40)占星術探偵「求愛の芝居」
文字数 13,159文字
40ー1)
私は少しばかり疲れて、ぐったりとソファに身体を委ねている。喫煙者ならここで一服するところだろうが、そのようなものを嗜まないのでコーヒーを飲んだり、キャラメルを噛んだりするだけ。
まあ、それでも充分にリラックス出来るのだから、何も問題はないのだけど。
音楽も聞きたい気分だ。俗っぽい歌謡曲がいい。メロディーが明確で、コード進行が単純で、ボーカルは伸びやかな歌。
ということで、インタビューは終わった。佐々木は去っていった、また明日もお願いしますという言葉を残して。
僕たちに明日が無事に訪れたら、この仕事の続きをしようなどと言って彼女を送り出す。
佐々木からそれに対する気の利いた返答なんて返ってこない。しかしインタビュアーもかなり疲労した様子だった。お互い不慣れな作業に疲労困憊である。
さて、私も確かに疲れているのだけど、疲れているから今日はもうこれで休もうなんて考え方を取らないのが、私が作家たる所以である。
疲れてはいるが、まだその時間ではない。休憩の時間ではないのだ。
私はそのときの気分ではなくて、とにかく慣習通りに働く。時刻表通りに運行する電車のような仕事人である。
というわけで、これから自分の作品の読み返し作業に勤しもうという所存。確かにそれ自体はあまり疲れる仕事ではないから可能なことなのだろうが、私の生真面目さは評価に値するものではないだろうか。
「占星術探偵、西宮のファミレスで」の章まで読み終えたのである。いよいよクライマックスである。
これまでも、「いよいよクライマックスが近い」などと繰り返してきた気がするが、遂にここで本当にクライマックスを迎えるのである。私の記憶が確かであるならば、きっとそのはず。
飴野はマーガレットに丁重に礼を言って、何ならば彼女とハグを交わして、欧米風に頬にキスまでして、別れた。
彼は山吹と共に大阪へ帰っていく。西宮市の灰色のアスファルトの道をガードレールに沿いながら、二人で肩を並べて、一緒に駅へ歩いていく。
「君がいてくれて、本当に良かった」
飴野は山吹の背中に優しく触れながら、そのような言葉を掛けるのである。
「え? は?」
「感謝する。言葉では言い尽くせないくらいの感謝だ」
「どうしたんですか、飴野探偵、何だか妙にあれですね、素直というか、優しいというか、紳士的というか」
「この事件が解決したら、君にまず話すことになるだろう、どうやって真相にまで辿り着くことが出来たか、そこに至るまでの過程を全部」
「本当ですか? 私はお役に立てたんですか?」
「ああ、十二分に」
「嬉しいです。それだったら、っていうわけではないのですが・・・、いえ、やっぱり止めときます。いや、やっぱり言おう。私、飴野探偵事務所で働きたいなと思ったんです」
「え?」
せっかく温かな空気が流れていたのに。山吹美香のその発言によって、瞬時にそれは消え去ったと言っていい。
そもそも山吹は無断で、いやいや、それどころか何と彼を尾行して、この西宮に現れた。
その非礼を許して、飴野は山吹に優しい言葉を投げ掛けてやったのに。それなのに山吹のほうはそれを無下にするような厚かましいことを願い出る。親密な空気はすっかり白けてしまう。
「働きたいっていうのは、僕の事務所でスタッフとしてだよな」
「何でもします。部屋の掃除も、ターゲットの尾行も、時と場合によっては殺人も」
「それはどうかな。端的に言えば無理だよ。君を雇う余裕も予定もない」
山吹の冗談を無視して、飴野ははっきりと断る。
「どうしてですか?」
「どうしてって、別に一人で充分に務まっているからね。それに留守番などをしてくれる人もいて」
「ああ、前にも言ってましたね。でも私、多分、その人より役に立つと思います。だってその子、あれですよね、高校生か何かですよね?」
それがどうしたんだと声には出さず、飴野は山吹を見る。
