星神祭の夜 *4*
文字数 6,960文字
「フウリや、本当に覚悟はできておるのじゃな?」
カケルと別れて帰宅したフウリは、その足でシャラの室へ行き、記憶封じの呪 をエミナに解いてもらいたいと告白した。
何もこんな夜にと思わないでもなかったが、覚悟が薄れないうちに、と思ったのだ。そしてすぐに理解を示してくれたシャラと共にエミナの室を訪れたフウリは、確認するようなエミナの問いに、「はい」と力強く頷いた。
今は、フウリよりもシャラの方が不安そうな様子を見せている。
空気を通してそれを察したエミナが、愛しい孫娘たちを安心させようと目尻に皺 を寄せ、フウリはシャラに応えるように微笑んだ。
「心配かけてごめんね、シャラ。私は大丈夫だから……笑って、ね?」
「はい……」
エミナは二人のやり取りに頷くと、まるで目が見えているかのようにテキパキと準備に取りかかった。といっても、呪を解くのに大がかりな道具は必要ないらしく、真っ白なチゥレ織に着替え、額に己の文様が刺繍された飾り鉢巻 を巻いただけだ。
「ではフウリ、そこに横になって目を閉じ、心を沈めるのじゃ」
フウリは指示通りに、エミナが使っている寝台に横になり瞳を閉じる。
刀の稽古を始める時のように、深呼吸をしながら少しずつ雑念を追い払ってゆき、やがて無の状態へ至ると、完全に脱力したのを見計らったかのように、エミナの温かい手が額 に乗せられた。
かと思うと、聞きなれぬ呪文が皺がれた声によって紡がれ始め――いつしかフウリの意識は遥か遠く、記憶の彼方へと飛ばされていった。
***
――誰かが一人で泣いている気がした。
フウリは誰かに優しく揺さぶられて、目を覚ました。
小さな手で眠たい目を擦 りながらムクリと起き上がると、そこには優しく微笑んでいる姉の顔があった。父親似の自分とは違い、清楚 で可憐 という表現がよく似合う、色白 の美少女――五歳年上のミコゼだ。
ミコゼは寝坊した妹のことをクスクスと笑いながら、もうすぐ朝餉だからと言ってすぐに室から出ていってしまう。彼女はわずか十歳ながら、病弱な母親に代わって食事の準備や洗濯などの家事を立派にこなしていた。
まだ幼かったフウリも簡単なことならば手伝ってはいたが、最近は家事よりも楽しみにしていることがあった。
そこでハッと約束を思い出したフウリは寝巻きを脱ぎ捨てるように着替えると、すぐさま室から飛び出した。つむじ風のように家の中を駆け抜けると、途中で父親のカショウにぶつかりそうになった。赤銅 色の髪をしたカショウは『火』を操る能力を持つユゥカラ村のイコロとして、また、村一番の鍛冶師として、普段は厳 つい顔しか見せない無愛想 な男だったが、それでも愛娘 にだけは甘く、優しい笑みを見せていた。
「フウリ、そんなに慌ててどこへ行くんだい?」
「えっとね、従兄 さまと約束したの! だから、秘密なの!」
頬を紅潮 させながら答えたフウリに、カショウは渋い笑みを浮かべた。
「……そうか、アイツとか。しかし、朝餉までには戻るのだぞ?」
「はいっ、父 さま! いってきます!」
仔馬 の尻尾のような明るい栗色の髪を元気よく揺らしながら、フウリは外へ駆け出す。
向かった先は、家の裏手にある馬小屋だ。息を切らせながら小屋の扉を押し開けると、フウリは一番奥にいる月毛 の馬を目指した。
その馬の脇には、フウリと出かける約束をした少年――六歳年上の従兄 の姿がある。
「従兄 さま!」
フウリは、大好きな従兄の姿を見つけるや、パアッと花が開いたような笑みを浮かべてその背に抱きついた。
が、驚いて振り返った少年は気まずそうに目元をぬぐった。
フウリはその様子に何かを感じ取ると、従兄(あに)を見上げながら首を傾げる。
「従兄さま、泣いていたの? また、じじ様やばば様に、嫌なこと言われたの?」
「フウリ……ううん、大丈夫だよ」
