センリュオウジュの下で *4*
文字数 3,574文字
その夜――。
フウリは誰かに呼ばれた気がして、目を覚ました。
しかし、起き上がったと思った瞬間、自分のいる場所が現世 ではないどこか--夢の中であろうことに気がついた。
なぜなら、目の前には、見たこともないほどたくさんのセンリュオウジュ――ノチウの民が最も愛する白い春の花だ――が、夏にもかかわらず咲き誇っていたからだ。
その名の由来となったように、センリュオウジュは、エランクルに追われる前、かつてのセンリュ村の周囲の山々に最も多く群生していたといわれている。
春、満開になった時の光景は、誰もが息をするのを忘れてしまうほどの美しさだったというが、もしかするとこんな光景だったのかもしれない。
フウリはぼんやりとそんなことを考えた。
甘い香りを漂わせている樹々たちは、夜闇に浮かび上がるような乳白色の輝きを放ち、ヒラヒラと頭上から舞い降りてくる花びらは、まるで雪のように美しい。
フウリの立っている場所から少し離れたところに見える湖もまた、蛍石に似た浅緑色の光を放っており、水面には冴 え冴 えとした白い月が映り込んでいる。
それは、見た者の魂を吸い込んでしまうのではないかと疑いたくなるほど、美しい満月だったが、見上げてみても、なぜか夜空に同じ月は昇っていない。
逆に、湖面には映っていない無数の星々は、暗闇の中で囁き合うように瞬いていた。
そしてここは暑くも寒くもなく、ただ澄んだ空気に満ちた不思議な空間であった。
……と、どこからか話し声が聞こえてきて、フウリは辺りを見回した。
声のした方へ歩いていってみると、他とは少し趣 の異なる、赤紫色の小さな蕾 をつけたセンリュオウジュの若木 が立っているのが見えてきた。
その木の下には、何やら人らしき影が小さな円を描いて集まっており、中心には真っ白な毛並みをビクビクと震わせて縮こまっている子犬の姿があった。
「己の名前もわからないとは、なんと愚かな……」
「どこから来たのかも言えないのか?」
「あぁ、獣臭 い!」
「ここは神聖な場なのだから、きちんとした姿をしてくれないと……」
囲まれているその子犬はどうやら、男たちから一方的に詰 られているらしかった。
フウリはその光景を黙って見ていることができず、思わず輪の中に割って入った。
「おい、いい大人が弱い者をいじめて楽しいか?」
子犬を囲んでいたのは皆、フウリと同じかそれよりも年上に見える青年たちだった。
皆揃って透き通るような白い肌と白髪で、瞳は金色に輝き、純白無地のチゥレ織に身を包んでいる。
フウリは、まるで神子 のような風貌 をしたその者たちに既視感 を覚え、一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
「……おぬし、何者ぞ?」
突然現れた彼女の姿に、青年たちの関心は一斉に子犬からフウリへと移った。
中でも最も年上に見える代表格の者が音もなく一歩進み出ると、警戒心も顕 わに眦 を吊り上げ、誰何 してきた。
「私か? 私は、センリュ村のフウリだが」
名乗った途端、なぜか驚いた様子で顔を見合わせた青年たちに、フウリは続けた。
「そなたらがどこの誰かは知らぬが、それ以上その子犬をいじめようというのなら、容赦はせんぞ」
フウリはスッと左足を半歩引き、鯉口 を切った。もちろん、脅しているだけで、実際に斬るつもりなど毛頭ない。
が、青年たちは、野生の獣のごとき俊敏さで、その場から飛び退 いた。
「ほう……おぬし、あの時の――。なるほど、肝の据わった娘に成長したものだな……。まぁよい、今宵 はおぬしに免じて引くとしよう」
白髪 の青年は感慨深げな笑みを口元に浮かべるや、一瞬にしてかき消えた。
「……消えた? というか、誰だったんだ?」
