(一)

文字数 1,353文字

 多くの隊商(キャラバン)が東西に行きかう道から分かれ、馬車の列は北に向かっていた。それなのに、毎日少しずつ暖かくなってくるようで、シメンは不思議な気がした。高地にある甘州(かんしゅう)から大地は緩やかに下り、祁連(きれん)山脈の雪が見えなくなったあたりで、シメンは季節が夏であったことを思い出した。澄み切っていた青い空も、ここに来ると少し(かす)んで見える。それは気温のせいなのだろうか、沙漠の黄砂のせいなのだろうか、とシメンは思った。
 遊牧民の夏祭りで稼ぐため、隊商(キャラバン)が甘州を出発したのは十日も前のことだ。出発の前夜、壮行の酒宴の後、慣れない酒で前後不覚に陥ったシメンは、胡騰舞(ことうぶ)の師匠アトールに襲われた。抵抗するうちにアトールを殺してしまったのだが、その死体を芸能奴隷のバリスが谷間に投げ捨てて以来、いつ事件が発覚するかと、シメンは生きた心地がしなかった。後ろから駆けてくる馬がいると、追手(おって)ではないかとおびえた。しかし、毎日が何ごともなく過ぎていき、最初の集落に到着することができたのだった。その間、バリスは何ごともなかったように、アトールの話題に触れなかった。
 その集落は、突厥(とっくつ)でもウイグルでもない、漢語を話す遊牧民の村だった。かつて北の遊牧民が南下し、南の農耕民と交じり合った地域なのだと、隊長が教えてくれた。(あん)椎雀(ついじゃく)が高級芸能奴隷のイルダたちを連れて長安に向かったので、こちらの隊長は安椎雀の信頼の厚い古参のソグド商人に任されている。
 村は漢人の農村らしく、畑が広がり崩れそうな土壁の家がパラパラ建っている。それなのに大半の家族は羊の遊牧に出ているので、夏祭りはみんなが集まる大事な機会なのだ。
「この地に住みついたのは、何世代も前のことだろうが、夏祭りだけは北の大地で遊牧民として暮らしていた頃のやり方を、今も続けている。だから、我々も毎年、ここから夏の巡業を始めることにしている」
 そう言った隊長は、馬車を村の端に止め、寝床にするための移動用の小型ゲルを設置させた。馬車は三台で、一台にはシメンら若い胡女(こじょ)(ソグド人の女)が六人乗せられ、御者はバリスだった。残りの二台には、食料や水、興行用の楽器や衣裳、それに祭りの店に並べる商品が積まれ、胡騰舞(ことうぶ)を踊る胡児(こじ)(ソグド人の男児の芸能奴隷)が御者をしている。隊長と副隊長、それにその付き人二人はそれぞれ馬に乗っていて、一行は全部で十三人、そのほか長旅になるので商品と食糧を兼ねた羊も十数頭、連れてきていた。
 翌日になると、昨日までの閑散としていた村が嘘のように、大勢の人が広場に向かっていた。隊商が着いたことが伝えられ、この村だけでなく、周辺の村々からも、祭りを楽しみに人々が集まってきているのだ。
 隊長は、広場に二台の荷車を進め、一台は横の(ほろ)を開けて商店にし、一台は広場の真ん中に止めて幌を外し、色とりどりの布で飾って舞台に(しつら)えた。にわか作りの商店の横では羊肉を(あぶ)ったので、その匂いに人々が集まってくる。隣には、村人が馬乳酒や胡餅を売る店を並べた。店は、たったそれだけだった。シメンの暮らした突厥の夏祭りには、それこそ何十台もの荷車が並んだが、この寒村に来る商人は他にいなかった。それでも、そこには祭りを楽しみにしている老若男女の顔があった。それを見たシメンは、すべてを忘れて「踊りたい」と思った。
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