(十三)
文字数 2,285文字
早朝、初夏の高原には柔らかな風が吹き、上り始めた太陽に朝露が光っている。青黒かった空は、やがて茜 色から橙 色、そして黄色へと、虹の色を順番に見せていた。
ほとんど眠れずに朝を迎えたシメンだったが、ついさっきイルダと最後の抱擁を交わし、夢遊病者のようにフラフラと道を歩いていた。手には、イルダからもらった青色の舞服が握りしめられている。その服をイルダの手が優しく脱がせてくれた昨晩のことは、夢ではない。しかし、一歩一歩、前に進むごとに、その記憶は儚 い夢のように消えてしまう気がして、シメンは哀しかった。
明るくなった町は、隊商が出発する朝の、いつもの賑わいを見せ始めていた。城門に向かって、大きな荷物を背に積んだ駱駝 が、早くも何十頭も列をなしている。西に向かう隊商は、駱駝や驢馬 の背に荷物を積んでいく。東に向かう隊商は、駱駝の他に馬車も使う。辻々から、幌 をかけた馬車も集まってきている。西域の金器、銀器や宝石を積んだものもあれば、絨毯 や化粧品、薬を積んだものもあるだろう。それらの財宝と同じように、イルダは貴重な商品として馬車に乗せられていくのだ。
宿舎から数名の胡旋女が出て来て、芸能奴隷用の馬車に乗り込むのが見えた。イルダもその中にいる。今回は安 椎雀 が隊長なので、クシャルも見送りに出て来て、女たちに声をかけていた。しかし、シメンはどうしても近寄って声をかけることができずに、離れた所から、両手で口を覆いながらその様子を見ていた。そうしないと、大声で泣き出してしまいそうだった。イルダが「感情を解き放て」と言ったことを思い出したが、それは今では無いと、必死に自分を抑え込んでいた。
覚悟ができたのだろう、イルダは背筋を伸ばして、毅然 としていた。唇をキリリと締め、前をまっすぐに見ている。やがて、馬車が動き出し、イルダの眼が一瞬、シメンを捉 えたのがわかった。ほんの一瞬だったが、二人は遠くから確かに見つめあった。イルダは、そのまま眼を前方に戻し、何も言わずに遠ざかっていった。それがイルダとの別れだった。
その日は、シメンたち胡騰舞の奴隷たちも、巡業への出発を明日に控えて、準備に忙しかった。
食料や水、興行用の楽器や衣裳などを馬車に積み込む必要がある。それに長旅になるので食糧用の羊も十数頭、連れていくことになるが、その準備もシメンの仕事だった。その忙しさが、シメンには救いだった。何も考えずに、もくもくと準備に没頭した。
夕方、アトールが芸能奴隷たちに声をかけた。
「お前たちもよく頑張った。明日は出立だ。今晩は、クシャルに頼んでご馳走を用意している。明日の準備が終わった者から、宿舎に集合だ」
アトールはもともと胡騰舞を教える芸人だから、巡業には一緒に行かない。落馬事故の後、馬に乗るのが怖くなって行けないのだと言う者もあったが、真相は分からない。巡業では、祭りで踊りを披露して金を稼いだり、時には気に入られた奴隷を売ったりすることも必要だし、遊牧民から毛皮を買い集めたりもする。だから、商いのできるソグド商人が引率するのだ。
すれ違ったシメンの肩にアトールが手をかけた。
「これでしばらくのお別れだ。今日の宴会では、もう男の恰好をしなくていいぞ。イルダに舞服をもらったのだろう。それを着てもいいし、あの香りをつけて来てもいいぞ」
この男は、どこでイルダの舞服の話なぞ聞きつけたのだろう、とシメンは思った。当てずっぽうかもしれないが、イルダとの思い出を汚されたようで、気持ちが悪かった。こんな男のために、イルダの舞服もイルダの香りもつけてやるものかと、シメンはいつもの男装のまま食事の会に出ることにした。
「これは柘榴 酒だ。明日からの旅に向けて身体が元気になるから飲むといい」
やけに優し気に、アトールがシメンに酒を勧めてきた。男児たちは既に宿舎に戻り、バリスら年長の芸能奴隷たちは、焚火の周りで馬乳酒や果実酒を飲んでいた。シメンは、早く帰りたかったが、酒の場を盛り上げる剣舞が終わるまでは一緒に居ろと言われて、しぶしぶ残っていたのだ。
シメンは、勧められた赤い酒を、少しだけ口にした。酸っぱさに顔をしかめたが、慣れると意外にさっぱりしていておいしい。イルダとの別れの辛さが紛れるのならと、勧められるままに、二杯、三杯と杯を重ねた。
やがて、何人かずつで剣舞を舞うことになった。バリスがシメンを相方 に指名した。今までは無かったことだが、酒の勢いがバリスを大胆にしたのだろうかとシメンは思った。ただバリスには好感を持っているので、シメンにはむしろ幸いだった。
