35)占星術探偵「愛を引き裂く教団」
文字数 22,335文字
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区切りの良いところまで読み終えたのだから、ここでPCを閉じて、ベッドにもぐり込むべきタイミングなのだけど、私はこのまま読み続けることにする。
勢いに乗っているというわけでもない。眠れそうにないわけでもない。仕事がしたくて堪らないわけもない。
まして、気が急いていたりすることもない。自分の作品の続きが気になって、読むことが止められないわけもない。
何か確固とした理由があるとかではなくて、何となく。強いて言えばブレーキが壊れて、坂を滑り転がるようにして、辞め時を見失って、ただただ読み進めているのである。
シーンは岩神美々と新大阪で会い、いくらかの情報提供をしてもらったその次の日だ。
時刻は夕暮れ間近、飴野はいつもより少しだけお洒落で高そうなスーツを着て歩いている。彼は千咲を迎えに、彼女の通う学校の前にやって来たよう。
飴野が千咲と事務所の外で会うことなんてほとんどない。ましてや彼が彼女の通っている学校まで行って、その帰りを待っているなんて。
今、ちょっとした異常な事態が起きている。どうせならば、スポーツカータイプの高級車などで高校の校門の前まで迎えにいって、学校帰りの彼女を拾うといったシーンを描くべきであったかもしれない。
友人数人と歩いている千咲に向かって、背後からクラクションを鳴らすのだ。その音に驚き、大勢の生徒たちが振り向くだろう。
そんな中、ウインドウから顔を出し、探偵は声を掛けるわけだ。
「千咲、迎えに来た」
飴野は彼女の腕を取り、サイドシートに引っ張り込む。
「何よ、飴野さん驚かさんといてよ」と千咲は言いながらも、このドラマチックな出迎え方にちょっばかし鼻高々なのである。
高級スポーツカーを羨ましげに見ながら、同級生たちは友人と共に駅へと歩いていく。千咲はその光景を車高の低いフロントガラス越しに見上げるだろうが、圧倒的な優越感を持ってだ。
しかし不採用である。こんなシーンを私は書いていない。飴野はスポーツカー何て所有していない。だいたいのところ、飴野はそのような派手な性格でもないだろう。
そもそも、この作品はその種の盛り上がりを避ける傾向にある。あえて地味なほうへ、というより、「禁欲的に」というのが近いだろう。「波乱万丈」とか「ドラマティック」とか「サプライズ」とかを目指しはしない。
いや、しかし「波乱万丈」とか「ドラマティック」とか「サプライズ」が面白さをもたらすことがあることもわかっている。禁欲的で抑制的であれば、それで上品な良い作品が書けるわけでもないだろう。
全ては良い感じの塩梅である。バランスだ。「物語の起伏によって読者をある感情へと誘導する」という試みを放棄して、どのような小説も書けるわけがない。
さて、実際に書かれたシーンはこんな感じ。
「何よ、話しって?」と千咲は現れた。飴野は校門を真正面に見据えた場所で、手持ち無沙汰に突っ立っているのである。
校門の前は人がまばらだった。飴野はサプライズで迎えに来たのではなくて、事前にメールか何かで彼女とコンタクトを取っていた。
「話しがあるから会いたい、何時頃に校門の前に行けばいいだろうか?」と。
というわけで、千咲は友人たちよりも一足先に学校を出てきて、二人は今、落ち合った。
千咲は飴野から突然の呼び出しに怪訝さを見せている。「わけわからへんねんけど」などとブツブツとつぶやいている。
しかしそれと同時に喜びも隠せないようであった。飴野の突然の誘いにちょっとばかし浮かれている様子もあり。
「わざわざここまで出向いて、直接言わなければいけないことでもないのだけど。しばらく君が事務所に立ち入ることを禁止にしたいと思ってね。今日も来るつもりだったろ?」
しかし彼女のその上機嫌は、飴野の第一声によって無慈悲に踏みにじられるのだった。
「はあ? え? 何でよ?」
「もちろん理由はある。正当な理由が」
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「ちょっと待って、嘘でしょ? 何か私、飴野さんを嫌われるようなことしました?」
飴野が付け足そうとしているその理由を聞こうともしない。千咲はショックを受けたようだ。
飴野が無神経に投げかけた言葉がズシリと心に響いたようで、その歩調のリズムも大きく乱れた。
「訳が分からないんですけど? あの事務所は私の第二の故郷みたいなもんやのに。嫌やよ、そんなん」
その衝撃は怒りに変わったようで、挙げ句の果てに彼を睨み始めるのである。
「あっ、もしかして飴野さん・・・」
かと思いきや、その怒りがフッとかき消えた。
「もしかして、もしかして」
「え?」
「あのことで怒ってるん?」
「あのことだって?」
戸惑うのは飴野の番である。千咲と並んで歩くことなんて滅多にないことで、彼女があまりに歩くのが遅いことに彼は苛立ってもいた。
「飴野さんは私のことを口説いてたのに、それやのに私、気づかずに知らん振りをしてたとか? それやったら謝るけど」
「何を訳のわからないことを言い出すんだ」
「私って意外と鈍感で。そっか、知らない間に飴野さんのことを傷つけていたんですね。でも全く気づいてないってわけではなかったけど・・・」
「捜査が進展している。危険な局面に差し掛かっているんだ」
「そうさ?」
「今、容疑者たちを挑発している。事務所にいると、君も危険に巻き込まれるかもしれない。だから事件解決まで、事務所に立ち寄らないようにして欲しい」
千咲は恥ずべき誤解をしていたようであるが、まるで動じない。
先程、彼女の発したセリフは誰が聞いても冗談だとわかるような、大変にふざけた口調で、そこに真摯さも真剣さも皆無であった。
大袈裟なほど演技がかっていて、全ては虚構の上で交わされた戯れの遣り取りであるということが、飴野にも伝わっていたはず、そう理解している。
彼女は充分に防衛的であったのである。
という建前ながら、二人の間には何か、気まずくもあり、寂しくもあり、よそよそしくもある、少しばかり抒情的な風が流れている。
「容疑者たちって?」
その雰囲気を打ち消すように、千咲は朗らかな声で言う。
「あの教団だよ。彼らはどこかで僕に警告を発してくるはずだ、これ以上、我々に付きまとうなってね。そんなことに君を巻き込むわけにはいかないだろ?」
「警告って何それ、恐そう。飴野さんが刺されたり」
「事務所に投石されたり荒らされたり。もしかしたら廃工場に拉致されたり。さあ、何をされるかわからないけれど」
「確かにそれに巻き込まれるのは嫌やな。しばらく事務所に近づくの、止めとこっと。でも飴野さんは大丈夫なん?」
「木皿儀という前の探偵は殺されたかもしれないからね。僕も同じ運命を辿る可能性がある」
千咲はこの事件の捜査の進展具合を詳しく知りはしない。唐突に現れた「前の探偵」という存在に驚いているに違いない。その探偵は殺されたかもしれないという事実にも。
「え、嘘でしょ? そんなに危険な事件なん? 遺書とか書いておいたほうがいいんとちゃう」
しかし二人の間には今、どんなに深刻な話題であっても、そこに軽い冗談を交えるべきだという空気に支配されてもいて、飴野の死の話題もまた軽い。
「遺産なんて皆無だ。残すべきものも特にない」
「家族とか身内はこっちにいないんでしょ? 飴野さんが死んだときって誰に報せたらいいの?」
「放置してくれて問題ない。事務所にある物も適当に始末してくれればいいよ」
「わかった、これが永遠の別れになるかもしれないってことか」
「そうだ、生きていたらまた会おう」
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事務所に投石されたり、荒らされたり、最悪の場合、廃工場に拉致されたりするかもしれないね。
千咲に向かってそのような不安を言い立ててしまったが、飴野はそこまでの事態は想定していない。
彼は女の前で少し見栄を張り、危険な職業に従事している男を気取ってしまったのかもしれない。
飴野の望みはどうにかして直接、アルファ教団の重要人物とコンタクトを取ることである。出来ることならばその組織の実質的トップの酒林という男に会いたい。
教団は嗅ぎ回られることを嫌う。その組織の内実ゆえ、警戒心が強い集団だ。
だからこそ堂々と彼らの周囲に出没して、その内情を探る振る舞いを示そうではないか。
つまり、彼らを挑発するのだ。それによって相手側は何らかの行動を起こさざるを得なくなるはず。
アルファ教団には酒林直属の秘密警察、諜報部のようなものが存在しているに違いない。
アルファ教団に在籍する会員たちの秘密を守るため、このような役割りをこなす部署があっても当然だろう。それが飴野の推測。
木皿儀の死、あるいは若菜氏の失踪だって、その諜報部が関わっているのかもしれない。
そうである。飴野がこれから取ろうとしている行動はアルファ教団犯行説に拠ったものだ。
昨夜まで、彼は二つの可能性の前で迷っていた。もう一つの可能性というのは、若菜氏が直接、木皿儀を殺めたかもしれないという説。
岩神美々の前で、飴野はその可能性について本気で検討した。一瞬、その説に心は傾きかけた。しかし一夜明けて、もうそこから心はすっかり離れてしまったと言っていい。
若菜氏が木皿儀を殺したなんてあり得ないだろうと思うのだ。だいたい彼に人を殺す能力があるのだろうか。
良い意味でも悪い意味においても、人を殺すなんて簡単なことではない。
それを成すには、とてつもない実行力と、覚悟と、動機と、環境と、タイミングが重要であって、果たして若菜氏にそれが備わっていただろうか。
強い動機があったことは間違いなく、環境とタイミングはそのときの運次第だとしても、しかし実行力と覚悟である。
若菜氏はそれを所有していない。
ホロスコープがそれを否定しているのである。彼は誰かを殺せるようなパーソナリティーではない。
持続する怒り、綿密な計画、無慈悲な残酷性、そのようなものを持ち合わせているとは到底言えないのだ。
むしろ彼には逃避的な傾向がある。怒りを持続させるよりも、それを忘れたり、諦めたり、許したりして、どうにかして有耶無耶にするタイプ。
「どうしてそのように言えるの?」と、岩神美々がそばに居たら尋ねてくるはずだろうから、それについて軽く触れておくとすると、やはり、火星。実行力の惑星である火星が、彼のホロスコープにおいて目立っていないからだと言えるだろうか。
そして海王星だ。海王星の霧の中に、彼の自我を現わす太陽が逃げ込んでいる。
実行力はない。突発的に行動したりしない。絶対に暴力的行為に出る人間ではないと言えないとしても、秘密をばらされたりとか、約束を裏切られたりとか、屈辱を与えられたとか、その程度で人を殺したりはしないタイプ。
占星術師として飴野はそう確信していた。占星術の力は偉大だ。この力のお陰で誤った推理に陥って、時間を無駄に浪費したりせずに済む。
ならばやはり、アルファ教団の組織的犯行か。
それが飴野の結論である。
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とはいえ、アルファ教団は反社会的なカルト組織ではないだろう。市民社会と対立したり、公安警察と抗争したりしているわけでもない。
諜報部のようなものがあったとしても、それは小規模だろう。銃で武装しているなんてことを予想しているわけもない。
しかし組織を守るためならば、暴力も辞さない危険な連中に違いないのだ。自分たちの周りをウロウロと嗅ぎ回る飴野を、彼らが快く思うことはない。すぐに何らかのリアクションがあるはずだ。
まあ、これは占星術によって導き出された推理などではなくて、一般的探偵としての勘。というよりも普通の社会人として、そういうものが何となくありそうではないのかという思い付きなのだが。
秘密警察的な諜報部、その部署の頂点に酒林がいるのだろう。
そこに到達するため、まずは末端に接触することになるだろうが、飴野がちょっとした脅しや脅迫では退かないことがわかれば、少しずつ地位の高い人物が出てくるに違いない。
やがて頂上に辿り着くはず。いや、それほど飴野が楽観的かどうかはわからないが、作者の発想はそのようなレベル。
というわけで千咲と別れた足で、今、飴野は教団の施設の前にやって来たわけである。
飴野は片っ端からそのビルから出てきた会員と思しき人物に声を掛けるつもりだ。
この組織について尋ねたり、若菜氏の行方を尋ねたりするのもありだ。具体的な内容はどうでもいい。ポーズなのだ。この組織を探り回っているぞ、と相手方にあからさまに知らしめることが目的。
ところで、ここは大阪府大阪市、天満橋の近く。大阪城の西に位置するオフィス街。
