センリュオウジュの下で *2*
文字数 7,462文字
「フウリさま、大丈夫ですか?」
フウリが刀を鞘に納め、額に滲んでいた汗をぬぐっていると、不安そうな表情を浮かべたシャラが駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ、シャラ。でも、心配させてしまって悪かったね。それにしても……カケル殿は強いな。実戦ならば危うく命を落としていたところだったぞ」
シャラに向けていた笑顔を、そのままカケルにも向けたフウリは、満足げに言った。
その瞳はいつになく楽しげで、生き生きと輝いている。
「いや、きみだって相当な腕前だろう。思わずムキになって、本気で打ちかかってしまって申し訳なかったよ」
カケルはそう言って爽やかな笑顔を浮かべ、借りていた刀を鞘に納めると、それをフウリに差し出した。
「本気で、と頼んだのは私だからな、謝る必要はない。むしろ、久々に緊張感のある稽古ができて、礼を言いたいくらいだ。もしよければ、また手合わせを願いたいのだが……」
「って、フウリちゃん、待った!」
機嫌よく物騒な会話を続けるフウリとカケルの間に慌てて割り込んだのは、先ほど仕合 を強制終了させたレオクだった。
「あぁ、レオク殿か。先ほどは止めに入ってくれて助かったぞ」
「いや、そういう話じゃなくて……」
「そうだよ、なんでコイツが村の方にに来てんだよっ! 長老とか村会議のおっちゃんたちとか、このこと知ってんのかよ? 大体、本気で打ち合っていて、もし何かあったらどうしてたんだよ!」
レオクを押しのけ、あからさまな敵意をカケルに向けながらハヤブサが叫んだ言葉は、今まさにレオクが指摘しようとしていたことだった。
「……えっと、それは……」
二人から追及されたフウリは、気まずそうに視線を泳がせながら頬をかいた。
その騒ぎに、仕合が終わって一旦散りかけていた野次馬たちが再び戻ってくる。中には、騒ぎを聞きつけて新たにやってきた家長たちの姿も混ざっていた。
「その……」
フウリはこのところ毎日、カケルの様子を見るためにシュンライの工房へ通っていたのだったが、彼の傷がほとんど癒えたのを知り、連れ出してみようと思い立った。
村の皆も実際にカケルに会って話してみれば、彼が村に害をなすような人ではないのだと、言葉ではなく理解してもらえると、フウリは考えたのだ。
工房の主であるシュンライは、カケルと最も多く話す機会があり、すでに信頼に値 するとの判断を下していたことから、フウリが彼を村に連れて行ってみると言い出しても反対はしなかった。
ユィノにいたっては、寝てばかりいると身体によくないし、傷の痛みがないようなら動いた方がいいと、背中を押してくれた。
しかし確かにハヤブサの言うとおり、誰の許可も得ていないのは事実だったので、フウリは言い訳するのを諦め、肩を落とした。
「すまない、勝手なことをして……」
潔 く頭を下げたフウリに、レオクは困ったような笑みを浮かべる一方、ハヤブサはなおも不満そうにカケルを睨 みつけていた。
そこへ、鈴の音のような清涼 な声が割って入った。
「あ、あのっ、わ、わたくしが、カケルさまにお会いしてみたいと申したのです。それで、フウリさまにお願いして、彼を村へ連れてきて頂いたので……フウリさまは悪くないのです。ですから、この騒ぎの責任はわたくしにあります。すみませんでした……」
それはシャラがフウリとカケルを皆から庇 うために、今思いついた言い訳だった。が、神謡姫 として、村の長老と等しく敬 われている彼女の言葉の影響力は絶大だ。
シャラが夢で予知した存在を己 の目で見て確かめたいと思うのはごく自然なこと。それに加えて、彼女から「大丈夫だ」と判断が下されれば、彼の安全性が確約されることにもなる。
「おいおい、シャラさまが謝ってるぞ……」
「あっ、おら、畑仕事に行く時間だったわ……」
頭を下げている神謡姫の姿に、居心地が悪くなった野次馬たちは早々に散り始める。