姿が見えなくなる間際につぶやかれた言葉は、葉擦 れの音に紛れてよく聞こえなかった。が、その口ぶりはまるでフウリのことを以前から知っているようだった。
フウリが目の前で起こったことを理解できず、しばし呆然と立ち尽くしていると、足下に白い子犬がすり寄ってきた。
「あぁ、大丈夫だったか? それにしても、なぜこんな所でいじめられていたんだ?」
雪の固まりのように真っ白で小さな身体を抱き上げると、フワフワと手触りの良い柔らかな毛が、センリュオウジュの放つ淡い光を浴びて白銀に輝いた。
よほど怖かったのだろう。まだ少し震えているのがフウリの手に伝わってきた。
「あれ、お前の瞳、黒いんだな。もしかして、それでいじめられていたのか?」
返事を求めているわけではなくつぶやいたフウリに、子犬は「違う」と答えるかのように、小刻みに首を振った。
「え?」
質問してみたものの、返事があると期待していなかったフウリは、目を瞬かせる。
「ボク、どこから来たのかわからなくて、自分の名前もわからないんだ……だから、皆に『名無し』って言われて……」
子犬はそう説明すると、フウリをまっすぐに見つめて首を傾げた。
「ねえ、おねえさんはボクのこと、知らない?」
「す、すまない、私にはわからないよ。あぁ、でも、名前が必要だと言うのなら、私が考えて付けようか? そうすれば、先ほどの者たちに再び会っても、いじめられなくて済むかもしれないだろう?」
とっさにそう答えたフウリに、子犬はキラキラと目を輝かせた。
「いいのっ?」
「もちろん。そうだな……ならば、『リッカ』という名前はどうだろうか?」
白い犬は「リッカ?」とつぶやき、少しキョトンと不思議そうな表情をしながら、つぶらな黒い瞳をフウリに向けた。
「リッカっていうのは、雪の結晶の別名だよ。雪の粒をよく見てみると、小さな花が咲いているみたいでとても綺麗なんだけど……見たことある?」
「……わかんない」
「そっか。でも、キミは雪みたいに真っ白だから、ピッタリだと思うんだ」
説明をしながら子犬の額を撫でていると、ふと、フウリは前にもこんなことがあったような……と、既視感を覚え、記憶の糸を辿った。
「ああ、思い出した。私が幼い頃、森で拾ったオコジョにも付けた名前なんだけどね。響きも綺麗だから、結構気に入ってるんだ。あ、でも、犬なのにオコジョと同じじゃ嫌だろうか?」
「ううん……リッカ、がいい。ボク、嬉しい。ありがとう!」
パタパタと嬉しそうに尻尾を振るリッカを見て、愛しさが込み上げてきたフウリは思わず抱き締めた。
そして子犬に顔を寄せてみると陽の匂いがして、なんだか心の奥がじんわりと温かくなった。
「よかった……って、あれ? そういえばキミ、犬なのに人の言葉がわかるのだね。あ、でもこれ、夢だからかな……ふふっ、くすぐったいよ」
浮かんだ疑問は、リッカに頬をペロリと舐められたので、すぐに忘れてしまった。
それからフウリは子犬と何をしようかと考え、湖をもっと近くで見てみることした。
リッカを抱いたまま、しばらく歩いていくと、やがて湖畔にそびえ立っている、ひと際大きなセンリュオウジュが見えてきた。
「あ……もしかして向こうにいるのって、シャラかな?」
見知らぬ場所で、姉妹のように親しい友の姿を見つけたフウリは、自分が緊張していたことに気づきつつ、小さく息を吐いた。
シャラは大樹の根元に座って、誰かと話しているようだ。フウリが名を呼ぶと、シャラは驚いて振り返り、しかしすぐに花が綻 ぶように微笑んだ。
「こんばんは、フウリさま。今夜も湖の月が綺麗ですわね」
優しく吹いてくる夜風に長く美しい銀髪をなびかせ、シャラが言った。
「そうだな、ここは少し不思議だけど素敵な場所だね。ところで、シャラ、そちらの方は?」
見た目は先ほどリッカを囲んでいた者たちと似ているが、纏 っている雰囲気はまったく違う。金色に輝く切れ長の瞳の奥には、長老エミナにも似た深い知性が溢れて見えた。
