星神祭の夜 *7*
文字数 7,592文字
「そんな! カケル従兄 さまが密偵をしていたなんて……」
シュンライが村会議の場でカケルに聞いた内容を話し終えた時、フウリは愕然 とした。
記憶を取り戻したら真っ先に自分に話してくれるという約束を破られたことより何よりも、彼の十年間を思うと、苦しくて胸が潰れそうになった。
ユィノが不審がっていた彼に残っていた痛々しい痕 の数々は、密偵として従わせるためエランクルによって拷問された痕だったのだという。フウリがユィノに助けられ、この村でぬくぬくと平和に過ごしている間、彼はずっと独りで苦しみと闘っていたというのか――。
フウリはいてもたってもいられなくなり、とうとう会議の席から飛び出した。
一旦家に戻って急いで旅支度を整えると、何事かと驚いているシャラを振り切り、すぐさま馬小屋へと向かった。
荷をくくり付け、これからしばらく世話になる愛馬の額をひと撫でし、その背に跨った瞬間、フウリを心配して探しにきたハヤブサの声が響いた。
「おい、どこ行くんだよ。まさかアイツを追いかけようとか考えてんじゃねぇよなっ?」
振り返ったフウリは、泣き出しそうになるのを堪 え、笑おうとして失敗した。
「……私は行くよ。もう、従兄 さま一人に辛い思いをさせるなんて、耐えられない」
「って、親父の話、聞いてなかったのかよ! アイツは……お前を守るために一人で行ったんじゃねぇかよ! それなのに追っていったら、ただの馬鹿じゃねぇか!」
「馬鹿で結構だ! 私は、私は……」
カケル従兄 さまにもう一度逢いたいだけなんだ――。
フウリは手綱を握る手に力を込めると、ハヤブサをまっすぐに見つめる。
「頼む、行かせてくれ、ハヤブサ!」
「……くそっ! だからアイツのことは最初から嫌いだったんだよ!」
叫びながら道を空けてくれたハヤブサを振り切って駆け出したフウリの頬には、愛しさや寂しさ、溢れる想いと共に、一筋の涙が伝っていた――。
それからフウリは、カケルに追いつこうと、ひたすら南へ馬を駆った。
エランクルの拠点となっているだろう場所はシュンライから聞いた。昔、敵の情報を調べていた頃と変わっていないのならば、ノチウ大陸の南西沿岸部。それも、幼い頃にフウリがカケルと二人で通った、ユゥカラ村近くの丘から見えていた海の近くだという。
昼間の明るい時分には身を潜めて馬を休め、陽が沈む頃から夜通しで南下した。いくつもの山を越え、川を渡り、森を抜け、やがて夜闇に隠れていた月が満ちる頃――フウリの鼻腔 を懐かしい潮の香りがくすぐった。
「ミコゼ、ここまでがんばってくれてありがとう」
エランクルの拠点が近づき、そこからは徒歩に切り替えることにした。本当は逃げ出すときに馬の存在は必要不可欠だ。が、敵に見つかっても愛馬が逃げられるようにと、フウリは木に繋がず、森の中で放してやった。
独りきりになり、ふと夜空を振り仰ぐと、月光を浴びて白く輝く梟 が翼を広げて旋回しているのが見えた。
「あれは……チカップ? まさか、な……」
ニタイ村から『神鳴 の弓』を守るためについてきて、すっかりセンリュ村に馴染 んでいた守獣の白梟のことが脳裏を掠めた。
弓を継承したハヤブサとは、時々一緒に狩りに出ていたみたいだったが……まさか、あの状況でハヤブサまでもがフウリを追いかけてきたなど、あるわけがない。
フウリは自分が弱気になっているからそう見えたのかもしれないと頭 を振り、再び夜空を確かめるように見上げる。と、そこにはもう何も飛んでいなかった。
気を取り直し、目の前のことに集中しようと深呼吸する。
