(十四)

文字数 3,568文字

 (けい)との戦場で生き抜いた剛順も、突厥(とっくつ)の奴隷兵士の隊長だったリョウも、強かった。賊の中にも、兵士崩れなのか腕の立つ者もいたが、馬上から矢を射るリョウと、豪腕を振るう剛順の敵ではなかった。突然の逆襲に浮足立った賊は、頭領の指示で穀物の入った麻袋を空馬に積み、負傷した仲間を馬に乗せると、一斉に逃げ出し始めた。
「今度来たら、唐軍が相手だぞ」
 剛順は、脅すように大声で叫んだ。そのとき、逃げる男たちの一人が、タンを指差した。
「タン!お前は、クルト一族のタンだな。カプランを裏切った奴隷だろ」
 タンは、その突厥語に驚いた。リョウも、びっくりした顔をしている。
「お前だって俺たちと同じだ。お前がこの村を襲ったのを知ってるぞ、また来るから覚悟しておけ」
 そう捨て台詞を吐いて、その男は走り去っていった。

 タンはその男の顔に見覚えがあった。男は突厥語で叫んだのだが、賊がタンという名前を口にし、またクルトやカプランという言葉を発したので、村人の何人かは、話の中身に気付いたようだった。ザワザワと、村人たちにその話が伝わっていくのが目に見えるようだった。

 静かになった広場の真ん中に、傷だらけのタンが肩に刺さった矢も痛々しく、座り込んでいた。矢羽根の部分は、剛順が折ってくれた。
 (すき)(くわ)を手にした村人が、ぞろぞろと出て来てタンを囲んだ。一人の男が、鉄製の(すき)の刃をタンに向けて構えた。
「お前は、あいつらの仲間なのか」
 タンは何も言えなかった。リョウが何か言おうとしたが、剛順がそれを手で制するのが見えた。
「やはりそうなんだな、何のつもりで、今までこの村に居たんだ」
 タンは弱々しく答えた。
「そうだ、俺は突厥の奴隷兵士だった。略奪にも加わった。自分のしたことが恐ろしくて、生きていくのも苦しかった。ここに来れば、何かが変わると思って……」
「お前は生きているじゃないか。お前たちに殺された村の者はどうなるんだ」
「そうだ、うちの父ちゃんは、お前らに殺されたんだ」
 口々に村人が非難するのを、タンは一人でじっと受け止めていた。
(ゆる)されるとは思っていない。ようやく、わかった。俺は、ここで死にたかったのだ」
 タンはそう言って、座りなおした。両手を地面につき、頭も地面にこすりつけた。
「殴るなり、蹴るなり、殺すなり、どうか好きにしてくれ」

 そのとき康が村人たちの前に出て来た。
「この人は、私と子供の命の恩人だ。しかも、三年前と、今日と、二回も救ってくれた」
「三年前だと?」
 誰かの声に、康が頷いた。
「そう、三年前に、私と娘は、殺されそうになった。でも殺せと命じられたこの人は、殺すことができずに、代わりに殴り倒されていた。私らはそのおかげで命拾いした」
 タンは察した。三年前のあの日、子を庇って背中を向けた康は、肩越しにタンの顔を見たのではないか。タンが仲間から殴打されている様子もすぐ近くで見ていたはずだ。初めから、康は、タンがあの時の奴隷兵士なのだと、疑っていたのではないか。
 ずうっと長い間、耐え忍ぶことしかできなかった康は、子を育てるため、感情を抑え、必死に働き、ただ生きることを選んできたのだろう。俺を疑っても、その憎悪を必死で抑えていたのではないか。俺は、死にたいとしか考えられなかったのに。

「あんたは、この男が突厥の殺戮(さつりく)者だと知って、野良仕事を手伝わせていたのかい。なんて恥知らずな」
 村の女が、(さげす)んだ眼を康に向けた。タンに寄り添う剛順とリョウに遠慮していた村人も、だんだんと激高していくのがわかった。村人の中から、石が投げつけられた。それはタンを(かば)おうとした剛順にも、リョウにも当たっていたが、二人とも村人に歯向かおうとはしなった。さらなる非難が康に向けられた。
「お前はもう、亭主を殺された(うら)みを忘れたのか。こやつは、その仲間だぞ」
 康は強い瞳で村人を見返した。
「忘れるものか……、忘れられるはずがない。恨み言をいくら言っても、あの人は(かえ)ってこない。でも、忘れさえしなかったら、あの人といつだって話ができるんだ。何もかも我慢して、こっちが(ゆる)すしかないんだ」
「なに訳わかんねえこと言ってんだ。そんな奴、(ゆる)すことはねえ。皆でやっちまえ!」
 その男の顔を見据えて、康が言い放った。
「奴隷たちだって、命じられてやってたんだろう。私を盗賊に差し出そうとしたあんたと、私を救おうとしたこの人と、どっちがまともなんだ」