しかし、優しげに細められたその瞳をじっと見つめていたフウリは、不満そうにプウッと頬を膨らませた。
「……なんで、じじ様たちは従兄 さまにだけ冷たいの? 瞳の色が私たちと違うから?」
鋭い指摘に少年は苦笑するだけで、否定はしなかった。
なぜならそれが真実であったから――。
少年の瞳の色は、ノチウの民の間では忌 み嫌われている黒色。しかし、彼が疎 まれている理由はそれだけではなかった。
カショウの妹だった彼の母親、セツキはわずか十七歳の時、隣村へ出かける途中で何者かに犯され孕 んでしまった。セツキは気丈にも彼を産んだのだったが、彼が一歳を迎える前に月の世界の人となってしまった。
病弱というわけではなかったにも関わらず若くして儚 んだこともあるが、何よりもその子の父親がわからないことが、少年の祖父母たちの心を何より鬼 へと変えてしまっていた。
初めは、瞳の色が普通と異なることから、イコロではないのかとも言われたが、三歳を過ぎても守獣が現れる気配がなかったことから、違うのだと諦められた。そして、不吉な子だと触れ回った祖父母に、最初は憐 れんでいた村の人々も、いつしか彼に冷たく当たるようになっていった。
代わりに引き取って育てることにした伯父――フウリの両親であるカショウやユウナたちもまた、どう接してよいのかわからぬまま、時だけが過ぎていった。
友達もできず、一人で刀の稽古ばかりをしている無口で無愛想な子に育った少年だったが、ある時そんな彼を慕うものが現れた。それが、七歳離れた従妹 のフウリだった。
「従兄 さまの瞳は、お星様が光っている夜空みたいでとっても綺麗なのに……。どうして皆は嫌うのかなぁ?」
「……そう言ってくれるのはフウリだけだよ」
けれど、少女のその言葉がなければ、今頃、少年は自分の瞳を嫌うあまり、抉 りだしていたかもしれなかった。それほど、己の瞳を嫌悪していた。
「さ、そろそろ行こうか。フウリが朝餉に間に合わなくなったら困るからね」
小柄な少女をヒョイと抱きかかえ、少年は軽々と馬に跨 ると、颯爽と馬小屋から駆け出した。
村を抜けて南へ。朝日を浴びてキラキラと輝く小川を飛び越え、青々とした草原を駆け抜けると、やがて見晴らしの良い丘に辿りついた。
彼方に見えている蒼 い海からは、かすかな潮の香りが涼風 に乗って漂ってきている。
しかし、馬から下りた二人は景色を楽しむでもなく、すぐに積まれていた荷から木刀を取り出すと、真剣な表情で向かい合った。
フウリが楽しみにしていたのは、密かに村一番の腕前ではないかと囁かれている少年に、刀の稽古をつけてもらうことだったのだ。
コツン、カツン、と決まった型を確認するように木刀を打ち合わせること数回。それだけでも、まだ幼いフウリにとっては重い木刀を持つ腕が上がらなくなり始める。
「今日はこの辺にしておこうか?」
しかし、負けず嫌いなフウリは首を振った。
「まだまだいけるもん! もっといっぱい稽古して、従兄 さまみたいな立派なサムライになりたいの!」
「僕はまだサムライとして認められてはいないけどね。それに、フウリは女の子なのに、どうしてそんなに強くなりたがるの?」
「従兄 さまが誰かにいじわるされたら、私がその人のことを成敗 するの!」
大真面目 にそう言って胸を張る少女に、少年は意表を突かれ、やがて吹き出した。
年齢も性別も関係なく、この妹にはすでにサムライにとって一番大事なこと――誰かを守るために刀を振るう《(こころざし》――が備わっているらしい。
「そっか……ありがとう。じゃあ、僕もフウリが誰かにいじめられるようなことがあったら成敗 しに行く。絶対に、キミを守るって約束するよ」
「うん!」
「さあ、今日はもう帰ろう? お腹も空いただろう?」
と、少年が木刀を馬に括 り付けて片付けていると、フウリは何かに引き寄せられるかのように丘のそばにある林へと駆け出した。