ここにアルファ教団の本部は存在しているから、飴野はこの街にやって来たわけであるが、そのシーンを読み進めていく前に、例によって大阪の街について軽く触れたいのだけど。
大阪の街を描くことが、作家としての私のオブセッションのようなものであるということは以前にも触れたと思う。
この作品の舞台が大阪であるからという事実以上に、ただ単的にこの街を自分なりに上手い具合に説明してみたいという欲望のようなものが私にはあるようだ。
描写したいのではなくて、出来るだけ上手い具合に説明したいという欲望である。
小説家なのだから説明なんかよりも街の空気や雰囲気を描くべきだ、というのはわかっているのだけど、そういうことにはさほど興味がなくて、この街についての情報を要約したりなんてことがしたい。
そのような手段でなら、自分なりにこの街を描くことが出来るのではないかという算段のようなものがあるからだろうか。
というわけで、天満のある大阪城周辺がどのような場所なのか。
大阪梅田から中之島、心斎橋と難波、天王寺と連なる御堂筋の南北のライン、そこが大阪の中心の軸だとすれば、もう一方の大阪の重要な地域がこの大阪城周辺だということになるだろうか。
大阪城公園、大きなコンサートホール、府庁、裁判所、造幣局、テレビ局などの施設が点在していて、多くの人が訪れる街であることは確かだろうが、飴野はこの辺りには不案内だ。
いや、作者の私もそれは同じで、何かこの街について気の利いたことを語れはしないのだけど。
例えば東京で言えば、いや、東京のことだってよくわからないので、ここと似ている街の名前が思いつかないが、しかしこの大阪城周辺はかつて江戸城のあった皇居やその周辺とは、まるで違うタイプであることは間違いない。
かつて運河が張り巡らされていた商業地帯の心斎橋こそ大阪の中心地だとすれば、ここは心斎橋にとって北東鬼門の位置していて、だとすれば風水的には大阪城なんて番犬のような扱い。
江戸城跡の皇居のように、街の中心にポジションしているわけではない。
大阪は政治を司る宮城より、商業を司る地帯のほうが中心であったようなのである。明治以降の街の発展の仕方から鑑みても、そう言えるはず、
とはいえ、京都に都があった時代、ここが交通にとっての重要な拠点であったことは間違いない。八軒家浜という船着場が存在したらしい。そこから淀川(現在は大川であるが)を遡り、京都の伏見まで船で旅をしたわけだ。
それにもちろん大阪城下の城下町が広がっていたのだから、人口も多い地域であったのだろう。その名残りなのか、現在も碁盤のように整然とした町割りである。
飴野はそのような街にいる。町名で言えば谷町。「谷町四丁目」や「谷町九丁目」という駅名でお馴染みのあの谷町だ。
いや、実際に彼が降りた駅は「天満橋駅」で、それは谷町の一丁目、谷町で最も北寄り。
天満橋という橋は実際に今も架かっている。その橋を渡って北に行けば大阪造幣局がある。渡らずに南の岸に留まれば、テレビ局や大阪府庁、そして大阪府警やNHK大阪局に行ける。
アルファ教団のビルが建っているのも川の南側のビジネス街のどこか。かつて若菜氏が通い続けていて、木皿儀の変死体が発見され、今、柘植が潜入しているそのビルが教団の本部でもある。
その建物は大通りにある。それと目立つ印はないが誰も迷いはしないだろう。
目的地に到着した飴野は早速、行動に移る。
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これが映画であったならば、飴野のその行動をロングショットで撮影すべきであろう。
そのビルから出てくる会員らしき人物に、飴野が次々と話し掛けるのだけど、断られ、避けられ、無視され、嫌悪を持った眼差しで睨まれる光景。やがて建物から警備員の男性が現れる。
その一部始終を遠くからのカメラで収める。
飴野はその制服を着た男性に威嚇されて、パンしても追いつかないくらい画面の外に追い出される。
しかし警備員が立ち去った後、しばらくして再び彼はフレームインしてきて、先程と同じような行動に出て、またもや駆け付けた警備員に追い出される。
それを何度か繰り返す。
唐突に映画のショットなどでこのシーンを語ってしまったが、その癖、私は映像的にシーンを頭の中に思い描いたりする作家ではないと思う。
文章によってそのシーンの情景を喚起させることに、それほど重きを置いていない、というわけではないのであるが、それが小説の最大の目的であるとは別に思っていない。
現実の光景、それを描写することは重要だ。描写から離れるわけにはいかないだろう。これは小説なのだ。必死に描かなければ、街も人物も存在することは出来ない。
しかし描写に執拗に拘るつもりもない。その世界の何もかもを文章にして描き出したりする気はまるでない。
小説の風景は読者の頭の中にそれぞれ勝手に存在すればいい。独自に喚起させる、それが最も理想的な描写のあり方だろうと思う。
つまりその光景を映画の文法、カメラ的な視点に支配されることなく、それを描きたいというわけである。
小説ならではの、と言えばあまりにも抽象的な物言いで、具体的にどういうことなのか上手く説明することは難しいのだけど。
おそらくそれはカメラの視点よりもずっと主観的で、感情が優位で。現実の距離感とか物理法則にきっちりと支配されていないから、あらゆる光景は奇妙に歪んでいて。風景でありながら現実と心理の間を行き来している。つまり、全てはどことなく夢に近いのかもしれない。
というわけであるのだけど、このシーンだけはむしろ映画的というかカメラ的の視点によって、飴野の行動を描写したいのだけど。
ビルから出てくる会員らしき人物に次々と話し掛けるという行為。飴野はその作業に大変ストレスを感じているのである。自分のプライドを捨てている、羞恥心をも。自己乖離のような現象を起こしてすらいるのかもしれない。
話し掛けるのだけど、断られ、避けられ、無視され、嫌悪を持った眼差しで睨まれる。そして建物から警備員の男性が現れる。
飴野はその制服を着た男性に威嚇されて、その場を追い立てられる。それでも懲りずに同じことを再び繰り返す。何度も、本当に何度もだ。
そのような自分の行動を、他人のように遠くから見つめているような心境であるから、まさにカメラの視線のように客観的。
アルファ教団の会員や関係者たちに声を掛け、無視されて、飴野はほとほと嫌気が差し、疲労困憊な状態にあるが、その行為自体に虚無感は覚えない。何も失敗だと感じていない。
アルファ教団に雇われているに違いないそのビルの警備員に何度も追い払われ、本当に惨めな気分に陥っているのだけど、それは望むところ。作戦通りである。
この行為を連日に渡って続けていれば、アルファ教団も飴野を無視することは出来ないだろう。何らかのリアクションを起こしてくるはず。
つまりその組織の内部の上層部が出てくるだろう。それなりに内部の事情に通じた重役と接触することが可能になるに違いないのだ。
それまで我慢強くやり続ける。
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しかし登場人物が何かを計画して、その人物の意図通りに何ら滞りなく進むなんて、物語においてあり得べかざる展開だろう。
その計画が重要で、大それたものであればあるほど、その計画を挫く何らかのハプニング、予想もしていない事件が起きて、計画者たち実行者たちは右往左往して、それに対処するために新たな知恵を編み出さざるを得なくなる。
それがスリリングな展開というものだろう。計画と予想外のハプニングはペアのようなものだ。
というわけで、飴野のこの計画も、それを読者に明かした時点で決して上手くいくことはないということが確定していたわけだ。
彼の計画というのは、アルファ教団のビルの前に赴き、会員たちに声を掛けて、この組織を捜査しているとあからさまに示して、つまり教団を挑発して、いくらか強引にでも関係者とコンタクトを取ろうというもの。
そのやり方は大変な危険と裏合わせだと飴野は考えている。
アルファ教団を挑発した結果、夜道で廃工場なんかに拉致されたりするのではないかという恐怖などを覚えたりしている。
事務所が襲撃されるかもしれないなんて不安を感じて、千咲を一時的に遠ざけたりもした。
飴野はこの教団をとても危険視しているのだ。この組織が木皿儀を殺した。若菜氏だって、こことトラブルを抱えていた可能性もあり、実はそれが失踪の理由かもしれない。
そんな危険な集団であるのだから、飴野に向かって発してくるかもしれない警告も、とても過激なものとなるに違いない。
実際、ビルの警備員は、建物の前をウロウロする飴野の前に即座に現れて、殴りはしないが暴力の予感で威嚇して、腕を掴んだり、胸を押したりする。
しかしその対応が荒々しくなればなるほど、飴野の挑発行為が功を奏しているという証拠。この行為を淡々と続ければ、いずれ上手くいくだろう。
とはいえ、その作業は飴野のメンタルをすり減らしていった。
彼はふてぶてしいベテランというよりも、何とか仕事をこなす新入社員のように額に脂汗を滲ませていた。
こういう仕事が苦手な探偵なのである。彼はタフな行動派タイプではない。
もうそろそろ退散しようかと考え始めてもいた。
まだ最初の日である。まだ芳しい結果は出ていないが、これを数日間続けることで効果もあるだろう。連日に渡って執拗にやり続けることが重要。
いや、あるいはもう既に充分な効果は挙げているかもしれないという希望的観測すら抱き始めている。
自分の事務所に戻ると、アルファ教団の関係者たちが怒りに満ちた視線で彼を待ち受けている可能性だってあるのではないか。それこそ彼の描くこの作戦の成功イメージ。
そこで交渉に入るわけだ。若菜氏について出来る限りのことを教えて欲しい。教えてくれたらコソコソと嗅ぎまわることは止めよう。
というわけで、今日のところはこれで一区切り。今のところ何も手応えは感じない。ただ疲労が募っただけだ。
しかし忍耐と我慢と継続が重要だと飴野は自分に言い聞かせる。これはすぐに結果が出るような作戦ではない。
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探偵飴野はアルファ教団を挑発しているということはさっきから何度も言及している。彼らを怒らせることで、強引に接触を図り、対話まで持っていこうとしているのだ。
物語の中の登場人物はそのような企画を立てている。一方、この物語の作者としては、彼の成功を後押しするわけにはいかない。
登場人物が発表した計画が、そのまま上手く運ぶようなストーリーなど楽しいはずがない。
物語の醍醐味はハプニングにあるはずだ。その計画を実行している最中、何か予想外のことを起こす義務が作者にはある、それは読者に対して。
ということで、この場面の探偵の身にも、何か予想外のことを起こさざるを得ないと思うのだけど、そのときに起きた事件というのは飴野が想像もしていなかったようなハードな障害が襲来するというのではなくて。
それを乗り越えるために探偵が四苦八苦するというタイプのものとは違って、それとはまるで逆であったというのが私の選択した展開である。
拍子抜けするくらいに、イージーに事が運ぶのである。
飴野は危険な組織を挑発するのだからと、警戒心を最大にして身構えていた。千咲にも自分がどれほど危険な仕事に赴くか語っていた。
しかし飴野の感じていた不安や恐怖は杞憂に過ぎなかったというオチだ。
そんなことが千咲に知られでもしたら大いに恥をかくだろう。彼は彼女に笑われるに違いない。
アルファ教団はとても丁寧に飴野に接してくるのである。しかも彼らは飴野のことを何も知らなかった。
教団が佐倉彩の行動を見張っているように、彼女が雇った探偵である飴野も、その組織に脅威を与える危険人物として、以前から密かにマークされているに違いないと踏んでいたのに、それも間違いだったかもしれない。
そういうわけで、その勘違いが判明するまでの一部始終である。まず、ビルの中から一人の男が出てきたのだった。
その男は脇目も振らず、飴野に向かって真っすぐに歩いて来る。その様からして、教団関係者であることは間違いなさそうだった。
先程も言及したように、飴野はこの行為に疲労を感じて、そろそろこの場から去ろうとしていたときだった。その間際、ビルの中からこれまでの警備員よりも身分の高そうな者が現れた。
思ったより早く効果が表れたのかと、飴野は一瞬で疲れが吹き飛んだ。とはいえ、どれくらいの相手か定かではない。
「どのようなご用なのでしょうか?」
私どもは会員様方のプライバシーを大変に重視しています。これ以上、このようなことをなされ続けるのならば、それなりの対応をさせて頂きます。