「あら、わからないかしら? 彼は--……」
ふとそこでシャラは言葉を切ると、突然、弾かれたように空を見上げた。
「……あれはなんだ?」
フウリもつられてシャラの視線を追うと、白い翼を広げた梟 が、夜空を切り裂くような勢いで飛来し、センリュオウジュの枝に降り立った。
かと思うとフウリは背後から何かにグンと引っ張られるような感じがして、目の前が真っ白になる。
「……っ……ここは……」
ようやく周囲が見えてきたと思ったら、そこはいつもと変わらぬ自分の寝台の上で、遠くでは夜明けを告げる鳥の鳴き声が響いているのだった--。
フウリは誰かに呼ばれた気がして、目を覚ました。
しかし、起き上がったと思った瞬間、自分のいる場所が
なぜなら、目の前には、見たこともないほどたくさんのセンリュオウジュ――ノチウの民が最も愛する白い春の花だ――が、夏にもかかわらず咲き誇っていたからだ。
その名の由来となったように、センリュオウジュは、エランクルに追われる前、かつてのセンリュ村の周囲の山々に最も多く群生していたといわれている。
春、満開になった時の光景は、誰もが息をするのを忘れてしまうほどの美しさだったというが、もしかするとこんな光景だったのかもしれない。
フウリはぼんやりとそんなことを考えた。
甘い香りを漂わせている樹々たちは、夜闇に浮かび上がるような乳白色の輝きを放ち、ヒラヒラと頭上から舞い降りてくる花びらは、まるで雪のように美しい。
フウリの立っている場所から少し離れたところに見える湖もまた、蛍石に似た浅緑色の光を放っており、水面には
それは、見た者の魂を吸い込んでしまうのではないかと疑いたくなるほど、美しい満月だったが、見上げてみても、なぜか夜空に同じ月は昇っていない。
逆に、湖面には映っていない無数の星々は、暗闇の中で囁き合うように瞬いていた。
そしてここは暑くも寒くもなく、ただ澄んだ空気に満ちた不思議な空間であった。
……と、どこからか話し声が聞こえてきて、フウリは辺りを見回した。
声のした方へ歩いていってみると、他とは少し
その木の下には、何やら人らしき影が小さな円を描いて集まっており、中心には真っ白な毛並みをビクビクと震わせて縮こまっている子犬の姿があった。
「己の名前もわからないとは、なんと愚かな……」
「どこから来たのかも言えないのか?」
「あぁ、
「ここは神聖な場なのだから、きちんとした姿をしてくれないと……」
囲まれているその子犬はどうやら、男たちから一方的に
フウリはその光景を黙って見ていることができず、思わず輪の中に割って入った。
「おい、いい大人が弱い者をいじめて楽しいか?」
子犬を囲んでいたのは皆、フウリと同じかそれよりも年上に見える青年たちだった。
皆揃って透き通るような白い肌と白髪で、瞳は金色に輝き、純白無地のチゥレ織に身を包んでいる。
フウリは、まるで
「……おぬし、何者ぞ?」
突然現れた彼女の姿に、青年たちの関心は一斉に子犬からフウリへと移った。
中でも最も年上に見える代表格の者が音もなく一歩進み出ると、警戒心も
「私か? 私は、センリュ村のフウリだが」
名乗った途端、なぜか驚いた様子で顔を見合わせた青年たちに、フウリは続けた。
「そなたらがどこの誰かは知らぬが、それ以上その子犬をいじめようというのなら、容赦はせんぞ」
フウリはスッと左足を半歩引き、
が、青年たちは、野生の獣のごとき俊敏さで、その場から飛び
「ほう……おぬし、あの時の――。なるほど、肝の据わった娘に成長したものだな……。まぁよい、
「……消えた? というか、誰だったんだ?」
姿が見えなくなる間際につぶやかれた言葉は、
フウリが目の前で起こったことを理解できず、しばし呆然と立ち尽くしていると、足下に白い子犬がすり寄ってきた。
「あぁ、大丈夫だったか? それにしても、なぜこんな所でいじめられていたんだ?」
