(二)

文字数 2,705文字

 タンは蘭州を出ると、長城沿いに北へ向かった。この辺の長城は数百年も前に築かれたもので、ところどころに石を組んだ物見台のような跡もあるが、大半はただの土手のようになっている。草や木にすっかり覆われ、言われなければそれとはわからないような箇所も多い。
 それにしても、この辺りでは、かつて草原の騎馬民族が何回となく襲い掛かり、また中原(ちゅうげん)()を唱えた歴代の王朝がそれを跳ね返してきたのだろう。今はただ静かに風に揺れているだけの草木を見ていても、タンは、ここで流された血と共にこの地に()み付いた殺戮(さつりく)の記憶が、自分のもののように迫ってくるのを感じて息苦しさを覚えた。

 その長城沿いを北上し、黄河の東岸に接する辺りにあるのが霊州だ。朔方(さくほう)節度使(せつどし)の本拠地が置かれた大きな町だ。かつてタンが父母や妹と最後に暮らしたのは、その霊州よりさらに北にあって、軍の一隊が駐屯する陽林(ようりん)という町だった。北の守りの最前線とも言うべきところで、突厥(とっくつ)との関係が悪くなるほどに、軍人は増え、それに連れて商人や商売女も増え、いびつな賑やかさがある町だった。
 宮大工の父は、もともと長安で仕事をしていたが、北の守備隊の町で増加するさまざまな需要に対応するため、軍が集めた職人の一人として、妻子を連れてこの町に来たのだった。タンが六歳の時で、それから四年、突厥の奴隷にされるまでこの町で暮らした。だから、タンにとって、物心ついてからの唐での暮らしというのは、この陽林での暮らしに他ならない。それでも、父と母が死んで、自分と妹が奴隷とされたこの忌まわしい町に、自分がどうして来たいと思ったのか、それはタン自身にもよくわからなかった。ただ、そうしないと父と母に申し訳ない、そういう気持ちだった。

 蘭州から霊州までは馬車なら十日、さらに陽林までは一日ほどの距離だろうが、徒歩のタンは二十日以上も歩き詰めで、ようやくその町に入ることができた。
 着いたときは、もうすぐ日が暮れるという時間だった。暮れてしまうと町の城門が閉じられてしまう。城内に入ればなんとかなるだろうと、タンは駈け込むように門をくぐった。門番は守衛というよりは軍人そのものだった。北方の騎馬民族と接する最前線に近い町だから、警備もおのずと厳しくなるのだろう。考えてみれば、この町は朔方節度使の管轄下であり、それはかつてタンが属した突厥の軍から見れば敵の軍になる。しかし、ここでも、(せき)傳若(でんじゃく)が用意してくれた通行証は有効で、何も心配するようなことはなかった。この通行証のために、傳若はどれほどの金を役人に払ったのか、とタンは思った。

 夕闇の迫った町のどこにも、タンが記憶しているような建物や道は無かった。店仕舞いをしている屋台で、胡餅(こへい)を何とか二枚買い求め、どこかにねぐらが無いかと探していたタンだったが、雨も降り出してきたので、近くの荒れ寺の軒下に飛び込んだ。
 背負子(しょいこ)を降ろし、やれやれと一息ついたタンが、胡餅にガブリと噛みついたとき、誰もいないと思った寺の中に何かの気配を感じた。タンは、胡餅を置いて、本堂に続く土間の扉を細く開け、中を覗き込んだ。真っ暗で何も見えない。
「誰かいるのか?」
 ガサガサッと、何かが動いた。タンは腰に吊るした短剣の柄に手をかけて、扉をさらに押し開けた。物音は遠ざかっていく。動物などではなく、明らかに人の気配だった。暗さに目が慣れてきたので、ゆっくりと中に入っていく。突然、顔にツーと冷たいものが当たり、ビクッと身体を引いたが、破れた屋根の隙間から落ちて来る雨の(しずく)のようだった。もう音はしない。
「怪しいものではない。今宵(こよい)一晩、雨宿りさせてもらいたいだけだ」
 何も返事がなかった。それならそれで、俺はこのまま居させてもらおうと、軒下に戻った時、タンは自分の荷物が無くなっているのに気付いて仰天した。沙漠の中にポツンとある緑洲(オアシス)都市では、盗人などいなかった。それに慣れてしまったのか、あるいは漸く昔を知る町に着いて、油断したのだろうか。慌てて辺りを探し回ったが、寺の奥に灯がともっているだけで、盗人は影も形も無かった。

 タンは、雨も激しくなったので、(あきら)めて寺の軒下に戻った。幸い、金目のものや剣は身に付けている。買ったばかりのまだ暖かい胡餅を食べられなかったのは残念だが、起きてしまったことはしょうがない。命を狙われたわけでもないし、タンは、自分はあまり物には執着しない方なんだなと、妙に可笑(おか)しかった。
 可笑しいと思い始めたら、その気持ちがどんどん膨らんで来る。タンは、声を上げて笑い出した。笑いながら外に出て雨に打たれる。そのまま笑い続けていたら、今度は腹が立ってきた。
「くそ―、俺を誰だと思っているんだ。いきなり盗みやがって。見つけたら、ぶっ殺してやる」
 笑いを抑えられないのと同じように、怒りの言葉が口から出てくるのも抑えられなかった。自分のものとも思えない甲高い声で叫ぶ自分と、それを他人(ひと)ごとのように冷たく見るタンが同時に存在した。
「ちきしょう、また始まった」
 タンは誰に言うともなく言った。いつもの発作だった。

「そこで偉そうに怒鳴っているのは誰だ!」
 いきなり背後の暗闇から野太い声がして、タンはハッと身構えた。修羅場を(くぐ)ってきた本能が発作を抑えたのかもしれない。本堂の奥から出てきたのは、破れの目立つ墨染(すみぞめ)の僧衣を着た男だった。がっしりした肩幅や太い腕からは、坊さんというよりは軍人と言った方が良さそうな大男で、年のころは四十歳くらいだろうか。タンは、傳若が「坊主の姿をした盗賊もいる」と言っていたことを思いだした。
「俺は旅の者だ。ここで雨宿りしている。いきなり盗賊に荷物を盗られて怒っていた」
「雨に打たれて雨宿りでもあるまい。怒っても荷は戻らんぞ」
「夕飯まで盗られて、つい(いら)ついてしまった。そっちは、ここのご住職か?」
「住職と言えるほどの立派な寺ではないが、一応、わしがこの寺の主じゃ。お前はどこから来たんだ?」
「俺は、昔、両親とこの町で暮らしていた。ちょっと事情があって、十年ぶりに戻ってきたところだ」
「ほお、着ているものから見ると、ソグド商人の仲間か」
「ああ、一年ほど涼州で働いていた」
「涼州とな。それでは、よほど美味い葡萄酒が飲めたんだろう」
「そんな身分じゃない」
「バカ野郎、酒は身分で飲むもんじゃねえ。仏さまが飲ましてくれる、有難い恵みだよ」
「それが坊主の言い草か!」
「ハハハ、坊主に説教()れるとは、気に入った。本堂の奥にも、酒なら少しはあるから、まあ身体を拭いて上がれ」
 あまりにもお坊さん臭くない僧侶の言葉に乗せられて、タンは(いぶか)しみながらも本堂の奥に進んだ。
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