(九)

文字数 2,563文字

 キョルクとソニバの結婚の儀式は、新婚夫婦の新居となるゲル作りから始まった。
 朝、婿(むこ)側の親族が使者となり、ゲルの部材と工具を、タクバンのゲルの前に運んできた。フェルトや厚手の布は駱駝(ラクダ)の背に乗せ、格子状に組んだ木枠や天幕を支える細い紅柳木(タマリスク)の束は馬車に積んでいる。付き従う他の親族もみな正装し、運ばれてくる荷は赤や青の布地で飾られ、馬車には処羅氏の黄色い三角旗が掲げられている。
 アユンも身綺麗(みぎれい)にして、ほかの家族と一緒に出迎えたが、そもそも豪華な刺繍入りの正装など持っておらず、少し気後(きおく)れがした。
「ずいぶんと立派なものだな」
 貴族の結婚の儀式を初めて目にするアユンは、思わず(つぶや)いた。家族用の大きなゲルの部材は、十石(じゅっこく)(約270㎏)はありそうだった。
 最近ますます腹の出て来たタクバンが、(すそ)の長い正装で、同じく正装した母と一緒に入口で出迎えた。ソニバは、ゲルの中に居て、女性の空間である右奥、東側の絨毯の上に座っている。まだ表に出る段階ではないのだ。
「二人の家庭と一族の皆様が末永く栄えますように」
 婿側の使者の挨拶に、タクバンも答える。
「ありがとうございます。二人の家庭と皆さまの一族に、天より光が差しますよう、この柱をお使いください」
 ゲルを支える二本の柱は花嫁側が用意するしきたりで、タクバンから使者に引き渡された。柱の先端には桃色の紐が巻かれている。柱と部材は、従者たちによって、新居の予定地に運ばれ、アユンたちもぞろぞろ付いて行って、ゲルを建てる手伝いをした。

「ゲルが(まる)いのはどうしてか知ってるか」
 側壁の格子を羊毛の紐で結んでいたサイッシュが、年長者らしく、アユンたちを試すように聞いてきた。
「ゲルは、生まれた時から、いや俺の生まれる千年も前から円いと決まってるんだ」
 何を言ってるのかと言わんばかりにテペが口を(とが)らした。
「まあそう言うとは思ったが、円形は俺たち遊牧民にとっては魔除けなのさ。呪術師が、三角形や四角形の角には汚い、悪いものが隠れているって教えてくれたよ」
「そう言えば、唐軍の駐留地で見た兵士の天幕は三角だったし、上官たちのは四角だった」
 アユンは唐軍を奇襲したときのことを思い出して言った。
「そのとおりだ。それに、この側壁と天窓をつないで天井を支える紅柳木(タマリスク)も、魔除けになるんだ」
 組み上がってきたゲルの南面に、ゲルへの入り口が作られた。
「入口は、太陽の昇る方向にしなくて良いのか」
 アユンの問いに、ゲル作りを指揮していた婿側の従者が首を振った。
「キョルク様は、入口は南にせよとの仰せだ。わしも、ちとおかしいとは思うのだが」
 その従者が離れた時に、サイッシュが(ささや)いた。
「やっぱりキョルクという男は、少し変わり者のようだな」
 アユンは聞こえないふりをしたが、内心では同じ心配をしていた。

 一刻半(3時間)ほどで建ち上がったゲルに、今度は、嫁側から馬車を出し、寝台や貴重品入れ、祭壇に使う木箱、(かまど)などの家具が運び込まれた。こうして新居の準備が完了すると、ゲル作りに携わった人々には(ねぎら)いの食事が振る舞われた。
 太陽が少し西に傾き始めた時間に、結婚の儀が執り行われた。ゲルの前に絨毯(じゅうたん)が敷かれ、祭壇が設置された。親族や従者が待ち受ける中、左から新婦が、右から新郎が、それぞれ付き添いの少年と少女に手を引かれて進み出て来た。
「ソニバは、なんて綺麗なんだ!」
 テペが言うまでもなく、もともと鼻筋が通ったくっきりした目鼻立ちのソニバが、伝統的な化粧をして現れると、会場がどよめくのがわかった。赤地に白で刺繍の施された華麗な衣装をまとい、頭頂部に長い飾り紐の付いた帽子を被ったソニバは、今までのソニバとは全く違う女性のようで、アユンには天女のようにさえ感じられた。一方のキョルクも、格式の高い人だけが着れる青い正装で、将軍用の丸い毛皮の帽子を被っている。背筋をピンと伸ばし、付き添いの少年の肩に軽く手をかけただけで、まっすぐ歩いてくるキョルクは、目が不自由なようには見えなかった。
 並んで祭壇の前に座った二人に、呪術師が話しかける。二人の名前や生い立ちを問いかけ、この結婚が正当な結婚であることを、天に報告するためだ。やがて呪術師の合図で、二人は向き合ったが、キョルクは相変わらず目を閉じたままだ。それを見たソニバも慌てて目を閉じるのが見えた。付き添いの少年の手を借りて、キョルクが花輪をソニバの首に掛けた。ソニバも、予め言われていたのだろう、目を開けると付き添いの少女から受け取った緑の帯を、キョルクの腰に結んであげる。その後、二人とも親族の方を向き直ると、会場から盛大な拍手が沸き起こった。二人は再び、祭壇の方を向き、処羅家から持参した先祖の霊を祀る四角い石を持って一礼すると、新しいゲルに入って行った。

 儀式が済むと、さっそくゲルの前の草原で、宴が始まった。
 宴には、親族やその従者だけでなく、一族の皆が参加した。アユンのネケルたちもこぞって参加したが、そこにクッシもリョウもいないことがアユンには寂しかった。
 宴には、新鮮な羊肉がふんだんに用意され、串に刺した焼肉、塩()で肉、羊汁、鍋料理が所狭しと並べられた。
「これは美味(うま)いぞ。こんなものは初めてだ」
 奴隷ながらも、アユンのネケルとして参加していたバズが大きな声を上げた。覗いてみると、それは鉄鍋に肉とネギを入れ、熱く熱した石を放り込んで蒸したものだった。
 やがて音楽が始まり、中には踊りだす人たちもいた。普段使う楽器は、胡桃(くるみ)の木に動物の皮を貼り、弓と弦には束ねた馬の尻尾を使う竪琴(たてごと)が主流だ。琴にしても、笛にしても、遊牧民の楽器は、小さくて軽く、音も小さい。頻繁に移動を繰り返すから、大きくて重い楽器は持てないのだ。しかし今日の会場では、大きな楽器で賑やかな音楽が奏でられている。サイッシュが、あれは西域の楽器で、可汗の楽隊が派遣されているのだと、どこかから聞きつけてきた話を教えてくれた。アユンは、この賑やかな音楽もなかなかいいなと思ったが、そのとき、シメンの声が聞こえた気がした。
―― こうして草原に座っていると、竪琴の微かな音が風に乗って流れて来るでしょう、私はその(はかな)さが大好きなの
 そう言ったシメンはどうしてるのだろうか……、会いたい、と思った。



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