(三)

文字数 2,294文字

 顔が見えるほど近づいてきたウイグル兵を見て、アユンは異常なものを感じた。テペも同様だったようで、走りながらアユンを見た。
「アユン、あいつらの顔も(かぶと)も、返り血でどす黒くなってるぞ」
「ああ、(よろい)にも血糊(ちのり)が付いている。クルト・イルキンの残党は文字通り“狩られた”ようだな」
 馬だけ奪えば良いというような生易しいものではなく、突厥(とっくつ)を根絶やしにしたいのだろう。クルトの残党を血祭りにあげた興奮が残っているのか、どの兵士の眼付も異様にぎらついている。
 
 ウイグル軍は替え馬に乗り換えているのだろう。その脚力は明らかに疲れ切ったアユンたちの馬とは違っていた。どんどん近づいてくる敵と一戦交えることは避けられそうになかった。限られた武器と寡勢(かぜい)で勝ち目はないが、何とか一人でも多く生かして目的地の岩山までたどり着かせる必要がある。岩山は草原をさえぎるように東西に長く連なっており、その中の二つの岩山の間が狭い通路になっている。天然の要害(ようがい)で、その隘路(あいろ)(ふさ)げば敵の侵入を阻止できるし、岩山の洞窟には武器の備蓄もある。あそこまで行けば敵の攻撃をかわせるだろう、アユンはそう考えていた。
 そのためにどうするか。戦法に関しては、アユンに迷いは無かった。状況分析よりは実戦の方が自分には合っているのだろうか、ふとそう思った。
「展開してガゼル作戦だ。左翼はテペ、右翼はサイッシュ。前方の一本松で右に方向転回!」
「了解!」
 アユンの部隊は、三筋に分かれて展開した。騎馬民族の戦いで、逃げるときの鉄則は分散だ。ただ多勢に無勢で、それだけではいずれ捕捉されてしまう。複雑に動き回り、予測のつかない動きで相手を翻弄(ほんろう)し、適度に反撃もしながら逃げ切る作戦がガゼル作戦だ。
 鹿に似た高原のガゼルは、狼に追いかけられてもジグザグに走って逃げ切る。そこからドムズが付けた作戦名だった。ゲイック・イルキンの元で副隊長をしていたドムズから、厳しい訓練を受けた日々がアユンの脳裏(のうり)(よぎ)った。

 案の定、ウイグル軍も三隊に分かれて追走してくる。目印の一本松を通り過ぎたところで、アユンの本隊と右翼のサイッシュ隊が右回りに転回し、向かって来る敵の右翼に殺到して、そこを突き崩す体制を取った。ほぼ同時に、左に向かっていた左翼のテペ隊は、いきなり方向を右に変えて敵の右翼と主力の間に突っ込んだ。左と思わせて、急激に右に変わって敵の矛先をずらすのがガゼル作戦の由縁(ゆえん)だ。敵は多勢である分、機敏な方向転回には付いてこれず、アユンの三隊が一緒に敵の右翼だけに集中して矢を射掛けた。右翼だけなら人数は互角以上になっている。「味方の戦力を集中して、分散した敵を討て」というのもドムズの教えだった。限られた矢数の騎射でも、それなりに打撃を与えた様に見えた。武器を持っていないはずの突厥部隊からいきなり矢を射かけられたことが、敵を(ひる)ませたようだ。
 右翼の敵が態勢を整えなおす前に、今度はすれ違った敵の後ろを回って、左翼軍に後ろから突進した。矢を放ちながらアユンは叫んだ。
「ここまでだ、抜け出すぞ!走れ!」
 この作戦は敵を殲滅(せんめつ)するというよりは、混乱させるのが目的なので、長居は無用だ。矢も尽きかけている。隊列を乱した敵を置き去りにして、アユンの隊は再び岩山に向かって走り出した。

「ハア、ハア、ハア」
 息が切れて来る。馬もいっぱい、いっぱいだ。あと少しだったのに、とアユンは思った。
 もう二つの岩山は見えている。しかし態勢を整えなおしたウイグル軍は狂ったように追走してくる。ガゼル作戦が敵の怒りに火を注いだようだ。武器を持っていないと聞いていた突厥の部隊が武器を持っていた、ということも驚きと怒りの原因になっているのだろう。疲れた馬でこれ以上逃げ切るのは無理に思えた。
 馬蹄(ばてい)の音が間近に迫ってきた。後方では、すでに追い付かれた兵士たちが斬り合っているのが見える。このままでは囲まれて全滅だ。
 アユンの横にも敵の騎馬兵が並びかけて来た。馬上から矢を射かけてくるのを短剣で払う。その敵兵の後ろからバズが馬をぶつけると、敵兵はもんどりうって転がり落ちた。バズも今やリョウの後を継ぎ、アユンを命がけで守るネケルになっている。しかし、すぐに新手(あらて)が襲ってきた。矢は尽き、短剣だけではどうしようもない。
 もはやこれまでと思った時、前方の岩山から後方のウイグル軍に目掛けて遠矢が射かけられた。数は多くないが、思いがけない攻撃に敵の数人が倒れる。次いで岩山の上に旗が百本以上も一気に立ち上がった。アユンの旗もあれば、叔父のタクバンの旗もあった。同時に二つの岩山に(はさ)まれた隘路(あいろ)から、突撃の太鼓の音と共に、百騎ほどの突厥兵が出現してきた。どこから集めたものか、それはアユンも想定していないことだった。先頭の(かぶと)はグネスのものだ。

「グネスが来てくれたぞ、あと少し踏ん張れ!」
 アユンは敵の剣を短剣で払いながらも、部下の兵士たちを鼓舞した。
 突然の援軍と、山上の(おびただ)しい旗の数を見て、ウイグル軍は勢いを失った。グネスの兵たちが、喚声を上げて突っ込んで来る。その隙に、アユンたちは疲れ切った馬と自分の身体を、二つの岩山の間に滑り込ませることができた。敵が(ひる)んだすきに、グネスたちもさして戦わずに素早く引き返し、隘路(あいろ)の入口に用意していた木柵を閉じた。木柵は鋭く(とが)らせた木の先端を斜めに突き出した逆茂木(さかもぎ)になっていて、馬の侵入を阻めるようにできている。遅れてそこに殺到した敵兵に向かって、柵の後ろからも、岩山の上からも、雨霰(あめあられ)と矢が射掛けられた。やがて戦意を喪失したウイグル軍は、大将の合図とともに、引き上げ始めた。
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