その8 演劇公演の中止は「国民」にとっての損失なのか? いま? この状況で?
文字数 2,380文字
(2020/04/11)
↑昨春、コロナ禍による最初のロックダウンの直後、
前回までのトーンと違って、かなり怒りモードです(笑)。いまはそんな気分でないというかたは、後でお読みいただけたら感謝します。
何に怒ったのかというと、このエッセイの「その1」の末尾に書いたとおり、演劇界の著名人たちの「製造業などは後回しにできる。文化の灯を絶やしてはいけない」等の発言が友人から転送されてきて(もと記事はあのときはすぐ削除されていた)、何を思いあがっているんだと茫然とし、穴があったら入りたい気もちになったのです。
私以外にもあきれ恥じている演劇人たちはいたのですが、無名な私たちの声は有名人たちのそれとちがってなかなか拡散しませんでした。
いま(2021年春)「演劇クソが」と思っているかたがおられたら、いや、そういう人はこのエッセイを読んでくださってはいないと思うけど(笑)、芝居好きも頭のおかしい変態ばかりじゃなくて、私のようなごく普通の人もいる(たくさんいる)ということを知って、舞台そのものを嫌いにならないでいただけたらと思います。そう願って、ここに再録します。
*****
知人の音楽家や演劇人から、公演中止の知らせが相次いで届く。
他人事 ではない。
ただ、損失補填の要望書が政府に提出された、と聞いて、正直、考えこんでいる。
以下はあくまで私個人の意見で、そして私は演劇人としては末端の末端にいるし、変わり者だ。マイナーもいいところだ。それを踏まえてお読みいただきたいのだけれど、
私は、
演劇の公演の補填にあてるお金があったら、
そのお金は、全額、医療関係に回してほしい。
それも大至急。
演劇ではないのかって? 演劇人なのにって?
どこから話そう。
以前、ある戯曲賞の最終候補に残ったとき、審査員全員にくそみそに罵倒されたことがある。それはもう、なんでここまでという罵り方だった。
その中に一人、こういうコメントをくださった先生がいた(著名な演劇評論家だ)。
「(この応募者=私は)演劇の担う社会的役割を、もう一度、根本から考え直したほうがいい」
その前年に絶賛を浴びて受賞した作品と作者を見るに、この方(たち)にとっての「演劇の担う社会的役割」とは、
「現実世界の真実(とやら)を観客に提示すること」
であるらしかった。
私は、書きはじめた当初から、それはめざしていない。
なぜなら、
そんな役割は、十九世紀で終わっている。と思っているから。
たしかにエミール・ゾラがドレフュス事件の不正を糾弾したときは、人は劇場へ駆けつけた。
本のほうが切符より高かったし、当時のフランスの識字率は高くなく、芝居で見聞きしたほうが早かったから。
でもそれ、いつの話?ってことだ。
日清戦争でさえ、人は劇場ではなく、映画館でニュースを知った。
その後はラジオ、テレビ。さらにその後は言うまでもない。
今日び、ただでいくらでも最新の(とはかぎらないが、ましてや正確だったり必要だったりする保証はないが)ニュースが垂れ流し状態で手に入るというのに、
わざわざ狭い所に監禁されて、
現実世界の真実とやらを教えていただく必要はない。
しかも、だいぶ鮮度の落ちた、よけいな手の加わった真実を。って、それすでに真実じゃないよね。
そういう、怖い演劇ばっかりだ。
少なくとも私が見まわして目に入るかぎりでは。
普通に生きていくだけでじゅうぶん傷だらけなのに、その傷を、お金をとってさらに鋭くえぐってくださるのが大好きなお人ばかりだ。
それなら、おまえの考える演劇の役割って何だと訊かれたら、
私はもう十代の頃から、それは《鎮魂》だと思っているのだけど、
いまはそこに付け加えたい。生きている人たちのことを。
芸術の社会的役割、
それは、《魂のチューニング》だと思う。
たんなる「癒し」「リラクゼーション」を超えた何かだ。
それは、創り手がどこまでも受け手に寄り添うことで、はじめて実現する。
ピアニストのフジコ・ヘミングさんと、ヴァイオリニストの千住真理子さんのCDを私はずっと聞いている。ほぼエンドレスに聞いている。
自分の正気を保つために。
この不安ばかりあおる情報の氾濫、職場の混乱、やってられない。
お二人とも、超絶技巧を持ちながら、あえて心にしみる優しい曲のCDを出してくださっている。いわゆる「クラシック《通》」がバカにするタイプの曲集だ。
何が悪い。現にここに一人、救いをもとめてエンドレスに聴いている人間がいるのだ。
「ゲイジュツの社会的役割」が何なのか、考え直そうよ。それこそ今。
表現の多様性?