草むらを這 うように進み、丘の下を覗き見ると、かつて緑で溢れていたその場所は、見たことのない造りの立派な建物が建ち並び、窓からは真夜中にも関わらず煌々とした光が漏れていた。が、彼らは怖いものなどないと思っているのか、警備している者の姿はいくら探しても見当たらない。
フウリは逆にこれを不審に思って眉根を寄せた。
しかし、ここでこうしていつまでも身を潜めていては、来た意味がない。
途中で追いつけるだろうかと期待していたカケルには、とうとう逢えなかった。先にあのエランクルたちの拠点へ入っていったであろう彼が、今どこでどうしているのかはわからない。すでに再び捕 らえられ、酷い目にあっているかもしれない。
ただひとつわかるのは、彼がまだ生きているということ。
フウリは不思議と、そのことだけは確信を持っていた。
「カケル従兄 さま……」
フウリは愛刀の鞘をギュッと握り締めると、息を殺して敵陣に近づいていった。
遠くから見たとおり、エランクルたちの警備はまったくないと言ってもいいほど簡素なもので、見張り用と思われる櫓 は四方 に建っているものの、その上に人の姿はなかった。
が、中央の一番大きく高い建物からは、賑やかな楽の音と人の声が響いてきた。
どうやら、何らかの宴 を催 しているようだった。
それは好都合とばかりに、フウリは風のように敵陣内を駆け回り、やがて海に最も近い場所に佇んでいる、寂 れた建物を見つけた。
石造りのその建物だけはなんの装飾も施されておらず、扉もひとつしかない。窓は高いところにいくつかあるが、どれも小さい――まるで、何かを外に逃がさないように造られているようだ。
そこが牢のようなところではないかと推測したフウリは、周囲を一層警戒しつつ、近づいていった。
戸口にはやはり、鎖と共に鍵がかけられていた。が、うまくやれば、刀で断ち切れなくもないと判断したフウリは、気を静め、全神経を一点に集中させていく。
鯉口を切った次の瞬間、振り下ろされたフウリの刀によって、ギィンと鈍い音を立てながら鎖は見事に砕け落ちた。
フウリは額に滲んだ冷や汗を拭うと、再び周囲を見回してからその建物に潜り込んだ。
「……っ」
中に入った瞬間、闇の中に漂っている埃やカビ、錆 のような臭いにフウリは思わず顔をしかめ、鼻と口を袖口で覆った。
錆のような臭いは……血だ。
ここが牢かもしれないという考えは、当たっていた。
暗闇に慣れてきたフウリの瞳が映したものは、鉄格子 の向こうで壁に取り付けられた枷 を両手に嵌 められ、ぐったりとしているカケルの姿だった。
「――っ従兄 さま!」
フウリはその姿に息をのみ、格子を掴んで悲鳴に近い声を上げた。
その声に反応したのか、力なく垂れ下がっていたカケルの頭がゆっくりと持ち上がる。うっすらと開かれた虚 ろな黒い瞳は、やがてフウリの姿に気付いて、少しずつ見開かれていった。
「――リ? ……な、んで?」
「カケル従兄 さま……昔、約束したではないですか! 従兄さまをいじめるものは、私が成敗すると!」
フウリは目の端 に滲んだ涙を乱暴に拭うと、刀を抜いた。格子についていた鍵を斬り壊し、牢の中へ飛び込む。カケルを拘束している枷をも一刀で破壊すると、力なく倒れ込んだ彼を抱き起こした。
「従兄 さま、立てそうですか? 早くここから逃げましょう」
「だめ……だよ、こんなことして……アイツに見つか…たら、キミが……」
「見つかったらその時はその時だ。彼らには聞きたいこともあるし……今の私は絶対に負ける気はしないからな。さぁ、急いで……」
随分と勇 ましく育ったものだと、カケルは諦めたように、わずかに口元を綻 ばせた。
「わかった……行こう、フウリ」
「はい!」
しかし――足下をふらつかせているカケルを支えながら、建物の外へ出た瞬間、二人は自分たちの甘さを思い知ることとなった。
