その10の2 インプット/アウトプットという言い方が好きになれない理由のつづき

文字数 1,293文字

(10の1からつづく)

 私たち、自分を機械の箱にたとえるのを、やめてみたらどうだろう。
 そしたら、何が起こるだろう。

 もし、やめてみたら、
 私たちはもう少し、優しく、ていねいになれるんじゃないだろうか?
 自分に対しても。
 他人に対しても。

「失礼だ」と書いたのは、マナー違反だからやめようという意味ではない。
 自分以外のすべてが「データ」「材料」に、自分が「箱」になったら、危ない。
 孤立する。
 いま、コロナ禍で、人と人とのあいだが分断されているから、とくに危うい。ひしひしと感じる。

 ふと、ジョン・ダンという詩人の詩を思い出した。シェイクスピアと同時代のイギリスの人だ。
 ヘミングウェイに引用されて、さらに村上春樹に引用されたおかげで、少し有名なようだから、ご存知の人も多いかもしれない。

「人間は島ではない。自分だけで完結している人はいない。
 誰もが大陸のひとかけら、大きな全体の一部だ。(「瞑想XVII」より)」

 もう少し21世紀的なイメージで言うと、私は人間って、ひとりひとりが一つの脳細胞(ニューロン)のようだと感じている。
 私たちはおたがいにつながり、信号を、言葉を、送り合っている。その送り合いが途絶えたとき、私たちは死ぬ。少なくとも、言葉は死ぬ。

「つながり」や「きずな」は、良いものばかりではない。中には断ち切りたいつながりも大いにある。でも、それもふくめて、人間だ。
 電信的な比喩を使うなら、せめて「受信/発信」まで戻しませんか。
「インプット/アウトプット」は、やめてみませんか。

「書く」という行為に、かならず他者を想うことを、とり戻しませんか。

 ジョン・ダン、翻訳してみます。
「島ではない」という部分の前後まで見ると、たんに「みんな一人じゃないよ、孤独じゃないよ」なんていうレベルではなく、もっと深いことを言ってくれている。
 ここに書かれているのは、いま私たちにいちばん必要な考えかたのような気がする。

*****
 人間は島ではない。自分だけで完結している人はいない。誰もが大陸のひとかけら、大きな全体の一部だ。もし海がひとつかみの土くれを洗い流したら、その分ヨーロッパは小さくなる。岬が流されたり、きみの友やきみ自身の領地が流されたりしたら小さくなるだろう、そういうことだ。どんな人の死もぼくの存在を削る、ぼくが人類の一部だからだ。だから、人をやって「誰がために弔鐘は鳴るなどと問うなあの鐘が鳴るのはきみのためだ
*****

 誰かをいいように利用し、捨て、「それが何か?」という感覚。
 誰かが死んでも、「それが何か?」という感覚。
 それは、私自身がいいように利用され捨てられ、死んでも、「それが何か?」という世界を造るのに加担してしまっていることになる。

 いつかまとめ記事※に書いたけれど、やっぱり、誰かのために心を砕くことだけが、自分も生きのびられる道だと思うのだ。


※ジャック・アタリ氏「利他主義は最善の合理的利己主義」~NHK「緊急対談 パンデミックが変える世界」内容まとめ
https://note.com/sala_mimura/n/nb7e4ee4713dd
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