チャシャと証は帰っていき博文は器具を片付けに部屋を出ていった。
正生は電子ウインドウを出し、両親に今日は帰らない旨のメールを送る。
再子のそばに椅子を持ってきて彼女の手を握り、寝ずに再子を見守った。
しばらくして博文が部屋に戻ってくるが、正生は寝台に突っ伏して寝てしまっていた。
博文は小さくため息をつき、正生を担いでソファーに寝かせる。
風邪を引かないようにブランケットを被せて自室に戻っていった。
翌朝、窓から差し込む太陽の光に充てられて、再子は目を覚ました。
小さく声をもらし、ゆっくり体を起こす。
「あれ、私……」
学校でバグと戦った後の記憶がなく、顔を手で覆う。
知らない場所にいて少し困惑しつつ辺りを見回した。
すぐそばのソファーで正生が眠っていて不思議そうに首をかしげる。
前方でドアが開く音がしてそちらへ視線を向ければ、博文が部屋に入ってきた。
「ああ、起きたか」
「あなたは?」
「俺は機工医師の黒岩博文だ。負傷したお前の治療をしていた。腹部の損傷が酷かったが、調子はどうだ」
「え、黒岩さんって……あ、ありがとうございます。特に痛みはないので大丈夫です」
「そうか」
再子も特務零課にいた頃の博文について話には聞いていたので少し驚いていた。
彼からここに来た時の一連の状況を聞く。
「あ、あの治療費」
「レイから前払いで受け取ってるから大丈夫だ」
「え、そうなんですか……じゃあそのレイバレンさんに払わないと。連絡先分かりますか」
「分かるが、たぶんアイツ金は受け取らないと思うから礼を言うだけにしておけ。どっにしろ、あの脳芯の数だ。普通の値を付けたらあまり学生が払えるような金額でもない。ここはレイに甘えておけ」
「……分かりました」
博文は電子ウインドウを開いて再子の通信網に追加する。
再子は他人に治療費を払わせてしまって申し訳なさそうにしていた。
彼女の様子に博文は眉を下げて小さくため息をつく。
「レイに何かしてやりたいんだったら、アイツの調査に少し協力してやってくれ」
「調査、ですか?」
「ああ。なんでも最近、特異な性質を持つバグが発生しているらしくてな。アイツはその調査をしているんだが、特務零課の嬢ちゃんたちならある程度の調査協力もできるだろう。アイツが何か困っていたら助けてやってくれ」
「! はいっ」
博文に言われて再子の表情が明るくなり、笑顔で返答した。
「ああ、それとお前の脳芯のことなんだが」
彼が何か言おうとしたが、それを遮るようにソファーの方から大きなあくびが聞こえてきた。
正生は目を覚まして体を起こし、大きく上に伸びをする。
いくつか骨の鳴る音がして肩を回し、ソファーから降りた。
「再子、起きたのか。体は大丈夫か?」
「あ、うん」
再子は博文から身体に異常がないか診てもらったあと研究室から出る。
帰ろうとするが、博文が二人を呼び止めた。
「お嬢ちゃん。アンタの身体を修復治療できる奴は、おそらくほぼいないだろう」
「え……」
「何が原因でそこまで脳芯が増殖しているのかは分からんが、また何かあったら他の機工医療所じゃなくここに来い。費用の面は気にするな。俺が生きているうちは、俺が嬢ちゃんの治療をしてやる」
再子は驚いて目を見開いた。
機工医師は普通、富豪や要人以外の専属医師になることはない。
特務零課で武力をもって名を馳せていた彼なら、なおさら一介の学生の専属医になるなど有り得ないことだった。
「分かりました。これから、よろしくお願いします」
再子も、普通の機工医師では自分の治療ができないことを何となく察していた。
博文の申し出を承諾し、礼をいってその場を後にした。
直接学校に向かいながら、正生は昨日のバグのことを思い返す。
「今回は無事にお前を治せたが……あのバグがまた来たら、次は二人とも死ぬ可能性もあるな」
「あのバグ、SAシステムを使ってたね」
昨日のバグの問題点は、そこだった。
SAシステムの能力を使えるバグなど、今まで一体もいなかった。
バグの原型が人間であるからには、その体を浸食したバグがSAシステムを使えることもあり得るのかもしれない。
しかしSAシステムはシステムのIDを持つ者にしか使えない。
IDを持つのは機関の取締官と機関に認められた数名だけである。
「取締官の誰かが、バグになったのかな」
「……いや、それはない。取締官の名簿は変わっていないからな」
正生は電子ウインドウを出して機関の業務サイトに飛び、機関に所属する取締官の名簿データを開いた。
このデータはリアルタイムで記録されており、誰かが死亡すれば即座に名前が赤字になり死亡リストに移動するようになっている。
昨日のバグが取締官なら殺してしまったので人数が減っているはずだが、名簿データは数日前から変動がない。
「バグの進化って可能性もあるが、問題はそれだけじゃない。あの時、俺のSAシステムがサイバー攻撃を受けて動かなくなった」
「! それって」
「誰かが俺のシステムに干渉してきた。あの状況で妨害をするってことは、俺たちを始末したい連中がいるってことになるが」
突然二人の手元に電子ウインドウが出て業務通知が流れてきた。
二人とも立ち止まり通知内容を確認する。
てっきり二人とも昨日の件かと思っていたのだが書かれていたのは、特務零課に配属される者との顔合わせをするので機関本庁に来るようにとの旨だった。
指定された場所は会議室ではなく、境崎が普段使う部屋である。
(なんで俺たちだけ)
新しい取締官が来て顔合わせするときは、通常なら全員に業務通知が送られる。
しかし今回、宛先欄に入っていたのは正生と再子の名前だけだった。
しかも会議室ではなく境崎の部屋となると、おそらく公務として話をする類のものではない。
正生は少し嫌そうな顔をして通知を消し、再子と共に機関本庁舎へ向かった。