「これはこれは、飛んで火にいるなんとやら……愛する者を助けにきたのは王子様ではなく、かような姫君 とは――」
黒い外套 に身を包み、圧倒的な存在感を放っているのは、エランクル総大将――。
齢 は三十を少し過ぎた頃か、漆黒 の髪を潮風になびかせ、何もかも飲み込んでしまいそうな闇色の瞳には、残忍さが滲んでいる。
まるで、仕留めた獲物を舌先で舐め回す獰猛 な獣のような男の視線に、フウリは総毛 だった。
「フォルデ、君が言っていたのはもしかして、この娘 のことかい?」
青年の問いに、斜め後ろに控えるように立っていた者――フウリがニタイ村で一度対峙している、頬に傷のある長身の男が「はい、ラグド様」と短く答えた。
この二人がエランクル最強の人物だと知っているカケルは、思わず呻 いた。
「……フウリ、逃げ、て……」
が、フウリは刀の柄に手をかけたまま動かなかった――いや、動けずにいた。
そして、つぶやかれたカケルの言葉に反応したのはエランクル総大将――ラグドと呼ばれた青年の方だった。
「へぇ……フウリちゃんって言うの? 勇ましい割に可愛 い名前なんだね……でも。君に逃げる場所なんて……ないんだよ」
ラグドが微笑むと同時に空気がわずかに揺らいだ――次の瞬間、一気に間合いを詰められたフウリは、その額に冷たく固い何か……銃口を押し付けられていた。
「……くっ」
刀を抜く隙もなく武器を突きつけられたフウリは、しかし怯まなかった。まっすぐにラグドの視線を受け止め、睨み返した。
隣にいたはずのカケルはいつの間にか、フォルデによって捕らえられていた。
「……ああ、もしかして君、この武器がどういうものか知らないの?」
だから恐がる様子を見せないのかと思ったラグドは、ふと口元に笑みを浮かべると、銃口をすぐ後ろのカケルに向け、なんのためらいもなく引き金を引いた。
パァン、と乾いた音と共にカケルのうめき声が上がり、その場に鮮血が散った。
「従兄 さまっ!」
さすがに驚き、ビクリと肩を震わせたフウリに、ラグドは満足げに目を細めると、今度は銃口を彼女の左胸に押し当てた。
「そうそう、少しは怖がってくれないと、面白くないよ」
が、その言葉にフウリはハッと我に返ると、目を見開いた。
「面白くない、だと?貴様 、人の命をなんだと思っているんだ!」
これにはラグドも一瞬驚いた様子を見せ……しかし、余裕の笑みはまだ消えなかった。
「人の命? 違うよ。君たちは俺の『玩具 』なんだから、どうやって遊んだって持ち主の勝手だろう?」
「……正気か?」
フウリは確かに以前、記憶を取り戻しかけたカケルから、そんなことを考えている奴がいるとは聞いていたが、そんなのは何かの間違いだと思っていた。いや、単に否定したかっただけなのかもしれないが。
フウリの問いに、ラグドは珍しいものでも見たかのように目を丸くした。かと思うと、クスクスと笑い始める。
「それはどうだろう。ねぇ、フォルデはどう思う? 俺、狂ってるように見えるかな?」
「……いえ」
「おいおい、フォルデ、今の一瞬の間はなんだい? まぁ、いいや。君、本当に面白いね。女のくせに武器を持って男を助けに来るとか、銃を突きつけられても全然怖がらないのとか……でも、そういう生意気な奴の方が屈服させ甲斐があるっていうか、色々楽しめそうで、いいね」
「私は、絶対に屈服などしない!」
フウリはわずかな隙をついて間合いを取ると、刀を抜き構えながら、続けた。
「それに、誰かを守りたいと思うのに性別は関係ないだろう。そもそも、貴様らの目的は何なんだ? 玩具で遊びたいだけの、ただのガキか? イコロが何であるかも知らないくせに、これ以上この大地を荒らす真似は……」
許さない――と言いかけ、しかしその先の言葉は言わせてもらえなかった。
「フウリっ!!」
