(十)

文字数 1,968文字

 昨秋には、唐の(おう)忠嗣(ちゅうし)軍と南方で小競り合があったらしいが、その後も、北の新可汗の本拠地では、人々は何ごとも無かったように過ごしていた。冬の間は、敵よりも寒さと戦うことが大事になる。ウイグルら三派連合も同様なのだろう、しばらく戦闘らしい戦闘は無かった。三派連合の中での主導権争いが激しくなって、突厥への対応が後回しになっているという噂も聞こえて来ていた。

 終日、ゲルの中で寒さに耐える日々が始まると、アユンはソニバのゲルを訪ねることが多くなった。タクバンと母のゲルに近づきたくないというのも一つの理由だが、どちらかというと姉の夫であるキョルクの話が聞きたい、という方が強いことに、自分でも驚いていた。
 貴族の家系であり、また盲目のキョルクには、初めのうちこそ近寄りがたいものを感じていたが、姉を訪ねたついでに何回か話をするうちに、アユンは次第にキョルクに好感を持つようになっていた。 
 仕留めた冬兎を土産に二人のゲルを訪ねたアユンは、隙間風が入らないようゲルの入口の覆いを手早く開閉し、中に滑り込んだ。
「このゲルは、入口が南に面している。俺たちのは、昔から東側が入口だし、ここでも、ほとんどのゲルは東が入口だ。どうしてキョルクのゲルは南向きなんだ?」
 アユンがかねて疑問に思っていたことを尋ねると、キョルクは見えない目でアユンの方を見た。
「太陽を崇拝することは遊牧民にとって、とても大事なことだ。だからゲルの入口も太陽の昇る方向に作られてきた。だがな、日照時間が少ないこの北の大地で、少しでも多く太陽を受けようと思ったら、南向きの方が良いとは思わないか。風だって北から吹き付けるから、東向きの入口では、フェルトの幕が強風にあおられてバタバタしてしまう」
「みんながやっているのと違うことをすると、白い目で見られるのではないか」
「ハハハ、俺は最初から白い目か黒い目かなんて見えない。まあ、それは冗談として、アユンは若いのに何を分別(ふんべつ)(くさ)いことを言ってるんだい。誰かが、新しいことを始めないと、何も変わらないよ」
「何のために変える必要があるんだ?」
「それは、今より少しはましな生活のため、とでも言っておこうか」
「そう言えば、このゲルを建てるとき、サイッシュが、ゲルが円形なのは魔除けのためだって言ってた。三角や四角の隅には邪悪なものが宿るって」
「確かに魔除けの意味もあるが、円形だからこそ風に逆らわずに、立っていられる。北風の強いここの高原では、三角や四角のゲルだったら吹き飛ばされてしまうだろう」
「天井のフェルトを乗せる紅柳木(タマリスク)も魔除けの力があると聞いた」
「それも同じだ。魔除けの意味だけではなく、紅柳木(タマリスク)の枝は細いのに硬くて、変形もしなければ割れもしない。しかも砂丘にでも生えている。ただやみくもに前例に従うのではなく、そういう面もあると考えることが、若いアユンには大事ではないかな」
 二人の話を聞いていたソニバも、話に入って来た。
「そんなことを考えたら、先祖様をないがしろにしていると、呪術師様に叱られるのではないですか」
「いや、最初に円形のゲルを作ったご先祖様は、魔除けなんて考えなかったろう。円い方が空間も広く、使いやすく、風除けにもなる。紅柳木(タマリスク)はすぐ手に入り、丈夫で使いやすい。そういう知恵と知識の伝承で、我々の住みやすいゲルができたと考える方が自然だろう。それを後付けで、魔除けとかいろいろ言うのは、だいたいが呪術師本人ではなく、その権威を借りたい権力者だというのは、古今東西、どこにでもある話だ」
 アユンは、今までこんな話は誰からも聞いたことがなかった。キョルクと話していると、何か少しずつ、今まで見えなかったことが見えてくるような気がする……そう思ったとき、あれ、目がみえないキョルクの方が俺より見えているということか、と気付いて可笑しくなった。

 小間使いの少女が、暖かいお茶を出してくれた。貴族のキョルクには何人もの従者がおり、近くのゲルに住んでいる。結婚式でキョルクの付き添いをした少年も、日中はこのゲルに居て、目の見えないキョルクの世話をしている。
 今日は北から烈風が吹き付けている。せっかくお茶を出してもらったから、帰るのはもう少し後にしようと、アユンは話を続けた。
「こんなことを聞いて良いか分からないが、キョルクは生まれた時から目が見えなかったのか」
 キョルクは、嫌な顔一つせず、軽く答えた。
「小さな子供の頃は見えたのだ。それが次第に見えなくなった。今は、ほぼ何も見えない。全く見えないのとは少し違うかもしれない。暗い中で、真ん中の辺りだけ灰色がかって、微かに何か物がありそうだというのが分かる程度だ」
「夜、(もや)の中に居て、月明りで何かがありそうなことはわかる、そんな程度なんだって」
 そう補足したソニバの声に暗さは無かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み