 その言葉が引き金になって、何人かの村人はその男の方を非難し始めた。喧々(けんけん)囂々(ごうごう)たる非難の応酬を村長が引き取った。
「せっかく命が助かったというのに、村人どうしで喧嘩してどうなる。タンは、わしが預かる。今は、みな家に帰れ」
 しぶしぶ引き上げる村人を見送って、振り向いた村長が呟いた。
「あいつらは、去年も来た。今日、追い払ったって、また仕返しに来るかもしれない」
 それにはリョウが答えた。
朔方(さくほう)節度使の(おう)忠嗣(ちゅうし)河東(かとう)節度使も兼ねることになった。これで朔方から雲中まで数千里の要害に城が築かれ、契丹も奚もむやみに戦を仕掛けることはできなくなった。無論、ウイグルもな」
 剛順が続けた。
「時代は変わったんだ。あんな無頼(ぶらい)の連中は、唐からもウイグルからも目障(めざわ)りだ、争いのもとになりかねないからな。国境の警備も厳しくなるだろうし、あまり心配することはない」
 剛順とリョウは、村長が引き留めるのを謝絶し、その日のうちにタンを連れて村を出た。村の出口で、タンは地面に(ひざまず)くと、康の家に向かい地面に頭をこすりつけた。それは、剛順に「もう行こう」と言われるまでの、長い時間だった。

 夕刻、野宿の準備ができ、焚火にあたったところで、タンはようやく落ち着いてきた。
―― 忘れられるのは(ゆる)されることだという。でも加害者が忘れてもいいのか、それじゃあ、ただの非道だろう。被害者の康は俺を忘れていなかった。それでも俺を赦すと言った。どうして、そんなことができるんだ?
 先ほどから、そのことが頭の中をぐるぐると回っていた。
 リョウが差し出す焼いた干し肉の匂いで、我に返った。
「リョウは今までどうしていたんだ?」
「俺は、あの後もずうっと(せき)傳若(でんじゃく)の元で、馬商人の手伝いをしていた。傳若が隊商(キャラバン)を出すときには、俺も連れて行ってもらった。シメンを探すだけでなく、その仕事が面白くて、なかなか辞められなかったんだ。それに西域で石窟(せっくつ)の仏像を見て回るのも面白くてな」
「リョウは石や木を彫るのが好きだったからな」
「ああ、仏教のことはよくわからないが、彫刻があまりに美しいんで、俺も真似して彫ったりしていた。そう言えば、タンは僧侶の格好だな」
「今や、リョウよりも俺の方が仏典を読めるなんて、信じられないだろうな。それより、どうして剛順と一緒にここまで来たんだ?」
「石傳若と一緒に、涼州の馬を霊州の軍馬牧場に届けたんだ。陽林は近いから、傳若の許しを得てタンに会いに行くことにした。陽林でタンが世話になっていた寺はすぐに分かった。そしたら、剛順和尚が、タンは国境の村に行ったきり戻って来ないというので、気になって来てしまった」
「それならわしも行こうということで、付いてきてのだが、まさか、いきなり戦になるとは思ってもいなかったぞ」
 横合いからそう口を挟んだ剛順は、戦っていた時の武人の顔から、僧侶の顔に戻っていた。
「お前は、わしの教えたことをちゃんと聞いてなかったな。確かに、『悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩む』と言ったが、『悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす……雲を離れた月のように』とも教えたはずだ」
 リョウが、思い出すような顔をし、笑顔でタンを見た。
「そう言えば、今日の戦いでは、村人だけでなく、盗賊どもも一人も死なせなかったな。俺も、タンに影響を受けたようだ」
「それこそ仏の教えじゃ、『殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ』とな」

 タンは、康の顔を思い出していた。どれほどの苦労も飲み込んでしまう康の強さと、その悲しみの深さを思い出していた。涙が、静かに頬を伝う。
―― 俺は、康のおかげで、雲から離れることができたのだろうか?
 静かな涙は、やがてとめどなく(あふ)れ出し、タンは声を出して泣いた。リョウが、黙って隣で肩を抱いてくれた。剛順は、ぶつぶつとお経のようにつぶやき続けていた。
「『人として生まれ又死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ』、『水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる』、何よりも『心を正しくおさめる』ことだ。『心をおさめたならば、安楽をもたらす』とな」 

(「恩讐の大地」おわり)
(注) 本章のブッダの教え(『 』)は、「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫中村元訳)より引用している。
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