さすがにレオクも気まずく感じたのか「念のため長老に報告してくる」と言って駆け出し、ハヤブサも「採ってきた食糧を蔵に置いて戻ってくるから」と、その場から逃げるように、馬を連れて立ち去ってしまった。
やがて広場には、もともと広場で刀の稽古をしていたサムライたちと、数名の家長 だけが残った。
そんな中、漂っていた気まずい雰囲気を打ち破ったのは、筆頭サムライを務めるフウリだった。
「皆、本日の稽古はこれで終 いにする。騒がせて済まなかった。警備当番の者は、見回りが終わったら報告に来るように。では解散!」
その一声でサムライたちも四方へ散っていくと、広場の最も近くに住む家長でサムライ仲間の青年、キサラがフウリのもとへ近寄ってきた。
「フウリさん、僕らのような若手の家長たちは案外、あなたのやっていることに賛成してるんですよ。年寄り連中は警戒しすぎて、なかなか人の話を聞き入れてくれないからね。時にはこういう無茶も、新鮮な風が吸えて良いものだよ」
そう言いながら穏やかな笑みを浮かべているキサラの様子に、フウリはわずかに頬を緩める。
「キサラ殿……そう言ってもらえると心強い」
「まぁ、こう言うのも、実際に彼のことを間近に見れてホッとしたからなんだけどね。人は、見えないモノを怖がるからさ。他の人たちもそうなんじゃないかな……」
「なるほど……」
フウリが彼の言葉に納得げに頷いたのを見届けたキサラは、少し照れくさそうに微笑むと、一礼してから自分の家へと戻っていった。
「シャラ、さっきは助けてくれてありがとう。シュンライ殿たちが意外とあっさり受け入れてくれたものだったから、つい村でも大丈夫かなと思ってしまったんだけど、やはり軽率だったよ……」
「いいえ。だって、カケルさまにお会いしてみたいと思っていたのは本当のことですし」
シャラにそう言われ、手を握られた瞬間、フウリは沈んでいた心がフワリと軽くなるのを感じた。
そして、彼女の緩やかに波打った長い銀髪が風に揺れるのを見ているうち、不思議と心が凪 いでいった。
「カケル殿にも嫌な思いをさせてしまって、すまなかったな。ハヤブサは悪い奴じゃないんだが……」
フウリは、明らかな敵愾心を向けていた彼のことを思い出して苦笑する。
「気にしてないよ。それに、このご時勢にどこの誰だかわからない奴が村に突然現れたら、警戒して当然さ。むしろ、キミもシャラ殿も、俺のせいで村での立場が悪くなったりするんじゃない?」
「いや、私は気にしないし、シャラの立場が悪くなることも絶対にありえないから、問題ない」
フウリはサラッとそう答えると、広場の端に置かれている竹の長椅子にシャラを座らせ、自分はその横の地面で胡坐 をかき、何事もなかったかのように刀の手入れをし始めた。
カケルはフウリに倣 って地面に腰を下ろしながら、眉を寄せる。
「……絶対に?」
フウリに断言されたシャラは、カケルから問うような視線を受け、恥ずかしそうに俯 いた。
「ああ。シャラは神謡姫だからな」
「……すまない、俺にはその『神謡姫』ってのが、どういうものなのかよくわからないんだけど……その、すごい存在、なんだ?」
「あっ……」
当然、『神謡姫』のことを知っているものだと思い込んで話していたフウリとシャラは、カケルの言葉に驚いて顔を見合わせた。
「えーっと、そうか。カケル殿にはまだ何も話していなかったな」
そういえば、シャラとカケルは先ほど会ったばかりで、まだお互いの名前しか交わしていなかったのだ。
フウリはそのことをようやく思い出して苦笑すると、言葉を続けた。
「では、イコロ というのは、さすがにわかるよな? ……というか、私は、カケル殿自身がイコロなのではないかと思っていたんだが……違うのだろうか?」
「そうですわ、カケルさまの瞳の色が他の皆さまと異なっているのは、イコロだからではないのでしょうか?」
イコロには物と人、どちらも存在するが、イコロの人の特徴としては、異能を持つことのほか、髪や瞳の色がノチウの民特有の茶色と異なることが挙げられる。
シャラの髪が銀色なのも、それ故『ゆえ』だ。とすれば、カケルの瞳の色が黒いのもまた、イコロである証拠とならないだろうか。
