南のひとつ星 *2*
文字数 5,853文字
朝餉を済ませた後、フウリは渋々ながらシャラに裁縫 を教えてもらうことになった。
そこでフウリは早速、シャラの室で刺繍をするための小さな生地 を手にしたが……早くも逃げ出したいような気分に襲われていた。
樹皮 からとった繊維を織って作られた正方形の小さな生地は、樹の幹のように淡く黄味 がかった色をしている。そこへ、草花で様々な色に染色された糸で文様を刺繍していくのだが、フウリは何度やっても縫い目が綺麗に揃わず、形も整えることができずにいた。
「……ふう」
刀の稽古よりも集中力を遣い、真剣に取り組んでいたフウリは、区切りのよいところまで来て小さく息を吐いた。
とそこで手元を覗き込んできたシャラが微笑み、
「あら、可愛らしいキノコ文様ですわね」
師から受けた率直な感想に、フウリはガクリと大きく肩を落とす。
「シャラ……私はやはり、見た目も重要だと思うのだ……。こんなに下手では、伝えたい想いも何も、伝わらないよ」
シャラはフウリの言葉に、刺繍された文様が何であるのか見誤っていたのだと気づき、戸惑いの色を滲ませると、悪気ない様子で首を傾げた。
「え……っと……キノコではありませんでしたのね?」
「……小花文様 のつもりだったんだ。シャラの文様の……」
「ご、ごめんなさい、フウリさま。あの、でも、いきなり最初から小花文様に取り組むのは難しいと思いますわ。ほら、その、結構細かいですし……」
「うーん。普段見慣れてる文様だからかなぁ、簡単そうに見えたんだけど……。で、シャラの方は何を縫ってるんだい?」
ため息混じりにシャラの手元を覗き込んだフウリは、目を開いて輝かせる。
そこには、今にも手巾 の中から飛び立ちそうな、翼を広げた隼文様 が、白や茶色の糸によって見事に描 かれていた。
「うわ、さすがだなぁ。ああでも、私は自分のも難しそうな文様だし……どうしよう」
六花文様 は、小花文様と似て細々とした部分もあれば、蔓 のような曲線を描いている部分もあり、なかなか難易度が高そうだ。
「あら、じゃあ、カケルさまの文様はどのようなものなのかしら? フウリはカケルさまに手巾を作って差し上げるのではなくて?」
「あー……いや、それはまだ聞けていなくて……」
どう聞き出したらいいものか悩んでいると、大抵、間にハヤブサが入ってきて聞けなくなってしまうのだ。
「シャラこそ、その手巾はハヤブサにあげるんだろう? きっと喜ぶぞ」
何気なく返したフウリの言葉に、シャラは突然、頬を朱 く染め、そしてすぐに物憂 げにため息をついた。
「シャラ? どうかしたの?」
「……ハヤブサさま、わたくしの作った手巾を受け取ってくださるかしら? わたくしのより、フウリさまのが欲しいのではないかしら……」
「なんで私の? そんなの、シャラの作った物の方が綺麗だし、いいに決まってるじゃないか」
「えっと、見た目の問題ではなくて……その……」
言いづらそうに俯いたシャラから漂う優しい雰囲気に、ユィノがリュートのことを幸せそうに語っている時のことを思い出し、フウリはハッとした。
しかし同時に、それがもたらす、ある可能性にも気付いてしまった。
「もしかして、シャラはハヤブサのことを? でも……」
神謡姫 は巫女 と同様の存在として、神にすべてを捧げる身のため、人に恋することを禁じられている。もし恋に落ちてしまったら、嫉妬した星の神様の怒りによって、神謡姫としての力を失ってしまうとも云われ、現に、シャラの祖母エミナは愛する人に出会い、子を成した直後に視力を失い、神謡を歌えなくなってしまっていた。
「いけないことはわかっていますわ。それに、まだこの想いがその……恋だと決まったわけではないのです。けれど、気がついたら目で彼を追ってしまっている自分がいて……」
「……いつから?」
「ハヤブサさまがフウリさまと共にニタイ村へ行った頃から……かしら」
シャラは、三人が無事に帰ってくるのを毎日祈っていたという。けれど、村に戻ってきたハヤブサのボロボロになった姿を見た時、心臓が止まりそうになった。