悲鳴のようなカケルの声と同時に銃声が聞こえたと思った瞬間、フウリは右手に激しい痛みを受け、刀を取り落とすと同時に衝撃に仰 け反 った。
が、その間に一気に間合いを詰めてきたラグドに力強く腕を引かれたかと思うと、唐突に唇を奪われた。
「……んぅっ!」
力いっぱい突き放そうと暴れたフウリは、やっとのことで腕から逃れた反動で、その場に思い切り尻餅をついた。溢れた涙はそのままに、口元をぐいっと拭うと、手の甲から流れ出ていた血が唇を紅 く染め上げた。
「……なんの、つもりだ」
かろうじて出すことができたフウリの声は、わずかに震えていた。が、先よりもなお、激しく怒りに燃え上がったその瞳に見上げられ、ラグドは初めて感嘆の声を上げた。
「ははっ、本当に、屈服し甲斐がありそうな女だな、お前」
「ふざけるなっ!」
「ふさけてないよ。俺としたことが、少し本気になりそうだ……」
「ラグド様!?」
「ああ、フォルデはとりあえず、そいつの調教をもう一度最初からしておいて。俺はしばらくこの女で遊ばせてもらうとするよ」
「人の質問に答えろ! こんなことをして何が楽しい! 我らノチウが……何をしたというんだ……」
手首の痛みよりも、心が痛かった。力では敵わないと思いながら、多くの犠牲を思えば今ここで屈することは、ノチウの民としての誇りが許さなかった。
フウリは再び伸びてきたラグドの手を力いっぱい打ち払うと、南から吹いてきた潮風に助けられるようにして、飛び退 った。
しかし、ラグドは依然として勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、後ずさるフウリに向かってジリジリと近づいてくる。
「そうそう、聞くのを忘れてたけど、イコロってなんなの? どこの村でも随分と大切にされてるみたいだから、とりあえず集めてみたんだけどさぁ……あれ、どうやって使うモノなんだい? 君、知ってるんだろう?」
尋ねられたフウリは、唇を噛みながらラグドに返答する。
「……イコロは、厳しい自然と共に生きる我らノチウの民を助けるために、神々が与えてくださったものだ。だから、野を焼き山を崩し、多くの民の命を奪ってきた貴様たちには絶対使えない!」
「へぇ、そうなんだ。でもさ、君は使えるってことだよね。何、どんなことができるの? ムカツク奴の脳天に雷を落としちゃったりとかできる? 死んじゃった人とかさ……生き返らせたりできないかな?」
その言葉に、フウリはハッとした。
近づいてきたラグドの闇色の瞳に、一瞬ながら初めて人間らしい感情が垣間 見えた気がしたのだ。
「もしかして貴様……寂しい、のか?」
「え?」
虚 を衝 かれて瞳を揺らしたラグドに、フウリは何かを確信し、わずかに頬を緩める。
この人の瞳は、大切なモノを失う痛みを知っている、寂しさを映した瞳だ。
「ラグド、といったか? 貴様にも失いたくないものがあったのだろう? その誰かに会えなくて、寂しいのだと、瞳の奥で泣いているのが見えるよ……」
フウリの指摘に、今度はラグドとフォルデがなぜそんなことがわかったのだと言わんばかりに息を呑んだ。
「お前、一体……?」
「寂しさを紛らわすために我らの同胞が虐 げられているのでは、たまったものではないぞ。力任せに支配しようとしたって民の心は得られない。でも、求めているものをちゃんと言葉に出して対話すれば……」
「何を知ったような口を聞きやがって! やっぱりお前、目障 りだ!」
再び頭に血を上らせたラグドは、銃口をフウリに向け、引き金に手をかけた。
「フウリっ!」
動揺していたフォルデの隙をつき、カケルが拘束から逃れて駆け寄ってくるのが見え、フウリもそちらへ近づこうとした、その時。
パァン!
