(五)

文字数 1,314文字

「それにしても、どうしてアトールは来ないんだ」
 副隊長の仲間のつぶやきに、シメンが言った。
「きっと、クシャルから奪った金を持ち逃げしたのでしょ」
「何を言ってるんだ!」
 その男が、シメンの顔を平手で張り飛ばした。副隊長がそれを止めた。
「まあ待て、待て。よく考えると、それもありうる話だ。ここにいる奴隷を売ればそこそこの金にはなるが、クシャルの所には、その何倍もの金があったはずだ」
 そのとき、隊長が馬車の方にやってきた。
「何をやっているんだ、お前ら。それより、ウイグル商人に渡すものがあるというのは、どうなっているんだ。あいつらが、ここに来るとでもいうのか」
「隊長、そう言っている間に、あいつらはちゃんと来たようですよ」
 そう言って、副隊長は今来た方向を指さした。はるか向こうから、ウイグル商人のものらしい馬車が砂塵(さじん)を上げて走ってくるのが見えた。ウイグル兵の馬も二、三頭、並走してくる。
「渡すものってのは、こいつら芸能奴隷たちのことですよ。なあに、お代は俺たちが頂きます。ついでに、隊長の持っている金も頂くことに」
 最後まで言う前に、副隊長は剣を素早く抜いて、隊長に突き出した。剣は隊長の脇腹を貫通し、副隊長はその剣を両手で持って、ギリギリと腹の内側にねじり上げた。苦悶の表情を見せる隊長に、芸能奴隷の胡姫(こき)胡児(こじ)が悲鳴を上げた。そのすきに、シメンはバリスの(そば)ににじり寄った。
「バリス、アトールのことは、いずればれる。ウイグルに売られたら、また一生奴隷だよ、逃げよう」
「わかった。だけど、俺はこの子らを置いていけない。すきを見て逃げるから、シメンは先に逃げろ」
「それはできない。いいから馬車を東南に走らせて、東南だよ。私は馬をなんとかする」
 バリスの返事を聞かずにシメンは走った。他の馬車の御者台にいた二人の胡児を降ろし、最後尾の馬車の荷台につないでいた四頭の馬の手綱を素早くほどいた。シメンはそのうちの一番早そうな一頭に乗り、二人の胡児もそれぞれ馬に乗せると、残りの一頭は尻を叩いて追い出し、いっせいに走りだした。先頭のバリスの幌馬車も、芸能奴隷たちを乗せたまま、副隊長たちを置き去りにして走りだした。
 副隊長たちが驚いた顔で追いかけたが、バリスの馬車はすんでのところで振り切った。シメンたちは、しばらく馬車と並走してから、馬を休めるためにいったん止めた。幸い、逃がした馬の一頭が、一緒についてきていたので、馬車を二頭立てに仕立て直した。
「南に向かえば、ウイグルの兵が少ない。逃げ切れるかわからないけど、行くしかない」
 それからまたしばらく走ったところで、後ろに追手の姿が見えてきた。残してきた二台の馬車から外した馬だろう。さらにその後ろにも数頭の砂塵が見える。ウイグル兵が加勢しているのだろうか。
 シメンは、馬に乗っている二人の胡児(こじ)に言った。
「二手に分かれるから、お前たちは左に逃げて。敵を振り切ったら南に向かって、黄河の渡し場を探すんだよ。私はバリスの馬車と一緒に右に行くから、渡し場で会おう」
不安そうな二人の胡児に、シメンは言った。
「大丈夫、私が馬の乗り方を教えたんだから、逃げ切れる、馬車馬に負けるはずがない、さあ行って」
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