「フウリ、どうしたの?」
栗色の髪を揺らしながら駆けていくフウリを少年が追っていくと、この辺りでは珍しいセンリュオウジュの木が見えてきた。そしてその根元……満開を過ぎて散った乳白色の花びらの絨毯の上に、苦しげに鳴いている小さな獣の痛々しい姿を見つけた。
真っ白なオコジョはどうやら狩猟用の罠にかかってしまったらしく、細く小さな足を真紅 に染めていた。
「従兄 さま、どうしよう……この子、このままでは死んでしまうわ!」
動揺のあまり涙ぐみながら振り返った少女に、少年は落ち着いた笑みを返す。
「大丈夫、今助けてあげるからね」
ちょっと下がってて、と少女を押しのけると、少年は腰に差していた真剣を抜き、小さな足を押さえつけている鎖に向かって躊躇いなく突き立てた。
キィン! と罠が弾け飛ぶ音が辺りに響き渡る。
「従兄さま、すごい! 罠が外れたわ!」
驚きに見開かれた少女の瞳は、しかしすぐにオコジョへと向けられた。
フウリが流れ出ている血を、自分の手や服が汚れるのも厭 わずに必死で押さえている間に、少年は馬に積んであった荷から薬草を取って戻り、すぐさま傷ついた足を手当てしてやった。
その素早い手当てが功を奏したのか、獣はようやく元気そうな鳴き声を上げた。
チチッチチッと、まるで手当てしてくれたことに感謝しているように鳴きながら、フウリと少年の手を順にペロリと舐 めた。
「よかったぁ! ねぇ、この子、傷が治るまでウチで面倒をみてもいいかなぁ?」
「ああ、カショウ伯父 さまが良いって言ってくれたらね」
そうして、村に連れ帰って『リッカ』と名付けられたオコジョと、フウリと少年との楽しい日々が続いたある秋のこと――。
星神祭の準備をこっそり抜け出してきた二人と一匹は、いつもの丘で木刀での型稽古 をして汗をかいた。が、今日は特別な日だからと、ひと通りの稽古を終えたフウリが少年にねだり、真剣での演武を見せてもらっている時のことだった。
「あっ、待ってリッカ! 危ない!」
「――痛っ!」
すっかり懐 いていたオコジョのリッカだったが、演武中にフウリの手をすり抜けて少年に駆け寄ろうとしたことから、少年は焦って刀を納めようとして左手の親指をわずかに切ってしまったのだ。
「大丈夫ですか、従兄 さま!」
「……これくらい、平気だよ」
「でも、血が……」
フウリはおろおろとしながら、とっさに自分の持っていた手巾で従兄 の手を包みこむ。六花文様の刺繍された綺麗な白地の手巾に、じんわりと赤い血が滲 んでいった。
「ごめん、フウリの手巾を汚してしまったね」
「そんなことはいいの!従兄 さまのケガの方が心配だもの!」
「ありがとう。じゃあ、ちゃんと洗って返すから……」
笑って頷き返したフウリは、まさかこの手巾が二度と戻ってこなくなるなんて、この時は思ってもみなかっただろう。
「ねぇ、従兄 さま、今年もまた、お星様いっぱい降るかなぁ?」
「そうだね。夜にまたこの丘へ来て、一緒に見ようか」
「うん、約束ね!」
二人は微笑み合い、夜のささやかな逢瀬 を約束すると、村へと戻っていったのだった――。
その日は、月のない夜闇に、秋虫 たちも息を潜 めていた。
ユゥカラ村の中央広場に設けられた舞台の上で、巫女による奉納舞が捧げられようとしていたまさにその時、突如、何者かの襲撃を受け、村は悲鳴と燃え上がる炎に包まれた。
広場の端にいたフウリは、すぐさま従兄 に抱きかかえられて、家の裏手、馬小屋の脇にある小さな庫 まで逃げてきた。
「フウリはここで隠れていて!」
「に、従兄 さまは……?」
「僕は伯父さんたちと一緒に、悪い奴らを成敗 してくるから!」
不安のあまり、ボロボロと涙をこぼし始めたフウリを、少年は安心させようとギュッと強く抱き締める。
