(四)

文字数 2,181文字

「タン、危ない!」
 リョウは叫ぶと同時に、腰の革帯から石鑿(いしのみ)を引き抜き、タンの背後の賊に投げつけた。石鑿が賊の足に突き刺さり、男は岩から転げ落ちた。しかしタンは、まだ動けない。タンに組み伏せられていた賊が、力任せにタンを跳ねのけ、よろけながらも立ち上がると、丘に転がったタンに向かって剣を振り上げた。しかし一瞬早く、タンに助けられた若い奴隷が、タンの短剣を拾い、その賊の背に体当たりして突き刺した。

 その間に、リョウは眼前の敵を倒し、(せき)傳若(でんじゃく)ももう一人の敵に傷を負わせた。これで人数は互角になったなと思ったとき、賊の首領が「引けえ!」と叫び、賊は怪我した仲間を馬に乗せ、一斉に逃げ出していた。
 リョウは、丘を駆け上り、タンの元に走った。タンは、仰向けに倒れたまま、泣いていた。
「大丈夫か」
 声をかけたリョウに顔を見られたくないのか、タンは交差した両腕で顔を覆ったが、その腕もまた震えていた。
「どこか怪我をしているのか」
 そう聞いたリョウに、タンは黙って首を振った。とりあえず怪我は無くて良かったと、リョウは、タンをそのままそっとしておくことにした。

 リョウは、石傳若を手伝って、怪我した者たちの手当てをし、また死んだ奴隷を埋葬してやることにした。
「私は、この若い男に救われました。傳若さんの奴隷だったのでしょう?」
「ああそうだ。奴隷として買ったが、商いをしながら、何年も一緒に暮らしてきたんだ」
「ということは、まだ子供の頃に引き取ったのですね。本当に残念なことです」
隊商(キャラバン)は、いつも死と隣り合わせだ。賊だけではない、砂嵐や、予期せぬ緑洲(オアシス)の渇水、毒蛇だっている。それで初めて、西域と唐を結ぶことができるし、高い利益を得ることもできるのだから、まあ、そういう覚悟はいつだってしているよ」
祆教(けんきょう)(ゾロアスター教)では、どのように埋葬すれば良いのですか?」
「いや、わしらは明教(みんきょう)(マニ教)だ。もっとも、埋葬の仕方はさして変わらないがな。ここに、埋めていってやろう」
 
 そう言った石傳若が、自ら(くわ)を手に遺体を埋める穴を掘り始めたのに、リョウは驚いた。言葉とは裏腹に、傳若の目に涙が浮かんでいるのが見える。それは奴隷の死に対するものではなく、家族の死を見つめているようであった。このソグド人たちもまた、リョウとアユンのように、身分を超えたつながりを持っていたのだろうと、リョウは胸がいっぱいになった。
「ここは(いにしえ)の王族の墓だ。埋めてやるにはちょうど良い」
 そう言われて、今しがたまで戦っていた丘を眺めてみると、なだらかな丘の上には大きな岩山がそそり立っている。よく見ると岩壁の中ほどに、風化してはっきりしないが、人の像のようなものがいくつも彫ってある。
「あれは岩に仏像が彫ってあるのだよ」
 そう言われたリョウは、その大きさに圧倒された。自分がやっていたことは、薄い岩板に文字を彫ったり、石塊(いしくれ)(けず)って馬の形にしたり、せいぜいその程度だ。それでも完成させるのには時間も労力もかかった。これほどの石の仏像を彫るのには、どれほど多くの人がかかわったのだろう、それもこんな何もない荒野の岩壁に。リョウは、いつかもう一度ゆっくりと、この仏像を見てみたいと思った。

 ふと後ろを振り向くと、タンが地面に腰を下ろしていた。タンに助けられ、またその手でタンの危うい所を救った奴隷が、タンに寄り添い、うなだれるタンに何か話しかけていた。荷物の片づけに呼ばれたその奴隷が去り、一人ポツンと座り続けるタンは、生気の無い、一人の寂しい奴隷の姿そのものだった。決然とクルト・イルキンの一族に反旗を(ひるがえ)し、その敏捷(びんしょう)さと見事な剣の腕で、戦火の中でアユンを救い、そしてまたゲイック・イルキンの敵となった副官ブルトを倒した、あのタンの姿ではなかった。

 リョウにはわかっていた。何も考えることなく、生き延びるためにただ夢中で戦っていた頃はまだ良かった。しかしその後、あの戦の日々を思い出すたびに、心がそれを強く拒み、少しずつ元気をなくしてきたことを。
 リョウは、タンに歩み寄った。
「タン、良く戦った。頑張ったな」
「リョウ、すまない。俺は、なんの役にも立てなかった。自分の命さえ、あの奴隷に救われた」
「いや、お前があの男の命を救ってやったんじゃないか」
「俺は、組み()いた賊の胸に短剣を突き刺すことが、どうしてもできなかった。短剣を振り上げたとたんに、俺の頭に、俺が殺しかけた女とその幼い女の子の姿が浮かんだんだ。振り払おうと思っても振り払えなかった。そのうち、とても怖くなって、苦しくて、哀しくて、もう何もできなくなって、手も身体も震えてきて……。俺は、どうなってしまったんだろう」
 リョウは、タンがかつてクルト・イルキンの奴隷として、国境近くの村の略奪に加わり、抵抗できない農民たちを殺していたことを知っていた。それでもタンは、お腹の大きな妊婦と幼い女の子には手が出せず、命令を拒否して、主人らから(ひど)い仕打ちを受けたのだった。そうした記憶が、タンの身体を金縛りにしたのだろう。しかし、それはリョウにはどうしてやることもできないことだった。ただ、隣に座り、タンの肩を抱いてやる、それがリョウにできる唯一のことだった。
 
 馬に分乗して再び出発した一行の先方に、逃げ出した駱駝が数頭、荷を背負ったまま、のんびりと白草を食んでいた。
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