雪の固まりのように真っ白で小さな身体を抱き上げると、フワフワと手触りの良い柔らかな毛が、センリュオウジュの放つ淡い光を浴びて白銀に輝いた。
よほど怖かったのだろう。まだ少し震えているのがフウリの手に伝わってきた。
「あれ、お前の瞳、黒いんだな。もしかして、それでいじめられていたのか?」
返事を求めているわけではなくつぶやいたフウリに、子犬は「違う」と答えるかのように、小刻みに首を振った。
「え?」
質問してみたものの、返事があると期待していなかったフウリは、目を瞬かせる。
「ボク、どこから来たのかわからなくて、自分の名前もわからないんだ……だから、皆に『名無し』って言われて……」
子犬はそう説明すると、フウリをまっすぐに見つめて首を傾げた。
「ねえ、おねえさんはボクのこと、知らない?」
「す、すまない、私にはわからないよ。あぁ、でも、名前が必要だと言うのなら、私が考えて付けようか? そうすれば、先ほどの者たちに再び会っても、いじめられなくて済むかもしれないだろう?」
とっさにそう答えたフウリに、子犬はキラキラと目を輝かせた。
「いいのっ?」
「もちろん。そうだな……ならば、『リッカ』という名前はどうだろうか?」
白い犬は「リッカ?」とつぶやき、少しキョトンと不思議そうな表情をしながら、つぶらな黒い瞳をフウリに向けた。
「リッカっていうのは、雪の結晶の別名だよ。雪の粒をよく見てみると、小さな花が咲いているみたいでとても綺麗なんだけど……見たことある?」
「……わかんない」
「そっか。でも、キミは雪みたいに真っ白だから、ピッタリだと思うんだ」
説明をしながら子犬の額を撫でていると、ふと、フウリは前にもこんなことがあったような……と、既視感を覚え、記憶の糸を辿った。
「ああ、思い出した。私が幼い頃、森で拾ったオコジョにも付けた名前なんだけどね。響きも綺麗だから、結構気に入ってるんだ。あ、でも、犬なのにオコジョと同じじゃ嫌だろうか?」
「ううん……リッカ、がいい。ボク、嬉しい。ありがとう!」
パタパタと嬉しそうに尻尾を振るリッカを見て、愛しさが込み上げてきたフウリは思わず抱き締めた。
そして子犬に顔を寄せてみると陽の匂いがして、なんだか心の奥がじんわりと温かくなった。
「よかった……って、あれ? そういえばキミ、犬なのに人の言葉がわかるのだね。あ、でもこれ、夢だからかな……ふふっ、くすぐったいよ」
浮かんだ疑問は、リッカに頬をペロリと舐められたので、すぐに忘れてしまった。
それからフウリは子犬と何をしようかと考え、湖をもっと近くで見てみることした。
リッカを抱いたまま、しばらく歩いていくと、やがて湖畔にそびえ立っている、ひと際大きなセンリュオウジュが見えてきた。
「あ……もしかして向こうにいるのって、シャラかな?」
見知らぬ場所で、姉妹のように親しい友の姿を見つけたフウリは、自分が緊張していたことに気づきつつ、小さく息を吐いた。
シャラは大樹の根元に座って、誰かと話しているようだ。フウリが名を呼ぶと、シャラは驚いて振り返り、しかしすぐに花が
「こんばんは、フウリさま。今夜も湖の月が綺麗ですわね」
優しく吹いてくる夜風に長く美しい銀髪をなびかせ、シャラが言った。
「そうだな、ここは少し不思議だけど素敵な場所だね。ところで、シャラ、そちらの方は?」
見た目は先ほどリッカを囲んでいた者たちと似ているが、
「あら、わからないかしら? 彼は--……」
ふとそこでシャラは言葉を切ると、突然、弾かれたように空を見上げた。
「……あれはなんだ?」
フウリもつられてシャラの視線を追うと、白い翼を広げた
かと思うとフウリは背後から何かにグンと引っ張られるような感じがして、目の前が真っ白になる。
「……っ……ここは……」
ようやく周囲が見えてきたと思ったら、そこはいつもと変わらぬ自分の寝台の上で、遠くでは夜明けを告げる鳥の鳴き声が響いているのだった--。