(十一)

文字数 2,813文字

「おい、褚誗(ちょてん)。秘策って何だ?」
 皇甫(こうほ)惟明(いめい)の幕舎を離れ、自分達の幕舎に戻ったところで、(ばん)長林(ちょうりん)が訊ねた。
「そんなもの、あるわけないだろう」
褚誗(ちょてん)にはなくとも、俺にはある。だから俺に行かせろ」
「明日は、吐蕃(とばん)の総攻撃があるかもしれない。お前は、親衛隊長として皇甫将軍を守ってくれ」
「お前は死ぬつもりだな」
「副将の俺が死ぬから意味がある。お前が死んでも、長安の奴らは皇甫将軍を許してくれないだろうし、陛下の石堡(せきほ)城攻めは止められない」
 朱ツェドゥンが、二人の間に割って入った。
「陛下ではないのですよ。私は、長安の朝廷を良く知っています。和平の交渉にも出向きましたし、母方の親族から話も聞いています。皇太子派だと(もく)されている皇甫将軍を(おとし)めるのが、宰相(さいしょう)()林甫(りんぽ)の目的なのです。副将の褚誗(ちょてん)が戦死したら、それはむしろ、負け戦だと言い(つの)る格好の理由にされてしまうでしょう」
「俺は、それも心配している。俺だって、みすみす犬死はしたくない。ただ、万に一つでも道があるなら、俺はそれに賭けて戦いたい。おい、長林、お前の秘策って何だ?」
 潘長林が、中央の卓に近づいた。そこには、戦場の地図と、敵味方の布陣を示す駒、それに石堡城の模型が置かれていた。
「俺たちが石堡城を抜け出した時、真っ暗闇の中で、険峻な崖を降りることができたのは偶然ではない。三面が同じような崖に見えるが、実は城の前方から後方にかけて、ちょうど崖の横腹を横切って下に降りられるよう、羚羊(れいよう)(かもしか)が通る道がある。道と言っても、ただの崖の岩場だがな。俺たちは、吐蕃の監視が薄い後方の城壁から縄で降り、その道を使って下に降りたのだ」
「暗闇でそんなことができるのか?」
「俺たちだって、初めてじゃなかった。その経路でこっそり降りて、崖下の狐を獲って食糧にしたことも何回かある」
 潘が、石堡城の模型を、砦の後方から前方に向けて指でなぞった。
「ここから上って、羚羊の道を進むと、ちょうど前方の門の近くに出られる。そこから一気に城内に飛び込み、門を中から開ける。俺がその突撃隊を率いるから、褚誗(ちょてん)はその隙を狙って、正面から突撃してくれ。敵が油断している一回しか、この方法は使えないし、俺が行くしかない」
 褚誗(ちょてん)がリョウを見た。
「リョウは、さっき、石を割ってみせると言ったな。門前にあるのは巨大な石だぞ、どうやって、割るんだ?」
「俺の祖父は長安の石屋だ。俺も、岩を割って石を取り出し、その石を彫る。石には、そこを突けば割れやすいというツボがあって、それを俺は(へそ)と呼んでいるんだ。石屋に伝わる特別に硬い石鑿(いしのみ)を、その石の(へそ)に当てて叩けば、どんな岩でも割れる」
「それならリョウが行く必要はない。俺にその石鑿を貸してくれ」
 潘長林の言葉に、リョウは、腰にぶら下げた石鑿を引き抜き、皆に見せた。
破岩剣(はがんけん)という石鑿だ。残念だが、これは祖父の形見で、人に貸すわけにはいかない。それに、石の臍は誰にでもわかるものではない」
「よし、決まりだ。話がここまで来たなら、皇甫将軍には内緒で、リョウにも加わってもらおう」
 潘長林の勢いに、褚誗(ちょてん)も、リョウを入れてその作戦を遂行することを決断した。