乾いた発砲音が響いた。
が、銃弾はあらぬ方向に飛んでいき、一同は何が起きたのかと目を瞠る。やがて、いち早く状況を把握したフォルデの叫び声が上がった。
「ラグド様っ!」
その場でガクリと膝をついたラグドの肩と背中には、二本の矢が突き刺さっていた。
その矢に見覚えのあったフウリは、瞬時に飛んできた方向を探り――遥か丘の上に蛍石の小さな光に照らされ、弓を構えている幼馴染の姿を見つけた。
「ハヤブサっ!?」
夜とはいえ、エランクルたちの拠点は明るい。が、それでもこの遠距離で正確に敵の肩を狙い射るとは、まるで神業 のようだった。さらに彼は次の矢を番 えたかと思うと、今度は月の輝く夜空へ向かって、それを放った。
「あれは、まさか……そういうことかっ!」
フウリは瞬時にハヤブサの考えを汲 み取ると、負傷して動揺しているラグドとフォルデの隙をつき、カケルを支えながら駆け出した。
と、突然風向きが変わり、輝いていた月は厚い雲に隠れたかと思うと、夜空に轟音が鳴り響いた。次いで、大地に突き刺さるような滝のごとき雨が降り注いでくる。
しかし、フウリとカケルの周りだけは、どこからか吹いてくる風が雨露を押しのけているらしく、穏やかなままだ。
「くそっ、何だこの雨はっ!?」
フウリはラグドのそばで叫んだフォルデの声に、一度だけ立ち止まり振り返ると、
「これが……イコロ『神鳴の弓』の力さ」
淡々とつぶやき返し、そして丘の上のハヤブサに向かって再び駆け出した。
突然の激しい雷雨と、総大将負傷の知らせに、満月の宴に盛り上がっていたエランクルの兵たちは混乱に陥っていた。
そんな中、一人で中央の邸 にラグドを担いで戻った副将フォルデは、内心の動揺を誰にも悟らせず、テキパキと傷の応急処置に当たっていた。
「ラグド様……自分は、彼女ともう一度話してみたいと思ったのですが……そんなことを言ったらお怒(いか)りになりますか?」
それまで痛みに顔を歪 めていたラグドだったが、その提案を鼻で笑うと、口の端 をわずかに吊り上げた。
「……ふん、随分と偉そうな口をきく副将になったものだな、フォルデ……。だがまぁ……俺が、生きていたら」
考えてやってもいいぞ――。
途切れ途切れに答えたきり、ラグドはぐったりと気を失ってしまった。が、フォルデはそんな、十年来の親友でもある上官に渋い笑みを浮かべ返した。
「ラグド様のことは、死なせませんよ」
――後 に、この夜の出来事は、エランクルとノチウの関係が変わるきっかけになったといわれ、『雷鳴の夜』として歴史に刻まれることとなったのだった――。
シュンライが村会議の場でカケルに聞いた内容を話し終えた時、フウリは
記憶を取り戻したら真っ先に自分に話してくれるという約束を破られたことより何よりも、彼の十年間を思うと、苦しくて胸が潰れそうになった。
ユィノが不審がっていた彼に残っていた痛々しい
フウリはいてもたってもいられなくなり、とうとう会議の席から飛び出した。
一旦家に戻って急いで旅支度を整えると、何事かと驚いているシャラを振り切り、すぐさま馬小屋へと向かった。
荷をくくり付け、これからしばらく世話になる愛馬の額をひと撫でし、その背に跨った瞬間、フウリを心配して探しにきたハヤブサの声が響いた。
「おい、どこ行くんだよ。まさかアイツを追いかけようとか考えてんじゃねぇよなっ?」
振り返ったフウリは、泣き出しそうになるのを
「……私は行くよ。もう、
「って、親父の話、聞いてなかったのかよ! アイツは……お前を守るために一人で行ったんじゃねぇかよ! それなのに追っていったら、ただの馬鹿じゃねぇか!」
「馬鹿で結構だ! 私は、私は……」
カケル
フウリは手綱を握る手に力を込めると、ハヤブサをまっすぐに見つめる。
「頼む、行かせてくれ、ハヤブサ!」
「……くそっ! だからアイツのことは最初から嫌いだったんだよ!」
叫びながら道を空けてくれたハヤブサを振り切って駆け出したフウリの頬には、愛しさや寂しさ、溢れる想いと共に、一筋の涙が伝っていた――。
それからフウリは、カケルに追いつこうと、ひたすら南へ馬を駆った。
エランクルの拠点となっているだろう場所はシュンライから聞いた。昔、敵の情報を調べていた頃と変わっていないのならば、ノチウ大陸の南西沿岸部。それも、幼い頃にフウリがカケルと二人で通った、ユゥカラ村近くの丘から見えていた海の近くだという。
昼間の明るい時分には身を潜めて馬を休め、陽が沈む頃から夜通しで南下した。いくつもの山を越え、川を渡り、森を抜け、やがて夜闇に隠れていた月が満ちる頃――フウリの
「ミコゼ、ここまでがんばってくれてありがとう」
エランクルの拠点が近づき、そこからは徒歩に切り替えることにした。本当は逃げ出すときに馬の存在は必要不可欠だ。が、敵に見つかっても愛馬が逃げられるようにと、フウリは木に繋がず、森の中で放してやった。
