(二)
文字数 2,050文字
隴右節度使、皇甫惟明の本拠地は、リョウのいる涼州から祁連山脈の裾を回るようにして南に下った鄯州にある。その南にも西にも天を衝く山脈が立ちはだかり、青蔵高原(青海チベット高原)から黄河流域の草原への出口となる要衝だ。鄯州からさらに、祁連山脈と青蔵高原の間の狭い平原を西に上っていくと、塩湖で知られる青海湖があり、そこはもう吐蕃(チベット)の軍勢と直接ぶつかり合う地域だ。
リョウは既に、平民としての身分証と通行証を得ていた。石諒という名だ。軍部とつながりを持った石傳若が、自分の親戚だと言って新たな身分証をもらうのに、さして困難は無かった。もちろん、それなりの心付けはしっかりと握らせているのだろうが。
涼州で育てた若駒三十頭を追いながら、リョウは数日かけて鄯州の軍営に到着した。なじみの牧童に馬を引き渡し、一緒に来た獣医師や蹄師と一緒に、与えられた宿舎に落ち着いてしばらくすると、褚誗がやって来た。
「おお、リョウ、良く来てくれた。今度の馬も、しっかり訓練したようだな」
「もう乗って来たのですか、早いですね」
「ああ、へなちょこ馬じゃ困るからな。リョウが訓練した馬は、軍馬としてすぐに戦場で使える。さすがに突厥の元兵士だな」
「やめてくださいよ。知らない兵に聞かれたら、斬られちゃいますよ」
褚誗は皇甫惟明将軍の副将だが、気さくな男で、リョウも軽口で答えた。節度使には長安の貴族や高級役人が箔付けのために赴任することもあり、それだけに軍事面における副将の役割は重要だ。褚誗は典型的な軍人なのだろう、元の敵とはいえ、突厥で戦闘経験のあるリョウをかわいがってくれた。
「夜、俺の部屋に来い。面白い男を紹介してやる」
そう言って立ち去った褚誗の背中を見ながら、一緒に来た者たちが呟いた。
「あの男が、皇甫将軍を支える勇猛果敢な武将だとは、誰も思わないだろうな」
「まったくだ。猪のような身体は良いとして、背は低いし、愛嬌のある顔で、どうも想像できない」
リョウは聞き流したが、誰とでも陽気に話す褚誗を見ていると、多くの武将や兵士が慕っているのが良くわかった。部下に慕われない武将は、本当に強い武将にはなれないことを、リョウは数多くの戦の体験から分かっていた。
隴右節度使は、吐蕃との国境地帯の防御を使命とする節度使で、傘下の兵力は七万五千人にのぼる。鄯州は、その本陣のある大きな町で、唐式の軍舎が建てられている。リョウは、ゲルや幕舎ではなく、木造の建物に入るのは久しぶりのような気がした。
夜になって、リョウは土産の葡萄酒を二本持って、褚誗の部屋を訪ねた。
「主人の石傳若から預かってきました」
「おっ、これは有難い。葡萄酒は何と言っても、涼州産が一番だからな」
「涼州の中でも、特に美味いと言われている西涼州のものを二本持ってきました。一本は石傳若からのご挨拶状と一緒に皇甫惟明様にお届けください。ほかにも涼州の上物を三本、後で上官の皆さんにお渡ししておきます」
「まったくお前の主人は抜け目がない男だな」
「ソグド商人ですから」
リョウの言葉に豪快に笑った褚誗は、付き人に誰かを迎えに行かせた。やがて入ってきた男は、長袖で膝下までの裾を持つ吐蕃人の服を着、革の帯を締め、革の靴を履いていた。服の色は地味な茶色だったが、上質な絹でできていることはリョウにも分かった。
「はじめまして、私は吐蕃のユト・ツェドゥンといいます」
リョウより十歳ほど年上に見えるその男は、流暢な漢語を使った。
「石諒です」
「石と言えば、ソグド人の姓ですね、お顔は違うようですが」
遠慮のないユト・ツェドゥンに、リョウは褚誗の顔を見た。褚誗だけにしか話していないことも多いからだ。褚誗は、大丈夫というように頷いた。
「父がソグド人で、母は漢人です」
「ほう、そうですか。実は、私にも漢人の血が入っているのですよ。私も唐の人と会う時は母の姓をつけて、朱ツェドゥンと名乗っています」
「まあ、座って食事にしよう。あとで美味い酒が待っているからな」
褚誗の指示で、付き人が料理を運んできた。この軍舎には専用の料理人がいる。野菜の炒め物や肉の料理が並び、その匂いにリョウのお腹はグーっと鳴った。
「リョウはそんなに腹がへっているのか」
「いや、突厥や涼州では、野菜を食べることがあまりなかったし、子供の頃には嫌いだった青菜の炒め物が、こうも美味そうに見えるとは思わなかった」
「長安では胡食も流行っているし、突厥の料理も伝わっている。ここの羊の串焼きだって、きっと突厥と同じものが喰えるぞ」
「いや、突厥では調味料はまず使わない。ただ焼いたり蒸したりするだけだ。同じ羊でも、これほど違うものかとびっくりする」
「俺たちは、しばらく野営が続くから、今のうちに美味いものをたっぷり喰っておくとしよう」
「前線に出るのですか?」
「ああ、吐蕃軍が青海湖の方に動いている。間もなく出陣することになるだろう」
リョウは、思わず目の前の二人を見た。これから戦う敵同士の人間が同席しているのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)