それから幼い彼女の髪を梳 くように優しく撫で、耳元でそっと囁いた。
「いいかい? 僕が戻ってくるまで、ここで静かに待っているんだよ。約束だからね」
しかし、不穏な空気を肌で感じていた少女は、首を横に振った。このまま別れたら、もう二度と会えないのではないか……ふとそんな気がしていた。
「やだ、従兄 さまもここにいて! 怖いの!」
「大丈夫だよ。約束したじゃないか、僕がキミを必ず守るって。ほら、フウリは強い子になるんだろう? 泣いてばかりいないで笑って、ね?」
いつまでも泣き止まないフウリに、少年は夜空のような黒い瞳を優しげに細めると、小さなその手の甲にそっと口付けを落とした。
「……待ってて。必ず戻ってくるから」
離れていく温もりに追いすがろうと伸ばされた小さな手は空 を切り、閉ざされていく庫 の扉に向かって、フウリは力いっぱいその名を叫んだ。
「カケル従兄 さま――っ!」
フウリの身体が、自分のものではないかのように激しく痙攣 した。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息苦しくなった。体中から冷たく嫌な汗が噴き出し、その気持ち悪さから逃れようと、着ていた衣服を脱ぎ捨てようと己の胸を掴んでもがいた。どこからか迫ってくる深い闇に飲み込まれてしまいそうで、恐怖に堪 えようと強く目を閉じ、歯をきつく食いしばった。
その時――どこからか澄んだ歌声が聞こえた。
水のように清らかで、陽の光のように優しく温かい声が紡いでいるのは、癒しの神謡。
その歌に聞き入るうちに、フウリを飲み込もうとしていた恐ろしい闇も、息苦しさも、少しずつ遠のいていくのを感じた。
そうしてフウリが恐る恐る目を開くと、そこには胡桃 色の瞳を心配そうに揺らしている少女と、見慣れた優しい老婆の姿があった。
「……ああ、えっと……シャラ? そんな泣きそうな顔して、どうしたんだい……?」
「フウリさま……その、具合はいかがですか?」
「具合? 別に――」
大丈夫だと言いかけて、ようやく自分の状況を思い出した。
エミナに記憶封じの呪を解いてもらってから、たくさんの夢を見た。大好きな家族の顔が、次から次へと浮かんでくる。
カショウ父 さま、ユウナ母 さま、ミコゼ姉 さま、じじ様、ばば様、ユゥカラ村の人たち、そして誰よりも好きだった、優しい従兄 ――。
「カケル従兄 さま……そうだ、カケル殿は、私の従兄 だったんだ……」
これまで幾度 も彼に感じていた懐かしさが、蘇 った記憶と繋がって鮮やかに色付いていく。
彼の瞳は、今も昔も変わらぬ綺麗に澄んだ夜空色 。
料理が得意だったのは、両親のいなかった彼が、いつも一人で自炊をしていたからだ。時々こっそり、フウリの大好物のノチウ鍋を作って食べさせてくれたこともあった。
彼と刀の打ち合いをしていたフウリが、しっくりとくる 感じがしたのは、刀剣術の基本を教えてくれていたのが彼だったから。
そして、彼が大事に持っていた六花文様入りの手巾は、怪我した彼にフウリが渡したものだったのだ。
フウリは思い出したことを再確認するように、シャラとエミナに話していった。
やがて、すべてを話し終えた頃、シャラは首を傾げた。
「では、カケルさまはこの十年間、どこにいらっしゃったのでしょう……?」
それはフウリにもわからなかった。
ユゥカラ村が滅び、ユィノがフウリを助けに来てくれた時、村を見て回ったが生存者は一人もいなかったという。
村人すべての亡骸 を確認したわけではなかったけれど、焼き尽くされた惨状 を見れば、皆亡くなってしまったのだと思っていたのだ。
しかし、カケルは生きていた。
ということは、殺されずに一人どこかへ逃げのびたか、あるいは、敵の手に落ち、どこかへ連れ去られていたということになる。
「とりあえず、今宵 はもう遅いからのぅ……明日になったらカケル殿に会って話をすると良いよ」