フウリを見た時に感じた安心感とは少し違う。彼が生きて戻ってきてくれて本当に良かったと、心の底から安堵したのだという。
「フウリさまは、そういう想いをどなたかに……例えば、カケルさまに抱かれたことは?」
「そうだな……カケル殿とは一緒にいるとどこか懐かしい気持ちになって落ち着くし、刀の打ち合いをしていても、何かこう……しっくりくる? というか、そんな感じはするんだが……」
二人ともまだ恋をしたことはないから、それがどういうものなのかはわからなかった。
漠然と、恋をすれば幸せな気分になれるのかと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
フウリもシャラも、うまく言い表せないその想いに思考を巡らせ、しばし沈黙する。
先に口を開いたのは、シャラだった。
「ねぇ、フウリさま。星神謡 には神様同士が恋をする物語がいくつかありますわよね」
「ああ……」
以前ノンノがフウリとカケルの出会いを例えた、一度引き離された恋人同士の神様が、苦難を乗り越え、星降る夜に運命的な再会を果たす恋物語、『神謡恋歌 』がその代表だが、他にも多くの恋物語が存在する。
「なぜ、神様たちは恋をすることを許されているのに、それを歌う神謡姫が恋を禁じられているのかしら。恋がどういうものか知らないのに、その物語を紡ぐことは、なんだかその神謡に失礼な気もするのだけど……」
「それは確かに……」
「わたくしは、恋がどういうものが知りたい。でも、それを知ることでエミナおばあさまのように、二度と歌えなくなってしまうことも恐いのですわ……」
どうしたらいいのかしら、と再び深いため息をついたシャラに、フウリは答えることができない。ただ、いつも穏やかに微笑むだけのシャラが初めて打ち明けてくれた秘めたる感情に、フウリは困惑するばかりだった。
「……そ、そういえば、シャラに聞きたいことがあったんだが」
わざとらしい話の逸らし方に苦笑したシャラだったが、やがてどこかホッとしたような微笑みを見せた。
「……なんですの?」
「さっき、ユィノ殿が夢の話をしていたので思い出したんだが……ほら、ニタイ村へ行く直前に、シャラは私に『昨夜見た夢を覚えてるか』って聞いたことがあったじゃないか。で、村に私が帰って来たら話したいことがある、とも言っていたよね?」
フウリの問いに、シャラはわずかに表情を強張 らせた。そして、シャラのすぐ隣で伏せていたガセツも、まるで二人の会話の何かに反応したかのように頭を持ち上げた。
「……あれから、フウリさまは何か夢を見ましたか?」
「んーと、そうだなぁ。見たかもしれないけど、よく覚えてはいないよ」
「では、最近になって、何か変わったこと……身体の具合が悪いとかはありませんか?」
「いたって健康だよ。というか、むしろ前より身体が軽くなった気がするよ。なんていうのかな……風が……」
「助けてくれる?」
「……そう、そんな感じ! ニタイ村へ行った時もね、絶対に間に合わないと思った距離をまるで風が背を押してくれたみたいに軽く、一瞬で駆け抜けることができたんだ」
エランクルから逃げることができたのも、風に煽 られて燃えた家屋が倒れ、それがうまい具合に彼らの行く手を阻んでくれたからだった。
「もしかして、シャラが私に『風の加護 』を、って言ってくれたからか? だとしたら、シャラは本当にすごいよ! 私なんて刀しか使えないのになぁ……」
神謡姫として、歌で人々を癒したり予知夢を見たり、シャラはすごいと素直に思う。そして、自分もそれに負けないように、刀で村を守ることで役に立てたらとフウリは思った。
「でも、それが夢と何か関係あるのかい?」
「……フウリさまが見たあの夢は、イコロたちの見る夢なのですわ」
「え?」
「わたくしは勝手に『イコロの夢』と呼んでいるのですが、あそこは、守獣たちが遠くにいる仲間たちと情報を交し合うための、異 なる空間なのです。入ることを許されているのは守獣と、イコロの人間が見る夢の中でだけ……」