飴野に向かってそのようなことを厳しい口調で言ってくる。
「失礼ですがお名前のほうは?」
「飴野です」
「飴野さんがなさっておられる行為は、会員様方のプライバシーを侵害するような行為です。飴野さんはジャーナリスト様なのでしょうか?」
「いや、僕は探偵だ」
しかし何も事情を知らない下っ端が出てきたようだな。飴野は思う。アルファ教団に関わる事件を捜査している、彼は冷然と告げる。
「事件というのは?」
「確か、このビルの中で死体が発見されたはず。自殺として処理されたようだけど」
「それについての捜査を?」
「この組織が人を殺すような集団かどうか、調べるよう依頼を受けているのでね」
「まさか、我々が」
片方の耳にイヤホンをしていて、彼の上司か誰かからアドバイスを得ているようだった。
イヤホンの向こうの何者かの態度が、飴野のその発言を聞き取って変化したようである。目の前の男性の表情も強ばり、心なしか飴野から距離を取り出す。
「わかりました、それでは事務所で詳しく話しを伺わせていただくということでよろしいでしょうか?」
「もちろん、それが僕の望みだからね」
飴野はその男のあとに続いて、アルファ教団の建物に入った。どうにか一つの段階はクリアーしたようだと思うが、緊張感は一気に強まった。
これから事務所の中で待ち構えている何者かと、摩擦に満ちた遣り取りをしなければいけない。それどころか殴られたり、脅迫されたりするかもしれない。
まあ、しかし何度も繰り返した言えるように、それが勘違いであることが判明するわけだ。
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探偵たちは力自慢の悪漢たちをその腕力で打ちのめしたりするが、それと同じくらい、彼らのほうも暴力によって酷い目に遭うことが多い。それが探偵という職業の定めらしい。
探偵とはいってもハードボイルド系統の探偵だ。つまり、フィリップ・マーロウ型のほうである。
ホームズ型の推理する探偵は、どのような悪と対峙していたとしても、殴られたりすることは滅多にないはずである。
スマートな彼らに暴力は似合わない。特にあの繊細で上等な頭脳の入った頭部を傷つけられるわけにはいくまい。読者たちだってそのような展開を好むわけがない。
しかしハードボイルド系の探偵はその限りにあらずで、一つの作品で必ず、後ろから頭部を殴られたり、正面から顎を殴られたりして、容易く気絶させられてしまう。
最悪の場合、拷問だ。拷問のシーンで名高い作品といえばイアン・フレミングの「カジノロワイアル」が挙げられるだろうか。レイモンド・チャンドラーが激賞したという作品。
主人公の職業は探偵ではなくてスパイではあるが、役割は同じ。チャンドラーが気に入ったのはこの凄惨極める拷問シーンが原因かもしれない。
チャンドラーの描いたフィリップ・マーロウも殴られる。ロス・マクドナルドの探偵のリュー・アーチャーも殴られる。飴野もそのような目に遭うのではないかと恐れている。
しかし飴野はアルファ教団に暴力で迎えられるどころか、美味しいコーヒーと高級なソファで迎えられる。
いや、実際にコーヒーを出されたわけではなくて、応接間に通されたわけでもないが、それと同然の丁重さで迎えられたということ。
しかも彼を迎えたのはあの酒林であった。この組織のトップ、いずれ飴野が会いたかった男。
その男が何とも呆気なく現れた。非常に困った様子を見せながら。
その建物の内部に、素直に探偵を迎い入れたことがそもそも不思議である。とりあえず飴野の作戦勝ちとしても、何だか呆気ない。
だからこそ、かなり強圧的な手段によって脅されたりするかもしれないと恐怖を感じていた。それを跳ねのけ、渡り合わなければいけないと飴野の肩に力が入っていたのである。
しかし再度繰り返すが、そのようなことは起きない。
会議室と呼べそうな広い部屋である。真ん中に長いテーブルがあり、質素な椅子が並んでいる。部屋の奥に大きなモニターやホワイトボードがある。
彼が通されたこの会議室には、不可思議にしていかがわしい、アルファ教団らしさを示すものなど何一つなかった。
果てしなく有り触れた無機質な部屋。この日本に、こんな会議室が数百数千あるに違いない。
目の前の男が酒林であることに、飴野はすぐには気づかない。暗い部屋に目が慣れてくるようにして、徐々に酒林的特徴がその男の上に浮かび上がって、ようやくそれに気づく。
「酒林さんですね?」
何とか驚きを押し隠しながら飴野は言う。
「私の名前をご存じとは、色々とお調べになられているようですね。そちら様の名前を失念しました」
「飴野です、私立探偵です」
飴野は名刺を渡すが、相手は受け取るだけで何も返してこない。その代わり、いくらか面倒そうに、逃げ腰とも言える態度で、早口にこんな言葉を発してくる。
「木皿儀さんの件でしたね、私たちだってなぜ彼がこの施設で命を絶つ決断をしてしまわれたのかわからない。それ以上のことは何も言えません」
「非常に迷惑だったしょうね、あなた方に何の関係がなかったのだとすれば」
「それどころではありません。その対応に大あらわです。大切な会員方にも迷惑を掛けてしまった。二度とこのようなことは起こしてはいけない。何者にも煩わされることのない静かな環境を提供することが我々の仕事。何よりも重要なことは、会員たちのプライバシーを守り続けていくこと」
話せるのはそれだけです。酒林はさっさと会談を打ち切ろうとする素振りを見せる。
「何も語ったことになっていませんね。これでは追及の手を止めるわけにはいかない」
「我々は本当に何も知らない。ただただ不運なことに、その男性がここを死に場所に選んでしまっただけです。皮肉なことに、ここが誰にも煩わせられることのない静かな環境だったからでしょう。彼はそんな静かな部屋で死の誘いと語り合ってしまい、それを受け入れてしまった」
「確かに木皿儀は何かに悩んでいたようだという証言もあります」
飴野はそんな助け舟を出して、酒林が持ち出してくるその自殺説をあえて補強してみる。
もちろん彼自身、自殺説など信じていない。しかし他殺説だって信じているわけではない。何もわからないというのが彼の態度。
「彼も我々の組織の会員であったのだから、その死は非常に残念です。本当ならば助けてあげるべきであった。彼は新たな人生の楽しみを求めるために、ここの会員になったはず、そういう意味において、我々にも落ち度があったのかもしれない」
「あくまで他殺ではないと?」
「当然です」
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飴野の目の前にいるその男、酒林が無能な人間とは思えない。しかし何ら迫力を感じないことも事実だった。
こんな平凡な男が、世にも奇怪なこのアルファ教団などという組織を作り上げ、ここまで大きくしたということが信じられない。探偵飴野はそのような胸中を読者に明かしたりするだろう。
その男の態度、まるで脚本を渡されていない俳優のようである。
マフィアのボス役を務めてはいるが、どのような振る舞いをすればいいのか監督に指示もされていない。彼は飴野の前で困ったような表情を浮かべるばかりである。
逆に言えば演出家と脚本家が存在しさえすれば、アルファ教団総帥という肩書きにも、それなりのリアリティを充分に出せそうな余地のある人物だとは言えるのだけど。
しかし今のところ、そんな裏方は不在のようである。
いつまでも話しは平行線であった。酒林が発するセリフは二通りだけ。木皿儀は自殺した。我々とは関係ない。だからこれ以上、関わらないでくれ。
これ以上付きまとい行為を継続するのなら、法的な手段に訴えるなどと強い口調で言ってくる。
飴野は望んでいたよりも容易く、とてもスムーズに、アルファ教団のトップに会うという目的を果たすことが出来たのであるが、しかしその結果は当てが外れたとしか言いようがない。
拍子抜けである。望んでいたような手応えがまるでない。
この組織の無害さ、無防備さ。彼らが木皿儀を殺したなんて事実など、あり得なさそうである。
ならば当然、佐倉を尾行したり、その部屋に侵入したりしたのだって、この組織とまるで関わりのないことなのだろうか?
だとすれば佐倉を尾行していたものは何者なのか。やはり、それは彼女は不安の結晶した錯覚にして妄想に過ぎなかったのか。
「こちらからも尋ねたいことがある。どこからその事件の話しを耳にしたのでしょうか?」
酒林が神経質な表情で尋ねてくる。
「どこからとは?」
「木皿儀氏の自殺の件です。あなたの他にも、それを嗅ぎ回ろうとしているジャーナリストはおられるのだろうか?」
このことを探るために自分を招き入れたわけか。妙にスムーズに事が運んだことの理由。飴野は腑に落ちる。
「いえ、実は。本当のことを話しましょう」
「本当のこと?」
「はい、本当のことです」
当初のやり方では酒林との距離は埋まりようがない。別の方法を試みるべきだと飴野は判断した。
「木皿儀氏の自殺の件は、あなたたちの弱みにつけ込むために利用しただけ。その事件に興味はありません、今のところは」
大変に無礼なやり方であったということは承知しています、と飴野は丁重に詫びる。
「何ですって」
当然、酒林は不愉快そうに顔を歪ませる。飴野は更に丁重に詫びを入れる。
「僕を雇った依頼人の目的は木皿儀の死を探るためではありません。それは捜査の過程で遭遇した事件に過ぎず。僕がアルファ教団を探っているのは人探しが目的です。依頼人は佐倉彩という女性で、彼女は婚約者を探している」
「佐倉さん、ああ、やはりそうでしたか」
酒林は何度もしきりに頷き始める。
「御存じで?」
「ええ、それはまあ」
酒林は苦々しい表情で、その事実を認める。
35―10)
「彼女はまた探偵をお雇いになられたわけか」
いや、それは当然でしょう。婚約者が失踪なされたのだから。あの女性の心痛は如何ばかりか察して余りある。
酒林は独り言のように、そんな言葉を発する。
「佐倉彩の婚約者である男性は、ここ、アルファ教団に通っていたようです」
「そうでしたね」
「彼女が婚約者を探すために探偵を雇ったのは二度目です。最初の探偵が木皿儀氏だった」
「ええ、知っています」
「木皿儀について、もうこれ以上尋ねようとは思いません。実は彼のことなど、それほど重要ではない」
「何を尋ねられても答えようがありませんが」
「その代わり、若菜氏のことを教えて欲しい」
「さあ、それだって我々は何も把握していない。全ての会員が匿名です。名乗っているのは偽名。住所や電話番号など、個人が特定されるような情報の一切を我々は保有してはいません。会費を支払われた方々を施設に迎えて入れているだけ」
「そのような回答を予測していましたが、しかしこちらも引き下がることは出来ません」
酒林が本当のことを言っているのか、飴野には当然、判断がつかない。この男が若菜氏のことを何も知らないのか、実は匿っているのかなんて。
「では、事と次第によれば、木皿儀の死を事件化することも検討せざるを得ないようですね」
「そのように脅されても、わからないものはわからない。しかしこちらから言えることがあるとすれば、もうその婚約者探しを諦めるべきではないかということでしょうか」
「なぜ?」
「婚約者が失踪なされたなんて、その女性の心痛、如何ばかりか察して余りあります。決して喜ばしいことではない。将来を約束されていたはずのカップルに不幸が起きてしまったのですから。しかしその男性が帰ってくることはないでしょう」
酒林はどこか強気で、誇らしげな態度を見せ始めた。自慢をしている態度だと評してもいい。
何を自慢しているのか? 彼の組織、アルファ教団の自慢だ。
「我々は反社会的な組織でも、カルトでもありません。暴力なんてものとは、もちろん無縁です。しかし、いはゆる市民的常識や良識を、尊ぶべきなんてことも考えていない。あなた方とは違う価値観で生きていることも事実です」
「はあ、つまり?」
「お二人は婚約者同士であったのに、片方の男性は我々教団と関係を持つようになった。それは一般常識に照らし合わせれば、とても不幸なことでしょう。失踪した男性は、あらゆる女性との付き合いを絶つ決断をしたわけです。我々の教えがその関係を壊したのでしょう」
「ああ、そういうことになるのかもしれません」
「ですから、たとえ見つけ出すことが出来ても、その会員の方が女性の許に帰るなんてことは起こり得ません。依頼人の方にそうお伝え下さい。それは我々組織の罪かもしれません。家族や夫婦を引き裂いてしまっている。捨てられた女性は哀れです、とても可哀想だ。しかし失踪を選択された男性は、どこか一人で幸せな人生を静かに送っておられるはずですよ」
「そういう例は多いわけですか?」