「それにしても、みんなはどうして、そんなにも皇甫将軍に肩入れしているんだ」
 リョウの問いに、潘長林が答えた。
「俺は、石堡城を守る戦いで、大勢の仲間を失った。生き残ったのは奇跡のようなものだ。石堡城に援軍を送らなかった隴右(ろうゆう)節度使の(がい)嘉運(かうん)を恨んだ。しかし、その後すぐに皇甫将軍が隴右節度使に就任した。だから、仲間の仇を討たなくてはと、皇甫将軍の下で吐蕃と戦い、いつの間にか親衛隊長にまで引き上げて頂いたのだ」
「潘の弓は凄いぞ。()を小型にしたもので百発百中だ」
 褚誗(ちょてん)が、潘長林の腰を指差した。潘が腰の革帯から棒のようなものを引き抜き、それを一振りすると弓が開き、短い弩になった。潘が矢を装填し、幕舎の支柱に向けて放つと、矢はど真ん中に命中し、幕舎が揺れた。
「おいおい、その弩は強いから幕舎を壊してしまうぞ」
 そう言った褚誗(ちょてん)が続けた。
「俺の話をしよう。俺は、たたき上げの軍人だ。前の節度使の下でも千人を率いる将軍だった。そういう意味では、潘たちの守備隊を助けに行けなかったことは、慙愧(ざんき)()えない。しかし、皇甫将軍が隴右節度使になってからは、すべてが変わった。皇甫将軍は、長安から派遣されて来るへなちょこ貴族とは違い、自ら軍の先頭に立って戦う軍人だ」
「だけど皇甫将軍は、かつて吐蕃との和睦を進めた人だと、ツェドゥンは言ってたじゃないか」
 リョウは、ツェドゥンを見た。しかし、それには褚誗(ちょてん)が答えた。
「皇甫将軍は、今でも和睦を望んでいる。常々“わしの役目は、多くの兵を死なせて目先の戦闘に勝利することではなく、平和を導くことだ”と言っておられる。しかし、根っからの軍人でもある皇甫将軍は、朝廷の指示には逆らえない。吐蕃の攻撃が激しくなってきてからは、皇甫将軍もやむを得ず反攻に転じ、三年前には青海で吐蕃を押し返し、二年前には千里の道を行軍して東の洪済(こうさい)城を落とした。その苦しい胸の内も、俺には打ち明けてくれた。俺は、そういう皇甫将軍と一緒に戦ってきて、この人になら付いて行ける、そう思ったのだ」
 リョウはハッとした。そうか、潘隊長も、褚誗(ちょてん)副将も、結局、理屈じゃなくて、皇甫将軍を信頼して付いていくんだ。
 話を聞いていた朱ツェドゥンが、リョウに言った。
「皇甫将軍が吐蕃に連戦連勝したことは、長安の街では大変な評判になり、契丹(きったん)(けい)を破った朔方(さくほう)節度使の(おう)忠嗣(ちゅうし)将軍と並んで、大人気になりました。皇甫将軍はいつ長安に戻るのだと、街の娘たちまでが噂するほどです。しかし、貴族の血筋を持ち、同時に軍事にも強い、皇甫将軍や、王忠嗣将軍は、宰相の李林甫にとっては脅威なのです。街での人気まで高まったら、いつ宰相の座を代わられるかもしれないからです」
 褚誗(ちょてん)が大きく(うなづ)いて、毒づいた。
「あの監軍使(かんぐんし)(ちょう)元昌(げんしょう)だって、間違いなく李林甫の手先だろう。皇甫将軍の粗探しに派遣され、皇甫将軍の失敗を待ち望んでいるに違いない」
 朱ツェドゥンがさらに続けた。
「李林甫は、前の皇太子の()(えい)が廃位されたとき、皇帝の三男()()、つまり今の皇太子ですが、その李璵を差し置き、四男の寿王(じゅおう)(ぼう)を太子に立てることを画策した男です。だから、皇太子が皇帝になれば、自分は間違いなく罷免され、下手をすれば罪をえて死刑になると恐れている。そうなる前に、何とか皇太子に罪を着せ、廃位に追い込みたいと思っています。皇甫将軍は、皇太子の王友でしたから、皇太子派と見られています。その皇甫将軍に、李林甫は、何としてでも敗戦の責めを負わせたいのでしょう」
「長安の政治家は、何て汚いんだ。結局、そんな奴らをのさばらせている、皇帝が悪いんじゃないか」
 昨日までなら、褚誗(ちょてん)にどやされていただろうリョウの言葉を、今日は誰も非難しなかった。
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