少女たちの期待を込めたまなざしに、しかしカケルは首を横に振った。
「イコロって『村の宝』のことだよな。でも俺はなんの能力も持っていないから違うと思う。それに、イコロって村ごとに違うだろうし、どんな人がいるのか、どんな物があるのかまでは覚えていないな……というか、もともと知らなかった気がするよ」
察しの良いカケルはそこまで答えてから何かに気づいたらしく、「なるほど」と手を打つ。
「つまり、この村のイコロが《神謡姫》って呼ばれてる、シャラ殿ってこと?」
「ああ。シャラは予知ができたり、生まれつき、すべての『星神謡』を記憶していて歌うことができるんだ。それに、そこにいる守獣の白狼が、イコロであるもうひとつの証拠というわけさ」
守獣といわれる所以 となったように、彼は常にシャラのそばに付き従い、彼女を見守っている。
朝の爽やかな風にそよそよと揺れる美しい毛並みは、まるで雪のように真っ白で――それは守獣に共通した特徴でもある。
「彼は、ガセツという名ですの」
それまで主 の傍 らで静かに伏せて目を閉じていた白狼ガセツは、シャラに背中を優しく撫でられ、気持ち良さそうに顔を上げた。
その瞳は、神々(こうごう)しさ漂う金色に輝いている。
「へぇ……綺麗な名だね。よろしく、ガセツ」
と、微笑みかけながらガセツを撫でようとした瞬間、カケルは突然びくりと痙攣 したかのように、伸ばしていた手を引っ込めた。
「……っ!」
さらに呻 き声を漏らしたかと思うと、片手を地につき、もう片方の手で頭を押さえた。苦しそうに眉間に皺を寄せ、額には脂汗を浮かべている。
「カケル殿っ!? どうしたっ?」
フウリは手入れしていた刀を鞘に納めるのも忘れて腰を浮かせると、突然グラリと傾 いだカケルの身体をとっさに支えた。
シャラはその様子に動揺して青ざめ、すがるようにしてガセツの首に抱きついている。
「あたまが……割れ、そう…だ……」
「え、えっと、痛み止めの薬草……は持ってきてないな、くそっ。ユィノ殿を呼んでくる! シャラ、彼を見ていてもらえるかっ?」
「わ、わかりましたわっ……」
それからフウリは村の東から中央広場を抜け、ユィノの家へと風のように駆け抜けた。が、扉を叩いても反応はなく、ユィノもリュートも留守にしているようだった。
「くっ、こんな時にっ!」
フウリが苛立たしげに唇を噛み、どうしたものかと周りを見回していると、その背にハヤブサの声がかかった。
「あれ? フウリ?」
どうやら彼は馬上の荷を下ろし終わり、馬小屋へと向かう途中だったらしい。
「アイツを一人にして、こんなとこで何してんの?」
いまだ不機嫌さを残した様子で尋ねてきた彼に、フウリは答えず詰め寄る。
「ハヤブサ! ユィノ殿を見なかったかっ?」
「え、あぁ……パシクルさん家 の子が熱出したみたいでさ、診 に行く途中で会ったけど……なんかあったのか?」
フウリのただならぬ様子を怪訝 に思ったハヤブサは、馬から下りて首を傾げた。
「カケル殿が、急に頭が痛いと言って……苦しんでいるんだっ!」
「アイツが? ……わかった。オレがパシクルさん家に行って、ユィノ姐(ねえ)さん連れてくるよ。場所はさっきの広場んトコか?」
「あぁ、恩に着る!」
ハヤブサが再び馬に飛び乗り、村の南に駆けて行くのを見送ると、フウリはすぐに踵 を返して広場へと戻り始める。
が、広場に近づいた時、フウリは驚きに目を見開きながら足を止めた。
「……シャラが、歌ってる?」
広場の方から流れくる風に乗って、凛 とした美声 が聞こえた。
歌われているのは、癒しの歌とも云 われる星神謡で、フウリが村へ来たばかりの頃よく聴いていたものだ。
思わず聞き入りそうになったところでハッと我に返り、広場に駆け戻ると、シャラは竹の長椅子に横たえられたカケルの前で、両手を広げて高らかに歌っていた。
いつの間にか、その歌声に引き寄せられるようにして、近所の村人や子どもたちの姿も集まりつつある。
白い雲が浮かぶ夏空に溶けゆくような澄んだ歌声に、フウリだけでなく、誰もが呆然と立ったまま聞き入った。中には心地良さに身を委 ねるように目を閉じている者もいる。