「いえ、決して出家などを推し進めているわけではありませんが、女性との人生に疲れた男性たちはそのようなことを決断してしまう。秤が自然と、こちら側に傾いてしまうのです」
「そのような男性たちが向かう場所の心当たりは?」
「我々の組織は全国にあります。どこかの都市でひっそりと生活されながら、以前と同じように通われているに違いない。さっきも言った通り、偽名を使って会員となられているはずだから、名簿を探しても無駄でしょう」
「偽名を使うなんて、後ろ暗い想いをしながら通っているわけですね」
「はい、しかし何も問題はない。私たちは禁断の果実を密かに味わいながら、虚無に溢れた人生に生きる価値を見い出して、何とか生き延びようとしているんです。麻薬は違法でしょう。しかし我々が提供する快楽はどんな法律にも抵触しない。何ならば、探偵さん、あなたもお試ししますか?」
35ー11)
酒林との会談後、そのビルを出て、駅へと向かう探偵飴野の足取りは重い。
その男からは、飴野が想定していた発言も返ってこなければ、飴野が想像していた反応も返ってこなかった。
飴野はこれまでの推測の全てが間違いだったのではないかとすら思ってしまいそうになる。振り出しに戻ったという感触だ。
飴野はその迷いのまま、降りるはずだった地下鉄への階段を通り過ぎて、谷町筋をまっすぐに北上する。
長い天満橋を渡ると、谷町筋は天満橋筋と名を変える。
谷町のビル街のビル群と比べると、その天満の街の建物は随分と古く、こじんまりとしていて、一つも二つも時代が逆戻りしたようだ、というのは随分と気を遣ったやんわりとした表現で、端的に言えば街のグレードがガクリと下がったということ。
とはいえ、街の風景に目を向ける余裕はなく、彼はその通りを歩きながら考え事をしている。
アルファ教団が佐倉を尾行していたようではなさそうだ。
まだはっきりとそう断定出来るわけではないが、それをひとまず認めなければ他の考えには進めないと自らに言い聞かす。
彼の最初の推理は間違っていた。しかしだ、何者かは佐倉を尾行していることは事実に違いない。
飴野はその証拠を掴んだわけではないが、佐倉の言葉を疑う理由もない。
だったら、その尾行者は若菜氏なのだろうか。最初から佐倉が言及した可能性がそっちだった。
アルファ教団の中の何者かでなければ、残された可能性はこれしかないとも言える。
いや、このように重要なことを、探偵一人で考え事をさせるわけにはいかない。誰かと対話させるべきである。それが私の小説技法の一つ。
このようなときのために脇役を数多く用意してきたのである。助手の千咲か、刑事の岩神、占星術師の先輩のマーガレット、同業者の柘植。別に誰でもいい。サイコロで決めてもいいくらいだ。
登場させるのが面倒ならば、ここは声だけでいい。その誰かが折りよく飴野に電話をかけさせればいいだけ。
飴野に電話をかけて来そうな登場人物。山吹だ。彼女が打ってつけではないか。
思えば東京旅行以降、彼女の登場機会もなかった。この辺りで姿を現しておくべきだ。
というわけで、山吹美香の再登場である。
山吹などから電話がかかってきたら、飴野は最高に不機嫌な状態で出ることであろう。ましてや、これまで推理の重要なポイントが間違っていたようなのである。飴野の気分は最悪だ。
「どうされたんですか?」
山吹はその不機嫌さに臆することなく、あっけらかんと尋ねてくる。
「さあ。そっちこそ、いったい何の用なんだ?」
「いえ、最近、どうなされているかなあ、と思って」
「そんな要件で電話してきたのか? 今、忙しいんだ。何の用がなければ切るけど」
「ちょっと待って下さい。事務所におられるんですか? さっき訪ねて行ったんですけど、誰もいなかったんですけど」
「そうだろう、今日はずっと歩き回っていたから」
「ああ、なるほど、それは凄いですね。まさにもうすぐ事件は解決するって雰囲気じゃないですか」
「何だって? それどころか振り出しに戻ったって感じだ。アルファ教団はこの事件と何の関係もないのかもしれない」
飴野は思わず捜査に関わる重要なことを言ってしまう。すると当然、更に山吹は喰いついてくるのだ。
「噓ですよね、だってあんなに怪しい組織じゃないですか」
飴野は山吹を相手に軽々しいことを言ってしまった。アルファ教団と若菜氏失踪の間に、何の関係がないと言い切れる段階でもない。まだまだ飴野の知りえない事実がどこかに隠されているに違いない。
しかし当初、飴野が想定したような関係の仕方はしていないのだろう。それは間違いなさそうで、この事実が彼を戸惑わせている。
「佐倉さんを尾行している人間がいるようなんだ。ちょうど良い、何か心当たりがないか、君にも尋ねたかったところだ」
「佐倉が尾行されているんですか? わ、私じゃないです、そんな暇じゃありませんよ!」
「君を疑っているわけなんかない。心当たりがないかどうか、質問しているんだ」
「ああ、そっちでしたか。会社で同僚にボールペン失くしちゃったって言われると、もしかしてお前が盗んだんだろって内心では疑われているんじゃないかって考えてしまうタイプなんですよね。良かったです、疑われてなくて」
「で、心当たりは?」
「ありませんね、何もありません。ありませんとしか言いようがないです」
「そうか」
山吹に頼るのが間違いなのだ。そもそも、彼女の名前で着信があった段階で、それを無視しておくべきだった。
それなのに飴野は魔が差してしまった。捜査が行き詰まりそうで、不安になって、誰かと話すことで、その不安を解消しようとしたのだ。
そんな方法で不安を解消している場合ではない。電話を切るぞ、君の相手をしている暇なんてない。
しかし山吹は言ってくる。
「もしかしてそれって若菜さんじゃないですか? 失踪なんて嘘で、実はこっそりと佐倉を見張ってたりとか?」
嚙み合わないと思っていたら、スムーズにつながり出した。飴野はその可能性について、考えようとしていたところだ。
35―12)
スマホを耳に当てて、もう一方の手はジャケットのポケットに入れて、いくらか険しい表情を浮かべて、見ようによればかなり行儀の悪い態度で、天満橋筋を闊歩する飴野である。
日は完全に暮れている。夜だ。
天満橋筋は有り触れた日本の何の変哲もない道路で、車の交通量もそこそこであれば、通りを歩く人もそこそこの数。その道路沿いに並んでいる建物も、雑居ビルかマンションばかり。
象印マホウビンで有名な会社の本社があったりもするが、そこを通り過ぎると、更にありきたりな通りとなる。
いや、そのとき突然、右手側に妙な明かりが見えるのである。
これまでその通り沿いに、申し訳程度にしか植えられていなかった樹木の数がにわかに増え始め、その木陰のせいで一段と闇が深まった辺り、その妙な明かりが樹々の向こうに垣間見えるのだ。
駅なのかショッピングモールなのかと、はたまた市役所か府庁か、とにかく巨大な建物の気配がする。
それにしても妙な場所に何か大きな建物が建っている。何かと訝りながら近づけば、それはホテル。ちょっとした高級ホテルがそこに聳え立っている。
飴野が電話で山吹と尾行者の話題を語り合ってとき、ちょうどその辺りを通りかかったということにしておこう。
そのホテルは天神橋筋に直接は面しておらず、奥まった場所に建っていて、というか川に面するように建設されたようで、その明かりの気配に気づかなければ素通りしてしまう。
「もしもし、聞いていますか?」
山吹美香が電話の向こうで声を張り上げてくる。
「聞いてる。なるほど、君はそう考えるわけか」
飴野は返事を返す。
「でもありえないですよね、若菜さんはだってもう」
死んでいる。
山吹はその悲劇的事実を口に出しはしないが、沈黙でもって伝えてくる。
「いや、そうも言えない」
「え? そうなんですか?」
「結局、佐倉さんと彼との間に破局的な事態はなかった。本当にそれはありきたりな恋人同士のケンカでしかなくて、若菜氏は単に家出して、今はどこかに身を潜めているのかもしれない」
「そうだったら嬉しいです。私は佐倉を失わずに済みます!」
本当にそうなのだろうか?
まだ、そのような証拠を何も掴んだわけではない。もはや何もわからなくなった、というのが飴野の正直な思い。
とはいえ、アルファ教団は佐倉を尾行などしていない。それは確かな事実として認めざるを得ないと飴野は思っている。
先程の酒林との会話でそのような感触を得てしまった。あの組織は飴野が考えていたような集団とは違う。
だとすれば、誰が佐倉を付け回しているというのか? 次の候補者は一人に絞られてしまう。若菜氏の可能性について考えなければいけないということである。
35―13)
「若菜さんが生きていて、実は佐倉のことを尾行しているのだとしたら、もうこの事件も何とかなりそうですね」
山吹美香の声は朗らかで柔らかい。
けっこう個性的な性格で、空想癖があり、まるで社交性はなく、一般的常識に欠けているが、善人である。彼女の声はいつだって明るくて優しい。
「私、思うんですが、若菜さんはきっとまだ佐倉を愛しているんです。だからあの子をこっそりとを見守ってるんですよ」
「ああ、君はそういうふうに考えるわけか」
しかし、どこかに隠れながら佐倉の生活を密かに見張っているなんて、ただの会社員でしかなった若菜氏に、このようなことが可能なのか、そういう疑問もある。
身を潜め続けるには資金もいる。貯金が使われている気配はない。クレジットカードの使用履歴も皆無だ。
生活費はどうなっているのか。住む場所はどうしているというのか。
彼は会社員である。こんな形で職場を放ったらかしにして、もう二度と前の生活に戻ることは出来ないはずである。
そこまでのコストを払ってまで、やらなければいけなかったことなのか。
尾行して、盗聴して、佐倉の留守の間に、その部屋に忍び込んだりするのは簡単なことではない。
そんなこと、若菜氏という「普通」の男性になせる業では決してないはず。
もちろん、絶対に無理だとも言えないだろう。何より彼は佐倉の行動パターンを把握している。
忍び込んだ部屋は、そもそも彼が住んでいたところ。鍵だって所有していている。若菜氏だからこそ容易いことだとも言える。
「だから実は、若菜さんは私たちの近くにいるはずです」
「いや、もしかしたら真相はそれとはまるで逆かもしれない。彼は佐倉の愛を試すため、身を隠した。佐倉を独りにして、彼女がどのように振る舞うのかこっそりと見張っていたんだ」
だとすれば、佐倉さんがその試験にパスしたかどうか怪しいものだ。ここで現れたのが木皿儀という男であったわけであるから。
「ああ、そっちの可能性もありますね。でも、そうだったら根暗過ぎませんか?」
飴野の意見を聞いて、山吹の声は途端に沈み始めた。
「卑怯というか卑劣というか」
「君の説だって似たようなものだよ」
「そうですかねえ」
「どっちにしろ、こっそり見張っているなんて異常だよ。しかも、それで彼は大変な報いを受けたわけだ。木皿儀という探偵が現れて、佐倉さんはその男性と関係を持ったことを知った。若菜氏は嫉妬に狂って、木皿儀を手にかけた。彼は人殺しに堕ちてしまった」
「え! そういうことになるんですか?」
ああ、そういうことになるのである。若菜氏が尾行していたとなれば、殺したのだって彼だということになるはずだ。
「だとすれば、私が悪いってことじゃないですか。探偵事務所に相談しようって持ち掛けたのは私で、それで佐倉はその探偵と会ってしまったわけだから」
「気軽に探偵に相談なんてするものじゃない」
ハードボイルド小説に登場する探偵たちは平然と依頼者の女性や重要参考人の女性と関係を持つのである。それはもうほとんど例外なく起きる、ジャンルが要請する約束事のようなもの。
木皿儀はその探偵たちの行動パターンを踏襲したわけだ。
一般のハードボイルド探偵たちはその行動を、誰にも咎められたりはしないものである。大体の場合、彼らは主人公である。探偵のプレーボーイ的振る舞いに、読者も寛容だ。
しかし木皿儀は若菜に殺された可能性がある。探偵であろうが、もうこんなことは許されない時代だとばかりに。
35―14)
もしこの山吹との通信が盗聴されていたとしたら、探偵飴野はとんでもない失策を犯しているということになる。
彼は秘密にするべきことをペラペラと軽薄に話し続けている。
しかし誰も飴野になど関心を寄せてはいない。それが先程、飴野が得た結論。
アルファ教団はそのような組織ではない。探偵飴野が必死に彼らのことを嗅ぎ回っていることすら気づいていない集団。
とはいえ、若菜はその限りではない。
佐倉を見張っている若菜氏ならば、飴野の通信にも聞き耳を立てているかもしれない。
何せ飴野は木皿儀の次に現れた探偵。佐倉と次に寝るのはこの男ではないかと、若菜が危うんでいる可能性がある。
いや、本当に若菜はそのようなことをするような男なのだろうか?
