星神祭の夜 *1*
文字数 3,095文字
センリュ村の秋は、朝夕に立ち込める霧に比例して深まっていく。いよいよ星神祭というこの日の朝も、村は一面真っ白な霧に包まれていた。
しかし村人たちは視界が悪くとも、それぞれ、日の出と共に分担された仕事に取りかかる。男たちは中央の広場に設けられた舞台の最終調整や村の周囲の警備、新鮮な食材の調達に向かい、女たちは神々に捧げる供物や皆で食す料理を作る。子どもたちは忙しそうな大人たちを手伝い、元気よく駆け回っていた。
そんな中、神謡姫であるシャラは舞の披露に向けて純白のチゥレ織を身に着け、ユィノに髪を結ってもらっていた。
普段は結わかず波打つように揺れている長い銀髪が、器用なユィノによって丁寧に編みこまれ、頭上でまとめられている。耳の脇からひと房ずつ零れているシャラの髪は、昨年まで感じさせることのなかった、ほのかな色気を漂わせていた。
そこへ、村の周囲の警邏 を終えて戻ってきたフウリは、可憐な少女の姿に目を輝かせ、思わず感嘆の声をあげた。
「うわぁ、今年はまた一段と綺麗だな、シャラ! 今宵の奉納舞がすごく楽しみだよ!」
奉納舞は日が沈む頃から始まるのだが、神謡姫はその前に村中の家を巡り、各家長から今年の収穫への感謝の証 として稗 をひと房ずつ集めていく。集まった稗の束 を手に、舞うのが習わしとなっているのだ。
「フウリさまったら、そんなこと仰られたら、わたくし緊張してしまいますわ」
そう言うシャラは、確かに緊張しているのか、白い肌がより一層雪のように透き通って見える。禊 のために、今朝は日が昇る前に温泉に浸かってきたのだったが、濡れた身体に冷たい空気が当たって冷えてしまったのかもしれない。
わずかに肩を落とした妹に、髪飾りを挿そうと苦戦していたユィノは「動かないで」と苦笑した。
「そんなこと言って、シャラは今まで一度だって失敗したことないじゃないか」
フウリは励ますように言うが、それでもシャラは伏し目がちに、足下で寝そべっているガセツを見つめている。彼女がここまで沈んでいるのは珍しい。
「シャラ……何かあった?」
「え?」
「いや、いつもは緊張していても歌うこと自体は楽しみにしているのに、今日は何となく違う感じがしたから……」
「あらやだ、シャラったらまだ具合良くないの? あたし、薬湯 を用意してこようか?」
「そ、それでは念のためお願いしようかしら……」
ここでもまた、シャラが珍しく素直に頷いたので、ユィノは驚き、髪飾りを挿し終えるとすぐに厨 へと駆けていった。
そこでフウリはピンときた。どうやら、姉には聞かれたくないことがあるらしい。
「もしかして、ハヤブサのこと?」
シャラが髪飾りが、シャン……と小さな音を立てて揺れる。顔を上げ、フウリを見つめた胡桃 色の瞳は、今にも泣き出しそうだった。
「……フウリさまは、最近イコロの夢を見ましたか?」
「ああ、そういえば昨日久しぶりに見たよ。センリュオウジュの下でリッカと……あと、ガセツと少し話をしただけの短い夢だったけど……」
その答えに、シャラは涙が零れるのを堪 えるように、そっと目を閉じた。
「……その夢に、わたくしは出てこなかった……ですわよね?」
フウリはハッと息を呑んだ。
確かにシャラは夢に出てこなかった。ガセツのそばには誰の気配も感じられなかった。
それが意味することは――?