久々に呪を使って疲れたのか、エミナはそう言うとフウリとシャラの頭を優しく撫でた。
しかし、二人が頷き、自分の室へ戻ろうとしたそこへ、戸を叩く音が聞こえた。
「ハヤブサさま? こんな遅い刻限にどうなさいましたの?」
「……カケルのやつ、こっちに来てねぇ?」
憮然 とした様子のハヤブサに、シャラとフウリは顔を見合わせてから首を横に振った――。
カケルと別れて帰宅したフウリは、その足でシャラの室へ行き、記憶封じの
何もこんな夜にと思わないでもなかったが、覚悟が薄れないうちに、と思ったのだ。そしてすぐに理解を示してくれたシャラと共にエミナの室を訪れたフウリは、確認するようなエミナの問いに、「はい」と力強く頷いた。
今は、フウリよりもシャラの方が不安そうな様子を見せている。
空気を通してそれを察したエミナが、愛しい孫娘たちを安心させようと目尻に
「心配かけてごめんね、シャラ。私は大丈夫だから……笑って、ね?」
「はい……」
エミナは二人のやり取りに頷くと、まるで目が見えているかのようにテキパキと準備に取りかかった。といっても、呪を解くのに大がかりな道具は必要ないらしく、真っ白なチゥレ織に着替え、額に己の文様が刺繍された飾り
「ではフウリ、そこに横になって目を閉じ、心を沈めるのじゃ」
フウリは指示通りに、エミナが使っている寝台に横になり瞳を閉じる。
刀の稽古を始める時のように、深呼吸をしながら少しずつ雑念を追い払ってゆき、やがて無の状態へ至ると、完全に脱力したのを見計らったかのように、エミナの温かい手が
かと思うと、聞きなれぬ呪文が皺がれた声によって紡がれ始め――いつしかフウリの意識は遥か遠く、記憶の彼方へと飛ばされていった。
***
――誰かが一人で泣いている気がした。
フウリは誰かに優しく揺さぶられて、目を覚ました。
小さな手で眠たい目を
ミコゼは寝坊した妹のことをクスクスと笑いながら、もうすぐ朝餉だからと言ってすぐに室から出ていってしまう。彼女はわずか十歳ながら、病弱な母親に代わって食事の準備や洗濯などの家事を立派にこなしていた。
まだ幼かったフウリも簡単なことならば手伝ってはいたが、最近は家事よりも楽しみにしていることがあった。
そこでハッと約束を思い出したフウリは寝巻きを脱ぎ捨てるように着替えると、すぐさま室から飛び出した。つむじ風のように家の中を駆け抜けると、途中で父親のカショウにぶつかりそうになった。
「フウリ、そんなに慌ててどこへ行くんだい?」
「えっとね、
頬を
「……そうか、アイツとか。しかし、朝餉までには戻るのだぞ?」
「はいっ、
向かった先は、家の裏手にある馬小屋だ。息を切らせながら小屋の扉を押し開けると、フウリは一番奥にいる
その馬の脇には、フウリと出かける約束をした少年――六歳年上の
「
フウリは、大好きな従兄の姿を見つけるや、パアッと花が開いたような笑みを浮かべてその背に抱きついた。
が、驚いて振り返った少年は気まずそうに目元をぬぐった。
フウリはその様子に何かを感じ取ると、従兄(あに)を見上げながら首を傾げる。
「従兄さま、泣いていたの? また、じじ様やばば様に、嫌なこと言われたの?」
「フウリ……ううん、大丈夫だよ」
しかし、優しげに細められたその瞳をじっと見つめていたフウリは、不満そうにプウッと頬を膨らませた。
「……なんで、じじ様たちは
鋭い指摘に少年は苦笑するだけで、否定はしなかった。
なぜならそれが真実であったから――。
少年の瞳の色は、ノチウの民の間では
カショウの妹だった彼の母親、セツキはわずか十七歳の時、隣村へ出かける途中で何者かに犯され
病弱というわけではなかったにも関わらず若くして