そのようなことをする男とは、つまり婚約者の自分への愛を試すために、身を隠し、尾行し、盗聴し。
それが常人のすることだろうか。強烈な自己中心的性格を伺わせる行い。
飴野は若菜のことを何も知らない。彼のホロスコープを覗き込んだことと、彼の評判を聞き回ったことがあるだけ。それでも飴野が何となくイメージしていた若菜像と一致するところがまるでない。
もちろん、飴野の占星術探偵としての腕が未熟で、ホロスコープを読み違えているだけかもしれないが。
飴野がその疑問を抱くのと同時くらいに、山吹もそのようなことを口にするのである。
「でも若菜さんがそんなことするとは思えないんですよね、自分で言っておいて何ですが。嘘をついて失踪なんかして、こっそりと佐倉のことを見張ってるなんて。私の知ってる若菜さんはそういうのと最も遠い人だった気がします」
彼女も飴野と同じ考えだ。山吹に同意されても、それほど嬉しくはないのだけど。
いや、それは正しい態度だろうか。山吹美香はなかなかの聞き上手であった。会話も自然と弾み、何か心地も良い。そのせいか、彼自身の推理も円滑に回転するようであった。
むしろ、飴野は山吹美香についての印象を改めるべきではないのか。もしかして、彼女は良き助手かもしれない。
とはいえ、そもそも自分と似た発想をする人物が、事件捜査の相談相手として相応しいかどうか疑問であるが。二人して勘違いしていれば、間違った方向にずるずると落ちていくだけ。
「君は何度か若菜氏と会ったことがあるだろ?」
「はい、片手で数えられる程度ですけど。私の知っている若菜さんっていうよりも、佐倉から聞く若菜さんがそういう人じゃないですよね、誰かを試したり、観察したりする人じゃありません。むしろ、どっちかというと他人には無関心なタイプです。だからこの事実に一番驚くのはあの子ですよ」
「しかし、これから結婚をしようという相手を、どんな人物なのかひっそりと推し量りたくなるのが男というもので。偶然にもその機会が上手い具合に彼には訪れた。それを利用しない手はないと考えたのかもしれない」
飴野も山吹の意見に同意しかけているが、反論のための反論をしてみる。口にしながらも、自分の言葉が白々しい。
「え? 飴野さんはそんなタイプの人間だったんですか? あっ、そうか、だから探偵なんて仕事を選んだんですね」
「ああ、その通りだよ」
「男の人って怖いですねえ。だけどですよ、それもこれも好きな人への愛が高まりに高まった結果、やってしまったことだとすればロマンティックですけど」
「いや、こんなのは愛というよりも、ただの支配欲じゃないか」
「でも、それくらい情熱的に愛されるのも悪くないです」
「君は恋人に、密かに自分の人生の全てを見張られたいと?」
「はい、それで私の愛が本物だってことを伝えたいですね」
「嘘だろ?」
「まあ、それはちょっと大げさというか、半分くらいは嘘ですけど。でも面倒じゃないですか、普通の方法で愛を伝えるのは」
だけど今、好きな人も付き合っている人もいませんけどね、山吹美香はそう付け加えてくる。
区切りの良いところまで読み終えたのだから、ここでPCを閉じて、ベッドにもぐり込むべきタイミングなのだけど、私はこのまま読み続けることにする。
勢いに乗っているというわけでもない。眠れそうにないわけでもない。仕事がしたくて堪らないわけもない。
まして、気が急いていたりすることもない。自分の作品の続きが気になって、読むことが止められないわけもない。
何か確固とした理由があるとかではなくて、何となく。強いて言えばブレーキが壊れて、坂を滑り転がるようにして、辞め時を見失って、ただただ読み進めているのである。
シーンは岩神美々と新大阪で会い、いくらかの情報提供をしてもらったその次の日だ。
時刻は夕暮れ間近、飴野はいつもより少しだけお洒落で高そうなスーツを着て歩いている。彼は千咲を迎えに、彼女の通う学校の前にやって来たよう。
飴野が千咲と事務所の外で会うことなんてほとんどない。ましてや彼が彼女の通っている学校まで行って、その帰りを待っているなんて。
今、ちょっとした異常な事態が起きている。どうせならば、スポーツカータイプの高級車などで高校の校門の前まで迎えにいって、学校帰りの彼女を拾うといったシーンを描くべきであったかもしれない。
友人数人と歩いている千咲に向かって、背後からクラクションを鳴らすのだ。その音に驚き、大勢の生徒たちが振り向くだろう。
そんな中、ウインドウから顔を出し、探偵は声を掛けるわけだ。
「千咲、迎えに来た」
飴野は彼女の腕を取り、サイドシートに引っ張り込む。
「何よ、飴野さん驚かさんといてよ」と千咲は言いながらも、このドラマチックな出迎え方にちょっばかし鼻高々なのである。
高級スポーツカーを羨ましげに見ながら、同級生たちは友人と共に駅へと歩いていく。千咲はその光景を車高の低いフロントガラス越しに見上げるだろうが、圧倒的な優越感を持ってだ。
しかし不採用である。こんなシーンを私は書いていない。飴野はスポーツカー何て所有していない。だいたいのところ、飴野はそのような派手な性格でもないだろう。
そもそも、この作品はその種の盛り上がりを避ける傾向にある。あえて地味なほうへ、というより、「禁欲的に」というのが近いだろう。「波乱万丈」とか「ドラマティック」とか「サプライズ」とかを目指しはしない。
いや、しかし「波乱万丈」とか「ドラマティック」とか「サプライズ」が面白さをもたらすことがあることもわかっている。禁欲的で抑制的であれば、それで上品な良い作品が書けるわけでもないだろう。
全ては良い感じの塩梅である。バランスだ。「物語の起伏によって読者をある感情へと誘導する」という試みを放棄して、どのような小説も書けるわけがない。
さて、実際に書かれたシーンはこんな感じ。
「何よ、話しって?」と千咲は現れた。飴野は校門を真正面に見据えた場所で、手持ち無沙汰に突っ立っているのである。
校門の前は人がまばらだった。飴野はサプライズで迎えに来たのではなくて、事前にメールか何かで彼女とコンタクトを取っていた。
「話しがあるから会いたい、何時頃に校門の前に行けばいいだろうか?」と。
というわけで、千咲は友人たちよりも一足先に学校を出てきて、二人は今、落ち合った。
千咲は飴野から突然の呼び出しに怪訝さを見せている。「わけわからへんねんけど」などとブツブツとつぶやいている。
しかしそれと同時に喜びも隠せないようであった。飴野の突然の誘いにちょっとばかし浮かれている様子もあり。
「わざわざここまで出向いて、直接言わなければいけないことでもないのだけど。しばらく君が事務所に立ち入ることを禁止にしたいと思ってね。今日も来るつもりだったろ?」
しかし彼女のその上機嫌は、飴野の第一声によって無慈悲に踏みにじられるのだった。
「はあ? え? 何でよ?」
「もちろん理由はある。正当な理由が」
35―2)
「ちょっと待って、嘘でしょ? 何か私、飴野さんを嫌われるようなことしました?」
飴野が付け足そうとしているその理由を聞こうともしない。千咲はショックを受けたようだ。
飴野が無神経に投げかけた言葉がズシリと心に響いたようで、その歩調のリズムも大きく乱れた。
「訳が分からないんですけど? あの事務所は私の第二の故郷みたいなもんやのに。嫌やよ、そんなん」
その衝撃は怒りに変わったようで、挙げ句の果てに彼を睨み始めるのである。
「あっ、もしかして飴野さん・・・」
かと思いきや、その怒りがフッとかき消えた。
「もしかして、もしかして」
「え?」
「あのことで怒ってるん?」
「あのことだって?」
戸惑うのは飴野の番である。千咲と並んで歩くことなんて滅多にないことで、彼女があまりに歩くのが遅いことに彼は苛立ってもいた。
「飴野さんは私のことを口説いてたのに、それやのに私、気づかずに知らん振りをしてたとか? それやったら謝るけど」
「何を訳のわからないことを言い出すんだ」
「私って意外と鈍感で。そっか、知らない間に飴野さんのことを傷つけていたんですね。でも全く気づいてないってわけではなかったけど・・・」
「捜査が進展している。危険な局面に差し掛かっているんだ」
「そうさ?」
「今、容疑者たちを挑発している。事務所にいると、君も危険に巻き込まれるかもしれない。だから事件解決まで、事務所に立ち寄らないようにして欲しい」
千咲は恥ずべき誤解をしていたようであるが、まるで動じない。
先程、彼女の発したセリフは誰が聞いても冗談だとわかるような、大変にふざけた口調で、そこに真摯さも真剣さも皆無であった。
大袈裟なほど演技がかっていて、全ては虚構の上で交わされた戯れの遣り取りであるということが、飴野にも伝わっていたはず、そう理解している。
彼女は充分に防衛的であったのである。
という建前ながら、二人の間には何か、気まずくもあり、寂しくもあり、よそよそしくもある、少しばかり抒情的な風が流れている。
「容疑者たちって?」
その雰囲気を打ち消すように、千咲は朗らかな声で言う。
「あの教団だよ。彼らはどこかで僕に警告を発してくるはずだ、これ以上、我々に付きまとうなってね。そんなことに君を巻き込むわけにはいかないだろ?」
「警告って何それ、恐そう。飴野さんが刺されたり」
「事務所に投石されたり荒らされたり。もしかしたら廃工場に拉致されたり。さあ、何をされるかわからないけれど」
「確かにそれに巻き込まれるのは嫌やな。しばらく事務所に近づくの、止めとこっと。でも飴野さんは大丈夫なん?」
「木皿儀という前の探偵は殺されたかもしれないからね。僕も同じ運命を辿る可能性がある」
千咲はこの事件の捜査の進展具合を詳しく知りはしない。唐突に現れた「前の探偵」という存在に驚いているに違いない。その探偵は殺されたかもしれないという事実にも。
「え、嘘でしょ? そんなに危険な事件なん? 遺書とか書いておいたほうがいいんとちゃう」
しかし二人の間には今、どんなに深刻な話題であっても、そこに軽い冗談を交えるべきだという空気に支配されてもいて、飴野の死の話題もまた軽い。
「遺産なんて皆無だ。残すべきものも特にない」
「家族とか身内はこっちにいないんでしょ? 飴野さんが死んだときって誰に報せたらいいの?」
「放置してくれて問題ない。事務所にある物も適当に始末してくれればいいよ」
「わかった、これが永遠の別れになるかもしれないってことか」
「そうだ、生きていたらまた会おう」
35―3)
事務所に投石されたり、荒らされたり、最悪の場合、廃工場に拉致されたりするかもしれないね。
千咲に向かってそのような不安を言い立ててしまったが、飴野はそこまでの事態は想定していない。
彼は女の前で少し見栄を張り、危険な職業に従事している男を気取ってしまったのかもしれない。
飴野の望みはどうにかして直接、アルファ教団の重要人物とコンタクトを取ることである。出来ることならばその組織の実質的トップの酒林という男に会いたい。
教団は嗅ぎ回られることを嫌う。その組織の内実ゆえ、警戒心が強い集団だ。
だからこそ堂々と彼らの周囲に出没して、その内情を探る振る舞いを示そうではないか。
つまり、彼らを挑発するのだ。それによって相手側は何らかの行動を起こさざるを得なくなるはず。
アルファ教団には酒林直属の秘密警察、諜報部のようなものが存在しているに違いない。
アルファ教団に在籍する会員たちの秘密を守るため、このような役割りをこなす部署があっても当然だろう。それが飴野の推測。
木皿儀の死、あるいは若菜氏の失踪だって、その諜報部が関わっているのかもしれない。
そうである。飴野がこれから取ろうとしている行動はアルファ教団犯行説に拠ったものだ。
昨夜まで、彼は二つの可能性の前で迷っていた。もう一つの可能性というのは、若菜氏が直接、木皿儀を殺めたかもしれないという説。
岩神美々の前で、飴野はその可能性について本気で検討した。一瞬、その説に心は傾きかけた。しかし一夜明けて、もうそこから心はすっかり離れてしまったと言っていい。
若菜氏が木皿儀を殺したなんてあり得ないだろうと思うのだ。だいたい彼に人を殺す能力があるのだろうか。
良い意味でも悪い意味においても、人を殺すなんて簡単なことではない。
それを成すには、とてつもない実行力と、覚悟と、動機と、環境と、タイミングが重要であって、果たして若菜氏にそれが備わっていただろうか。
強い動機があったことは間違いなく、環境とタイミングはそのときの運次第だとしても、しかし実行力と覚悟である。
若菜氏はそれを所有していない。
ホロスコープがそれを否定しているのである。彼は誰かを殺せるようなパーソナリティーではない。
持続する怒り、綿密な計画、無慈悲な残酷性、そのようなものを持ち合わせているとは到底言えないのだ。
むしろ彼には逃避的な傾向がある。怒りを持続させるよりも、それを忘れたり、諦めたり、許したりして、どうにかして有耶無耶にするタイプ。
「どうしてそのように言えるの?」と、岩神美々がそばに居たら尋ねてくるはずだろうから、それについて軽く触れておくとすると、やはり、火星。実行力の惑星である火星が、彼のホロスコープにおいて目立っていないからだと言えるだろうか。
そして海王星だ。海王星の霧の中に、彼の自我を現わす太陽が逃げ込んでいる。
実行力はない。突発的に行動したりしない。絶対に暴力的行為に出る人間ではないと言えないとしても、秘密をばらされたりとか、約束を裏切られたりとか、屈辱を与えられたとか、その程度で人を殺したりはしないタイプ。
占星術師として飴野はそう確信していた。占星術の力は偉大だ。この力のお陰で誤った推理に陥って、時間を無駄に浪費したりせずに済む。
ならばやはり、アルファ教団の組織的犯行か。
それが飴野の結論である。
35―4)
とはいえ、アルファ教団は反社会的なカルト組織ではないだろう。市民社会と対立したり、公安警察と抗争したりしているわけでもない。
諜報部のようなものがあったとしても、それは小規模だろう。銃で武装しているなんてことを予想しているわけもない。
