(九)

文字数 2,045文字

 褚誗(ちょてん)は、皇甫(こうほ)惟明(いめい)の幕舎にいるということだった。作戦会議の途中だということで、リョウたちは外で待たされた。やがて、副将の褚誗(ちょてん)や親衛隊長の(ばん)長林(ちょうりん)たちが、ぞろぞろと幕舎を出て来た。あの監軍使(かんぐんし)の姿も見えた。
 駆け寄ったリョウと進に、褚誗(ちょてん)は目を見張った。
「何だ、リョウ、ここで何をしている。おっ、お前は皇甫将軍の馬丁だったな。お前まで、いったい何なんだ」
 リョウは、進の背中を押しやって、報告させた。
「皇甫将軍の馬丁の進と言います。青海湖の馬を移動させているときに、吐蕃(とばん)の大軍を発見したので、急ぎ、報告に参りました」
「吐蕃の大軍なんか、俺たちは毎日見ている。それを今更、何ごとだ」
「いや、普段はいない北の谷間にいたのです」
 進がそう言うのを、リョウが補足した。
「あれは、奇襲のための軍だ。待機の態勢を見ると、まだ全軍は揃っていないが、一両日中には向かって来るだろう。あえて、遠回りして青海湖方面から近づいていると見た」
「ふむ、突厥(とっくつ)の斥候をしていたリョウが言うなら、そうかもしれんな。皇甫将軍に報告するから一緒に来い。進と言ったな。ご苦労だった、お前はここで待て」
 付いて行こうとする進を、褚誗(ちょてん)の兵が止めた。不満そうな顔の進に、リョウは大丈夫だというように頷いてみせた。

 褚誗(ちょてん)がまず皇甫惟明の幕舎に入り、リョウの話を伝えた。やがて呼ばれて、リョウもその中に入っていった。
「進も一緒だと言ったな。お前たちは、俺の馬をどこに置いてきたんだ」
 皇甫惟明の最初の言葉はそれだった。敵の伏兵よりも、馬が大事なのかと、その余裕にリョウは内心笑った。 
「ご心配いりません。ほかの馬丁を付けて、ここから(ほど)ない所で待機させています。必要なら、今から合戦に参加させても良いくらいに、調教はしています」
「さすがにリョウだな、それに進もな。ところで、その伏兵というのは、どういう軍だった?」
「騎馬を中心とした部隊です。海老茶色の甲冑(かっちゅう)の部隊と、濃緑の甲冑の部隊でした。宿営の状況から見て、直ちに出撃はせず、加勢を待っているものと思われます」
 リョウは、いつの間にか言葉遣いも、斥候(せっこう)のようになっていることに苦笑した。
「それは強敵だ。海老茶はガブー将軍、濃緑はホルカン将軍の部隊です。吐蕃の中でも最強部隊です。その部隊が加勢を待っているとすれば、さらに精鋭のゴチェン将軍の部隊かもしれません。彼らは濃紺の甲冑を着ています」
 いつの間にか、近くに来ていた朱ツェドゥンがそう言った。親衛隊長の潘長林もいる。
「吐蕃は、ここで一気に形勢を決めようとしているのか」
 皇甫惟明が沈痛な声を発した。

「実は、さっきの作戦会議で、明日にも我々が石堡(せきほ)城を攻めることになったのだ」
 褚誗(ちょてん)がそう教えてくれた。
「今までは、違うのか?坂の下には死体の山があったぞ」
「ああ、あれは河西(かせい)節度使(せつどし)王倕(おうすい)が送ってよこした援軍の兵だ」
「どういうことだ」
「なに、お前たち突厥(とっくつ)がいなくなったので、暇になった河西節度使の将軍たちが、功績上げたさに駆けつけてきたのだ」
「そういう言い方をするな、褚誗(ちょてん)、リョウが困るだろう。苛立(いらだ)っているのは分かるがな」
 そう言ってくれたのは皇甫惟明だった。肩を(すく)めた褚誗(ちょてん)に代わって、潘長林が補足してくれた。
「河西節度使の役目は、吐蕃と突厥が連携するのを妨げることだ。その七万三千もの兵士が、突厥の滅亡でやることが無くなった。ウイグルとは、今のところ、うまくやってるからな。そこで、戦での功績も昇進も望めなくなった好戦的な将軍たちが、こっちで手柄を上げようと、援軍として押しかけているのだ」
 褚誗(ちょてん)が再び、話し始めた。
「皇甫将軍は、無駄死にばかり増やす石堡城への突撃をさせず、もっぱら周辺の吐蕃本隊を排撃する戦いをしてきた。四百人の砦を落とすより、よほど戦略的に意味のあることだ。しかし、監軍使の(ちょう)元昌(げんしょう)が、それを(とが)め始めた。それは陛下の意向ではないとな」
 潘長林が、憎々し気に呟いた。
「はじめ軍議で勢いづいたのは、石堡城の怖さを知らない河西の将軍たちだ。皇甫将軍がやらないなら、自分達がやると言って、連日、石堡城への突撃を繰り返した。それがあの死体の山だ。まったく兵士を無駄死にさせやがって」
 皇甫惟明が、その話を引き取った。
「いくら攻めても、びくともしない石堡城に、河西の将軍たちも、趙元昌の言い分に乗り始めた。わしが攻撃しないのは、陛下の命令に背くことになるとな。そうしないと、敗戦の責任を自分たちが負うことになるからだろう。それがさっきの軍議の結果で、明日は、わしが石堡城を攻めることになった」
 それまで黙って聞いていた朱ツェドゥンが言った。
「私は軍議には出られませんでしたが、状況はよくわかりました。一つだけ、はっきり言えることは、皇甫将軍が明日、主力を石堡城攻めに向けた時、吐蕃の強兵が後ろから一斉に攻撃してきたら、唐の軍は壊滅状態になるということでしょうね」
「そんなことは、分かっている!」
 褚誗(ちょてん)が怒鳴ったが、後は誰も言葉を発しなかった。 
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