(十八)

文字数 3,416文字

 冬を前に、敵は思わぬ方からやって来た。唐の朔方(さくほう)節度使(せつどし)(おう)忠嗣(ちゅうし)の率いる軍が、突然、南方から侵攻して来たのだ。左翼(東)の守りに付いていた十一の部隊がたちまちに撃破されたとの知らせが入った。
「ウイグルだけじゃなく、唐も攻めてきた。いったいどうなっているんだ」
 アユンの問いに、キョルクは冷静に答えた。
突厥(とっくつ)白眉(はくび)可汗(かがん)を立てて抵抗を続けているから、その息の根を止めるためだ、と言われている。しかし本当はそんなことはどうでもいいのだ。ウイグルに好き勝手をさせないために、ウイグルに唐軍の存在を見せつけるのが、本当の目的だろう。そうしないと、ウイグルは突厥と同じように莫大な絹を唐に要求するだろうからな。唐軍は、冬の草原に居つくはずはないから、すぐに帰るだろう」
「しかし白眉可汗は、唐軍の攻撃に慌てて、東に移動を始めるって噂だぞ」
「そうだ、アユン。今がそのときだ」

 アユンは、キョルクと打ち合わせた夜以来、秘かに移動の準備をしていた。褒美として得た羊や馬は、越冬地に移すと言って、信頼できる部族の者を付けて南に移動させている。褒美として得た余分な弓矢や剣も、戦いに備えて備蓄すると言って、運び出させていた。
 タクバンに知られたら、大騒ぎになるのは明らかだったので、極秘にものごとを進めた。しかし、一番の問題は、誰を連れていくか、あるいは誰が付いて来るか、だった。キョルクは言った。
「突厥と離反することは内緒にしても、今の突厥の状況を話すことはできるだろう。アユンが誰かに頼んだり、強制したりするのでなく、その誰かが正しい判断を下せるように、正しい情報を伝えてやるのがアユンの役目ではないのか。みんなは、何も本当の状況は知らないのだから」
 そう言われたアユンは、機会があるごとに、自分の部族の者、特に若者に、馬乳酒を飲みながら、いろいろな話を聞かせてやった。テペを始め、直属の兵士ら十名ほどには、内々に自分の覚悟を話していた。気がかりなのはグネスだった。戦いになれば、一番頼りになるのはグネスだ。しかし今は、部族の副長であり、タクバンもグネスを頼りにして、良い待遇を与えている。むやみに誘うわけにはいかなかった。グネスのことはグネスの判断に任せよう、そうアユンは思った。

 また新しい知らせが入った。ウイグル軍が西から姿を見せ、居残っていた突厥の部族を襲っているというのだ。アユンは、キョルクのように自分で分析を試みた。
―― 唐の侵入に対抗して、雪と氷に閉ざされる前に、ウイグルも力を見せつけたいのだろう、長くは続くまい
 それでも白眉可汗は、予定を早めて二日前に東に移動を始めていた。他の部族も、徐々に動き始め、アユンの部族でも、半数以上のゲルが分解され、馬車に積まれていた。
 冷静に分析したと思ったアユンの予想は外れ、ウイグル軍はどんどん近づいてきた。二手に分かれて、一隊は北にある製鉄場の方向に向かっているという情報がもたらされた。もう猶予はならなかった。移動の準備をしていた一族の者を集めて、アユンは大きな岩の上に立った。

「俺は、たった今から、突厥の可汗と決別し、南に行くことにした。南には、唐軍もいれば、奚や契丹もいるだろう。危険が一杯だ。どうやって暮らしていけるかも分からない。だが、俺たちは遊牧民だ。こんなところで、権力にしがみつく奴らの言いなりに、無駄な戦をしても意味はない。羊を追って、仲間と一緒に、自由に平和に生きるんだ。それができるかどうかは、俺にも分からない。だが、俺たちは遊牧民だ。そして狼の子孫だ」
 テペたち、アユンの取り巻きが「そうだ、そうだ!」と気勢を上げ、拳で胸を叩いた。何を始めたんだと、タクバンが鬼の形相で近づこうとしたが、アユンの親衛隊がそれを阻んだ。タクバンの取り巻きと小競り合いが起きたが、アユンは無視して続けた。
「俺たちのご先祖様は、はるか西の阿爾泰(アルタイ)山脈から、ここまで来た。俺たちは、狼が示す道を歩んで来たんだ。今また、狼は俺たちに新しい道を示している。俺たちが、どこに行こうと、ご先祖様は祝福してくれるだろう。俺たちは自由な遊牧民だ。狼の子孫で、大鹿に守られた、自由な遊牧民だ。そう思う者は、俺と一緒に来てくれ」