座って飲んでいるときは平気だと思っていたのに、立ち上がるとふらりとした。慣れないお酒が回ってきたのだろう。剣舞が終わったら、帰らなくてはとシメンは思った。
「これを被 ってみたら」
そう言ってバリスが渡してくれたのは、赤や金の絹糸で織った蕃帽 (西域の帽子)だった。ソグド人の伝統的な三角帽で、長安の街で踊るときには、この帽子に真珠を飾り付け、腰には葡萄の房や葉、つるを模した唐草文様の宝帯を巻いて踊るのだと聞いたことがあった。
焚火の周りでの剣舞は、見るのも踊るのも、思ったよりずっと楽しかった。バリスがくれた蕃帽を被っていると、気分も余計、盛り上がってきた。剣舞の動きが明るい炎に照らされ、炎が作る影も面白いように大きくなり、また小さく揺れる。手拍子にあわせて、思いっきり飛んだり跳 ねたりしていると、朝の辛い別れはずっと昔のことのように思えてきた。シメンは、請われるままに、二回、三回と胡騰舞と剣舞を踊り続けた。
ほとんど眠れずに朝を迎えたシメンだったが、ついさっきイルダと最後の抱擁を交わし、夢遊病者のようにフラフラと道を歩いていた。手には、イルダからもらった青色の舞服が握りしめられている。その服をイルダの手が優しく脱がせてくれた昨晩のことは、夢ではない。しかし、一歩一歩、前に進むごとに、その記憶は
明るくなった町は、隊商が出発する朝の、いつもの賑わいを見せ始めていた。城門に向かって、大きな荷物を背に積んだ
宿舎から数名の胡旋女が出て来て、芸能奴隷用の馬車に乗り込むのが見えた。イルダもその中にいる。今回は
覚悟ができたのだろう、イルダは背筋を伸ばして、
その日は、シメンたち胡騰舞の奴隷たちも、巡業への出発を明日に控えて、準備に忙しかった。
食料や水、興行用の楽器や衣裳などを馬車に積み込む必要がある。それに長旅になるので食糧用の羊も十数頭、連れていくことになるが、その準備もシメンの仕事だった。その忙しさが、シメンには救いだった。何も考えずに、もくもくと準備に没頭した。
夕方、アトールが芸能奴隷たちに声をかけた。
「お前たちもよく頑張った。明日は出立だ。今晩は、クシャルに頼んでご馳走を用意している。明日の準備が終わった者から、宿舎に集合だ」
アトールはもともと胡騰舞を教える芸人だから、巡業には一緒に行かない。落馬事故の後、馬に乗るのが怖くなって行けないのだと言う者もあったが、真相は分からない。巡業では、祭りで踊りを披露して金を稼いだり、時には気に入られた奴隷を売ったりすることも必要だし、遊牧民から毛皮を買い集めたりもする。だから、商いのできるソグド商人が引率するのだ。
すれ違ったシメンの肩にアトールが手をかけた。
「これでしばらくのお別れだ。今日の宴会では、もう男の恰好をしなくていいぞ。イルダに舞服をもらったのだろう。それを着てもいいし、あの香りをつけて来てもいいぞ」
この男は、どこでイルダの舞服の話なぞ聞きつけたのだろう、とシメンは思った。当てずっぽうかもしれないが、イルダとの思い出を汚されたようで、気持ちが悪かった。こんな男のために、イルダの舞服もイルダの香りもつけてやるものかと、シメンはいつもの男装のまま食事の会に出ることにした。
「これは
やけに優し気に、アトールがシメンに酒を勧めてきた。男児たちは既に宿舎に戻り、バリスら年長の芸能奴隷たちは、焚火の周りで馬乳酒や果実酒を飲んでいた。シメンは、早く帰りたかったが、酒の場を盛り上げる剣舞が終わるまでは一緒に居ろと言われて、しぶしぶ残っていたのだ。
シメンは、勧められた赤い酒を、少しだけ口にした。酸っぱさに顔をしかめたが、慣れると意外にさっぱりしていておいしい。イルダとの別れの辛さが紛れるのならと、勧められるままに、二杯、三杯と杯を重ねた。
やがて、何人かずつで剣舞を舞うことになった。バリスがシメンを
座って飲んでいるときは平気だと思っていたのに、立ち上がるとふらりとした。慣れないお酒が回ってきたのだろう。剣舞が終わったら、帰らなくてはとシメンは思った。
「これを
そう言ってバリスが渡してくれたのは、赤や金の絹糸で織った
焚火の周りでの剣舞は、見るのも踊るのも、思ったよりずっと楽しかった。バリスがくれた蕃帽を被っていると、気分も余計、盛り上がってきた。剣舞の動きが明るい炎に照らされ、炎が作る影も面白いように大きくなり、また小さく揺れる。手拍子にあわせて、思いっきり飛んだり