独りきりになり、ふと夜空を振り仰ぐと、月光を浴びて白く輝く
「あれは……チカップ? まさか、な……」
ニタイ村から『
弓を継承したハヤブサとは、時々一緒に狩りに出ていたみたいだったが……まさか、あの状況でハヤブサまでもがフウリを追いかけてきたなど、あるわけがない。
フウリは自分が弱気になっているからそう見えたのかもしれないと
気を取り直し、目の前のことに集中しようと深呼吸する。
草むらを
フウリは逆にこれを不審に思って眉根を寄せた。
しかし、ここでこうしていつまでも身を潜めていては、来た意味がない。
途中で追いつけるだろうかと期待していたカケルには、とうとう逢えなかった。先にあのエランクルたちの拠点へ入っていったであろう彼が、今どこでどうしているのかはわからない。すでに再び
ただひとつわかるのは、彼がまだ生きているということ。
フウリは不思議と、そのことだけは確信を持っていた。
「カケル
フウリは愛刀の鞘をギュッと握り締めると、息を殺して敵陣に近づいていった。
遠くから見たとおり、エランクルたちの警備はまったくないと言ってもいいほど簡素なもので、見張り用と思われる
が、中央の一番大きく高い建物からは、賑やかな楽の音と人の声が響いてきた。
どうやら、何らかの
それは好都合とばかりに、フウリは風のように敵陣内を駆け回り、やがて海に最も近い場所に佇んでいる、
石造りのその建物だけはなんの装飾も施されておらず、扉もひとつしかない。窓は高いところにいくつかあるが、どれも小さい――まるで、何かを外に逃がさないように造られているようだ。
そこが牢のようなところではないかと推測したフウリは、周囲を一層警戒しつつ、近づいていった。
戸口にはやはり、鎖と共に鍵がかけられていた。が、うまくやれば、刀で断ち切れなくもないと判断したフウリは、気を静め、全神経を一点に集中させていく。
鯉口を切った次の瞬間、振り下ろされたフウリの刀によって、ギィンと鈍い音を立てながら鎖は見事に砕け落ちた。
フウリは額に滲んだ冷や汗を拭うと、再び周囲を見回してからその建物に潜り込んだ。
「……っ」
中に入った瞬間、闇の中に漂っている埃やカビ、
錆のような臭いは……血だ。
ここが牢かもしれないという考えは、当たっていた。
暗闇に慣れてきたフウリの瞳が映したものは、
「――っ
フウリはその姿に息をのみ、格子を掴んで悲鳴に近い声を上げた。
その声に反応したのか、力なく垂れ下がっていたカケルの頭がゆっくりと持ち上がる。うっすらと開かれた
「――リ? ……な、んで?」
「カケル
フウリは目の
「
「だめ……だよ、こんなことして……アイツに見つか…たら、キミが……」
「見つかったらその時はその時だ。彼らには聞きたいこともあるし……今の私は絶対に負ける気はしないからな。さぁ、急いで……」
随分と
「わかった……行こう、フウリ」
「はい!」
しかし――足下をふらつかせているカケルを支えながら、建物の外へ出た瞬間、二人は自分たちの甘さを思い知ることとなった。
「これはこれは、飛んで火にいるなんとやら……愛する者を助けにきたのは王子様ではなく、かような
黒い
まるで、仕留めた獲物を舌先で舐め回す
「フォルデ、君が言っていたのはもしかして、この
青年の問いに、斜め後ろに控えるように立っていた者――フウリがニタイ村で一度対峙している、頬に傷のある長身の男が「はい、ラグド様」と短く答えた。
この二人がエランクル最強の人物だと知っているカケルは、思わず
「……フウリ、逃げ、て……」
が、フウリは刀の柄に手をかけたまま動かなかった――いや、動けずにいた。
そして、つぶやかれたカケルの言葉に反応したのはエランクル総大将――ラグドと呼ばれた青年の方だった。
「へぇ……フウリちゃんって言うの? 勇ましい割に
ラグドが微笑むと同時に空気がわずかに揺らいだ――次の瞬間、一気に間合いを詰められたフウリは、その額に冷たく固い何か……銃口を押し付けられていた。
「……くっ」
刀を抜く隙もなく武器を突きつけられたフウリは、しかし怯まなかった。まっすぐにラグドの視線を受け止め、睨み返した。
隣にいたはずのカケルはいつの間にか、フォルデによって捕らえられていた。
「……ああ、もしかして君、この武器がどういうものか知らないの?」
だから恐がる様子を見せないのかと思ったラグドは、ふと口元に笑みを浮かべると、銃口をすぐ後ろのカケルに向け、なんのためらいもなく引き金を引いた。
パァン、と乾いた音と共にカケルのうめき声が上がり、その場に鮮血が散った。
「
さすがに驚き、ビクリと肩を震わせたフウリに、ラグドは満足げに目を細めると、今度は銃口を彼女の左胸に押し当てた。
「そうそう、少しは怖がってくれないと、面白くないよ」
が、その言葉にフウリはハッと我に返ると、目を見開いた。
「面白くない、だと?