「わたくし、神謡姫ではなくなってしまったのかもしれないわ……恋を、したから?」
「そんな! そんなの……たまたまだよ。夢を見ない日なんてたくさんあるじゃないか」
しかし、シャラは首を横に振った。
「でも、このところずっとなの。こんなに長いこと夢を見ない日が続くなんてこと……前はなかったのよ……。どうしたらいいの? わたくし、このままもう歌えなくなってしまうの……?」
「シャラ、落ち着いて。きっと大丈夫だよ。エミナ殿に相談すれば、何かわかるかもしれないし、ね? とりあえず今は奉納舞のことに集中しないと、ほら、笑って?」
「……ねぇ、フウリさま。ひとつだけお願いを聞いてくださいますか?」
「ああ、なんだい?」
「今宵の奉納舞が終わった後……ハヤブサさまをウチへお呼びしてもよろしいですか?」
「それは全然構わないよ。あ、もしかして、ハヤブサに例の手巾を渡すの? なら、私は邪魔をしないように外へ出ているよ。それで良いかい?」
「はい……お願いいたしますわ」
シャラが頷いたところで、ちょうどユィノが薬湯を持って戻ってきたので、この話はここで終わりになってしまった。
その夜――。
月と星明かりの下、村の中央広場に設けられた舞台の上には、華麗 に舞い踊るシャラの姿があった。
白銀の雪を思わせる衣装を身につけた神謡姫の舞に、竹口琴 や、竪琴 などの楽の音 が添えられ、色鮮やかになったシャラの歌が静かな秋の夜空に溶けていく。
奉納舞と共に紡がれる星神謡は、狩りの得意な青年と土の女神様の恋物語だ。
――ある日、狩りに出た青年は、熊に襲われそうになっていた土の女神様を助ける。
女神の美しさに恋に落ちてしまった青年は、言葉を発することのできない女神の声を聞こうと、様々な貢物をする。狩ってきた獣、新鮮な川魚、おいしい木の実や果物……しかし、女神は首を横に振るばかり。女神の望みは物ではなく、ただその青年がそばにいてくれることだけだった。
けれども、それがわからぬ青年は次第にムキになり、女神に喜んでもらえるような宝を探すための旅に出てしまう。旅の途中で、青年は光り輝く鹿を見つけ、これだとばかりに矢を放ち――射止め駆け寄ってみると、それは青年に会いたい一心で追ってきた土の女神であった。
ようやく想いに気付いた青年に、女神は息も絶え絶えに、ひと房の稗を差し出す。
光り輝く宝なんていりません。この稗 を二人で育てましょう――。
と、物語が佳境 にさしかかったその時、シャラは手を滑らせ持っていた鈴を取り落としてしまった。
「あっ!」
見ていた村人たちの誰もが一瞬、息を呑んだ。しかし、止まることのない楽の音に、我に返ったシャラは、鈴を拾うとまたすぐに舞い始める。
そんな彼女を、村人たちは「気にしないさ」とばかりに温かく静かに見続けたのだったが、それでも奉納舞が終わると、シャラは舞台裏で呆然と立ち尽くした。
稗 を差し出すように手を伸ばしたあの瞬間、視界に飛び込んできたハヤブサの真剣なまなざしに動揺してしまったのが原因だ。もちろん、彼のせいだとは微塵 も思っておらず、悪いのは彼への想いを整理できていない自分の方だとシャラはため息を漏らした。
そうとは知らず、フウリはシャラを励まそうと、ハヤブサを舞台裏へと連れていくと、自分は邪魔をしないようにと立ち去った。
戸惑ったのは、取り残されたシャラとハヤブサだった。
「……シャラ、その、元気出せよ。あれくらいの失敗なんて気にならねぇくらい、今年も綺麗な舞だったと……オレは思ったぞ」
その優しい言葉と、懸命に励まそうとする温かいハヤブサのまなざしに、シャラは小さく頷き返すと、覚悟を決める。
お守りにするかのように大事に懐 にしまってあった一枚の手巾を取り出すと、おずおずと差し出した。
「これを……受け取ってくださいませんか、ハヤブサさま……」
しかし村人たちは視界が悪くとも、それぞれ、日の出と共に分担された仕事に取りかかる。男たちは中央の広場に設けられた舞台の最終調整や村の周囲の警備、新鮮な食材の調達に向かい、女たちは神々に捧げる供物や皆で食す料理を作る。子どもたちは忙しそうな大人たちを手伝い、元気よく駆け回っていた。
そんな中、神謡姫であるシャラは舞の披露に向けて純白のチゥレ織を身に着け、ユィノに髪を結ってもらっていた。
普段は結わかず波打つように揺れている長い銀髪が、器用なユィノによって丁寧に編みこまれ、頭上でまとめられている。耳の脇からひと房ずつ零れているシャラの髪は、昨年まで感じさせることのなかった、ほのかな色気を漂わせていた。
そこへ、村の周囲の
「うわぁ、今年はまた一段と綺麗だな、シャラ! 今宵の奉納舞がすごく楽しみだよ!」
奉納舞は日が沈む頃から始まるのだが、神謡姫はその前に村中の家を巡り、各家長から今年の収穫への感謝の
「フウリさまったら、そんなこと仰られたら、わたくし緊張してしまいますわ」
そう言うシャラは、確かに緊張しているのか、白い肌がより一層雪のように透き通って見える。
わずかに肩を落とした妹に、髪飾りを挿そうと苦戦していたユィノは「動かないで」と苦笑した。
「そんなこと言って、シャラは今まで一度だって失敗したことないじゃないか」
フウリは励ますように言うが、それでもシャラは伏し目がちに、足下で寝そべっているガセツを見つめている。彼女がここまで沈んでいるのは珍しい。
「シャラ……何かあった?」
「え?」
「いや、いつもは緊張していても歌うこと自体は楽しみにしているのに、今日は何となく違う感じがしたから……」
「あらやだ、シャラったらまだ具合良くないの? あたし、
「そ、それでは念のためお願いしようかしら……」
ここでもまた、シャラが珍しく素直に頷いたので、ユィノは驚き、髪飾りを挿し終えるとすぐに
そこでフウリはピンときた。どうやら、姉には聞かれたくないことがあるらしい。
「もしかして、ハヤブサのこと?」
シャラが髪飾りが、シャン……と小さな音を立てて揺れる。顔を上げ、フウリを見つめた
「……フウリさまは、最近イコロの夢を見ましたか?」
「ああ、そういえば昨日久しぶりに見たよ。センリュオウジュの下でリッカと……あと、ガセツと少し話をしただけの短い夢だったけど……」
その答えに、シャラは涙が零れるのを
「……その夢に、わたくしは出てこなかった……ですわよね?」
フウリはハッと息を呑んだ。
確かにシャラは夢に出てこなかった。ガセツのそばには誰の気配も感じられなかった。
それが意味することは――?