そんなもの、マスクと人工呼吸器が足りてからでもまにあう。
「国民の損失」って、なんだそれ。
演劇観ないと「国民」が死ぬとでも?
いつからそんな「国益」のために演劇してたの?
この写真、4月10日に撮影したものだ。
ただし昨日、2020年の4月10日ではない。
2011年だ。
東日本大震災の直後だ。
桜の、幹から直接、咲いている。これが若芽なら「ひこばえ」というらしいけれど、花は何というのか。ご存知の方、教えてください。
九年前の私には、これが、なんというか、
《希望》
の形に、見えたのだ。
九年後の今日も見えている。
付記1:十年後の今日も見えています。
付記2:先日、私の大好きなお笑いコンビ「ナイツ」の塙(はなわ)さん(ボケ担当のほう)が、コロナ禍でお仕事が激減したことについて、
「しょうがないですよね。好きでこの仕事を選んだんだから」
と淡々と仰っていて、感動して泣きそうになりました。(最近涙腺が弱いです。)
ゴーマンかました演劇セレブたちは、塙さんの爪の垢でも煎じて飲めと思います。
↑昨春、コロナ禍による最初のロックダウンの直後、
いち早く
演劇界から支援の要請が政府に提出されたと知ってnoteに投稿した文章です。前回までのトーンと違って、かなり怒りモードです(笑)。いまはそんな気分でないというかたは、後でお読みいただけたら感謝します。
何に怒ったのかというと、このエッセイの「その1」の末尾に書いたとおり、演劇界の著名人たちの「製造業などは後回しにできる。文化の灯を絶やしてはいけない」等の発言が友人から転送されてきて(もと記事はあのときはすぐ削除されていた)、何を思いあがっているんだと茫然とし、穴があったら入りたい気もちになったのです。
私以外にもあきれ恥じている演劇人たちはいたのですが、無名な私たちの声は有名人たちのそれとちがってなかなか拡散しませんでした。
いま(2021年春)「演劇クソが」と思っているかたがおられたら、いや、そういう人はこのエッセイを読んでくださってはいないと思うけど(笑)、芝居好きも頭のおかしい変態ばかりじゃなくて、私のようなごく普通の人もいる(たくさんいる)ということを知って、舞台そのものを嫌いにならないでいただけたらと思います。そう願って、ここに再録します。
*****
知人の音楽家や演劇人から、公演中止の知らせが相次いで届く。
ただ、損失補填の要望書が政府に提出された、と聞いて、正直、考えこんでいる。
以下はあくまで私個人の意見で、そして私は演劇人としては末端の末端にいるし、変わり者だ。マイナーもいいところだ。それを踏まえてお読みいただきたいのだけれど、
私は、
演劇の公演の補填にあてるお金があったら、
そのお金は、全額、医療関係に回してほしい。
それも大至急。
演劇ではないのかって? 演劇人なのにって?