初めは、瞳の色が普通と異なることから、イコロではないのかとも言われたが、三歳を過ぎても守獣が現れる気配がなかったことから、違うのだと諦められた。そして、不吉な子だと触れ回った祖父母に、最初は
代わりに引き取って育てることにした伯父――フウリの両親であるカショウやユウナたちもまた、どう接してよいのかわからぬまま、時だけが過ぎていった。
友達もできず、一人で刀の稽古ばかりをしている無口で無愛想な子に育った少年だったが、ある時そんな彼を慕うものが現れた。それが、七歳離れた
「
「……そう言ってくれるのはフウリだけだよ」
けれど、少女のその言葉がなければ、今頃、少年は自分の瞳を嫌うあまり、
「さ、そろそろ行こうか。フウリが朝餉に間に合わなくなったら困るからね」
小柄な少女をヒョイと抱きかかえ、少年は軽々と馬に
村を抜けて南へ。朝日を浴びてキラキラと輝く小川を飛び越え、青々とした草原を駆け抜けると、やがて見晴らしの良い丘に辿りついた。
彼方に見えている
しかし、馬から下りた二人は景色を楽しむでもなく、すぐに積まれていた荷から木刀を取り出すと、真剣な表情で向かい合った。
フウリが楽しみにしていたのは、密かに村一番の腕前ではないかと囁かれている少年に、刀の稽古をつけてもらうことだったのだ。
コツン、カツン、と決まった型を確認するように木刀を打ち合わせること数回。それだけでも、まだ幼いフウリにとっては重い木刀を持つ腕が上がらなくなり始める。
「今日はこの辺にしておこうか?」
しかし、負けず嫌いなフウリは首を振った。
「まだまだいけるもん! もっといっぱい稽古して、
「僕はまだサムライとして認められてはいないけどね。それに、フウリは女の子なのに、どうしてそんなに強くなりたがるの?」
「
年齢も性別も関係なく、この妹にはすでにサムライにとって一番大事なこと――誰かを守るために刀を振るう《(こころざし》――が備わっているらしい。
「そっか……ありがとう。じゃあ、僕もフウリが誰かにいじめられるようなことがあったら
「うん!」
「さあ、今日はもう帰ろう? お腹も空いただろう?」
と、少年が木刀を馬に
「フウリ、どうしたの?」
栗色の髪を揺らしながら駆けていくフウリを少年が追っていくと、この辺りでは珍しいセンリュオウジュの木が見えてきた。そしてその根元……満開を過ぎて散った乳白色の花びらの絨毯の上に、苦しげに鳴いている小さな獣の痛々しい姿を見つけた。
真っ白なオコジョはどうやら狩猟用の罠にかかってしまったらしく、細く小さな足を
「
動揺のあまり涙ぐみながら振り返った少女に、少年は落ち着いた笑みを返す。
「大丈夫、今助けてあげるからね」
ちょっと下がってて、と少女を押しのけると、少年は腰に差していた真剣を抜き、小さな足を押さえつけている鎖に向かって躊躇いなく突き立てた。
キィン! と罠が弾け飛ぶ音が辺りに響き渡る。
「従兄さま、すごい! 罠が外れたわ!」
驚きに見開かれた少女の瞳は、しかしすぐにオコジョへと向けられた。
フウリが流れ出ている血を、自分の手や服が汚れるのも
その素早い手当てが功を奏したのか、獣はようやく元気そうな鳴き声を上げた。
チチッチチッと、まるで手当てしてくれたことに感謝しているように鳴きながら、フウリと少年の手を順にペロリと
「よかったぁ! ねぇ、この子、傷が治るまでウチで面倒をみてもいいかなぁ?」
「ああ、カショウ
そうして、村に連れ帰って『リッカ』と名付けられたオコジョと、フウリと少年との楽しい日々が続いたある秋のこと――。
星神祭の準備をこっそり抜け出してきた二人と一匹は、いつもの丘で木刀での
「あっ、待ってリッカ! 危ない!」
「――痛っ!」
すっかり
「大丈夫ですか、
「……これくらい、平気だよ」
「でも、血が……」
フウリはおろおろとしながら、とっさに自分の持っていた手巾で
「ごめん、フウリの手巾を汚してしまったね」
「そんなことはいいの!