そして、癒しの星神謡が余韻を残して歌い終わると同時に、ユィノを乗せたハヤブサの愛馬の足音が広場に駆け込んできた。
「……えーっと、もしかして、私の手はもういらないかしら?」
そうつぶやいたユィノの視線の先には、痛みが治まったのか、自力で起き上がろうとしているカケルの姿があった。
「カケル殿、大丈夫なのかっ?」
「え、あぁ……なんかよくわからないけど、痛みはもう消えたよ」
フウリが駆け寄り、確かめるように問うと、カケルはいつもの優しげな笑みを見せた。
その言葉に嘘がないのを感じ取り、フウリは深いため息をつく。
「よかった……」
「心配してくれてありがとう」
「あ……いや、私は……礼を言われるほどのことは何もできなかったのだが……」
と苦笑したフウリだったが、そんな彼女をカケルは、まるで幼子 にするように、頭をそっと撫でた。
その慈愛に満ちた黒い瞳を見た瞬間、フウリの脳裏に何かが過ぎった。
「カケル殿……?」
出会った日の夜にも感じた、懐かしいような、胸のあたりが苦しくなるような不思議な感覚――しかしそれがなんであったかを思い出す前に、フウリは割り込んできた声で我に返った。
それは、やけに親密な空気を漂わせ、見つめ合っているカケルのフウリの様子を黙って見ていることができなかったハヤブサの声だった。
「お前、ホントに人騒がせなヤツだな! ったく、人がせっかくユィノ姐 さんを連れてきたってのによぉ、こっちには礼の言葉はないのかっってんだ!」
フウリ同様、どこかボーッとしていたカケルは、その言葉に慌てて姿勢を正すと、ハヤブサに向かって深く頭を下げた。
「それは本当に申し訳なかった。ありがとう、ええと……ハヤブサ殿?」
「うわっ、お前なんかに馴 れ馴れしく呼ばれたくないし!」
そんな言い方はないだろう、と誰もがツッコミを入れようとしたが、カケルは気にした風もなく立ち上がると、ユィノにも頭を下げる。
「ユィノ殿もわざわざ足を運んでくださって、いつも本当にすみません」
「ま、あたしは薬師だからね、具合が悪い者のところへ駆けていくのは当然さ。で、見たところ顔色は問題ないようだけど、何があったんだい?」
カケルは苦笑すると、急に頭が痛くなって動けなくなってしまったことを話した。
そして、フウリがユィノを呼びに駆けていった後、シャラが思いつきで癒しの星神謡を歌い始めたらしい。
すると、まるでシャラの歌が身体に染み込んでいくような感覚に陥り、頭痛が和 らいでいったのだという。
「シャラ殿にも、なんとお礼を言ったらいいか……」
カケルに頭を下げられたシャラは、恥ずかしそうに俯くと、首を横に振った。
「わたくしにできるのは……歌うことだけ、ですもの……」
「シャラの歌には癒しの力が宿っているんだろうねぇ。そういえば、フウリも小さい頃はよく歌ってもらっていたんじゃない?」
ユィノはシャラの功績を称えつつ、しみじみとした様子で目をすがめた。
「……え、あぁ、シャラの歌の話? うん、私もよく癒されているよ」
何か考え事をしていて会話を聞き逃していたらしいフウリは、ユィノに話を振られ、わずかにずれたことを言ってしまった。
「フウリ、どうかした?」
「……いや、別に、どうもしないが?」
わずかに慌てた様子を見せたフウリを、ユィノとハヤブサは怪訝そうに見つめる。
「と、ところで皆さま、そろそろ朝餉(あさげ)にしませんか? わたくし、歌ったらお腹が空いてしまいましたわ」
「そういえば、まだだったな。付き合ってもらってすまなかったな、シャラ」
空を仰(あお)ぎ見れば、いかにも夏らしい太陽がすっかり上り、今日も元気に輝いている。
普段はフウリは夜明けすぐから広場で刀の稽古をして、一汗かいてから朝餉を摂るようにしているのだが、今日はカケルを連れてきて打ち合ったりしているうちに、いつもよりも多く時が経っていたらしい。
「あら、食欲のないシャラにしては珍しいこと言うのね……というか、フウリもまだ食べていなかったの? もしかして、ハヤブサやカケルさんもまだ?」