しかし組織を守るためならば、暴力も辞さない危険な連中に違いないのだ。自分たちの周りをウロウロと嗅ぎ回る飴野を、彼らが快く思うことはない。すぐに何らかのリアクションがあるはずだ。
まあ、これは占星術によって導き出された推理などではなくて、一般的探偵としての勘。というよりも普通の社会人として、そういうものが何となくありそうではないのかという思い付きなのだが。
秘密警察的な諜報部、その部署の頂点に酒林がいるのだろう。
そこに到達するため、まずは末端に接触することになるだろうが、飴野がちょっとした脅しや脅迫では退かないことがわかれば、少しずつ地位の高い人物が出てくるに違いない。
やがて頂上に辿り着くはず。いや、それほど飴野が楽観的かどうかはわからないが、作者の発想はそのようなレベル。
というわけで千咲と別れた足で、今、飴野は教団の施設の前にやって来たわけである。
飴野は片っ端からそのビルから出てきた会員と思しき人物に声を掛けるつもりだ。
この組織について尋ねたり、若菜氏の行方を尋ねたりするのもありだ。具体的な内容はどうでもいい。ポーズなのだ。この組織を探り回っているぞ、と相手方にあからさまに知らしめることが目的。
ところで、ここは大阪府大阪市、天満橋の近く。大阪城の西に位置するオフィス街。
ここにアルファ教団の本部は存在しているから、飴野はこの街にやって来たわけであるが、そのシーンを読み進めていく前に、例によって大阪の街について軽く触れたいのだけど。
大阪の街を描くことが、作家としての私のオブセッションのようなものであるということは以前にも触れたと思う。
この作品の舞台が大阪であるからという事実以上に、ただ単的にこの街を自分なりに上手い具合に説明してみたいという欲望のようなものが私にはあるようだ。
描写したいのではなくて、出来るだけ上手い具合に説明したいという欲望である。
小説家なのだから説明なんかよりも街の空気や雰囲気を描くべきだ、というのはわかっているのだけど、そういうことにはさほど興味がなくて、この街についての情報を要約したりなんてことがしたい。
そのような手段でなら、自分なりにこの街を描くことが出来るのではないかという算段のようなものがあるからだろうか。
というわけで、天満のある大阪城周辺がどのような場所なのか。
大阪梅田から中之島、心斎橋と難波、天王寺と連なる御堂筋の南北のライン、そこが大阪の中心の軸だとすれば、もう一方の大阪の重要な地域がこの大阪城周辺だということになるだろうか。
大阪城公園、大きなコンサートホール、府庁、裁判所、造幣局、テレビ局などの施設が点在していて、多くの人が訪れる街であることは確かだろうが、飴野はこの辺りには不案内だ。
いや、作者の私もそれは同じで、何かこの街について気の利いたことを語れはしないのだけど。
例えば東京で言えば、いや、東京のことだってよくわからないので、ここと似ている街の名前が思いつかないが、しかしこの大阪城周辺はかつて江戸城のあった皇居やその周辺とは、まるで違うタイプであることは間違いない。
かつて運河が張り巡らされていた商業地帯の心斎橋こそ大阪の中心地だとすれば、ここは心斎橋にとって北東鬼門の位置していて、だとすれば風水的には大阪城なんて番犬のような扱い。
江戸城跡の皇居のように、街の中心にポジションしているわけではない。
大阪は政治を司る宮城より、商業を司る地帯のほうが中心であったようなのである。明治以降の街の発展の仕方から鑑みても、そう言えるはず、
とはいえ、京都に都があった時代、ここが交通にとっての重要な拠点であったことは間違いない。八軒家浜という船着場が存在したらしい。そこから淀川(現在は大川であるが)を遡り、京都の伏見まで船で旅をしたわけだ。
それにもちろん大阪城下の城下町が広がっていたのだから、人口も多い地域であったのだろう。その名残りなのか、現在も碁盤のように整然とした町割りである。
飴野はそのような街にいる。町名で言えば谷町。「谷町四丁目」や「谷町九丁目」という駅名でお馴染みのあの谷町だ。
いや、実際に彼が降りた駅は「天満橋駅」で、それは谷町の一丁目、谷町で最も北寄り。
天満橋という橋は実際に今も架かっている。その橋を渡って北に行けば大阪造幣局がある。渡らずに南の岸に留まれば、テレビ局や大阪府庁、そして大阪府警やNHK大阪局に行ける。
アルファ教団のビルが建っているのも川の南側のビジネス街のどこか。かつて若菜氏が通い続けていて、木皿儀の変死体が発見され、今、柘植が潜入しているそのビルが教団の本部でもある。
その建物は大通りにある。それと目立つ印はないが誰も迷いはしないだろう。
目的地に到着した飴野は早速、行動に移る。
35―5)
これが映画であったならば、飴野のその行動をロングショットで撮影すべきであろう。
そのビルから出てくる会員らしき人物に、飴野が次々と話し掛けるのだけど、断られ、避けられ、無視され、嫌悪を持った眼差しで睨まれる光景。やがて建物から警備員の男性が現れる。
その一部始終を遠くからのカメラで収める。
飴野はその制服を着た男性に威嚇されて、パンしても追いつかないくらい画面の外に追い出される。
しかし警備員が立ち去った後、しばらくして再び彼はフレームインしてきて、先程と同じような行動に出て、またもや駆け付けた警備員に追い出される。
それを何度か繰り返す。
唐突に映画のショットなどでこのシーンを語ってしまったが、その癖、私は映像的にシーンを頭の中に思い描いたりする作家ではないと思う。
文章によってそのシーンの情景を喚起させることに、それほど重きを置いていない、というわけではないのであるが、それが小説の最大の目的であるとは別に思っていない。
現実の光景、それを描写することは重要だ。描写から離れるわけにはいかないだろう。これは小説なのだ。必死に描かなければ、街も人物も存在することは出来ない。
しかし描写に執拗に拘るつもりもない。その世界の何もかもを文章にして描き出したりする気はまるでない。
小説の風景は読者の頭の中にそれぞれ勝手に存在すればいい。独自に喚起させる、それが最も理想的な描写のあり方だろうと思う。
つまりその光景を映画の文法、カメラ的な視点に支配されることなく、それを描きたいというわけである。
小説ならではの、と言えばあまりにも抽象的な物言いで、具体的にどういうことなのか上手く説明することは難しいのだけど。
おそらくそれはカメラの視点よりもずっと主観的で、感情が優位で。現実の距離感とか物理法則にきっちりと支配されていないから、あらゆる光景は奇妙に歪んでいて。風景でありながら現実と心理の間を行き来している。つまり、全てはどことなく夢に近いのかもしれない。
というわけであるのだけど、このシーンだけはむしろ映画的というかカメラ的の視点によって、飴野の行動を描写したいのだけど。
ビルから出てくる会員らしき人物に次々と話し掛けるという行為。飴野はその作業に大変ストレスを感じているのである。自分のプライドを捨てている、羞恥心をも。自己乖離のような現象を起こしてすらいるのかもしれない。
話し掛けるのだけど、断られ、避けられ、無視され、嫌悪を持った眼差しで睨まれる。そして建物から警備員の男性が現れる。
飴野はその制服を着た男性に威嚇されて、その場を追い立てられる。それでも懲りずに同じことを再び繰り返す。何度も、本当に何度もだ。
そのような自分の行動を、他人のように遠くから見つめているような心境であるから、まさにカメラの視線のように客観的。
アルファ教団の会員や関係者たちに声を掛け、無視されて、飴野はほとほと嫌気が差し、疲労困憊な状態にあるが、その行為自体に虚無感は覚えない。何も失敗だと感じていない。
アルファ教団に雇われているに違いないそのビルの警備員に何度も追い払われ、本当に惨めな気分に陥っているのだけど、それは望むところ。作戦通りである。
この行為を連日に渡って続けていれば、アルファ教団も飴野を無視することは出来ないだろう。何らかのリアクションを起こしてくるはず。
つまりその組織の内部の上層部が出てくるだろう。それなりに内部の事情に通じた重役と接触することが可能になるに違いないのだ。
それまで我慢強くやり続ける。
35―6)
しかし登場人物が何かを計画して、その人物の意図通りに何ら滞りなく進むなんて、物語においてあり得べかざる展開だろう。
その計画が重要で、大それたものであればあるほど、その計画を挫く何らかのハプニング、予想もしていない事件が起きて、計画者たち実行者たちは右往左往して、それに対処するために新たな知恵を編み出さざるを得なくなる。
それがスリリングな展開というものだろう。計画と予想外のハプニングはペアのようなものだ。
というわけで、飴野のこの計画も、それを読者に明かした時点で決して上手くいくことはないということが確定していたわけだ。
彼の計画というのは、アルファ教団のビルの前に赴き、会員たちに声を掛けて、この組織を捜査しているとあからさまに示して、つまり教団を挑発して、いくらか強引にでも関係者とコンタクトを取ろうというもの。
そのやり方は大変な危険と裏合わせだと飴野は考えている。
アルファ教団を挑発した結果、夜道で廃工場なんかに拉致されたりするのではないかという恐怖などを覚えたりしている。
事務所が襲撃されるかもしれないなんて不安を感じて、千咲を一時的に遠ざけたりもした。
飴野はこの教団をとても危険視しているのだ。この組織が木皿儀を殺した。若菜氏だって、こことトラブルを抱えていた可能性もあり、実はそれが失踪の理由かもしれない。
そんな危険な集団であるのだから、飴野に向かって発してくるかもしれない警告も、とても過激なものとなるに違いない。
実際、ビルの警備員は、建物の前をウロウロする飴野の前に即座に現れて、殴りはしないが暴力の予感で威嚇して、腕を掴んだり、胸を押したりする。
しかしその対応が荒々しくなればなるほど、飴野の挑発行為が功を奏しているという証拠。この行為を淡々と続ければ、いずれ上手くいくだろう。
とはいえ、その作業は飴野のメンタルをすり減らしていった。
彼はふてぶてしいベテランというよりも、何とか仕事をこなす新入社員のように額に脂汗を滲ませていた。
こういう仕事が苦手な探偵なのである。彼はタフな行動派タイプではない。
もうそろそろ退散しようかと考え始めてもいた。
まだ最初の日である。まだ芳しい結果は出ていないが、これを数日間続けることで効果もあるだろう。連日に渡って執拗にやり続けることが重要。
いや、あるいはもう既に充分な効果は挙げているかもしれないという希望的観測すら抱き始めている。
自分の事務所に戻ると、アルファ教団の関係者たちが怒りに満ちた視線で彼を待ち受けている可能性だってあるのではないか。それこそ彼の描くこの作戦の成功イメージ。
そこで交渉に入るわけだ。若菜氏について出来る限りのことを教えて欲しい。教えてくれたらコソコソと嗅ぎまわることは止めよう。
というわけで、今日のところはこれで一区切り。今のところ何も手応えは感じない。ただ疲労が募っただけだ。
しかし忍耐と我慢と継続が重要だと飴野は自分に言い聞かせる。これはすぐに結果が出るような作戦ではない。
35―7)
探偵飴野はアルファ教団を挑発しているということはさっきから何度も言及している。彼らを怒らせることで、強引に接触を図り、対話まで持っていこうとしているのだ。
物語の中の登場人物はそのような企画を立てている。一方、この物語の作者としては、彼の成功を後押しするわけにはいかない。
登場人物が発表した計画が、そのまま上手く運ぶようなストーリーなど楽しいはずがない。
物語の醍醐味はハプニングにあるはずだ。その計画を実行している最中、何か予想外のことを起こす義務が作者にはある、それは読者に対して。
ということで、この場面の探偵の身にも、何か予想外のことを起こさざるを得ないと思うのだけど、そのときに起きた事件というのは飴野が想像もしていなかったようなハードな障害が襲来するというのではなくて。
それを乗り越えるために探偵が四苦八苦するというタイプのものとは違って、それとはまるで逆であったというのが私の選択した展開である。
拍子抜けするくらいに、イージーに事が運ぶのである。
飴野は危険な組織を挑発するのだからと、警戒心を最大にして身構えていた。千咲にも自分がどれほど危険な仕事に赴くか語っていた。
しかし飴野の感じていた不安や恐怖は杞憂に過ぎなかったというオチだ。
そんなことが千咲に知られでもしたら大いに恥をかくだろう。彼は彼女に笑われるに違いない。
アルファ教団はとても丁寧に飴野に接してくるのである。しかも彼らは飴野のことを何も知らなかった。
教団が佐倉彩の行動を見張っているように、彼女が雇った探偵である飴野も、その組織に脅威を与える危険人物として、以前から密かにマークされているに違いないと踏んでいたのに、それも間違いだったかもしれない。
そういうわけで、その勘違いが判明するまでの一部始終である。まず、ビルの中から一人の男が出てきたのだった。
その男は脇目も振らず、飴野に向かって真っすぐに歩いて来る。その様からして、教団関係者であることは間違いなさそうだった。
先程も言及したように、飴野はこの行為に疲労を感じて、そろそろこの場から去ろうとしていたときだった。その間際、ビルの中からこれまでの警備員よりも身分の高そうな者が現れた。
思ったより早く効果が表れたのかと、飴野は一瞬で疲れが吹き飛んだ。とはいえ、どれくらいの相手か定かではない。
「どのようなご用なのでしょうか?」
私どもは会員様方のプライバシーを大変に重視しています。これ以上、このようなことをなされ続けるのならば、それなりの対応をさせて頂きます。
飴野に向かってそのようなことを厳しい口調で言ってくる。
「失礼ですがお名前のほうは?」
「飴野です」
「飴野さんがなさっておられる行為は、会員様方のプライバシーを侵害するような行為です。飴野さんはジャーナリスト様なのでしょうか?」
「いや、僕は探偵だ」