「高校生だったら受験とかもあるんじゃないですか? 勉強も忙しくなりますよね? そうなったらどうするんですか? 後任候補は既にいるんですか?」
「いないとしても、どっちにしろ君はその候補にはなりえないな」
「本気ですか、飴野探偵!」
「ああ、本気だよ」
40―2)
「ちょっと待って下さい、じゃあ、こっちも言わせてもらいますけど。さっき、私に感謝するって言ってましたよね? 私がいなければ事件は解決しなかったというニュアンスでした」
大阪から西宮に出張してきた飴野と山吹は、まるで馴染みのないこの街の路上でちょっとした諍いを始める。
周りに迷惑を掛けるほど派手な騒ぎを起こすわけではないが、通りがかった人が眉を顰めるくらいには二人の声のボリュームは調節を欠いている。
「それは認める。だから君に感謝の言葉を口にしたつもりだ。もう一度、言ってもいい、ありがとう」
「どういたしまして。でも、それに対する謝礼は払ってもらってませんよ。捜査協力費用です」
「なるほど、いくら欲しいんだよ? 五万か十万か、今すぐ払ってやろう」
「そういうことではありませんよ。私が飴野探偵事務所のスタッフだったら、そういうのも払わなくていいですよって意味じゃないですか」
「いくらでも払うから、君との関係をここで切ろうって言っているんだよ」
「どうしてわかってくれないんですか、飴野探偵!」
激しい感情が突き上げてきて、山吹は立ち止まってしまう。「私はそんなことを望んでいるわけではないんです」
「わかっているよ」
飴野はこれまでと打って変わって小さな声でつぶやく。「だいたいのところは」
山吹は立ち止まり、飴野は気にせずに歩いていくから、二人の距離は徐々に離れていった。
「はあ? 何をわかっていると言うんですか?」
飴野の返答が聞き取りにくくなって、山吹は慌てて走り寄ってくる。
「もうすぐ事件は解決するだろう」
「はい?」
「まだ若菜氏がどこにいるのか、最も肝心なことが不明だけど、それもこれからの作戦できっと判明するはずだ」
「ふーん、そうなんですね、それは良かったですね」
もはやそんなことに何の興味もないという態度を山吹は見せてくる。
「これから佐倉さんの部屋で、若菜氏を呼び寄せる儀式を行う」
「え?」
とはいえ、山吹も飴野のその言葉には興味を惹かれる。
「儀式って何ですか、それ?」
「さあ、何て言えばいいか」
「火を焚いてその周りを回ったり、魔法陣の前で祈りを捧げたり?」
「まあ、それくらい滑稽なことだよ。誰かに見せられるものではない。傍目から見れば狂った行いだろう。しかし今からそれをやり遂げるつもりだ」
「そうなんですか、それは頑張って下さいとか言えません」
今から佐倉に会いに行くんですね、山吹美香はそんなことも付け加えてくる。
「その儀式を成功させ、この事件を終わらせるよ」
「はあ、そういうことになるんですね」
再びその現実にぶつかって、山吹は声を落とした。この素直な態度を見て、飴野は優しいことを掛ける気になったのかもしれない。
「君はこの仕事に興味があるんだろ? また事務所に遊びに来ればいいさ」
「え?」
「絶対にスタッフとして雇うことはないけどね。しかし邪険に扱うことはないもない」
「ああ、何となくわかってくれてたんですね」
山吹はそうつぶやいた。
「でも私、もしかしたら尾行の天才なんじゃないかって思ったりするんですが。実際、飴野さんに気づかれることなく、ここまで着いてくることが出来ました」
そしてまた悪びれることなく、リクルート活動を開始する。
「もう普通の仕事に戻れる気がしないんですよねえ」
「探偵の仕事だって普通の仕事だよ」
「いえ、普通の仕事というのは本当に普通なんです。仕事中に何も面白い出来事が起きないんです。ほとんど毎日が同じことの繰り返しなんです。その繰り返しの外側に出ることが出来ないんですよ」
「探偵だって似たようなもんさ」
