(三)
文字数 2,073文字
レオパたちが“おとうさん”と呼んだのは、安 椎雀 のことだ。自分たちを買ってきたのも椎雀なら、どこに売るかを決めるのも椎雀だ。長安で貴族の屋敷に売られるのか、田舎町の酒楼に売られるのかは、一生にかかわることだ。だから、椎雀が商旅から戻ってきたときには、彼女たちは精一杯に媚 を売る。でも、シメンが椎雀を“おとうさん”と呼ぶことは許されていなかった。
シメンは尻もちをついたまま、しばらくじっとしていた。痛さからでもなく、悔しさからでもなかった。「通り過ぎるのを待つ」というのは、ここに売られてきたときから、自分に課してきたことだった。シメンは、突厥 の村を出るとき、悦おばさんから「逆らうんじゃないよ。逆らったらもっと辛くなるからね」と言われたことを忘れていない。だからいつも、「何も考えちゃいけない、何も感じちゃいけない」と、自分の感情を宥 め、抑えつけ、それが消えてしまうまでじっとしている。
やがて立ち上がったシメンは、何ごとも無かったかのように尻の土を払い、夕餉 の準備をしなくてはと宿舎へ戻った。
「おや、また稽古を見ていたのかい。そんなに踊りたいなら、私が少し教えてやろうか。こう見えて、私も昔は売れっ子の舞姫だったんだからね」
「あっ、でもいいんです。奥様に教えてもらったりしたら、それこそ罰 が当たります」
レオパたちは、クシャルのことは“おかあさん”と呼ぶ。しかし、それもシメンには許されていなかった。クシャルがそうさせているのではない。一度シメンが、クシャルのことを皆と同じように“おかあさん”と呼んだのを聞きつけたレオパが、あとでシメンを呼びつけて、「私たちのおかあさんが、お前のおかあさんのはずがないだろう」と、その時も髪の毛をつかんだ手をグリグリゆすりながら、きつい声で叱ったのだった。
二人のやり取りを聞いていた、郎 欣雨 が言葉を挟んだ。
「罰が当たるって、それは、レオパたちのいじめのことかい。まったくあの娘 らも懲 りないね」
漢人の欣雨は、元は奴隷だったが、今は平民の身分を得てソグド人の芸能奴隷に漢語を教えている。クシャルとは馬が合うようで、よく台所で一緒にお茶を飲んでいる。
「そう言えば、シメンは漢語ができるんだから、今度、私の仕事を手伝ってもらおうかな」
「やめてください、私が教えるなんて聞いたら、それこそ何をされるか」
「心配しなくていいよ、レオパたちを教えるんではなくて、子供達を教えるんだよ。言葉っていうのは、幼い時に習うに限るからね。それに、踊りと楽器に加えて、漢語を覚えさせるのも、少しでも高く売るためなんだから、おとうさんだって喜ぶんじゃない。ねえ、クシャル、良い考えだと思わない、今度、聞いてみてもらえる?」
クシャルは面倒くさそうに顔をしかめた。
「この子は、大事な働き手なんだから、そんなことに使われちゃ、みんな困っちまうよ。欣雨が楽するだけだろう」
「まあそうかもしれないけど、働き手の代わりはいても、漢語の教師の代わりはいないでしょ。なにせ、シメンのお母さんは漢人だし、商家育ちで、漢字も書ければ帳簿もつけていたというからね。シメンだって、簡単な漢字は読み書きできるんだよ」
「そうは言っても、欣雨ほど立派な家柄ではないんだろ」
シメンも、欣雨の親は唐の名門貴族だったと聞いていた。権力闘争に巻き込まれ、弾劾 されて失脚し、身分は没収、家は取りつぶしになった。そのとき、以前からお屋敷に出入りしていた安椎雀が欣雨を奴隷として買い受けてくれたのだという。両親は、辺境の村へ配流 される途中で亡くなったそうだ。
頭頂で髷 を結った面長の顔、細い眉と一重 の目、筋の通った鼻と薄い唇は、知的な雰囲気を漂わせている。シメンの母親が漢人で、読み書きの教育を受けた女性だったと聞いたせいか、シメンには何かと声をかけてくれるのだった。
もっとも、シメンがいじめられているのを知っていても、そこは見て見ぬふりをしているようにシメンには思えた。ここでは誰にも頼れない、とシメンはますます一人ぼっちに感じるのだった。
「そう言えばシメンのお兄さんは、突厥 の奴隷兵士だって言ってたね。北の草原で、突厥 とウイグルの間で大きな戦があったって話だよ」
クシャルが思い出したように言うと、欣雨も市場で聞いてきた話を教えてくれた。