しかし何も事情を知らない下っ端が出てきたようだな。飴野は思う。アルファ教団に関わる事件を捜査している、彼は冷然と告げる。
「事件というのは?」
「確か、このビルの中で死体が発見されたはず。自殺として処理されたようだけど」
「それについての捜査を?」
「この組織が人を殺すような集団かどうか、調べるよう依頼を受けているのでね」
「まさか、我々が」
片方の耳にイヤホンをしていて、彼の上司か誰かからアドバイスを得ているようだった。
イヤホンの向こうの何者かの態度が、飴野のその発言を聞き取って変化したようである。目の前の男性の表情も強ばり、心なしか飴野から距離を取り出す。
「わかりました、それでは事務所で詳しく話しを伺わせていただくということでよろしいでしょうか?」
「もちろん、それが僕の望みだからね」
飴野はその男のあとに続いて、アルファ教団の建物に入った。どうにか一つの段階はクリアーしたようだと思うが、緊張感は一気に強まった。
これから事務所の中で待ち構えている何者かと、摩擦に満ちた遣り取りをしなければいけない。それどころか殴られたり、脅迫されたりするかもしれない。
まあ、しかし何度も繰り返した言えるように、それが勘違いであることが判明するわけだ。
35―8)
探偵たちは力自慢の悪漢たちをその腕力で打ちのめしたりするが、それと同じくらい、彼らのほうも暴力によって酷い目に遭うことが多い。それが探偵という職業の定めらしい。
探偵とはいってもハードボイルド系統の探偵だ。つまり、フィリップ・マーロウ型のほうである。
ホームズ型の推理する探偵は、どのような悪と対峙していたとしても、殴られたりすることは滅多にないはずである。
スマートな彼らに暴力は似合わない。特にあの繊細で上等な頭脳の入った頭部を傷つけられるわけにはいくまい。読者たちだってそのような展開を好むわけがない。
しかしハードボイルド系の探偵はその限りにあらずで、一つの作品で必ず、後ろから頭部を殴られたり、正面から顎を殴られたりして、容易く気絶させられてしまう。
最悪の場合、拷問だ。拷問のシーンで名高い作品といえばイアン・フレミングの「カジノロワイアル」が挙げられるだろうか。レイモンド・チャンドラーが激賞したという作品。
主人公の職業は探偵ではなくてスパイではあるが、役割は同じ。チャンドラーが気に入ったのはこの凄惨極める拷問シーンが原因かもしれない。
チャンドラーの描いたフィリップ・マーロウも殴られる。ロス・マクドナルドの探偵のリュー・アーチャーも殴られる。飴野もそのような目に遭うのではないかと恐れている。
しかし飴野はアルファ教団に暴力で迎えられるどころか、美味しいコーヒーと高級なソファで迎えられる。
いや、実際にコーヒーを出されたわけではなくて、応接間に通されたわけでもないが、それと同然の丁重さで迎えられたということ。
しかも彼を迎えたのはあの酒林であった。この組織のトップ、いずれ飴野が会いたかった男。
その男が何とも呆気なく現れた。非常に困った様子を見せながら。
その建物の内部に、素直に探偵を迎い入れたことがそもそも不思議である。とりあえず飴野の作戦勝ちとしても、何だか呆気ない。
だからこそ、かなり強圧的な手段によって脅されたりするかもしれないと恐怖を感じていた。それを跳ねのけ、渡り合わなければいけないと飴野の肩に力が入っていたのである。
しかし再度繰り返すが、そのようなことは起きない。
会議室と呼べそうな広い部屋である。真ん中に長いテーブルがあり、質素な椅子が並んでいる。部屋の奥に大きなモニターやホワイトボードがある。
彼が通されたこの会議室には、不可思議にしていかがわしい、アルファ教団らしさを示すものなど何一つなかった。
果てしなく有り触れた無機質な部屋。この日本に、こんな会議室が数百数千あるに違いない。
目の前の男が酒林であることに、飴野はすぐには気づかない。暗い部屋に目が慣れてくるようにして、徐々に酒林的特徴がその男の上に浮かび上がって、ようやくそれに気づく。
「酒林さんですね?」
何とか驚きを押し隠しながら飴野は言う。
「私の名前をご存じとは、色々とお調べになられているようですね。そちら様の名前を失念しました」
「飴野です、私立探偵です」
飴野は名刺を渡すが、相手は受け取るだけで何も返してこない。その代わり、いくらか面倒そうに、逃げ腰とも言える態度で、早口にこんな言葉を発してくる。
「木皿儀さんの件でしたね、私たちだってなぜ彼がこの施設で命を絶つ決断をしてしまわれたのかわからない。それ以上のことは何も言えません」
「非常に迷惑だったしょうね、あなた方に何の関係がなかったのだとすれば」
「それどころではありません。その対応に大あらわです。大切な会員方にも迷惑を掛けてしまった。二度とこのようなことは起こしてはいけない。何者にも煩わされることのない静かな環境を提供することが我々の仕事。何よりも重要なことは、会員たちのプライバシーを守り続けていくこと」
話せるのはそれだけです。酒林はさっさと会談を打ち切ろうとする素振りを見せる。
「何も語ったことになっていませんね。これでは追及の手を止めるわけにはいかない」
「我々は本当に何も知らない。ただただ不運なことに、その男性がここを死に場所に選んでしまっただけです。皮肉なことに、ここが誰にも煩わせられることのない静かな環境だったからでしょう。彼はそんな静かな部屋で死の誘いと語り合ってしまい、それを受け入れてしまった」
「確かに木皿儀は何かに悩んでいたようだという証言もあります」
飴野はそんな助け舟を出して、酒林が持ち出してくるその自殺説をあえて補強してみる。
もちろん彼自身、自殺説など信じていない。しかし他殺説だって信じているわけではない。何もわからないというのが彼の態度。
「彼も我々の組織の会員であったのだから、その死は非常に残念です。本当ならば助けてあげるべきであった。彼は新たな人生の楽しみを求めるために、ここの会員になったはず、そういう意味において、我々にも落ち度があったのかもしれない」
「あくまで他殺ではないと?」
「当然です」
35―9)
飴野の目の前にいるその男、酒林が無能な人間とは思えない。しかし何ら迫力を感じないことも事実だった。
こんな平凡な男が、世にも奇怪なこのアルファ教団などという組織を作り上げ、ここまで大きくしたということが信じられない。探偵飴野はそのような胸中を読者に明かしたりするだろう。
その男の態度、まるで脚本を渡されていない俳優のようである。
マフィアのボス役を務めてはいるが、どのような振る舞いをすればいいのか監督に指示もされていない。彼は飴野の前で困ったような表情を浮かべるばかりである。
逆に言えば演出家と脚本家が存在しさえすれば、アルファ教団総帥という肩書きにも、それなりのリアリティを充分に出せそうな余地のある人物だとは言えるのだけど。
しかし今のところ、そんな裏方は不在のようである。
いつまでも話しは平行線であった。酒林が発するセリフは二通りだけ。木皿儀は自殺した。我々とは関係ない。だからこれ以上、関わらないでくれ。
これ以上付きまとい行為を継続するのなら、法的な手段に訴えるなどと強い口調で言ってくる。
飴野は望んでいたよりも容易く、とてもスムーズに、アルファ教団のトップに会うという目的を果たすことが出来たのであるが、しかしその結果は当てが外れたとしか言いようがない。
拍子抜けである。望んでいたような手応えがまるでない。
この組織の無害さ、無防備さ。彼らが木皿儀を殺したなんて事実など、あり得なさそうである。
ならば当然、佐倉を尾行したり、その部屋に侵入したりしたのだって、この組織とまるで関わりのないことなのだろうか?
だとすれば佐倉を尾行していたものは何者なのか。やはり、それは彼女は不安の結晶した錯覚にして妄想に過ぎなかったのか。
「こちらからも尋ねたいことがある。どこからその事件の話しを耳にしたのでしょうか?」
酒林が神経質な表情で尋ねてくる。
「どこからとは?」
「木皿儀氏の自殺の件です。あなたの他にも、それを嗅ぎ回ろうとしているジャーナリストはおられるのだろうか?」
このことを探るために自分を招き入れたわけか。妙にスムーズに事が運んだことの理由。飴野は腑に落ちる。
「いえ、実は。本当のことを話しましょう」
「本当のこと?」
「はい、本当のことです」
当初のやり方では酒林との距離は埋まりようがない。別の方法を試みるべきだと飴野は判断した。
「木皿儀氏の自殺の件は、あなたたちの弱みにつけ込むために利用しただけ。その事件に興味はありません、今のところは」
大変に無礼なやり方であったということは承知しています、と飴野は丁重に詫びる。
「何ですって」
当然、酒林は不愉快そうに顔を歪ませる。飴野は更に丁重に詫びを入れる。
「僕を雇った依頼人の目的は木皿儀の死を探るためではありません。それは捜査の過程で遭遇した事件に過ぎず。僕がアルファ教団を探っているのは人探しが目的です。依頼人は佐倉彩という女性で、彼女は婚約者を探している」
「佐倉さん、ああ、やはりそうでしたか」
酒林は何度もしきりに頷き始める。
「御存じで?」
「ええ、それはまあ」
酒林は苦々しい表情で、その事実を認める。
35―10)
「彼女はまた探偵をお雇いになられたわけか」
いや、それは当然でしょう。婚約者が失踪なされたのだから。あの女性の心痛は如何ばかりか察して余りある。
酒林は独り言のように、そんな言葉を発する。
「佐倉彩の婚約者である男性は、ここ、アルファ教団に通っていたようです」
「そうでしたね」
「彼女が婚約者を探すために探偵を雇ったのは二度目です。最初の探偵が木皿儀氏だった」
「ええ、知っています」
「木皿儀について、もうこれ以上尋ねようとは思いません。実は彼のことなど、それほど重要ではない」
「何を尋ねられても答えようがありませんが」
「その代わり、若菜氏のことを教えて欲しい」
「さあ、それだって我々は何も把握していない。全ての会員が匿名です。名乗っているのは偽名。住所や電話番号など、個人が特定されるような情報の一切を我々は保有してはいません。会費を支払われた方々を施設に迎えて入れているだけ」
「そのような回答を予測していましたが、しかしこちらも引き下がることは出来ません」
酒林が本当のことを言っているのか、飴野には当然、判断がつかない。この男が若菜氏のことを何も知らないのか、実は匿っているのかなんて。
「では、事と次第によれば、木皿儀の死を事件化することも検討せざるを得ないようですね」
「そのように脅されても、わからないものはわからない。しかしこちらから言えることがあるとすれば、もうその婚約者探しを諦めるべきではないかということでしょうか」
「なぜ?」
「婚約者が失踪なされたなんて、その女性の心痛、如何ばかりか察して余りあります。決して喜ばしいことではない。将来を約束されていたはずのカップルに不幸が起きてしまったのですから。しかしその男性が帰ってくることはないでしょう」
酒林はどこか強気で、誇らしげな態度を見せ始めた。自慢をしている態度だと評してもいい。
何を自慢しているのか? 彼の組織、アルファ教団の自慢だ。
「我々は反社会的な組織でも、カルトでもありません。暴力なんてものとは、もちろん無縁です。しかし、いはゆる市民的常識や良識を、尊ぶべきなんてことも考えていない。あなた方とは違う価値観で生きていることも事実です」
「はあ、つまり?」
「お二人は婚約者同士であったのに、片方の男性は我々教団と関係を持つようになった。それは一般常識に照らし合わせれば、とても不幸なことでしょう。失踪した男性は、あらゆる女性との付き合いを絶つ決断をしたわけです。我々の教えがその関係を壊したのでしょう」
「ああ、そういうことになるのかもしれません」
「ですから、たとえ見つけ出すことが出来ても、その会員の方が女性の許に帰るなんてことは起こり得ません。依頼人の方にそうお伝え下さい。それは我々組織の罪かもしれません。家族や夫婦を引き裂いてしまっている。捨てられた女性は哀れです、とても可哀想だ。しかし失踪を選択された男性は、どこか一人で幸せな人生を静かに送っておられるはずですよ」
「そういう例は多いわけですか?」
「いえ、決して出家などを推し進めているわけではありませんが、女性との人生に疲れた男性たちはそのようなことを決断してしまう。秤が自然と、こちら側に傾いてしまうのです」
「そのような男性たちが向かう場所の心当たりは?」
「我々の組織は全国にあります。どこかの都市でひっそりと生活されながら、以前と同じように通われているに違いない。さっきも言った通り、偽名を使って会員となられているはずだから、名簿を探しても無駄でしょう」
「偽名を使うなんて、後ろ暗い想いをしながら通っているわけですね」
「はい、しかし何も問題はない。私たちは禁断の果実を密かに味わいながら、虚無に溢れた人生に生きる価値を見い出して、何とか生き延びようとしているんです。麻薬は違法でしょう。しかし我々が提供する快楽はどんな法律にも抵触しない。何ならば、探偵さん、あなたもお試ししますか?」
35ー11)
酒林との会談後、そのビルを出て、駅へと向かう探偵飴野の足取りは重い。
その男からは、飴野が想定していた発言も返ってこなければ、飴野が想像していた反応も返ってこなかった。
飴野はこれまでの推測の全てが間違いだったのではないかとすら思ってしまいそうになる。振り出しに戻ったという感触だ。
飴野はその迷いのまま、降りるはずだった地下鉄への階段を通り過ぎて、谷町筋をまっすぐに北上する。
長い天満橋を渡ると、谷町筋は天満橋筋と名を変える。
谷町のビル街のビル群と比べると、その天満の街の建物は随分と古く、こじんまりとしていて、一つも二つも時代が逆戻りしたようだ、というのは随分と気を遣ったやんわりとした表現で、端的に言えば街のグレードがガクリと下がったということ。
とはいえ、街の風景に目を向ける余裕はなく、彼はその通りを歩きながら考え事をしている。
アルファ教団が佐倉を尾行していたようではなさそうだ。