「そうだとは思いません。国際的陰謀に巻き込まれたり、世の中が引っ繰り返るような政府のスキャンダルを暴いたり」
「しない。そのような仕事と遭遇するわけがない。不倫とか、浮気とか、結婚しているのに別の人物と恋愛している既婚者の不貞を暴くとか、そういう陳腐な事件と関わるだけだ」
「それでも十分に愉快だと思います」
40―3)
探偵飴野は愚かしいほどに捜査情報をペラペラと話し回っているに違いない。しかも占い師とか、事件の参考人とかに。
これがプロフェッショナルな探偵の態度なのであろうか。少し冷静になって鑑みるまでもなく、決して褒められたものではないだろう。
「これから若菜氏を呼び寄せる儀式を行う」と山吹に向かって打ち明けたのだって、本当に目に余る行為ではないだろうか。若菜を見つけるために今から何かしらの作戦を行うという宣言をしたわけである。
とはいえ、それをきっかけに情報が漏洩して、捜査に深刻な影響をもたらしてしまうようなことは絶対にないのだけど。
読者に、そのような危うい雰囲気なども感じてもらいたくない。マーガレット・ミーシャも山吹美香も、このシリーズのレギュラー登場人物。決して彼を裏切ったりはしない、安心安全な身内のような存在なのである。彼を貶めるような危険な挙動に出ることは決してない。
極論すれば、マーガレットも山吹も、飴野の内心を吐露させるために存在している鏡のような登場人物だ。
そのために作られたのだから、事件について相談を受けるのは当たり前であり、その会話が外に漏れたりしないのもまた当然だ。
飴野の周りには、「彼の内心を吐露させるために存在している鏡のような登場人物たち」で溢れている。
それもこれも、飴野が抱いた事件についての推理や憶測、情報の整理を、会話の形で展開させるためである。飴野が一人で考えるという一人称の独白ではなくて。
それは小説のスタイルの問題。だから彼は捜査情報をペラペラ話し回っているという事情。
さて、西宮から大阪までは一緒に帰り、「事件解決のため、ちょっとばかし不可思議な儀式を行なってくる」と言って山吹と別れた探偵であるが、彼はその儀式が行われるはずの佐倉彩の部屋に向かわず、今、独りで大阪城公園のベンチで西外濠の堀の石垣などをを見つめたりしながら、ある人物の到着を待っていた。
この待ち合わせ場所に来るのはずなのは岩神美々。
陽はすっかりと陰っているが、まだ大阪城公園は賑わっている。東南アジアのどこかからやってきた観光客が賑やかに会話していたり、犬を散歩している家族がいたり、若い社会人カップルがデートしていたり。
とはいえ、飴野の孤独が目立ったりしない。誰かといる人より、孤独な人のほうがずっと多いようだ。
飴野は別に、自分がどちら側に属しているのかなんて考えたりしない。それもこれも彼もこれから人と会うことになっているからだろうか。
しかし「ごめんなさい、飴野探偵、今日は行けそうにない」と岩神美々からの電話を受けるのだった。
「仕方ないじゃない、そういう仕事なのだから」と美々は先に怒りをあらわにしてくる。約束を違えた美々を飴野はまだ責めたわけではないのに、その前に先制攻撃を仕掛けてくるのだ。
「君から会いたいと連絡が来た時には、こっちは駆け参じているというのに」
その先制攻撃に負けず、飴野は言い返す。
「もう到着している。君は人との約束というものを軽く見ているようだね」
「私にはどうにも出来ないのよ! これが公僕の人生なの。こうやって大阪の治安は守られているんだから。それより、ちょっと待って。いつ私があなたに会いたいなんて連絡を寄こした? 誤解されそうな言い方は止めて欲しいのだけど」
「この間の新大阪のときのことだ。しかし言葉の綾さ、そんなことで言い争う気はない」
「飴野探偵、私と会話するときは、必ず正確な言葉遣いを心掛けて! あなたがどのような勘違いをしているのか知らないけれど」
「勘違いだって?」
「あなたは私を便利な女のように扱っていると言ってるのよ!」
