その15の4 私がぐでたまをやめた理由

文字数 3,163文字

 冠攣縮(れんしゅく)性狭心症。
 そういう病名だったらしい。
 CCUと、のちに移った一般病棟、それぞれでの主治医の先生の二人に、だいたい同じ説明を受けた。二度とも口頭で受け、字で見たわけではないから、このとおりの診断名ではなかったかもしれない。
 なにせ初めて聞く言葉だ。

「『れん』は『けいれん』の『れん』です」
 そう言われた記憶ははっきりある。
「冠動脈というのは三本あるんですね。そのうちのどれかが詰まってしまうのが、心筋梗塞なんですが」
「はい」
「ミムラさんのは、詰まっていたのではなくて、痙攣していたんです。それも、三本のうち二本が。
 そうかなと思って痙攣を緩和する薬を投与してみたら、すぐに改善したので、そうだとわかりました」

 病院に運ばれたとき、「いまからいろいろ検査をします」と言われた。えー検査? 早く治療してほしいのにと思ったが、
 

の検査だったわけだ。
 早く治療してよなんて思ってごめんなさい。(合掌)
 似たような症状でも、原因によって対策が変わってくる。血栓ができていないなら、血栓をとりのぞく努力は必要ない。

 ホースを踏んでいるような状態です、と言われた。なるほど。先生の喩えが、イメージしやすくてわかりやすい。
 ホースは詰まってはいないが、ぎゅっと踏まれて細くなっている。踏まれたホースの先の心臓に、そして全身と脳に血が行かない。酸欠になる。
 だから詰まっても痙攣しても、結果として痛い苦しい気もち悪い、危ないというのは同じだったわけなんだけど──
 何と言うのだろう。

 この説明をしてもらって、
 私はなんだか、ひじょうに安心したのだ。
(そうか、「けいれん」の「れん」なんだ)
(読めるけど書けない漢字だ)
(なんかかっこいい)

 バカだと思われるだろうが、そのとおりだ。バカだ。
 後で自分で検索してみて、女優の天海祐希さんが倒れたときこの「冠攣縮性狭心症」だったらしいと知り、憧れの天海さんに一歩近づけた気がしたが、その話は本物のバカなのでやめておく。
 いま言いたいのはそこじゃない。

 自分の痛い苦しい気もち悪い、なんだこれという経験に、立派な名前がついた。
 その瞬間、
 しゅうっと全体をまとめて、ぱちんと額縁の中に入れてもらった気がしたのだ。

 前回の「ミムラさん」と呼ばれる話の、別アングルなわけで、名前ってつくづく凄いと思う。
 私は医学的科学的なことはわからないが、患者の実感として、
 

、ということが、
 どれだけ絶大なパワーをもたらすかを、身をもって体験させてもらった。
 そしてその安心のもとの一つが、

ことであることも。

 一般病棟に移ってからばかりか、まだストレッチャーの上にいるときから、私はずっと語りかけられ、わかりやすい説明を受けていた。
「ミムラさん、酸素の量が足りないので、これを付けてください」
「検査のために採血します。少しちくっとします。痛かったら言ってください」
「カテーテルを入れます」
「緊急用のペースメーカーを入れます。いまからここ(のどの右下)から入れます。まず麻酔を打ちます。それでも痛いと思いますががまんしてくださいね」
「ミムラさん、聞こえますか」
「ミムラさん」

 脈をとって、という先生の指示が聞こえる。手首をとられる感覚がある。
 脈がとれません、と看護師さんが答えている。
 私は不安だ。
 ミムラさん、と呼びかけられる。

「ミムラさん。いま、『徐脈(じょみゃく)』といって」
「普通なら1分間に60回くらいある脈が、いまミムラさん30回しかないんです。半分なんです」
 そうなんだ、と目を閉じたまま思う。父が亡くなる少し前に、徐脈と言われて治療を受けていたっけ。あれだな。
 聞こえているし理解もしているが、私が理解しているとスタッフの皆さんが理解するのは難しかったろうと思う。
 なのに、はっきり私に向かって説明してくれている。