「えっと、つまり……?」
「フウリさまは、『風』を操る力を持つイコロなのではないかしら……」
シャラの言葉にフウリは「まさか」と笑った。
「私にはシャラの銀髪のような、イコロらしい特徴は何もないよ? ガセツみたいな守獣だってそばにいないし。それに、シュンライ殿が前に教えてくれたことがあるのだけど、私の父は『火』を操る能力を持ったイコロだったっていうし。ひとつの村にイコロがそう何人もいるはずがないだろう?」
だからそんなことはありえないよ、とフウリは首を横に振る。
が、シャラはほとんど確信している様子で、さらに続けた。
「ですが、守獣に関しては心当たりがありますの。あの夢の中で、フウリさまは白い子犬を抱いていらっしゃいましたよね?」
「……白い、子犬?」
シャラに問われ、フウリの頭に真っ先に浮かんだのは、夢の中、センリュオウジュの若木の下で、いじめられていたところを助け、名前をつけてあげた子犬のことだった――。
「リッカ?」
「ええ、その子がおそらく、フウリさまの守獣 なのではないでしょうか。でも、あの世界では本来、守獣はよほどのことがない限り、獣の姿をとることはないのです。ですから、何か事情があって、現 へ出られずにいるのかもしれませんわ」
「リッカが私の守獣……?」
フウリは信じられない気持ちでそう呟き、次いであることを思い出す。
「えっと、じゃあもしかして、夢でシャラの横に立っていた人って……」
白銀 の髪に、金色に輝く瞳――どこかで見たことがあると思ったら、いつもシャラのそばにいたではないか。
「ガセツ……だったの?」
フウリが問いかけるような視線をシャラの足下にいる獣に向けると、ガセツはプイッと気まずそうに顔を背 けた。が、その仕草 は逆に、夢の中でフウリが会った人が自分だったと認めているようなものだ。
「そうだったのか……。あ、でも、あの時って確か、どこかから白梟 が飛んできて……あれも守獣だったのかな?」
「ええ。あれはニタイ村の守獣……だった、チカップさまですわ」
確かに『神鳴 の弓』と、村長トゥキを守るようにして、センリュ村についてきた白梟がいた。その子は今、『神鳴の弓』を継承することになったハヤブサの家にいるはずだ。
「チカップさまが、夢でニタイ村に迫る危機のことを教えてくれたのです……」
大抵のイコロは守獣たちから情報を得た時、それを夢から覚めた後に覚えていることができれば、予言として村人たちに伝えるのだという。しかし、シャラの場合は聞いた話を覚えているだけでなく、他のイコロよりも敏感に、守獣が伝えた様子を心で感じ取ってしまうらしかった。
その時のことを思い出したのか、わずかに表情を曇らせたシャラに、フウリは慌てて別の質問を投げかける。
「ねぇ、もしかして、守獣がいなかったり、その守獣かもしれない子が夢で人の姿になれないのって、私の過去に関係があるのだろうか。私が記憶を失くしているせい……とか」
「それは……なんとも言えませんわ……」
「でも、もしそうだとしたら、やはり私は記憶を取り戻した方がいいということだろうか。夢の中で、あの子は……リッカは独りで彷徨 っていたみたいで、とても寂しそうだったんだ。もし、私が思い出せないせいでああなっているのだとしたら……私も哀しいよ」
その時ふと脳裏に浮かんだ寂しそうなリッカの黒い瞳と、自刃しようとしていた時のカケルの黒い瞳が重なった。
彼のことも、リッカのことも、どうしてこんなにも気になるのだろうか――自分でもよくわからない感情が胸に広がっていき、フウリは刺繍に失敗した手巾を見つめながら、ギュッと握り締めた。
「あの……フウリさまは……本当に思い出す覚悟がおありですか?」
「覚悟か……。でも、それさえあれば思い出せるというものではないだろう」
家族のことを思い出したいと思ったことは、これまでに何度かあった。けれど、どんなに考えようとしても、頭に霧がかかったようになってしまうのだった。
