(一)

文字数 2,961文字

 陽林(ようりん)の寺でタンと別れ、零州(れいしゅう)へと馬を走らせていたリョウは、()を受けた背中がどんどん汗ばんで来るのを感じた。木陰で馬を止め、涼風に一息ついたリョウは、(えり)付きのソグド商人の上衣を脱ぎ、薄物一枚になった。こっちはまだ夏なのに、タンの居た北の集落は、高粱(こうりょう)(コーリャン)の収穫も始まり、早くも冷たい秋風が吹いていたな、と思い返した。
 涼州の馬を霊州の軍馬牧場に届けたついでに、陽林のタンを訪ねたが、そこにタンは居なかった。お寺の剛順(ごうじゅん)という坊さんに事情を聴き、一緒に北の集落へ行ったので、戻りが遅くなってしまった。リョウは、せっかくのタンとの再会もそこそこに、急いで馬を走らせてきたのだった。
 竹筒の水をごくりと飲むと、リョウは再び馬を走らせ始めた。

 (せき)傳若(でんじゃく)は、新興だが良馬を持つ馬商人として唐軍に喰いこみ、軍馬牧場のある霊州に小さな店を構えていた。その店に戻ったリョウを(せき)斗莫(とまく)が迎えた。
「傳若は俺と入れ替わりで、涼州に帰ったぞ」
「タンが陽林に居なくてな、長城の先の北の村まで行って来た。遅くなって、すまない」
「タンはどうしてた?」
「実は、その村でいきなり賊に襲われて、タンと一緒に一戦してきた」
「軽く言うが、大丈夫だったのか」
「ああ、タンが世話になっている坊さん、剛順っていう名前だが、唐軍の百人隊長だったとかで、めっぽう強くて、三人で撃退してきたよ」
「それじゃ、タンは元気だったんだな」
「ああ、戦闘で切り傷やら矢傷やら負ってしまったが、大丈夫だ。陽林にある剛順の寺に住みこんでいるそうだ」
 リョウは、タンの父母の話や、タンの心が不安定な状態だったことは言わなかった。
「タンが仏典を読んでいると聞いて、俺は本当にびっくりした。あいつは字も書けなかったのに」
「それじゃ、ますますタンには戻ってもらいたいな。馬の商いが大きくなってきて、馬を良く知る奴がもっと、もっと欲しいからな」
「俺も誘ってみたが、まだ当分、寺の方が良さそうだ。突厥(とっくつ)の頃とは違って、話すことが大人びてきていて、それも驚きだった」

 タンが居た村から陽林に戻るまで、急いでも四日かかった。その代わり、その間、少しずつ落ち着いてきたタンと話をすることができた。アユンやシメンの話も出たが、近況を知らないので、話は弾まない。剛順という坊さんが、ときどき一緒に話に入ってきたが、彼らの話す世界は、別世界だった。
「近頃、長安には景教(けいきょう)(ネストリウス派キリスト教)の寺院も建てられたが、仏教とは根本的に違うようだな」
 剛順がどこで手に入れたのか、隠し持っていた酒を飲みながら独り言のように言うと、しばらく考えていたタンが応じた。
「仏教の信者が、同時に景教も信じるということができるかな?」
「うん、いい線だ」
「今の唐では、道先(どうせん)仏後(ぶつご)の政策で、確かに道観(どうかん)(道教寺院)の方が仏教寺院より立派だ。でも実際のところ、陽林の人は儒教も仏教も道教も、多かれ少なかれ同時に生活の中に取り入れている」
「そうよな。町中では、儀式のたびに、道教の説法やら儒教の説教、果ては禅の瞑想まである」
「景教では、全知全能の神だけを信じると聞いた」
「唐の人々には受け入れ難いだろうな。ただ、人がより良く生きられるように、と教えるところは、同じかもしれんな」
 これが酒を飲みながらする話か、リョウは愕然(がくぜん)とした。リョウは、王爺さんの持っていた二冊の拓本、「(らん)(てい)(じょ)」と「集王書(しゅうおうしょ)聖教序(しょうぎょうじょ)」を、それこそ()り切れるくらい読み、その字も書けるようになった。しかし、リョウが受けた学問というのは、それだけだった。上手な字の真似事はできるようになったが、中身はほとんど無かった。いや、あったのかもしれないが、自分にはわからなかった。無論、ソグド商人の息子として、多少の算術も習ったので、馬商人としての金勘定に困りはしない。しかし仏典のような深い意味を学ぶというようなことは、ついぞ無かった。
―― 学問というのは、人を作るものだな。できればいつか自分も学んでみたい
 そう痛感して帰って来たのだった。