 声を発する者は無かった。アユンは両腕を胸の前で交差し、太陽に向かって三拝すると、岩からさっと飛び降りて、皆の方に向かって歩き始めた。群衆が割れ、道が開けた。
「アユン!」
 誰かの発した小さな声が、さざ波のように広がっていった。ある者は拳で胸を叩き、ある者は地面を踏んで叫んだ。
「アユン、アユン、アユン!」
 その声はやがて大波となってアユンを包んだ。グネスが険しい顔をして近づいてきた。剣を抜いている。テペとバズが、さっとアユンの前に立って守ろうとした。グネスは、その剣を天に向かって突き上げた。
「俺はアユンと行くぞ!」
「オー!」
 苦々しい顔で会場を離れるタクバンたちをよそに、男も女も、老人も、子供も、多くの人が雄叫びを上げていた。

 アユンに同行する者は、二百人ほどだった。一部の者はタクバンと一緒に可汗を追ったので、黄河の北の集落から出てきたときの半数になっていた。戦える者は百五十騎ほどだが、ゲイック・イルキンの元で戦っていた古参兵の多くは、タクバンでなくアユンを選んでいた。母と妹、それに小さな弟が、タクバンに付いて行ったことだけが心残りだった。姉のソニバとキョルクは、従者二十人ほどを連れてアユンたちに合流することになっていた。
 そのキョルクの従者から、アユンに至急の伝言が入った。
「白眉可汗は、製鉄場がウイグル軍に制圧されそうになったら、製鉄の秘密を知る職人を殺せと指令を出したそうです」
 アユンは、製鉄場がどうなるかもキョルクに相談していて、キョルクが動静を探っていたのだ。アユンはグネスに一族の引率を託し、テペら精鋭三十騎と同数の空馬を連れて北の製鉄場に急いだ。ほかの皆とは、大興(だいこう)安嶺(あんれい)山脈沿いに南に二日行った場所で待ち合わることにした。
「テペ、詳しい事情は後で話すが、西からウイグル軍が到着する前に、なんとしてもサイッシュと一族を救わなければならない」
「サイッシュは知ってるのか」
「頭のいい男だ。ウイグル軍が来たら奴隷にされるし、その前に、警備の兵から殺される可能性も考えているだろう」
「警備の兵も突厥兵だろう。俺は、そいつらと()り合うのは、気が進まないな」
「俺だって、そうだ。しかし、いくら命令とは言え、罪もない製鉄場の職人を皆殺しにするような奴らだったら、たとえ突厥人でも戦わなきゃいけない」
「ああ、それは俺でもわかる」
 途中、馬を替えて急行したアユンたちが、製鉄場の前の丘に着いたのは、前回来た時と同じ、夕刻だった。丘の上から見たのは、前回同様、赤々と夕陽のように輝く製鉄場の景色だった。ただ、そこから黒い(あり)のように、無数の人間が這い出してきている。
 そこここで喚声が起こり、炉をかき回す引っ掻き棒や、石を掘る(さん)(スコップ)を持った何百人もの男たちが、突厥の警備兵と争っていた。西からは砂塵が迫っていた。千騎ほどのウイグル軍が接近してくる。アユンは、丘を駆け下りた。ゲイック・イルキンの代から続く、一族の旗を背負った騎兵がすぐ後ろを付いてくる。テペもバズもカルも突進した。

 警備兵の援軍が来たと思ったのだろうか、多くの職人や奴隷たちが反対方向に逃げていく。その流れに逆らうように、鉄の石の象徴である黒旗を掲げた一団が、アユンの方に向かって走って来た。サイッシュだった。クゼールたちもいる。その後ろから十騎ほどの警備兵が追い付いてきて、丸腰の一団に槍を振るおうとしていた。アユンは迷わず、弓を引き絞った。テペたちも続き、思わぬ味方からの攻撃に、警備兵たちは慌てて退いた。
「時間がない、早く馬に乗せろ!」
 サイッシュの一族や仲間を、連れて来た空馬に乗せると、アユンは今下りて来た丘の上に向かって皆を走らせた。もう、ウイグル軍も追い付けないだろう。
―― 俺も何とか、領導(リーダー)らしいことができたかな、親父。
 アユンは、心の中でゲイック・イルキンに話しかけた。
―― まだまだ、だって?うん、わかってる、これからだな。何とか仲間の命を守って、自由に生きるんだ。見ててくれよ、親父

 丘の上から振り返って見た製鉄場の上に、炉よりも赤い、大きな夕陽が落ちていった。

(「流浪の果て」おわり)

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