「あ、オレは狩猟に行く途中で食ったよ。でもその後、結構動いたから腹減ったなー」
「俺は……」
「カケル殿も、食べる前に私が連れ出してしまったから、まだだよな」
次々と状況を報告され、ユィノは頼もしげな笑みを浮かべて頷く。
「ふぅん、じゃあ……たまにはウチで食べていかない? 実はまだ、旦那と二人分の食事作りってのに慣れてなくて、つい多く作りすぎちゃうのよねぇ。残り物のトゥレ団子汁 でよければ、だけど……」
ユィノがリュートと結婚したのは前の冬のことだったが、様々な事情があって、二人が一緒に暮らし始めることができたのは、春の終わり頃だった。
それまでユィノは、祖母である長老エミナと妹のシャラ、そしてフウリの四人で暮らしていた。そして、食事作りを担当していたユィノの料理は、フウリたちが村一番だと思っているほど美味しい。
故に、この提案にシャラとフウリは揃って目を輝かせた。
そして、その味を何度か味わったことのあるハヤブサも、それまでの機嫌の悪さを吹き飛ばすかのごとく、こう叫んだのだった。
「よっしゃあ! ユィノ姐さんのウマい飯が、久々に味わえるぜー!」
フウリが刀を鞘に納め、額に滲んでいた汗をぬぐっていると、不安そうな表情を浮かべたシャラが駆け寄ってきた。
「大丈夫だよ、シャラ。でも、心配させてしまって悪かったね。それにしても……カケル殿は強いな。実戦ならば危うく命を落としていたところだったぞ」
シャラに向けていた笑顔を、そのままカケルにも向けたフウリは、満足げに言った。
その瞳はいつになく楽しげで、生き生きと輝いている。
「いや、きみだって相当な腕前だろう。思わずムキになって、本気で打ちかかってしまって申し訳なかったよ」
カケルはそう言って爽やかな笑顔を浮かべ、借りていた刀を鞘に納めると、それをフウリに差し出した。
「本気で、と頼んだのは私だからな、謝る必要はない。むしろ、久々に緊張感のある稽古ができて、礼を言いたいくらいだ。もしよければ、また手合わせを願いたいのだが……」
「って、フウリちゃん、待った!」
機嫌よく物騒な会話を続けるフウリとカケルの間に慌てて割り込んだのは、先ほど
「あぁ、レオク殿か。先ほどは止めに入ってくれて助かったぞ」
「いや、そういう話じゃなくて……」
「そうだよ、なんでコイツが村の方にに来てんだよっ! 長老とか村会議のおっちゃんたちとか、このこと知ってんのかよ? 大体、本気で打ち合っていて、もし何かあったらどうしてたんだよ!」
レオクを押しのけ、あからさまな敵意をカケルに向けながらハヤブサが叫んだ言葉は、今まさにレオクが指摘しようとしていたことだった。
「……えっと、それは……」
二人から追及されたフウリは、気まずそうに視線を泳がせながら頬をかいた。
その騒ぎに、仕合が終わって一旦散りかけていた野次馬たちが再び戻ってくる。中には、騒ぎを聞きつけて新たにやってきた家長たちの姿も混ざっていた。
「その……」
フウリはこのところ毎日、カケルの様子を見るためにシュンライの工房へ通っていたのだったが、彼の傷がほとんど癒えたのを知り、連れ出してみようと思い立った。
村の皆も実際にカケルに会って話してみれば、彼が村に害をなすような人ではないのだと、言葉ではなく理解してもらえると、フウリは考えたのだ。
工房の主であるシュンライは、カケルと最も多く話す機会があり、すでに信頼に
ユィノにいたっては、寝てばかりいると身体によくないし、傷の痛みがないようなら動いた方がいいと、背中を押してくれた。
しかし確かにハヤブサの言うとおり、誰の許可も得ていないのは事実だったので、フウリは言い訳するのを諦め、肩を落とした。
「すまない、勝手なことをして……」
そこへ、鈴の音のような
「あ、あのっ、わ、わたくしが、カケルさまにお会いしてみたいと申したのです。それで、フウリさまにお願いして、彼を村へ連れてきて頂いたので……フウリさまは悪くないのです。ですから、この騒ぎの責任はわたくしにあります。すみませんでした……」
