南のひとつ星 *7*
文字数 2,136文字
誰かと約束をした気がする。
今は遠き記憶の彼方 で。
絶対に戻ってくるから、それまで待っていて……と、耳朶 に残る優しい声。
肩に白く小さな獣を乗せたまま、走り去っていく背中。
あれは誰だったか――。
フワリと花の香りを感じて、フウリは目を覚ました。正確には、またイコロの夢を見ているのだということに気がついた。
久しぶりに見た風景は、あれから少し間が空いていたにもかかわらずまったく変わり映えがなく、センリュオウジュは満開のままだ。
フウリは柔らかい土に手を付いて立ち上がると、湖に向かって歩き始めた。
なんとなく、あそこへ行けばあの子犬――リッカに会えるような気がしたからだ。
そしてその勘 は当たり、センリュオウジュの大木の下に、小さく丸まっている白い毛玉を見つけた。
けれど、今宵 はその隣に白銀 の髪を夜風にたなびかせている優雅 な青年の姿がある。
何やらリッカはその青年と話しこんでいるようだった。
邪魔をするようでなかなか声をかけられず、少し離れたところでフウリがそわそわしていると、それに気付いた青年が金色の双眸を向けてきた。
「フウリ殿もこちらへ来ると良い」
渋みのある低く澄んだその声に、フウリはわずかに緊張しながら近づいていく。
「ええと……そなたは、ガセツなのだよな?」
いつもシャラの足下で静かに控えている白狼 と、目の前にいる青年が同じ存在であることに少々の戸惑いを抱 きつつ、フウリは尋ねた。
するとすぐに「ああ」と、そっけのない返事が戻ってきた。
「リッカ……あれからまた、いじめられたりはしていなかったかい?」
「はいっ! ええと、おねえさんのおかげと、ガセツ殿のおかげでいじめられなくなったです。ありがとうなのです!」
「それは良かった。ところでその、おねえさん というのは気恥ずかしいから、できれば、フウリと呼んでもらえないだろうか?」
「……ふうり? ふうり、フウリ……わかった!」
子犬はつぶらな瞳をフウリに向け、何度もその名を噛み締めるようにつぶやいた。
「で、ひとつ尋ねたいのだが、リッカはその……私の守獣なのだろうか?」
「ボクが、おねえさ……フウリ、の?」
首を傾げたリッカは、なぜかガセツの方を仰ぎ見た。
つられてフウリもそちらを見るが、ガセツは何食わぬ様子で「さぁな」と答えた。
「守獣だったらなんだというのだ。おぬしらの関係の、何かが変わるというのか?」
フウリはいじめられているリッカを助け、名前を付けてあげた。
リッカは助けられ、名前をくれたフウリに信頼を寄せている。
二人はこれまで幾度かこの夢で逢い、そのたびに一緒にいた。ただそれだけの関係だ。でも――。
フウリはリッカが守獣かもしれないから一緒にいたわけではない。リッカもまた、フウリがイコロだから一緒にいたわけではなかったはずだ。
二人は顔を見合わせると、それを確認するように頷き合った。
「我ら守獣は、神によって守るモノを示され、そこへ向かう。が、そのモノが守るに値しないと判断すれば、そのまま神の御許 に戻ることもある。逆に、守るモノと定められていなかったモノに心惹かれ、その身を捧げる守獣もいる。守獣とイコロの関係は様々。守獣だから、イコロだから、というだけで未来永劫 続く関係でないことは確かだがな」
「そういうものなのか……」
フウリは今まで、互いに信頼しあっているシャラとガセツのことを見てきたせいか、イコロと守獣の関係は不変のものだと思っていた。
しかし、よくよく考えれば、昔、神謡姫だったというエミナのそばに守獣の姿はない。姿は見えなくなっても、今もどこかで彼女を見守っているのか、あるいは――。
では、シャラがもし恋をしたら、ガセツもまた去ってしまうということなのだろうか。
「……ガセツは、最近のシャラをどう思ってる?」
もし恋をして歌えなくなり、大好きなガセツもいなくなってしまったとしたら、彼女はどうするのだろう。
ガセツは悠然 と目の前に広がる湖を眺めやると、フウリからの問いを小さく鼻で笑って返し、それからリッカに視線を移した。
「リッカよ、先ほどお前は「己が何者かわからず不安だ」と言っておったが、誰もが己のことを完全に理解できているわけではないのだぞ。フウリ殿も、そうであろう?」
「そうなの? ボクだけじゃないの?」
「……まぁ、そうだな」
失った記憶を取り戻すべきか迷っている。記憶を取り戻すことで変わるかもしれない、その『何か』が何であるかわからないから怖いし、不安にもなる。