まるで、思い出すことを強く拒否してしまったせいで、記憶に厳重な鍵でもかけられてしまったみたいに。
シャラは何かを躊躇 うように目を伏せ、小さく頭 を振ると、手巾を握り締めていたフウリの手を取り、そっと包み込んだ。
「……本当は、黙っているべきだったのかもしれないのですけれど」
「シャラ?」
「フウリさまの記憶は……エミナおばあさまが記憶封 じの呪 で封じているだけなのですわ。ですから、その呪を解いてしまえば、記憶はすべて戻るはずですの。ですが……」
記憶を戻した瞬間に、フウリは辛い過去を追体験することになる。その衝撃に耐えられるかどうかはやってみないとわからない。覚悟ができていても、身体の方が拒否すれば最悪、命に関わることもある危険な呪 いなのだという。
「ずっと黙っていてごめんなさい、フウリさま……」
初めて明かされたその事実に、フウリは衝撃を受けた。
しかし、なぜそんな大事なことを今まで黙っていたのか――と問おうと開きかけた口は、何も紡 ぎ出せぬまま閉ざされる。
なぜか――それは、隠されてきたのが、フウリの身と傷ついた心を守るためだったからだ。
「……いや、教えてくれてありがとう」
ずっと守っていてくれてありがとう、とフウリは心の中でそっと付け加える。
「……そうだな、やっぱりまだちょっと覚悟はできないけれど……その時が来たら、一緒にエミナ殿のところへ頼みに行ってもらえるかな?」
シャラは「はい」と答えて無理やり笑おうとして、潤んだ瞳からパタリと一粒、涙を零 したのだった。
そこでフウリは早速、シャラの室で刺繍をするための小さな
「……ふう」
刀の稽古よりも集中力を遣い、真剣に取り組んでいたフウリは、区切りのよいところまで来て小さく息を吐いた。
とそこで手元を覗き込んできたシャラが微笑み、
「あら、可愛らしいキノコ文様ですわね」
師から受けた率直な感想に、フウリはガクリと大きく肩を落とす。
「シャラ……私はやはり、見た目も重要だと思うのだ……。こんなに下手では、伝えたい想いも何も、伝わらないよ」
シャラはフウリの言葉に、刺繍された文様が何であるのか見誤っていたのだと気づき、戸惑いの色を滲ませると、悪気ない様子で首を傾げた。
「え……っと……キノコではありませんでしたのね?」
「……
「ご、ごめんなさい、フウリさま。あの、でも、いきなり最初から小花文様に取り組むのは難しいと思いますわ。ほら、その、結構細かいですし……」
「うーん。普段見慣れてる文様だからかなぁ、簡単そうに見えたんだけど……。で、シャラの方は何を縫ってるんだい?」
ため息混じりにシャラの手元を覗き込んだフウリは、目を開いて輝かせる。
そこには、今にも
「うわ、さすがだなぁ。ああでも、私は自分のも難しそうな文様だし……どうしよう」
「あら、じゃあ、カケルさまの文様はどのようなものなのかしら? フウリはカケルさまに手巾を作って差し上げるのではなくて?」
「あー……いや、それはまだ聞けていなくて……」
どう聞き出したらいいものか悩んでいると、大抵、間にハヤブサが入ってきて聞けなくなってしまうのだ。
「シャラこそ、その手巾はハヤブサにあげるんだろう? きっと喜ぶぞ」
何気なく返したフウリの言葉に、シャラは突然、頬を
「シャラ? どうかしたの?」
「……ハヤブサさま、わたくしの作った手巾を受け取ってくださるかしら? わたくしのより、フウリさまのが欲しいのではないかしら……」
「なんで私の? そんなの、シャラの作った物の方が綺麗だし、いいに決まってるじゃないか」
「えっと、見た目の問題ではなくて……その……」
言いづらそうに俯いたシャラから漂う優しい雰囲気に、ユィノがリュートのことを幸せそうに語っている時のことを思い出し、フウリはハッとした。
しかし同時に、それがもたらす、ある可能性にも気付いてしまった。
「もしかして、シャラはハヤブサのことを? でも……」
「いけないことはわかっていますわ。それに、まだこの想いがその……恋だと決まったわけではないのです。けれど、気がついたら目で彼を追ってしまっている自分がいて……」