「そう言えば、リョウには別の用事があるから、できるだけ急いで帰れって、傳若から言付(ことづ)かっている」
 斗莫の言葉に我に返った。
「どうも、吐蕃(とばん)(チベット)の雲行きが怪しくなっている。今度は、そっち方面に馬を届けるのだと思う」
「よし、わかった。支度したら、すぐ出立(しゅったつ)する」
 そう言って、リョウは馬を替えるために馬小屋に向かった。

 涼州の牧場に戻ったリョウに、傳若は待ってましたとばかりに話しかけてきた。
「リョウ、実はな、お前も知っているパラだが、お前の嫁にどうかと思ってな」
 タンの様子を聞くでもなく、吐蕃の話でもないので、リョウは拍子抜けした。パラは、近くの店の娘で、リョウもときどき話すことはあった。
「いや、俺には嫁なんて、未だ早い。それに、パラは、妹のようなものだ」
「そう言えば、お前の親父はソグド人で、妹もソグド系の目鼻立ちだって言ってたな」
「ああ、そうなんだ。パラは妹に似ている。俺は、ソグド系の顔には恋愛感情はわかないんだ」
「そんなものかな。俺は、ソグド女じゃないと、そそられないがな。まあ、商売仲間の娘だし、気が変わったら、いつでも仲立ちするから言ってくれ」
「ああ、わかったよ」
「リョウのおかげで商売は順調だ。ここに腰を落ち着けてくれたら、俺も助かるしな」

 リョウは、心の中で傳若の心遣いに感謝した。ソグド商人の子であるリョウは、漢語もソグド語もできて、漢字も書ける。通訳もできれば、手紙の代筆も、金勘定もできる。そして、何より突厥(とっくつ)の兵士として鍛えた馬術と馬を見る眼がある。小さな隊商(キャラバン)の隊長に過ぎなかった傳若が、新興の馬商人として急速に商売を大きくできたことに、リョウも少しは貢献できたと思っている。しかし、もともと隊商(キャラバン)を大きくしようと人を集めて準備していたのも、馬の供給地である草原の支配が、突厥からウイグルに代わった隙をついて一気に攻勢に出たのも、傳若の商人としての勘や才覚が人より秀でていたからだろう。傳若には野心があるが、それは人を引き付ける清々(すがすが)しいものだ、とリョウは感じていた。その傳若が、身元も怪しいリョウを信頼して使ってくれている。
 でもリョウは、いつまでもここで馬商人をしているつもりはなかった。シメンを探しに西域に来たが、もうシメンは見つからないかもしれない。それなら、俺は長安に行かなくては、そう思っていた。それにリョウは、突厥の村で愛し合った漢人奴隷の(てい)を忘れることができなかった。幼い恋だったかもしれないが、それは時間が経つほどに、切なくリョウの胸を締め付ける。パラはリョウを慕ってくれるが、リョウとすれば妹のように接しているのであって恋心は湧いてこなかった。「婷はどこでどうしてるんだろうか」と考えるリョウに、幸せな婷の姿は想像できなかった。

「おい、リョウ。急ぎの用事というのは別にあるんだ」
 少しぼんやりしていたようだ。傳若が本題を告げた。
皇甫(こうほ)惟明(いめい)様の軍に、馬を届けて欲しい。代わりに、弱った馬や、吐蕃(とばん)から捕獲した青海(せいかい)駿(しゅん)(青海地方の名馬)を連れ帰って欲しいそうだ。それに、軍馬の怪我や(ひづめ)の面倒も見てもらいたいと言ってるから、何人か選んで、一月(ひとつき)ほど行ってきてくれるか。なにしろ、リョウは褚誗(ちょてん)様のお気に入りだからな」
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