それはシャラがフウリとカケルを皆から
シャラが夢で予知した存在を
「おいおい、シャラさまが謝ってるぞ……」
「あっ、おら、畑仕事に行く時間だったわ……」
頭を下げている神謡姫の姿に、居心地が悪くなった野次馬たちは早々に散り始める。
さすがにレオクも気まずく感じたのか「念のため長老に報告してくる」と言って駆け出し、ハヤブサも「採ってきた食糧を蔵に置いて戻ってくるから」と、その場から逃げるように、馬を連れて立ち去ってしまった。
やがて広場には、もともと広場で刀の稽古をしていたサムライたちと、数名の
そんな中、漂っていた気まずい雰囲気を打ち破ったのは、筆頭サムライを務めるフウリだった。
「皆、本日の稽古はこれで
その一声でサムライたちも四方へ散っていくと、広場の最も近くに住む家長でサムライ仲間の青年、キサラがフウリのもとへ近寄ってきた。
「フウリさん、僕らのような若手の家長たちは案外、あなたのやっていることに賛成してるんですよ。年寄り連中は警戒しすぎて、なかなか人の話を聞き入れてくれないからね。時にはこういう無茶も、新鮮な風が吸えて良いものだよ」
そう言いながら穏やかな笑みを浮かべているキサラの様子に、フウリはわずかに頬を緩める。
「キサラ殿……そう言ってもらえると心強い」
「まぁ、こう言うのも、実際に彼のことを間近に見れてホッとしたからなんだけどね。人は、見えないモノを怖がるからさ。他の人たちもそうなんじゃないかな……」
「なるほど……」
フウリが彼の言葉に納得げに頷いたのを見届けたキサラは、少し照れくさそうに微笑むと、一礼してから自分の家へと戻っていった。
「シャラ、さっきは助けてくれてありがとう。シュンライ殿たちが意外とあっさり受け入れてくれたものだったから、つい村でも大丈夫かなと思ってしまったんだけど、やはり軽率だったよ……」
「いいえ。だって、カケルさまにお会いしてみたいと思っていたのは本当のことですし」
シャラにそう言われ、手を握られた瞬間、フウリは沈んでいた心がフワリと軽くなるのを感じた。
そして、彼女の緩やかに波打った長い銀髪が風に揺れるのを見ているうち、不思議と心が
「カケル殿にも嫌な思いをさせてしまって、すまなかったな。ハヤブサは悪い奴じゃないんだが……」
フウリは、明らかな敵愾心を向けていた彼のことを思い出して苦笑する。
「気にしてないよ。それに、このご時勢にどこの誰だかわからない奴が村に突然現れたら、警戒して当然さ。むしろ、キミもシャラ殿も、俺のせいで村での立場が悪くなったりするんじゃない?」
「いや、私は気にしないし、シャラの立場が悪くなることも絶対にありえないから、問題ない」
フウリはサラッとそう答えると、広場の端に置かれている竹の長椅子にシャラを座らせ、自分はその横の地面で
カケルはフウリに
「……絶対に?」
フウリに断言されたシャラは、カケルから問うような視線を受け、恥ずかしそうに
「ああ。シャラは神謡姫だからな」
「……すまない、俺にはその『神謡姫』ってのが、どういうものなのかよくわからないんだけど……その、すごい存在、なんだ?」
「あっ……」
当然、『神謡姫』のことを知っているものだと思い込んで話していたフウリとシャラは、カケルの言葉に驚いて顔を見合わせた。
「えーっと、そうか。カケル殿にはまだ何も話していなかったな」
そういえば、シャラとカケルは先ほど会ったばかりで、まだお互いの名前しか交わしていなかったのだ。
フウリはそのことをようやく思い出して苦笑すると、言葉を続けた。
「では、
「そうですわ、カケルさまの瞳の色が他の皆さまと異なっているのは、イコロだからではないのでしょうか?」
イコロには物と人、どちらも存在するが、イコロの人の特徴としては、異能を持つことのほか、髪や瞳の色がノチウの民特有の茶色と異なることが挙げられる。
シャラの髪が銀色なのも、それ故『ゆえ』だ。とすれば、カケルの瞳の色が黒いのもまた、イコロである証拠とならないだろうか。
少女たちの期待を込めたまなざしに、しかしカケルは首を横に振った。