「……いつから?」
「ハヤブサさまがフウリさまと共にニタイ村へ行った頃から……かしら」
シャラは、三人が無事に帰ってくるのを毎日祈っていたという。けれど、村に戻ってきたハヤブサのボロボロになった姿を見た時、心臓が止まりそうになった。
フウリを見た時に感じた安心感とは少し違う。彼が生きて戻ってきてくれて本当に良かったと、心の底から安堵したのだという。
「フウリさまは、そういう想いをどなたかに……例えば、カケルさまに抱かれたことは?」
「そうだな……カケル殿とは一緒にいるとどこか懐かしい気持ちになって落ち着くし、刀の打ち合いをしていても、何かこう……しっくりくる? というか、そんな感じはするんだが……」
二人ともまだ恋をしたことはないから、それがどういうものなのかはわからなかった。
漠然と、恋をすれば幸せな気分になれるのかと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
フウリもシャラも、うまく言い表せないその想いに思考を巡らせ、しばし沈黙する。
先に口を開いたのは、シャラだった。
「ねぇ、フウリさま。
「ああ……」
以前ノンノがフウリとカケルの出会いを例えた、一度引き離された恋人同士の神様が、苦難を乗り越え、星降る夜に運命的な再会を果たす恋物語、『
「なぜ、神様たちは恋をすることを許されているのに、それを歌う神謡姫が恋を禁じられているのかしら。恋がどういうものか知らないのに、その物語を紡ぐことは、なんだかその神謡に失礼な気もするのだけど……」
「それは確かに……」
「わたくしは、恋がどういうものが知りたい。でも、それを知ることでエミナおばあさまのように、二度と歌えなくなってしまうことも恐いのですわ……」
どうしたらいいのかしら、と再び深いため息をついたシャラに、フウリは答えることができない。ただ、いつも穏やかに微笑むだけのシャラが初めて打ち明けてくれた秘めたる感情に、フウリは困惑するばかりだった。
「……そ、そういえば、シャラに聞きたいことがあったんだが」
わざとらしい話の逸らし方に苦笑したシャラだったが、やがてどこかホッとしたような微笑みを見せた。
「……なんですの?」
「さっき、ユィノ殿が夢の話をしていたので思い出したんだが……ほら、ニタイ村へ行く直前に、シャラは私に『昨夜見た夢を覚えてるか』って聞いたことがあったじゃないか。で、村に私が帰って来たら話したいことがある、とも言っていたよね?」
フウリの問いに、シャラはわずかに表情を
「……あれから、フウリさまは何か夢を見ましたか?」
「んーと、そうだなぁ。見たかもしれないけど、よく覚えてはいないよ」
「では、最近になって、何か変わったこと……身体の具合が悪いとかはありませんか?」
「いたって健康だよ。というか、むしろ前より身体が軽くなった気がするよ。なんていうのかな……風が……」
「助けてくれる?」
「……そう、そんな感じ! ニタイ村へ行った時もね、絶対に間に合わないと思った距離をまるで風が背を押してくれたみたいに軽く、一瞬で駆け抜けることができたんだ」
エランクルから逃げることができたのも、風に
「もしかして、シャラが私に『風の
神謡姫として、歌で人々を癒したり予知夢を見たり、シャラはすごいと素直に思う。そして、自分もそれに負けないように、刀で村を守ることで役に立てたらとフウリは思った。
「でも、それが夢と何か関係あるのかい?」
「……フウリさまが見たあの夢は、イコロたちの見る夢なのですわ」
「え?」
「わたくしは勝手に『イコロの夢』と呼んでいるのですが、あそこは、守獣たちが遠くにいる仲間たちと情報を交し合うための、
「えっと、つまり……?」
「フウリさまは、『風』を操る力を持つイコロなのではないかしら……」
シャラの言葉にフウリは「まさか」と笑った。