これにはラグドも一瞬驚いた様子を見せ……しかし、余裕の笑みはまだ消えなかった。
「人の命? 違うよ。君たちは俺の『
「……正気か?」
フウリは確かに以前、記憶を取り戻しかけたカケルから、そんなことを考えている奴がいるとは聞いていたが、そんなのは何かの間違いだと思っていた。いや、単に否定したかっただけなのかもしれないが。
フウリの問いに、ラグドは珍しいものでも見たかのように目を丸くした。かと思うと、クスクスと笑い始める。
「それはどうだろう。ねぇ、フォルデはどう思う? 俺、狂ってるように見えるかな?」
「……いえ」
「おいおい、フォルデ、今の一瞬の間はなんだい? まぁ、いいや。君、本当に面白いね。女のくせに武器を持って男を助けに来るとか、銃を突きつけられても全然怖がらないのとか……でも、そういう生意気な奴の方が屈服させ甲斐があるっていうか、色々楽しめそうで、いいね」
「私は、絶対に屈服などしない!」
フウリはわずかな隙をついて間合いを取ると、刀を抜き構えながら、続けた。
「それに、誰かを守りたいと思うのに性別は関係ないだろう。そもそも、貴様らの目的は何なんだ? 玩具で遊びたいだけの、ただのガキか? イコロが何であるかも知らないくせに、これ以上この大地を荒らす真似は……」
許さない――と言いかけ、しかしその先の言葉は言わせてもらえなかった。
「フウリっ!!」
悲鳴のようなカケルの声と同時に銃声が聞こえたと思った瞬間、フウリは右手に激しい痛みを受け、刀を取り落とすと同時に衝撃に
が、その間に一気に間合いを詰めてきたラグドに力強く腕を引かれたかと思うと、唐突に唇を奪われた。
「……んぅっ!」
力いっぱい突き放そうと暴れたフウリは、やっとのことで腕から逃れた反動で、その場に思い切り尻餅をついた。溢れた涙はそのままに、口元をぐいっと拭うと、手の甲から流れ出ていた血が唇を
「……なんの、つもりだ」
かろうじて出すことができたフウリの声は、わずかに震えていた。が、先よりもなお、激しく怒りに燃え上がったその瞳に見上げられ、ラグドは初めて感嘆の声を上げた。
「ははっ、本当に、屈服し甲斐がありそうな女だな、お前」
「ふざけるなっ!」
「ふさけてないよ。俺としたことが、少し本気になりそうだ……」
「ラグド様!?」
「ああ、フォルデはとりあえず、そいつの調教をもう一度最初からしておいて。俺はしばらくこの女で遊ばせてもらうとするよ」
「人の質問に答えろ! こんなことをして何が楽しい! 我らノチウが……何をしたというんだ……」
手首の痛みよりも、心が痛かった。力では敵わないと思いながら、多くの犠牲を思えば今ここで屈することは、ノチウの民としての誇りが許さなかった。
フウリは再び伸びてきたラグドの手を力いっぱい打ち払うと、南から吹いてきた潮風に助けられるようにして、飛び
しかし、ラグドは依然として勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、後ずさるフウリに向かってジリジリと近づいてくる。
「そうそう、聞くのを忘れてたけど、イコロってなんなの? どこの村でも随分と大切にされてるみたいだから、とりあえず集めてみたんだけどさぁ……あれ、どうやって使うモノなんだい? 君、知ってるんだろう?」
尋ねられたフウリは、唇を噛みながらラグドに返答する。