どこから話そう。
以前、ある戯曲賞の最終候補に残ったとき、審査員全員にくそみそに罵倒されたことがある。それはもう、なんでここまでという罵り方だった。
その中に一人、こういうコメントをくださった先生がいた(著名な演劇評論家だ)。
「(この応募者=私は)演劇の担う社会的役割を、もう一度、根本から考え直したほうがいい」
その前年に絶賛を浴びて受賞した作品と作者を見るに、この方(たち)にとっての「演劇の担う社会的役割」とは、
「現実世界の真実(とやら)を観客に提示すること」
であるらしかった。
私は、書きはじめた当初から、それはめざしていない。
なぜなら、
そんな役割は、十九世紀で終わっている。と思っているから。
たしかにエミール・ゾラがドレフュス事件の不正を糾弾したときは、人は劇場へ駆けつけた。
本のほうが切符より高かったし、当時のフランスの識字率は高くなく、芝居で見聞きしたほうが早かったから。
でもそれ、いつの話?ってことだ。
日清戦争でさえ、人は劇場ではなく、映画館でニュースを知った。
その後はラジオ、テレビ。さらにその後は言うまでもない。
今日び、ただでいくらでも最新の(とはかぎらないが、ましてや正確だったり必要だったりする保証はないが)ニュースが垂れ流し状態で手に入るというのに、
わざわざ狭い所に監禁されて、
現実世界の真実とやらを教えていただく必要はない。
しかも、だいぶ鮮度の落ちた、よけいな手の加わった真実を。って、それすでに真実じゃないよね。
そういう、怖い演劇ばっかりだ。
少なくとも私が見まわして目に入るかぎりでは。
普通に生きていくだけでじゅうぶん傷だらけなのに、その傷を、お金をとってさらに鋭くえぐってくださるのが大好きなお人ばかりだ。
それなら、おまえの考える演劇の役割って何だと訊かれたら、
私はもう十代の頃から、それは《鎮魂》だと思っているのだけど、
いまはそこに付け加えたい。生きている人たちのことを。
芸術の社会的役割、
それは、《魂のチューニング》だと思う。
たんなる「癒し」「リラクゼーション」を超えた何かだ。
それは、創り手がどこまでも受け手に寄り添うことで、はじめて実現する。
ピアニストのフジコ・ヘミングさんと、ヴァイオリニストの千住真理子さんのCDを私はずっと聞いている。ほぼエンドレスに聞いている。
自分の正気を保つために。
この不安ばかりあおる情報の氾濫、職場の混乱、やってられない。
お二人とも、超絶技巧を持ちながら、あえて心にしみる優しい曲のCDを出してくださっている。いわゆる「クラシック《通》」がバカにするタイプの曲集だ。
何が悪い。現にここに一人、救いをもとめてエンドレスに聴いている人間がいるのだ。
「ゲイジュツの社会的役割」が何なのか、考え直そうよ。それこそ今。
表現の多様性?
そんなもの、マスクと人工呼吸器が足りてからでもまにあう。
「国民の損失」って、なんだそれ。
演劇観ないと「国民」が死ぬとでも?
いつからそんな「国益」のために演劇してたの?
この写真、4月10日に撮影したものだ。
ただし昨日、2020年の4月10日ではない。
2011年だ。
東日本大震災の直後だ。
桜の、幹から直接、咲いている。これが若芽なら「ひこばえ」というらしいけれど、花は何というのか。ご存知の方、教えてください。
九年前の私には、これが、なんというか、
《希望》
の形に、見えたのだ。
九年後の今日も見えている。
付記1:十年後の今日も見えています。
付記2:先日、私の大好きなお笑いコンビ「ナイツ」の塙(はなわ)さん(ボケ担当のほう)が、コロナ禍でお仕事が激減したことについて、
「しょうがないですよね。好きでこの仕事を選んだんだから」
と淡々と仰っていて、感動して泣きそうになりました。(最近涙腺が弱いです。)
ゴーマンかました演劇セレブたちは、塙さんの爪の垢でも煎じて飲めと思います。