あなたは私を自分の女のように扱っている。そっちのセリフのほうが良かっただろうか。
しかし美々はここまで際どい発言をする性格ではないはずだ。よっぽど言葉が滑らなければ、「恋愛」を想起させるような言葉を軽々しく口にするような女性ではない。
「今日も機嫌が悪いな」
「何ですって」
「うんざりするよ、その刺々しさに。さっさと誰か恋人を見つけて欲しいね。彼氏でもいれば、君の不安定なメンタルも安定するんじゃないかな」
逆に飴野が際どい言葉を投げかける。とてつもなくポジティブな受け手であれば、「俺がお前を幸せにしたい」というニュアンスを感じなくもないが、いや、それ程に寛容は聞き手は存在しないだろう。ただ単純に彼女を嘲るような言葉。
「本当に失礼な言葉。世の中一般の女性を軽く見ている発言ね」
「ああ、そうかもしれない。この話題はもういいよ。君に報せておきたいことがある。もうこの際、電話でもいいから耳に入れてくれ」
「あなたなんかに割く時間、私には一分もないんだけど」
「ケンカしている時間はあるのに? 約束だったじゃないか、この事件については最後まで協力関係を維持するって」
「そんな約束を交わした覚えはないけど」
「暗黙の約束だよ、僕と君はそういう関係だろ? 君が先にそれを破る気ってわけか?」
「飴野探偵、何だか酷く気が急いているみたいね」
「今からちょっと危ない橋を渡るつもりなんだ。それを君に報せておきたい」
「そんなこと、突然言われても協力出来ないけど?」
「遺言代わりの伝言だよ。僕が殺されたときの容疑者の目星を伝えておきたい」
いつかの飴野も、このようなセリフを女性に向かって言っていた。そう、アルファ教団の本部に乗り込む前だ。助手の千咲に向かってのセリフと一語一句が似ている。
そのときも彼の心配は杞憂に過ぎなかった。飴野はまた同じ轍を踏もうとしているわけでるが。
とはいえ、岩神美々は彼の言葉に切迫したものを感じ取ってしまうだろう。
「わかったわ、五分だけ、あなたのために時間を割いてあげる」
「いいだろう、三分で終わらせるさ」
40―4)
あれほど悪しざまに罵りながら、飴野は岩神美々を頼りにしている。彼は屈託なく、事件についての相談を始める。美々のほうも同じだ。彼女もさっきの諍いなど忘れたように、平然と対応してくれる。
このような二人の関係性について、説明が必要なのだろうか。お互いに甘え合っているとも言えるが、強い信頼で結ぶついているとも言えて、二人とも投げつけ合った言葉をそのまま真に受けることもない。
「佐倉さんは最近、誰かに尾けられているらしい。尾行だよ。何者かが彼女を観察しているだんだ。彼女の留守中、部屋の中に侵入された形跡もあるようだ」
「大変なことね。警察に相談は?」
「してない」
「事件が起きてからでは遅いのに」
「その通りだ、しかしその何者かは若菜氏ではないかと僕は考えている。彼女は観察されているというより、見守られているのかもしれない」
「本当に?」
「いや、まだその証拠は掴めていないけど。しかしその男がもしも若菜氏であるのならば、それで全ての謎が解けるのかもしれない」
「どういうこと?」
「どこかに潜みながら、ずっと生活を観察しているなんて非現実的な行いだ。正体がバレることなく尾行し続けるなんて、簡単なことではない。だけどそれを言うならば、そもそも失踪することが簡単なことではないと思うんだ。彼は仕事を辞めている。住むところだって失っている。それなのに金銭的な苦労に悩むことなく、身を潜め、しかも自分のかつての婚約者の生活を見張り続けるなんて」
「そんなこと絶対に不可能な所業ね。ということはつまり、その尾行者は若菜氏ではないということにしかならないじゃない。まるで別の人物の仕業だってこと」
「もちろん、それもあり得ないことではない。この場合、僕の推理は全く外れていたということになるのだけど。しかしその尾行者は別に佐倉彩に何か危害を加えようとはしていない。ただ単に彼女を観察している。そんなこと、若菜氏でなければいったい誰が?」
