その5の2 俳優修業(つづき)

文字数 2,155文字

(5の1からつづく)

 そんなわけで、牛のフンも、俳優修業の旅に出た。
 親友の女優さんの勧めで、ある演出家のワークショップを受けることになった。ロシア国立サンクトペテルブルグ演劇大学演出学科(五年制)出身。本場仕込みの、才能あふれる演出家さんだ。

 彼の教えてくれた身体訓練法を「レーチ」という。スタニスラフスキー・システムによる「声の訓練」だ。例えば、片腕をなめらかに動かしながら、同時に言葉を発する。一人でするのではなくて、演出家さん(または先輩の俳優さん)が呼びかけ、こちらがそれに応じるかたちだ。はじめは「むもまめみ」といった意味のない単語で、そのうち、台詞の一部が混じってくる。
「むもまめみ」
「むもまめみ」
「私、怒ってます」
「私、怒ってます」
「わたしは~」
「わたしは~」
「おこって~ますぅ~」
「おこって~ますぅ~」
 これを十分も続けられると、もう息が上がってくる。台詞に感情をこめるなどという邪念はこなごなに砕かれ、ひたすら受けとることと投げ返すことだけに体も心も集中していく。強烈な圧力の空気のかたまりで、キャッチボールをしているようなものだ。

 ワークショップのテクストは、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』だった。若く美しい継母のエレーナと、地味な娘のソーニャ。ずっとぎくしゃくしていた二人が、初めてうちとける場面だ。
 ペアを組ませていただいたのはベテラン女優のSさん。目もとがぱっちりして、ドキドキするほど笑顔のきれいな方だ。彼女がエレーナ、私がソーニャを当てられた。
 エレーナが部屋に入ってくる。顔をそむけて出て行こうとするソーニャ。エレーナが呼びとめる。
「ソーニャ!」
「なんでしょう?」
「いつまでこんなことを続けるつもり? もう、やめましょうよ」
 そんなところから始まるシーンだ。

 演出家さんは私たち二人に、それぞれ少し離れた所に立って、思いつくままのことを声に出して言い続けるよう指示した。エレーナのSさんに言う。
「あなたは年とった気むずかしやの夫を夜どおし看病して、疲れはてている。近所ではよそ者あつかい。ここで義理の娘にまで無視されたら、もうどこにも居場所がないんです」
 ソーニャの私に言う。
「あなたは先週の日曜日、教会から出てきたときのことを思い出している。近所の奥さんたちがうわさしているのを聞いてしまったんです。『ソーニャは本当にいい子よね』『ただ、気の毒なのは、あんなに不器量だってことなのよ』」

 私はけんめいに「ひとりごと」を始めたけれど、すぐにストップがかかってしまった。
「それは自分の状況を言葉で説明しているだけです。無理に話そうとしなくていいんです。『不器量、不器量』とくりかえすだけでもいい」
 私は必死にくりかえした。
「不器量……不器量……」

 とにかく、サルに踏まれる以外、演技というものをしたことがなかったのだ。これから書くことはプロの俳優の方々にとっては当たり前なのかもしれないけれど、私にとっては初めての体験だったので、記念に書かせてください。
 不思議な感覚だった。予想していたものとはちがっていた。トランスしてソーニャに「なりきっちゃう」などというのではなく、反対に、異常な集中力で、自分を見つめていた。
 あえて言えば、楽器を弾くのに似ていた。

 私はパイプオルガンなどという、ちょっとめずらしい楽器を習っている。そのことはまた別の場所で書こうと思うけれど、とにかく、パイプオルガンというのは、簡単に言うと次のような仕組みになっている。たくさんのパイプ(金属製や木製)が立ち並んでいて、列ごとに音色が違う。大きなふいごから風が送られてくると、オルガニストは音色を選んで、その列の栓を引き出す。選ばれた列に風が流れこんで、音が鳴る。

 不器量、不器量、とくりかえすうちに、体の底から強烈な風が吹き上げてくるのがわかった。ソーニャは十七歳だ。十七歳の頃のくやしさ、悲しさ、なさけなさを、自分の心のなかに探した。「栓」を見つけて、引き出していく。稽古場の反対側では、Sさんが、エレーナの「栓」を引き出そうとモノローグをつづけている。

 演出家の合図で、エレーナが入ってきた。私は、顔をそむけて出て行こうとした。呼びとめられた。
「ソーニャ!」
 強烈な空気のボールが飛んでくる。こちらもありったけの力で投げ返す。
「なんでしょう?」
 エレーナはずんずんと歩いてきて、私の前に立った。
「いつまでこんなことを続けるつもり? もう、やめましょうよ」

 彼女の顔は、涙にまみれていた。その目にまっすぐ見すえられて、身動きがとれなくなった。
 私が今までの人生で傷つけてきた、すべての人と重なって見えた。

 彼女の声が、私のなかで全開していた苦い感情の栓をぱたぱたと閉め、かわりに新しい栓をつぎつぎと引き出してくれるのがわかった。一瞬の出来事だった。
 私の頬にも、ぽろぽろと涙がこぼれた。自分でもびっくりしてしまった。
 びっくりしながら、台詞を言う。
「私も、ずっと、なかなおりしたいと、思っていたんです」

 聞いたこともない、自分の声だった。これって私の声?とさらに驚きながら、さし出された腕のなかに顔をうずめる。
 Sさんのトレーナーに、私の鼻水がついてしまった。

 エレーナは、声を立てて笑いだした。

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