(十七)
文字数 3,644文字
「おう、リョウ、ひさしぶりだな」
潘長林は、少し右足を引きずっていたが、その眠そうな眼は変わりなく、リョウは懐かしさを覚えた。
「ご無沙汰しておりました。なかなかこちらに来る機会がなくて」
「なに、商売繁盛は良いことだ。それより、今日はちと話がある。あとで俺の部屋に来い。朱ツェドゥンも来ているぞ」
「わかりました、ありがとうございます」
この季節の日暮れは早い。届けに来た馬の世話をし、持ち帰る馬の状態をみていると、あっという間に食事の時間になった。リョウは、いつものように西涼州の葡萄酒を二本持って、潘長林の部屋に出かけた。今回は、
潘長林は、
「この葡萄酒は、昨年、
「俺は隊長ではなく、一応、
「それは、おめでとうございます。その御祝は、またいつか」
「いや、実は
「はい、今年の春には、そんな話を聞きました。ですから、もう一本は、王忠嗣将軍にお届けください」
「それがな、王忠嗣将軍は、皇甫将軍に代わって、
「それでは、ここは潘副将が好きにできますね」
「それが、大きな声では言えんが、
そこに給仕が食事を運び込んできて、その匂いにつられたように朱ツェドゥンも入ってきた。
「リョウ、お久しぶりです」
そう言った朱ツェドゥンは食卓を見回した。食卓には、茹でた鶏肉、ひき肉の野菜包、白瓜の炒め物などが並んでいる。
「ここの料理も、
「そう言えば、前は羊の焼き肉を食べた記憶があります。これは潘副将の好みなんですか」
リョウの問いに、潘長林は苦々し気に答えた。
「まったく、ツェドゥンは意地が悪い。これは監察御史の好みだ。俺より、そっちが主だと言いたいのだ。まあ俺は、この酒があれば何でもいい、早速、飲ましてもらうぞ」
「そう言えば、
「そうだったな、それじゃ、
潘長林が杯を上げるのに合わせて、リョウも、朱ツェドゥンも、無言で杯を上げた。
料理が出尽くし、給仕が下がったところで、潘長林が口を開いた。
「昨年の
ここで、潘長林は葡萄酒を一息に飲み干した。
「しかし、そこからがいけない。皇甫将軍は、陛下に対して、直接、驚くべき発言をしたのだ。宰相の
リョウは、青海湖の畔で聞いた、皇甫惟明の覚悟を思い出していた。
「それだけではない。李林甫の人事で、陛下に正しい情報を上げる人間が周りにいなくなっている、とまで言った。これは、危ない。何しろ、正しい情報がないので、陛下が誤った判断をしている、と言ってるようなものだからな」
黙って聞いていた朱ツェドゥンが、ため息をついた。
「そのことを陛下がお怒りになれば、吐蕃との和平は、永久になくなります。私に一言でも相談してもらえれば、そんなことは言わないように忠告したのですが」
リョウは、二人を交互に見、ゆっくりと口を開いた。
「ツェドゥンが忠告しても、皇甫将軍は聞かなかったと思います。実は、自分の身に災いが及んでもいい、そういう強い覚悟をもって、長安に行かれました」
潘長林と朱ツェドゥンが、ギョッとしてリョウを見て、同時に声を発した。
「リョウに、そんなことを言うはずがないだろう!」
「なぜ、そんなことを知っているのですか?」
リョウは、弱々しく笑った。
「皇甫将軍の言ったとおりですね、リョウが話しても、誰も信じないから大丈夫って。実は、石堡城の戦いの後、青海湖で皇甫将軍と話す機会があったのです。でも、その後のことは知りません」
朱ツェドゥンが、潘長林の話を引き継いだ。
「皇甫将軍の発言を知った李林甫は、密偵を使って、皇甫将軍の行動を調べさせました。そして、皇太子が妃の兄である
「何も根拠がないのに、そんなことができるのか」
「景龍観は
「本当にそこで会ったかどうかだって怪しいものだ。全部、
潘長林が怒りの表情を見せた。
「そうかもしれませんが、韋堅と皇甫将軍は、直ちに投獄されてしまいました。取り調べに当たったのは、
潘長林が、納得のいかない顔で朱に訊いた。
「長年の功績がある皇甫将軍が、そんな目にあっているのに、陛下は何も言わないのか」
「それこそ皇甫将軍が言いたかったことでしょう、陛下、目をお覚ましください、と。皇甫将軍は、吉温にいくら鞭で打たれようと、無実だと言い張ったのでしょう。さすがに陛下も、皇甫将軍の謀反を断定すれば、皇太子まで罪を得ることになるので、君臣
そのとき突然、扉が開き、監軍使の
「何だ、突然」
潘長林が怒りの声を発したが、趙元昌は薄ら笑いを浮かべて言った。
「おやおや、皆さんお集まりで。おや、珍しい方もいますね。今、急な知らせが入ったので、私は親切に教えに来てあげたのですよ」
「何事だ」
「皇甫将軍、いや、
「何だと!」
「くれぐれも、罪人と関りを疑われないよう、今後は、行動にも発言にも気を付けてくださいね。それでは失礼します。ごゆっくり」
リョウには、潘長林の握った手が、ブルブルと震えているのが見えた。朱が、潘の身体を抱えるようにして抑える中を、趙元昌はゆっくりと部屋を出て行った。
「間違いなく李林甫です。左遷だけでは満足せず、皇帝の興味が失われた頃合いを見計らって、皇太子とは関係ない形で死罪を上奏したのでしょう」
「まったく、何て奴だ」
「次に狙われるのは、最近、ますます人気が高まっている王忠嗣将軍でしょうね」
朱の言葉に、リョウは、世の中に何か大きなことが起こりつつある予感がした。それはとても、良いことのようには思えなかった。皇甫惟明がこの世からいなくなってしまった、リョウが命をかけて守った希望が失われた。その喪失感で、リョウの頭はいっぱいになった。
―― そうだ、そろそろ長安に戻る時期だ、シメンはもう西域には居ない、長安に戻って石屋の
涙が両眼からあふれ出し、リョウは声を抑えて泣いた。
(「嵐の石堡城」おわり)