「さあ。でもまだあなたも暴けていない何者がこの事件に関わっている可能性だって」
「それはある。その可能性を絶対認めないわけではないけれど。当初、アルファ教団といういかがわしい組織が関係しているのかと疑った。その組織に関係する何者かが尾行しているのかと。しかしその線は即座に消えた。アルファ教団は佐倉さんに興味も脅威も抱いていない。そもそも、アルファ教団はこのような組織ではなさそうだ」
「だったら、尾行者も観察者もいないとか? 全てはその女性の被害妄想」
「それもあり得るだろう。その瞬間、捜査は行き詰る。もう僕も為す術なしだ。しかし尾行者はいるだろう。そしてその人物が若菜氏だとしたら、どうして彼は身を潜める場所に苦慮することなく、生活資金に悩むこともなく、佐倉彩を見張り続けることが出来たのかも判明するだろう。そして彼の正体だってそのとき明らかになる」
「若菜氏の正体?」
「それについての目星も着いた気でいるのだけど。その説明は解決したときまで待って欲しい」
若菜氏が小島獅子央というアルファ教団の思想的バックボーンであるかもしれないという推理。しかし大阪府警のれっきとした刑事を前に口籠ってしまう。その推理を捜査のプロを相手に打ち明ける勇気と準備はまだない。
「とにかく、その尾行者が若菜氏かどうか確かめるために、僕自身も木皿儀の真似をしてみようと思っている」
「えーと、意味が分からないのだけど」
「どうやら若菜氏は佐倉さんの部屋に盗聴器を仕掛けている。部屋の会話を聞いているようだ。まあ、そもそもそこは彼の住んでいた部屋でもあったのだけど」
「それを見つけたの?」
「いや、まだ。しかしきっとあるはずだ」
「相変わらず、状況証拠なのね」
「あるさ、僕の行動だって、佐倉さんを尾行している男は正確に把握しているようなんだ。とある会話が筒抜けだった、だからその尾行者の尻尾を掴めなかったことがあったからね」
飴野は先日、佐倉との奇妙なデートを思い出す。二人は尾行者をあぶり出すため、梅田の街を歩き回った。しかしまるでその作戦を見破ったかのように尾行者は姿を現さなかった。
「それこそ、尾行者は存在しないという事実の証明とも言えるんじゃない?」
「その通りだけど、少なくとも佐倉さんは、尾行者の存在に少しの疑いも抱いていない。彼女にとっては、その何者かは確実に存在するんだ。だったら、それに乗るしかない」
「はあ」
「どっちにしろ、いるのか、いないのか、それを明らかにするために、ちょっとした芝居を打とうと思っている」
「芝居って?」
「ああ、でもそれはある種の挑発行為でもあって。その部屋で交わされる会話の、一部始終を耳に澄ましている男がいれば、激怒するような挑発さ」
「何それ?」
「そのままの意味さ。数日後に僕が死んだら、犯人は若菜氏だろう。ということで、そのことを信頼出来る誰かに報せておきたかったのさ。まあ、万が一の可能性だよ」
「ちょっと待って、あなたのやろうとしていることが全然呑み込めないのだけど」
「とにかく、そういうことだ。三分過ぎただろうか。では、また」
40―5)
「では、また」と言って、飴野は颯爽と電話を切った。
死ぬかもしれない。これが美々との最後の会話になるかもしれない。少しばかり感傷的になりそうな場面、飴野は自分の命を突き放すようにして、つまりクール極まりない態度で、その電話を断ち切った。
では、死地へと赴こう、と。強い風が彼の前髪を乱すだろう。荘厳な音楽が流れ、気分を盛り上げるだろう。雨が降って来てもいいかもしれない。冬なら雪だ。ここでドラマティックなシーンに切り替わったはずなのだ。
しかし岩神から電話がかかってくる。一度ではない。執拗に。うるさいほどに。
会話のシーンは終わって、アクションが始まるはずであったが、それは探偵の勝手な都合で、まだ岩神美々のほうはその変貌に追い付いていない。