「私にはシャラの銀髪のような、イコロらしい特徴は何もないよ? ガセツみたいな守獣だってそばにいないし。それに、シュンライ殿が前に教えてくれたことがあるのだけど、私の父は『火』を操る能力を持ったイコロだったっていうし。ひとつの村にイコロがそう何人もいるはずがないだろう?」
だからそんなことはありえないよ、とフウリは首を横に振る。
が、シャラはほとんど確信している様子で、さらに続けた。
「ですが、守獣に関しては心当たりがありますの。あの夢の中で、フウリさまは白い子犬を抱いていらっしゃいましたよね?」
「……白い、子犬?」
シャラに問われ、フウリの頭に真っ先に浮かんだのは、夢の中、センリュオウジュの若木の下で、いじめられていたところを助け、名前をつけてあげた子犬のことだった――。
「リッカ?」
「ええ、その子がおそらく、フウリさまの
「リッカが私の守獣……?」
フウリは信じられない気持ちでそう呟き、次いであることを思い出す。
「えっと、じゃあもしかして、夢でシャラの横に立っていた人って……」
「ガセツ……だったの?」
フウリが問いかけるような視線をシャラの足下にいる獣に向けると、ガセツはプイッと気まずそうに顔を
「そうだったのか……。あ、でも、あの時って確か、どこかから
「ええ。あれはニタイ村の守獣……だった、チカップさまですわ」
確かに『
「チカップさまが、夢でニタイ村に迫る危機のことを教えてくれたのです……」
大抵のイコロは守獣たちから情報を得た時、それを夢から覚めた後に覚えていることができれば、予言として村人たちに伝えるのだという。しかし、シャラの場合は聞いた話を覚えているだけでなく、他のイコロよりも敏感に、守獣が伝えた様子を心で感じ取ってしまうらしかった。
その時のことを思い出したのか、わずかに表情を曇らせたシャラに、フウリは慌てて別の質問を投げかける。
「ねぇ、もしかして、守獣がいなかったり、その守獣かもしれない子が夢で人の姿になれないのって、私の過去に関係があるのだろうか。私が記憶を失くしているせい……とか」
「それは……なんとも言えませんわ……」
「でも、もしそうだとしたら、やはり私は記憶を取り戻した方がいいということだろうか。夢の中で、あの子は……リッカは独りで
その時ふと脳裏に浮かんだ寂しそうなリッカの黒い瞳と、自刃しようとしていた時のカケルの黒い瞳が重なった。
彼のことも、リッカのことも、どうしてこんなにも気になるのだろうか――自分でもよくわからない感情が胸に広がっていき、フウリは刺繍に失敗した手巾を見つめながら、ギュッと握り締めた。
「あの……フウリさまは……本当に思い出す覚悟がおありですか?」
「覚悟か……。でも、それさえあれば思い出せるというものではないだろう」
家族のことを思い出したいと思ったことは、これまでに何度かあった。けれど、どんなに考えようとしても、頭に霧がかかったようになってしまうのだった。
まるで、思い出すことを強く拒否してしまったせいで、記憶に厳重な鍵でもかけられてしまったみたいに。
シャラは何かを
「……本当は、黙っているべきだったのかもしれないのですけれど」
「シャラ?」
「フウリさまの記憶は……エミナおばあさまが
記憶を戻した瞬間に、フウリは辛い過去を追体験することになる。その衝撃に耐えられるかどうかはやってみないとわからない。覚悟ができていても、身体の方が拒否すれば最悪、命に関わることもある危険な
「ずっと黙っていてごめんなさい、フウリさま……」
初めて明かされたその事実に、フウリは衝撃を受けた。
しかし、なぜそんな大事なことを今まで黙っていたのか――と問おうと開きかけた口は、何も
なぜか――それは、隠されてきたのが、フウリの身と傷ついた心を守るためだったからだ。
「……いや、教えてくれてありがとう」
ずっと守っていてくれてありがとう、とフウリは心の中でそっと付け加える。
「……そうだな、やっぱりまだちょっと覚悟はできないけれど……その時が来たら、一緒にエミナ殿のところへ頼みに行ってもらえるかな?」
シャラは「はい」と答えて無理やり笑おうとして、潤んだ瞳からパタリと一粒、涙を