「イコロって『村の宝』のことだよな。でも俺はなんの能力も持っていないから違うと思う。それに、イコロって村ごとに違うだろうし、どんな人がいるのか、どんな物があるのかまでは覚えていないな……というか、もともと知らなかった気がするよ」
察しの良いカケルはそこまで答えてから何かに気づいたらしく、「なるほど」と手を打つ。
「つまり、この村のイコロが《神謡姫》って呼ばれてる、シャラ殿ってこと?」
「ああ。シャラは予知ができたり、生まれつき、すべての『星神謡』を記憶していて歌うことができるんだ。それに、そこにいる守獣の白狼が、イコロであるもうひとつの証拠というわけさ」
守獣といわれる
朝の爽やかな風にそよそよと揺れる美しい毛並みは、まるで雪のように真っ白で――それは守獣に共通した特徴でもある。
「彼は、ガセツという名ですの」
それまで
その瞳は、神々(こうごう)しさ漂う金色に輝いている。
「へぇ……綺麗な名だね。よろしく、ガセツ」
と、微笑みかけながらガセツを撫でようとした瞬間、カケルは突然びくりと
「……っ!」
さらに
「カケル殿っ!? どうしたっ?」
フウリは手入れしていた刀を鞘に納めるのも忘れて腰を浮かせると、突然グラリと
シャラはその様子に動揺して青ざめ、すがるようにしてガセツの首に抱きついている。
「あたまが……割れ、そう…だ……」
「え、えっと、痛み止めの薬草……は持ってきてないな、くそっ。ユィノ殿を呼んでくる! シャラ、彼を見ていてもらえるかっ?」
「わ、わかりましたわっ……」
それからフウリは村の東から中央広場を抜け、ユィノの家へと風のように駆け抜けた。が、扉を叩いても反応はなく、ユィノもリュートも留守にしているようだった。
「くっ、こんな時にっ!」
フウリが苛立たしげに唇を噛み、どうしたものかと周りを見回していると、その背にハヤブサの声がかかった。
「あれ? フウリ?」
どうやら彼は馬上の荷を下ろし終わり、馬小屋へと向かう途中だったらしい。
「アイツを一人にして、こんなとこで何してんの?」
いまだ不機嫌さを残した様子で尋ねてきた彼に、フウリは答えず詰め寄る。
「ハヤブサ! ユィノ殿を見なかったかっ?」
「え、あぁ……パシクルさん
フウリのただならぬ様子を
「カケル殿が、急に頭が痛いと言って……苦しんでいるんだっ!」
「アイツが? ……わかった。オレがパシクルさん家に行って、ユィノ姐(ねえ)さん連れてくるよ。場所はさっきの広場んトコか?」
「あぁ、恩に着る!」
ハヤブサが再び馬に飛び乗り、村の南に駆けて行くのを見送ると、フウリはすぐに
が、広場に近づいた時、フウリは驚きに目を見開きながら足を止めた。
「……シャラが、歌ってる?」
広場の方から流れくる風に乗って、
歌われているのは、癒しの歌とも
思わず聞き入りそうになったところでハッと我に返り、広場に駆け戻ると、シャラは竹の長椅子に横たえられたカケルの前で、両手を広げて高らかに歌っていた。
いつの間にか、その歌声に引き寄せられるようにして、近所の村人や子どもたちの姿も集まりつつある。
白い雲が浮かぶ夏空に溶けゆくような澄んだ歌声に、フウリだけでなく、誰もが呆然と立ったまま聞き入った。中には心地良さに身を
そして、癒しの星神謡が余韻を残して歌い終わると同時に、ユィノを乗せたハヤブサの愛馬の足音が広場に駆け込んできた。
「……えーっと、もしかして、私の手はもういらないかしら?」
そうつぶやいたユィノの視線の先には、痛みが治まったのか、自力で起き上がろうとしているカケルの姿があった。
「カケル殿、大丈夫なのかっ?」
「え、あぁ……なんかよくわからないけど、痛みはもう消えたよ」
フウリが駆け寄り、確かめるように問うと、カケルはいつもの優しげな笑みを見せた。
その言葉に嘘がないのを感じ取り、フウリは深いため息をつく。
「よかった……」
「心配してくれてありがとう」
「あ……いや、私は……礼を言われるほどのことは何もできなかったのだが……」
と苦笑したフウリだったが、そんな彼女をカケルは、まるで