「……イコロは、厳しい自然と共に生きる我らノチウの民を助けるために、神々が与えてくださったものだ。だから、野を焼き山を崩し、多くの民の命を奪ってきた貴様たちには絶対使えない!」
「へぇ、そうなんだ。でもさ、君は使えるってことだよね。何、どんなことができるの? ムカツク奴の脳天に雷を落としちゃったりとかできる? 死んじゃった人とかさ……生き返らせたりできないかな?」
その言葉に、フウリはハッとした。
近づいてきたラグドの闇色の瞳に、一瞬ながら初めて人間らしい感情が
「もしかして貴様……寂しい、のか?」
「え?」
この人の瞳は、大切なモノを失う痛みを知っている、寂しさを映した瞳だ。
「ラグド、といったか? 貴様にも失いたくないものがあったのだろう? その誰かに会えなくて、寂しいのだと、瞳の奥で泣いているのが見えるよ……」
フウリの指摘に、今度はラグドとフォルデがなぜそんなことがわかったのだと言わんばかりに息を呑んだ。
「お前、一体……?」
「寂しさを紛らわすために我らの同胞が
「何を知ったような口を聞きやがって! やっぱりお前、
再び頭に血を上らせたラグドは、銃口をフウリに向け、引き金に手をかけた。
「フウリっ!」
動揺していたフォルデの隙をつき、カケルが拘束から逃れて駆け寄ってくるのが見え、フウリもそちらへ近づこうとした、その時。
パァン!
乾いた発砲音が響いた。
が、銃弾はあらぬ方向に飛んでいき、一同は何が起きたのかと目を瞠る。やがて、いち早く状況を把握したフォルデの叫び声が上がった。
「ラグド様っ!」
その場でガクリと膝をついたラグドの肩と背中には、二本の矢が突き刺さっていた。
その矢に見覚えのあったフウリは、瞬時に飛んできた方向を探り――遥か丘の上に蛍石の小さな光に照らされ、弓を構えている幼馴染の姿を見つけた。
「ハヤブサっ!?」
夜とはいえ、エランクルたちの拠点は明るい。が、それでもこの遠距離で正確に敵の肩を狙い射るとは、まるで
「あれは、まさか……そういうことかっ!」
フウリは瞬時にハヤブサの考えを
と、突然風向きが変わり、輝いていた月は厚い雲に隠れたかと思うと、夜空に轟音が鳴り響いた。次いで、大地に突き刺さるような滝のごとき雨が降り注いでくる。
しかし、フウリとカケルの周りだけは、どこからか吹いてくる風が雨露を押しのけているらしく、穏やかなままだ。
「くそっ、何だこの雨はっ!?」
フウリはラグドのそばで叫んだフォルデの声に、一度だけ立ち止まり振り返ると、
「これが……イコロ『神鳴の弓』の力さ」
淡々とつぶやき返し、そして丘の上のハヤブサに向かって再び駆け出した。
突然の激しい雷雨と、総大将負傷の知らせに、満月の宴に盛り上がっていたエランクルの兵たちは混乱に陥っていた。
そんな中、一人で中央の
「ラグド様……自分は、彼女ともう一度話してみたいと思ったのですが……そんなことを言ったらお怒(いか)りになりますか?」
それまで痛みに顔を
「……ふん、随分と偉そうな口をきく副将になったものだな、フォルデ……。だがまぁ……俺が、生きていたら」
考えてやってもいいぞ――。
途切れ途切れに答えたきり、ラグドはぐったりと気を失ってしまった。が、フォルデはそんな、十年来の親友でもある上官に渋い笑みを浮かべ返した。
「ラグド様のことは、死なせませんよ」
――