その12 ヒズ・マスターズ・ボイス

文字数 2,283文字

 コロナ禍で演劇の上演ができなくなって1年半。
 私がうつうつとしているあいだに、相方がちょっとした偉業を達成してしまった。
 朗読を百本、YouTubeに上げたのだ。

 名づけて「百閒(ひゃっけん)チャンネル」。夢とも現実ともつかない独特な味わいで定評のある昭和の文豪、内田百閒の掌編小説を百本、一話ずつ読んで録音し、こつこつアップロードしていった。
 百話達成した後は、連作「東京日記」(全二十三篇)を読んだり。芥川の死をもとに書かれた「山高帽子」を読んだり。
 新たに「チャンネルD」と名づけて太宰治の「富嶽百景」や「走れメロス」を読んだり。また百閒作品に戻って読んだりしている。
 楽しそうだ。

 プロの俳優だし、ナレーションの仕事もしてきているのだから、一発録りか、せいぜい二、三回なんでしょう?と訊いてみた。
 ところが、一作品につき二十テイクくらい録るのだそうだ! 一、二回で決まるときもあるがごく稀だと言う。
 読み間違いや、読みとちり、噛むとか、そういった失敗がないのに、「何か違う」――。そういうときこそが厄介らしい。
「夜録って、次の日聴き直すと、ぜんぜんだめだったりするんだよ」
「何がだめなの?」
「うーん」電話の向こうで考えこんでいる。「とにかく『だめだな』と思うんだ。うまく行ったときは『あ、これで行けた』と思う」

 わかる。
 私が文章を書くときとよく似ている。

 それにしても「走れメロス」は三十分、「富嶽百景」なら五十分はかかる。くりかえし録音するのも偉いけど、くりかえし聴き直すのはもっと凄い。
 じつは、こんなに自分の声を聞いたのは初めてだ、と言う。意外だ。仕事で録音するときは、聞き直すのはスタッフの人たちだからだそうだ。なるほど。
 おかげで自分の声が前ほど嫌いじゃなくなった、と笑う。これも意外だ。身内を褒めるのはいささか居心地が悪いのだが、じっさいわが相方はお客さまに「あの声のいい人」と言われたりするくらい感じの良い声の持ち主だ。
「自分の声を聞くのは恥ずかしいよ」と彼。
「そうなんだ?」と私。「いや、もちろん私なんか自分の留守録応答メッセージを聞くだけで(ひゃあ)と思うけど、プロでもそういうものなの?」
「関係ないよ」

 ビクターの「ニッパー君」。蓄音機から流れる亡きご主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)に、いっしんに耳を傾けたという伝説の白黒のワンちゃん。
 わが相方ミヤザキ氏があんなふうに可愛らしく小首を傾けているかどうかは見ていないからわからないが(笑)、あれと同じレベルの集中力であることはまちがいないだろう。

 私も初めのほうから順に聞かせてもらっている。もちろん初めから安心して聞ける。
 ところが、十何話かそれ以上か、ある本数に達したときに、
(あ)
 という瞬間があった。そこから後は、本当に安定したワールドになった。
 彼が「閾値」(しきいち/いきち)を超える瞬間を私も目撃した、のだと思う。いや耳から聞いたのだから「耳撃」か。そういう日本語あるといいのに。

 私は私で、『夢百夜』と題した文章を、ここノベルデイズにこつこつアップしていっている。
 じっさいの夢の記録に手を入れて整えたもので、2018年から3年分ある。
 じつは初掲載は去年で、その後いったん非公開に戻して、いままた集中して読み直しながら少しずつ出していっているのだけど、しょっちゅう
(下手くそ! 無駄が多い!)
と自分にあきれている。
 驚いたことに私も進歩していた。あくまで当社比だけど、それでも。

 身にしみてわかったのは、朗読も執筆も、楽器やスポーツや語学や料理と同じだったということだ。
 やればやっただけ身につく。

 ただしこれには落とし穴もあって、ただ、やればいいというものでもない。
 ダラダラ同じことをくりかえすだけだと、同じ所にとどまって、どこへも行かない。いや、むしろ年取る分だけ劣化していく。色あせていく。
 私の料理なんかまさにそれだ。切って炒めて煮ただけではただの餌だぞ、私よ。

 まあ、他人の、とくに同業他社(他者)の悪口を言うのも品がないから自分の恥をさらしてみたわけだけど、ここから小声で言うと(けっきょく言うんかい笑)、
 知り合いの俳優さん(正確には私のなかよしの俳優さんが義理で出ている劇団の主宰さん)に文字どおり、本当に進歩しない人がいる。「朗読」のお弟子をたくさん従えてたいそうはぶりのよい人なのだが、申し訳ないけれど十年聞いていてもまったく良くならないどころか、どんどん下手になっていっている。
 原因は明らかすぎるくらい明らかだ。まず、彼は声がいい。いわゆる滑舌(かつぜつ)もいい。
 それが命取りなのだ。

 その俳優さんの朗読を聞くと、
「おれっていい声、おれって上手」
という彼の心の声しか聞こえてこない。
 語られている内容がもうどうしようもなく、驚くほど、こちらに入ってこない。

 恐ろしいことに、彼は聞いていないのだ。自分の声を。
 耳には入っていても、聴いていない。

 もって他山の石としたいと思う。
 なんと言っても文章はたくさん書かないとだめだ。たくさん書いてたくさん直さないとだめだ。この一年半でそれを痛感した。三日でピアノが弾けるようにはならないように、文章も三日では上達しない。
 だけど、いくらたくさん書いてたくさん直しても、それだけでは上達しない。
 必要なのは、あと少し、ほんの少しの集中力だ。

 恥ずかしさも、逆に「俺スゲエ」もかなぐり捨てて、ただ一心に耳を傾けることだ。
 自分の書いた文章、自分の録音した声に。
 あたかも他の誰かが書いたもの、話した声であるかのように。

 マイ・マスターズ・ボイスだ。

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