その慈愛に満ちた黒い瞳を見た瞬間、フウリの脳裏に何かが過ぎった。
「カケル殿……?」
出会った日の夜にも感じた、懐かしいような、胸のあたりが苦しくなるような不思議な感覚――しかしそれがなんであったかを思い出す前に、フウリは割り込んできた声で我に返った。
それは、やけに親密な空気を漂わせ、見つめ合っているカケルのフウリの様子を黙って見ていることができなかったハヤブサの声だった。
「お前、ホントに人騒がせなヤツだな! ったく、人がせっかくユィノ
フウリ同様、どこかボーッとしていたカケルは、その言葉に慌てて姿勢を正すと、ハヤブサに向かって深く頭を下げた。
「それは本当に申し訳なかった。ありがとう、ええと……ハヤブサ殿?」
「うわっ、お前なんかに
そんな言い方はないだろう、と誰もがツッコミを入れようとしたが、カケルは気にした風もなく立ち上がると、ユィノにも頭を下げる。
「ユィノ殿もわざわざ足を運んでくださって、いつも本当にすみません」
「ま、あたしは薬師だからね、具合が悪い者のところへ駆けていくのは当然さ。で、見たところ顔色は問題ないようだけど、何があったんだい?」
カケルは苦笑すると、急に頭が痛くなって動けなくなってしまったことを話した。
そして、フウリがユィノを呼びに駆けていった後、シャラが思いつきで癒しの星神謡を歌い始めたらしい。
すると、まるでシャラの歌が身体に染み込んでいくような感覚に陥り、頭痛が
「シャラ殿にも、なんとお礼を言ったらいいか……」
カケルに頭を下げられたシャラは、恥ずかしそうに俯くと、首を横に振った。
「わたくしにできるのは……歌うことだけ、ですもの……」
「シャラの歌には癒しの力が宿っているんだろうねぇ。そういえば、フウリも小さい頃はよく歌ってもらっていたんじゃない?」
ユィノはシャラの功績を称えつつ、しみじみとした様子で目をすがめた。
「……え、あぁ、シャラの歌の話? うん、私もよく癒されているよ」
何か考え事をしていて会話を聞き逃していたらしいフウリは、ユィノに話を振られ、わずかにずれたことを言ってしまった。
「フウリ、どうかした?」
「……いや、別に、どうもしないが?」
わずかに慌てた様子を見せたフウリを、ユィノとハヤブサは怪訝そうに見つめる。
「と、ところで皆さま、そろそろ朝餉(あさげ)にしませんか? わたくし、歌ったらお腹が空いてしまいましたわ」
「そういえば、まだだったな。付き合ってもらってすまなかったな、シャラ」
空を仰(あお)ぎ見れば、いかにも夏らしい太陽がすっかり上り、今日も元気に輝いている。
普段はフウリは夜明けすぐから広場で刀の稽古をして、一汗かいてから朝餉を摂るようにしているのだが、今日はカケルを連れてきて打ち合ったりしているうちに、いつもよりも多く時が経っていたらしい。
「あら、食欲のないシャラにしては珍しいこと言うのね……というか、フウリもまだ食べていなかったの? もしかして、ハヤブサやカケルさんもまだ?」
「あ、オレは狩猟に行く途中で食ったよ。でもその後、結構動いたから腹減ったなー」
「俺は……」
「カケル殿も、食べる前に私が連れ出してしまったから、まだだよな」
次々と状況を報告され、ユィノは頼もしげな笑みを浮かべて頷く。
「ふぅん、じゃあ……たまにはウチで食べていかない? 実はまだ、旦那と二人分の食事作りってのに慣れてなくて、つい多く作りすぎちゃうのよねぇ。残り物のトゥレ
ユィノがリュートと結婚したのは前の冬のことだったが、様々な事情があって、二人が一緒に暮らし始めることができたのは、春の終わり頃だった。
それまでユィノは、祖母である長老エミナと妹のシャラ、そしてフウリの四人で暮らしていた。そして、食事作りを担当していたユィノの料理は、フウリたちが村一番だと思っているほど美味しい。
故に、この提案にシャラとフウリは揃って目を輝かせた。
そして、その味を何度か味わったことのあるハヤブサも、それまでの機嫌の悪さを吹き飛ばすかのごとく、こう叫んだのだった。
「よっしゃあ! ユィノ姐さんのウマい飯が、久々に味わえるぜー!」