「ウイグルは、ジュンガル盆地の葛邏禄(カルルク)と天山北麓の抜悉蜜(バシュミル)も誘い込んで連合軍を作ったっていうじゃないかい。それも唐が根回ししたらしいよ。おかげで突厥の軍は総崩れになって、可汗 も北へ逃げたって話だ」
「何百年も続いた突厥も、滅亡するときはあっという間だね」
突厥の軍が敗走したと聞いて、シメンは胸が締め付けられた。「奴隷兵士は誰よりも先頭で敵と戦わされる」、そう言っていたリョウの言葉を思い出した。何とか無事でいて欲しい、たとえ北の大地に逃げてますます遠ざかることになっても、何とか無事でいて欲しい。生きていさえすれば、きっといつか会える、お願い、グクル、兄さんを守って、シメンは心の中で何度もつぶやいた。
シメンは尻もちをついたまま、しばらくじっとしていた。痛さからでもなく、悔しさからでもなかった。「通り過ぎるのを待つ」というのは、ここに売られてきたときから、自分に課してきたことだった。シメンは、
やがて立ち上がったシメンは、何ごとも無かったかのように尻の土を払い、
「おや、また稽古を見ていたのかい。そんなに踊りたいなら、私が少し教えてやろうか。こう見えて、私も昔は売れっ子の舞姫だったんだからね」
「あっ、でもいいんです。奥様に教えてもらったりしたら、それこそ
レオパたちは、クシャルのことは“おかあさん”と呼ぶ。しかし、それもシメンには許されていなかった。クシャルがそうさせているのではない。一度シメンが、クシャルのことを皆と同じように“おかあさん”と呼んだのを聞きつけたレオパが、あとでシメンを呼びつけて、「私たちのおかあさんが、お前のおかあさんのはずがないだろう」と、その時も髪の毛をつかんだ手をグリグリゆすりながら、きつい声で叱ったのだった。
二人のやり取りを聞いていた、
「罰が当たるって、それは、レオパたちのいじめのことかい。まったくあの
漢人の欣雨は、元は奴隷だったが、今は平民の身分を得てソグド人の芸能奴隷に漢語を教えている。クシャルとは馬が合うようで、よく台所で一緒にお茶を飲んでいる。
「そう言えば、シメンは漢語ができるんだから、今度、私の仕事を手伝ってもらおうかな」
「やめてください、私が教えるなんて聞いたら、それこそ何をされるか」
「心配しなくていいよ、レオパたちを教えるんではなくて、子供達を教えるんだよ。言葉っていうのは、幼い時に習うに限るからね。それに、踊りと楽器に加えて、漢語を覚えさせるのも、少しでも高く売るためなんだから、おとうさんだって喜ぶんじゃない。ねえ、クシャル、良い考えだと思わない、今度、聞いてみてもらえる?」
クシャルは面倒くさそうに顔をしかめた。
「この子は、大事な働き手なんだから、そんなことに使われちゃ、みんな困っちまうよ。欣雨が楽するだけだろう」
「まあそうかもしれないけど、働き手の代わりはいても、漢語の教師の代わりはいないでしょ。なにせ、シメンのお母さんは漢人だし、商家育ちで、漢字も書ければ帳簿もつけていたというからね。シメンだって、簡単な漢字は読み書きできるんだよ」
「そうは言っても、欣雨ほど立派な家柄ではないんだろ」
シメンも、欣雨の親は唐の名門貴族だったと聞いていた。権力闘争に巻き込まれ、
頭頂で
もっとも、シメンがいじめられているのを知っていても、そこは見て見ぬふりをしているようにシメンには思えた。ここでは誰にも頼れない、とシメンはますます一人ぼっちに感じるのだった。
「そう言えばシメンのお兄さんは、
クシャルが思い出したように言うと、欣雨も市場で聞いてきた話を教えてくれた。
「ウイグルは、ジュンガル盆地の葛邏禄(カルルク)と天山北麓の抜悉蜜(バシュミル)も誘い込んで連合軍を作ったっていうじゃないかい。それも唐が根回ししたらしいよ。おかげで突厥の軍は総崩れになって、
「何百年も続いた突厥も、滅亡するときはあっという間だね」
突厥の軍が敗走したと聞いて、シメンは胸が締め付けられた。「奴隷兵士は誰よりも先頭で敵と戦わされる」、そう言っていたリョウの言葉を思い出した。何とか無事でいて欲しい、たとえ北の大地に逃げてますます遠ざかることになっても、何とか無事でいて欲しい。生きていさえすれば、きっといつか会える、お願い、グクル、兄さんを守って、シメンは心の中で何度もつぶやいた。