ガセツもまた、シャラのことで不安に思っているのかもしれない。
「大事なのは、己が何者であるかではなく、どうしたいのか……よく考えることだ。それに、時がくれば、おのずと解決することもある」
「ボクが、どうしたいのか……?」
「私は、どうしたいのだろう……?」
二人のつぶやきは、音もなく舞い散るセンリュオウジュの花びらと共に、静かに湖へと沈んでいった――。
今は遠き記憶の
絶対に戻ってくるから、それまで待っていて……と、
肩に白く小さな獣を乗せたまま、走り去っていく背中。
あれは誰だったか――。
フワリと花の香りを感じて、フウリは目を覚ました。正確には、またイコロの夢を見ているのだということに気がついた。
久しぶりに見た風景は、あれから少し間が空いていたにもかかわらずまったく変わり映えがなく、センリュオウジュは満開のままだ。
フウリは柔らかい土に手を付いて立ち上がると、湖に向かって歩き始めた。
なんとなく、あそこへ行けばあの子犬――リッカに会えるような気がしたからだ。
そしてその
けれど、
何やらリッカはその青年と話しこんでいるようだった。
邪魔をするようでなかなか声をかけられず、少し離れたところでフウリがそわそわしていると、それに気付いた青年が金色の双眸を向けてきた。
「フウリ殿もこちらへ来ると良い」
渋みのある低く澄んだその声に、フウリはわずかに緊張しながら近づいていく。
「ええと……そなたは、ガセツなのだよな?」
いつもシャラの足下で静かに控えている
するとすぐに「ああ」と、そっけのない返事が戻ってきた。
「リッカ……あれからまた、いじめられたりはしていなかったかい?」
「はいっ! ええと、おねえさんのおかげと、ガセツ殿のおかげでいじめられなくなったです。ありがとうなのです!」
「それは良かった。ところでその、
「……ふうり? ふうり、フウリ……わかった!」
子犬はつぶらな瞳をフウリに向け、何度もその名を噛み締めるようにつぶやいた。
「で、ひとつ尋ねたいのだが、リッカはその……私の守獣なのだろうか?」
「ボクが、おねえさ……フウリ、の?」
首を傾げたリッカは、なぜかガセツの方を仰ぎ見た。
つられてフウリもそちらを見るが、ガセツは何食わぬ様子で「さぁな」と答えた。
「守獣だったらなんだというのだ。おぬしらの関係の、何かが変わるというのか?」
フウリはいじめられているリッカを助け、名前を付けてあげた。
リッカは助けられ、名前をくれたフウリに信頼を寄せている。
二人はこれまで幾度かこの夢で逢い、そのたびに一緒にいた。ただそれだけの関係だ。でも――。
フウリはリッカが守獣かもしれないから一緒にいたわけではない。リッカもまた、フウリがイコロだから一緒にいたわけではなかったはずだ。
二人は顔を見合わせると、それを確認するように頷き合った。
「我ら守獣は、神によって守るモノを示され、そこへ向かう。が、そのモノが守るに値しないと判断すれば、そのまま神の
「そういうものなのか……」
フウリは今まで、互いに信頼しあっているシャラとガセツのことを見てきたせいか、イコロと守獣の関係は不変のものだと思っていた。
しかし、よくよく考えれば、昔、神謡姫だったというエミナのそばに守獣の姿はない。姿は見えなくなっても、今もどこかで彼女を見守っているのか、あるいは――。
では、シャラがもし恋をしたら、ガセツもまた去ってしまうということなのだろうか。
「……ガセツは、最近のシャラをどう思ってる?」
もし恋をして歌えなくなり、大好きなガセツもいなくなってしまったとしたら、彼女はどうするのだろう。
ガセツは
「リッカよ、先ほどお前は「己が何者かわからず不安だ」と言っておったが、誰もが己のことを完全に理解できているわけではないのだぞ。フウリ殿も、そうであろう?」
「そうなの? ボクだけじゃないの?」
「……まぁ、そうだな」
失った記憶を取り戻すべきか迷っている。記憶を取り戻すことで変わるかもしれない、その『何か』が何であるかわからないから怖いし、不安にもなる。
ガセツもまた、シャラのことで不安に思っているのかもしれない。
「大事なのは、己が何者であるかではなく、どうしたいのか……よく考えることだ。それに、時がくれば、おのずと解決することもある」
「ボクが、どうしたいのか……?」
「私は、どうしたいのだろう……?」
二人のつぶやきは、音もなく舞い散るセンリュオウジュの花びらと共に、静かに湖へと沈んでいった――。