「30回しかないので」
「緊急用のペースメーカーを入れます。いまからここから入れます。まず麻酔を打ちます。それでも痛いと思いますががまんしてくださいね」
 のどに注射を打たれる。
 続いて、サイコロくらいの(と思った)何かを押し込まれる。ぐいぐい押される。ぎゅうぎゅう押される。

 これがもし、何の説明もなく、いきなりのどに注射を打たれて何かぎゅうぎゅう押し込まれていたら、私は恐怖のあまり力をふりしぼって暴れていたにちがいない。
 だってのどですよ?
 頸動脈だ。もちろん。時代劇で自害するとき刀を当てる所、あそこだ。いきなり他人にさわられたらめちゃくちゃ怖い。
 だけど説明してもらって、いまペースメーカーを入れてるんだなとわかっているから、安心してぎゅうぎゅうされている。

(後で知ったのは、サイコロ大の機械を押し込まれたと思ったのは私のかんちがいで、緊急用のペースメーカーはわりと大きくスマホくらいで体の外にぶら下げられていたのだが、それはともかく。)

 ぎゅうぎゅうはかなり痛かった。まったく怖くなかったと言えば嘘になる。
 それでも、
「入った」
 先生の声がする。先生の声もほっとしている。
 私もつられてほっとする。
 良いことしか書かないから実名を出してもいいですよね。東京は千駄木の、日本医科大学付属病院だ。かの野口英世博士ゆかりの所だそう。
 遠くない将来、死ぬときはここで死にたい。
 父をここに入院させてあげられていたらと痛切に思う。亡くなるのは避けられなかったとしても、きっと、いろいろ違っていただろう。

 患者は、それも重篤な患者ほど、見たところ動物やへたすると物体に近づいている。治療する側からしたら意思の疎通ができるかどうかさえ怪しく感じることだろう、と患者の側から思う。
 それでも、人間として呼びかけられ、話しかけられ、
 きちんと説明を受け、礼儀正しく扱われるということが、
 どれだけ患者の、生きよう、治ろうとする力を引き出すか。
 痛感した。
 本当に、本当に感謝しています。

 いまだから告白するが。
 あのとき友人Mが立ち寄って、救急車を呼んでくれなかったら、私は自分では救急車を呼ぶことなく、翌朝を迎えることなく終わっていただろうと思う。
 スマホに手をのばす体力、というより、気力がなかった。
 正直──
 めんどくさい、と思っていた。

 私が死んでも、誰も困らない。
 まあ数人は悲しんでくれるかもしれないけど、それも一時のことだ。

 ぼんやりと、そう思っていた。
 そのまま、ぐてたま的に「だりい」とか言いつつ、一晩じゅう苦しみぬいて死んでいった可能性は高い。
 尊敬するカレー沢薫先生の名言を借りれば、人は怠惰で死ねる。じゅうぶん死ねる。
 むしろこの「やる気なし」というのはひじょうに危ない。
 死に直結する。

 そんなぐてたま的危機にずり落ちかけていた私を、突然現れた知らない人々が寄ってたかって死にものぐるいで引っぱりあげて、戻してくれたのだ。もとのラインの上に。
 驚いた。
 今回の私の体験をひとことで、いや、一文字で表すなら、「驚」だ。
 この私のどこに、こんなに大切に扱ってもらえる価値があったのか。

「自分を大切にする」という言いかたが、好きではなかった。なんだそれと思っていた。
 だけど今回、心底から思った。
 少なくとも今後は、自分をそまつにするのは、やめよう。
 そうでないと、こんなにして私を救ってくれた救急隊と日医大病院の皆さまに、申し訳が立たない。
 もちろんMにも。

 能力。生産性。
 そういう他人との比較なしに、いまの社会で生きていくのは難しい。
 考えると苦しい。
 それでも、それ以前に、人は、
 生きているなら、生きていていいのだ。

 感謝、という気もちに、じつは正直いまだしっかり落としこめないでいるほど、
 私はこの事実に、いまも驚いている。
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