「わたくし、神謡姫ではなくなってしまったのかもしれないわ……恋を、したから?」
「そんな! そんなの……たまたまだよ。夢を見ない日なんてたくさんあるじゃないか」
しかし、シャラは首を横に振った。
「でも、このところずっとなの。こんなに長いこと夢を見ない日が続くなんてこと……前はなかったのよ……。どうしたらいいの? わたくし、このままもう歌えなくなってしまうの……?」
「シャラ、落ち着いて。きっと大丈夫だよ。エミナ殿に相談すれば、何かわかるかもしれないし、ね? とりあえず今は奉納舞のことに集中しないと、ほら、笑って?」
「……ねぇ、フウリさま。ひとつだけお願いを聞いてくださいますか?」
「ああ、なんだい?」
「今宵の奉納舞が終わった後……ハヤブサさまをウチへお呼びしてもよろしいですか?」
「それは全然構わないよ。あ、もしかして、ハヤブサに例の手巾を渡すの? なら、私は邪魔をしないように外へ出ているよ。それで良いかい?」
「はい……お願いいたしますわ」
シャラが頷いたところで、ちょうどユィノが薬湯を持って戻ってきたので、この話はここで終わりになってしまった。
その夜――。
月と星明かりの下、村の中央広場に設けられた舞台の上には、
白銀の雪を思わせる衣装を身につけた神謡姫の舞に、
奉納舞と共に紡がれる星神謡は、狩りの得意な青年と土の女神様の恋物語だ。
――ある日、狩りに出た青年は、熊に襲われそうになっていた土の女神様を助ける。
女神の美しさに恋に落ちてしまった青年は、言葉を発することのできない女神の声を聞こうと、様々な貢物をする。狩ってきた獣、新鮮な川魚、おいしい木の実や果物……しかし、女神は首を横に振るばかり。女神の望みは物ではなく、ただその青年がそばにいてくれることだけだった。
けれども、それがわからぬ青年は次第にムキになり、女神に喜んでもらえるような宝を探すための旅に出てしまう。旅の途中で、青年は光り輝く鹿を見つけ、これだとばかりに矢を放ち――射止め駆け寄ってみると、それは青年に会いたい一心で追ってきた土の女神であった。
ようやく想いに気付いた青年に、女神は息も絶え絶えに、ひと房の稗を差し出す。
光り輝く宝なんていりません。この
と、物語が
「あっ!」
見ていた村人たちの誰もが一瞬、息を呑んだ。しかし、止まることのない楽の音に、我に返ったシャラは、鈴を拾うとまたすぐに舞い始める。
そんな彼女を、村人たちは「気にしないさ」とばかりに温かく静かに見続けたのだったが、それでも奉納舞が終わると、シャラは舞台裏で呆然と立ち尽くした。
そうとは知らず、フウリはシャラを励まそうと、ハヤブサを舞台裏へと連れていくと、自分は邪魔をしないようにと立ち去った。
戸惑ったのは、取り残されたシャラとハヤブサだった。
「……シャラ、その、元気出せよ。あれくらいの失敗なんて気にならねぇくらい、今年も綺麗な舞だったと……オレは思ったぞ」
その優しい言葉と、懸命に励まそうとする温かいハヤブサのまなざしに、シャラは小さく頷き返すと、覚悟を決める。
お守りにするかのように大事に
「これを……受け取ってくださいませんか、ハヤブサさま……」