「ありがとう。じゃあ、ちゃんと洗って返すから……」
笑って頷き返したフウリは、まさかこの手巾が二度と戻ってこなくなるなんて、この時は思ってもみなかっただろう。
「ねぇ、
「そうだね。夜にまたこの丘へ来て、一緒に見ようか」
「うん、約束ね!」
二人は微笑み合い、夜のささやかな
その日は、月のない夜闇に、
ユゥカラ村の中央広場に設けられた舞台の上で、巫女による奉納舞が捧げられようとしていたまさにその時、突如、何者かの襲撃を受け、村は悲鳴と燃え上がる炎に包まれた。
広場の端にいたフウリは、すぐさま
「フウリはここで隠れていて!」
「に、
「僕は伯父さんたちと一緒に、悪い奴らを
不安のあまり、ボロボロと涙をこぼし始めたフウリを、少年は安心させようとギュッと強く抱き締める。
それから幼い彼女の髪を
「いいかい? 僕が戻ってくるまで、ここで静かに待っているんだよ。約束だからね」
しかし、不穏な空気を肌で感じていた少女は、首を横に振った。このまま別れたら、もう二度と会えないのではないか……ふとそんな気がしていた。
「やだ、
「大丈夫だよ。約束したじゃないか、僕がキミを必ず守るって。ほら、フウリは強い子になるんだろう? 泣いてばかりいないで笑って、ね?」
いつまでも泣き止まないフウリに、少年は夜空のような黒い瞳を優しげに細めると、小さなその手の甲にそっと口付けを落とした。
「……待ってて。必ず戻ってくるから」
離れていく温もりに追いすがろうと伸ばされた小さな手は
「カケル
フウリの身体が、自分のものではないかのように激しく
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息苦しくなった。体中から冷たく嫌な汗が噴き出し、その気持ち悪さから逃れようと、着ていた衣服を脱ぎ捨てようと己の胸を掴んでもがいた。どこからか迫ってくる深い闇に飲み込まれてしまいそうで、恐怖に
その時――どこからか澄んだ歌声が聞こえた。
水のように清らかで、陽の光のように優しく温かい声が紡いでいるのは、癒しの神謡。
その歌に聞き入るうちに、フウリを飲み込もうとしていた恐ろしい闇も、息苦しさも、少しずつ遠のいていくのを感じた。
そうしてフウリが恐る恐る目を開くと、そこには
「……ああ、えっと……シャラ? そんな泣きそうな顔して、どうしたんだい……?」
「フウリさま……その、具合はいかがですか?」
「具合? 別に――」
大丈夫だと言いかけて、ようやく自分の状況を思い出した。
エミナに記憶封じの呪を解いてもらってから、たくさんの夢を見た。大好きな家族の顔が、次から次へと浮かんでくる。
カショウ
「カケル
これまで
彼の瞳は、今も昔も変わらぬ綺麗に澄んだ
料理が得意だったのは、両親のいなかった彼が、いつも一人で自炊をしていたからだ。時々こっそり、フウリの大好物のノチウ鍋を作って食べさせてくれたこともあった。
彼と刀の打ち合いをしていたフウリが、
そして、彼が大事に持っていた六花文様入りの手巾は、怪我した彼にフウリが渡したものだったのだ。
フウリは思い出したことを再確認するように、シャラとエミナに話していった。
やがて、すべてを話し終えた頃、シャラは首を傾げた。
「では、カケルさまはこの十年間、どこにいらっしゃったのでしょう……?」
それはフウリにもわからなかった。
ユゥカラ村が滅び、ユィノがフウリを助けに来てくれた時、村を見て回ったが生存者は一人もいなかったという。
村人すべての
しかし、カケルは生きていた。
ということは、殺されずに一人どこかへ逃げのびたか、あるいは、敵の手に落ち、どこかへ連れ去られていたということになる。
「とりあえず、
久々に呪を使って疲れたのか、エミナはそう言うとフウリとシャラの頭を優しく撫でた。
しかし、二人が頷き、自分の室へ戻ろうとしたそこへ、戸を叩く音が聞こえた。
「ハヤブサさま? こんな遅い刻限にどうなさいましたの?」
「……カケルのやつ、こっちに来てねぇ?」