まだはっきりとそう断定出来るわけではないが、それをひとまず認めなければ他の考えには進めないと自らに言い聞かす。
彼の最初の推理は間違っていた。しかしだ、何者かは佐倉を尾行していることは事実に違いない。
飴野はその証拠を掴んだわけではないが、佐倉の言葉を疑う理由もない。
だったら、その尾行者は若菜氏なのだろうか。最初から佐倉が言及した可能性がそっちだった。
アルファ教団の中の何者かでなければ、残された可能性はこれしかないとも言える。
いや、このように重要なことを、探偵一人で考え事をさせるわけにはいかない。誰かと対話させるべきである。それが私の小説技法の一つ。
このようなときのために脇役を数多く用意してきたのである。助手の千咲か、刑事の岩神、占星術師の先輩のマーガレット、同業者の柘植。別に誰でもいい。サイコロで決めてもいいくらいだ。
登場させるのが面倒ならば、ここは声だけでいい。その誰かが折りよく飴野に電話をかけさせればいいだけ。
飴野に電話をかけて来そうな登場人物。山吹だ。彼女が打ってつけではないか。
思えば東京旅行以降、彼女の登場機会もなかった。この辺りで姿を現しておくべきだ。
というわけで、山吹美香の再登場である。
山吹などから電話がかかってきたら、飴野は最高に不機嫌な状態で出ることであろう。ましてや、これまで推理の重要なポイントが間違っていたようなのである。飴野の気分は最悪だ。
「どうされたんですか?」
山吹はその不機嫌さに臆することなく、あっけらかんと尋ねてくる。
「さあ。そっちこそ、いったい何の用なんだ?」
「いえ、最近、どうなされているかなあ、と思って」
「そんな要件で電話してきたのか? 今、忙しいんだ。何の用がなければ切るけど」
「ちょっと待って下さい。事務所におられるんですか? さっき訪ねて行ったんですけど、誰もいなかったんですけど」
「そうだろう、今日はずっと歩き回っていたから」
「ああ、なるほど、それは凄いですね。まさにもうすぐ事件は解決するって雰囲気じゃないですか」
「何だって? それどころか振り出しに戻ったって感じだ。アルファ教団はこの事件と何の関係もないのかもしれない」
飴野は思わず捜査に関わる重要なことを言ってしまう。すると当然、更に山吹は喰いついてくるのだ。
「噓ですよね、だってあんなに怪しい組織じゃないですか」
飴野は山吹を相手に軽々しいことを言ってしまった。アルファ教団と若菜氏失踪の間に、何の関係がないと言い切れる段階でもない。まだまだ飴野の知りえない事実がどこかに隠されているに違いない。
しかし当初、飴野が想定したような関係の仕方はしていないのだろう。それは間違いなさそうで、この事実が彼を戸惑わせている。
「佐倉さんを尾行している人間がいるようなんだ。ちょうど良い、何か心当たりがないか、君にも尋ねたかったところだ」
「佐倉が尾行されているんですか? わ、私じゃないです、そんな暇じゃありませんよ!」
「君を疑っているわけなんかない。心当たりがないかどうか、質問しているんだ」
「ああ、そっちでしたか。会社で同僚にボールペン失くしちゃったって言われると、もしかしてお前が盗んだんだろって内心では疑われているんじゃないかって考えてしまうタイプなんですよね。良かったです、疑われてなくて」
「で、心当たりは?」
「ありませんね、何もありません。ありませんとしか言いようがないです」
「そうか」
山吹に頼るのが間違いなのだ。そもそも、彼女の名前で着信があった段階で、それを無視しておくべきだった。
それなのに飴野は魔が差してしまった。捜査が行き詰まりそうで、不安になって、誰かと話すことで、その不安を解消しようとしたのだ。
そんな方法で不安を解消している場合ではない。電話を切るぞ、君の相手をしている暇なんてない。
しかし山吹は言ってくる。
「もしかしてそれって若菜さんじゃないですか? 失踪なんて嘘で、実はこっそりと佐倉を見張ってたりとか?」
嚙み合わないと思っていたら、スムーズにつながり出した。飴野はその可能性について、考えようとしていたところだ。
35―12)
スマホを耳に当てて、もう一方の手はジャケットのポケットに入れて、いくらか険しい表情を浮かべて、見ようによればかなり行儀の悪い態度で、天満橋筋を闊歩する飴野である。
日は完全に暮れている。夜だ。
天満橋筋は有り触れた日本の何の変哲もない道路で、車の交通量もそこそこであれば、通りを歩く人もそこそこの数。その道路沿いに並んでいる建物も、雑居ビルかマンションばかり。
象印マホウビンで有名な会社の本社があったりもするが、そこを通り過ぎると、更にありきたりな通りとなる。
いや、そのとき突然、右手側に妙な明かりが見えるのである。
これまでその通り沿いに、申し訳程度にしか植えられていなかった樹木の数がにわかに増え始め、その木陰のせいで一段と闇が深まった辺り、その妙な明かりが樹々の向こうに垣間見えるのだ。
駅なのかショッピングモールなのかと、はたまた市役所か府庁か、とにかく巨大な建物の気配がする。
それにしても妙な場所に何か大きな建物が建っている。何かと訝りながら近づけば、それはホテル。ちょっとした高級ホテルがそこに聳え立っている。
飴野が電話で山吹と尾行者の話題を語り合ってとき、ちょうどその辺りを通りかかったということにしておこう。
そのホテルは天神橋筋に直接は面しておらず、奥まった場所に建っていて、というか川に面するように建設されたようで、その明かりの気配に気づかなければ素通りしてしまう。
「もしもし、聞いていますか?」
山吹美香が電話の向こうで声を張り上げてくる。
「聞いてる。なるほど、君はそう考えるわけか」
飴野は返事を返す。
「でもありえないですよね、若菜さんはだってもう」
死んでいる。
山吹はその悲劇的事実を口に出しはしないが、沈黙でもって伝えてくる。
「いや、そうも言えない」
「え? そうなんですか?」
「結局、佐倉さんと彼との間に破局的な事態はなかった。本当にそれはありきたりな恋人同士のケンカでしかなくて、若菜氏は単に家出して、今はどこかに身を潜めているのかもしれない」
「そうだったら嬉しいです。私は佐倉を失わずに済みます!」
本当にそうなのだろうか?
まだ、そのような証拠を何も掴んだわけではない。もはや何もわからなくなった、というのが飴野の正直な思い。
とはいえ、アルファ教団は佐倉を尾行などしていない。それは確かな事実として認めざるを得ないと飴野は思っている。
先程の酒林との会話でそのような感触を得てしまった。あの組織は飴野が考えていたような集団とは違う。
だとすれば、誰が佐倉を付け回しているというのか? 次の候補者は一人に絞られてしまう。若菜氏の可能性について考えなければいけないということである。
35―13)
「若菜さんが生きていて、実は佐倉のことを尾行しているのだとしたら、もうこの事件も何とかなりそうですね」
山吹美香の声は朗らかで柔らかい。
けっこう個性的な性格で、空想癖があり、まるで社交性はなく、一般的常識に欠けているが、善人である。彼女の声はいつだって明るくて優しい。
「私、思うんですが、若菜さんはきっとまだ佐倉を愛しているんです。だからあの子をこっそりとを見守ってるんですよ」
「ああ、君はそういうふうに考えるわけか」
しかし、どこかに隠れながら佐倉の生活を密かに見張っているなんて、ただの会社員でしかなった若菜氏に、このようなことが可能なのか、そういう疑問もある。
身を潜め続けるには資金もいる。貯金が使われている気配はない。クレジットカードの使用履歴も皆無だ。
生活費はどうなっているのか。住む場所はどうしているというのか。
彼は会社員である。こんな形で職場を放ったらかしにして、もう二度と前の生活に戻ることは出来ないはずである。
そこまでのコストを払ってまで、やらなければいけなかったことなのか。
尾行して、盗聴して、佐倉の留守の間に、その部屋に忍び込んだりするのは簡単なことではない。
そんなこと、若菜氏という「普通」の男性になせる業では決してないはず。
もちろん、絶対に無理だとも言えないだろう。何より彼は佐倉の行動パターンを把握している。
忍び込んだ部屋は、そもそも彼が住んでいたところ。鍵だって所有していている。若菜氏だからこそ容易いことだとも言える。
「だから実は、若菜さんは私たちの近くにいるはずです」
「いや、もしかしたら真相はそれとはまるで逆かもしれない。彼は佐倉の愛を試すため、身を隠した。佐倉を独りにして、彼女がどのように振る舞うのかこっそりと見張っていたんだ」
だとすれば、佐倉さんがその試験にパスしたかどうか怪しいものだ。ここで現れたのが木皿儀という男であったわけであるから。
「ああ、そっちの可能性もありますね。でも、そうだったら根暗過ぎませんか?」
飴野の意見を聞いて、山吹の声は途端に沈み始めた。
「卑怯というか卑劣というか」
「君の説だって似たようなものだよ」
「そうですかねえ」
「どっちにしろ、こっそり見張っているなんて異常だよ。しかも、それで彼は大変な報いを受けたわけだ。木皿儀という探偵が現れて、佐倉さんはその男性と関係を持ったことを知った。若菜氏は嫉妬に狂って、木皿儀を手にかけた。彼は人殺しに堕ちてしまった」
「え! そういうことになるんですか?」
ああ、そういうことになるのである。若菜氏が尾行していたとなれば、殺したのだって彼だということになるはずだ。
「だとすれば、私が悪いってことじゃないですか。探偵事務所に相談しようって持ち掛けたのは私で、それで佐倉はその探偵と会ってしまったわけだから」
「気軽に探偵に相談なんてするものじゃない」
ハードボイルド小説に登場する探偵たちは平然と依頼者の女性や重要参考人の女性と関係を持つのである。それはもうほとんど例外なく起きる、ジャンルが要請する約束事のようなもの。
木皿儀はその探偵たちの行動パターンを踏襲したわけだ。
一般のハードボイルド探偵たちはその行動を、誰にも咎められたりはしないものである。大体の場合、彼らは主人公である。探偵のプレーボーイ的振る舞いに、読者も寛容だ。
しかし木皿儀は若菜に殺された可能性がある。探偵であろうが、もうこんなことは許されない時代だとばかりに。
35―14)
もしこの山吹との通信が盗聴されていたとしたら、探偵飴野はとんでもない失策を犯しているということになる。
彼は秘密にするべきことをペラペラと軽薄に話し続けている。
しかし誰も飴野になど関心を寄せてはいない。それが先程、飴野が得た結論。
アルファ教団はそのような組織ではない。探偵飴野が必死に彼らのことを嗅ぎ回っていることすら気づいていない集団。
とはいえ、若菜はその限りではない。
佐倉を見張っている若菜氏ならば、飴野の通信にも聞き耳を立てているかもしれない。
何せ飴野は木皿儀の次に現れた探偵。佐倉と次に寝るのはこの男ではないかと、若菜が危うんでいる可能性がある。
いや、本当に若菜はそのようなことをするような男なのだろうか?
そのようなことをする男とは、つまり婚約者の自分への愛を試すために、身を隠し、尾行し、盗聴し。
それが常人のすることだろうか。強烈な自己中心的性格を伺わせる行い。
飴野は若菜のことを何も知らない。彼のホロスコープを覗き込んだことと、彼の評判を聞き回ったことがあるだけ。それでも飴野が何となくイメージしていた若菜像と一致するところがまるでない。
もちろん、飴野の占星術探偵としての腕が未熟で、ホロスコープを読み違えているだけかもしれないが。
飴野がその疑問を抱くのと同時くらいに、山吹もそのようなことを口にするのである。
「でも若菜さんがそんなことするとは思えないんですよね、自分で言っておいて何ですが。嘘をついて失踪なんかして、こっそりと佐倉のことを見張ってるなんて。私の知ってる若菜さんはそういうのと最も遠い人だった気がします」
彼女も飴野と同じ考えだ。山吹に同意されても、それほど嬉しくはないのだけど。
いや、それは正しい態度だろうか。山吹美香はなかなかの聞き上手であった。会話も自然と弾み、何か心地も良い。そのせいか、彼自身の推理も円滑に回転するようであった。
むしろ、飴野は山吹美香についての印象を改めるべきではないのか。もしかして、彼女は良き助手かもしれない。
とはいえ、そもそも自分と似た発想をする人物が、事件捜査の相談相手として相応しいかどうか疑問であるが。二人して勘違いしていれば、間違った方向にずるずると落ちていくだけ。
「君は何度か若菜氏と会ったことがあるだろ?」
「はい、片手で数えられる程度ですけど。私の知っている若菜さんっていうよりも、佐倉から聞く若菜さんがそういう人じゃないですよね、誰かを試したり、観察したりする人じゃありません。むしろ、どっちかというと他人には無関心なタイプです。だからこの事実に一番驚くのはあの子ですよ」
「しかし、これから結婚をしようという相手を、どんな人物なのかひっそりと推し量りたくなるのが男というもので。偶然にもその機会が上手い具合に彼には訪れた。それを利用しない手はないと考えたのかもしれない」
飴野も山吹の意見に同意しかけているが、反論のための反論をしてみる。口にしながらも、自分の言葉が白々しい。
「え? 飴野さんはそんなタイプの人間だったんですか? あっ、そうか、だから探偵なんて仕事を選んだんですね」
「ああ、その通りだよ」
「男の人って怖いですねえ。だけどですよ、それもこれも好きな人への愛が高まりに高まった結果、やってしまったことだとすればロマンティックですけど」
「いや、こんなのは愛というよりも、ただの支配欲じゃないか」
「でも、それくらい情熱的に愛されるのも悪くないです」
「君は恋人に、密かに自分の人生の全てを見張られたいと?」
「はい、それで私の愛が本物だってことを伝えたいですね」
「嘘だろ?」
「まあ、それはちょっと大げさというか、半分くらいは嘘ですけど。でも面倒じゃないですか、普通の方法で愛を伝えるのは」
だけど今、好きな人も付き合っている人もいませんけどね、山吹美香はそう付け加えてくる。