「何だよ? 岩神美々?」
電源を切ってもいいのだけど、仕方なく飴野は応答した。
「そのようなことを私は許すとでも思っているの、飴野探偵?」
「何だって? もう君に用はない。出番は終わったよ」
「最後まで説明しなさいよ、あなたが死のうが私には関係ないけれど、意味深なメッセージだけを残されて、もやもやしたまま別れたくないわけよ。あなたには義務がある」
「義務だって?」
「しっかりと説明する義務が。もっと詳しくその作戦のことを教えなさい」
「口では説明しにくいな」
「そんなこと知ったことじゃない」
「忙しいんだろ? この街の治安を守るため、さっさと現場に戻れよ」
「もちろん戻るのだけど。でもあなたが死んだら、その事件解決に煩わされてしまうんだから、知っておいて損はないでしょ」
「言葉にすれば極めて馬鹿らしい作戦に思われてしまう気がするのだけど。まあ、簡単に言えば、これから佐倉さんの部屋に押しかけ、彼女を口説きに行く。君を好きになったって」
「はあ? えーと、飴野探偵、あなたは気でも狂ったの?」
「いや、至ってまともだ」
「幻滅した、これまで私はあなたのことを勘違いしていたみたい」
「違うよ、だからそれこそが若菜氏を誘い出すための罠さ。佐倉さんと示し合わせた上で、そのような芝居を打つんだ。果たして盗聴器の向こうで耳を澄まして聞いている若菜氏はそれをどう受け取るだろうか」
「え? どう受け取るっていうの・・・」
「それを試すとつもりなんだ。何も反応を示さなければ、この作戦は失敗だ。しかし自分の婚約者に近寄る男ならば、誰彼構わずに殺意を抱く狂った人物ではないという証明になるだろう。嫉妬を抑えられない身勝手な殺人者ではなかった」
「あなたは木皿儀を殺したのは若菜氏だと考えているわけ?」
「ああ、そのことについて、もっと君に説明しておくべきだったかもしれない」
「若菜氏が木皿儀探偵を殺したのは、その男が佐倉さんと恋仲になったからと?」
「そういうことだと仮定して、僕もあの男と同じ行動に出てみる。それで若菜氏を誘き寄せることが出来るかどうか」
「来なければ?」
「若菜氏はイノセントだろう」
「来れば?」
「若菜氏が僕に対しても殺意を向けてくるのならば、ただの殺人鬼だと言い切ってもいい。もう別れた女なのに、彼女に近寄る男を片っぱなしから皆殺しにする狂人。警察の出番だろう。あとは君たちにその処置をお願いしたい」
「自分の命を張るの? やっぱりあなたはおかしい」
「それほど深刻なことでもないさ。危機を予知しているから上手く逃げてみせる」
「そんなことをしなければいけないほど、特別な事件とは思えないのだけど」
「いや、ただ単に全ての事件にそれなりに全力を尽くすだけで、その事件が特別かどうかで態度を変えたりしない。刑事の君だってそうだろ?」
「それはそうかもしれないけれど」
「もう地下鉄に乗る。多分、危険に巻き込まれることがあっても、今日とか明日に死ぬことはないだろう。また君に会って、改めて説明する時間くらいはあると思う。もう切る。けっこうナーバスな気分になってきた」
「ちょっと待って」
しかし飴野は電話を切り、スマホの電源も落として、地下鉄のホームへと階段を降りていく。
地下鉄谷町線の深い地下の入り口。その地下道は飴野の運命とつながっているだろう。
40―6)
しかし星は?
占星術の指し示す事実は飴野のこの行動を後押ししているのか?
肝心なときに、飴野は占星術と折り合いをつけることを忘れている。それもこれも若菜氏は小島獅子央ではないのかという思い付きに浮かれているせいかもしれない。
その大胆な推理。それに自分自身で酔っているのだ。
少しばかり大胆な行動に赴こうとしている今こそ、占星術と向き合うことが重要なのに。もしかしたら星はまるで逆の事実を示していて、彼を冷静にしたかもしれないというのに。
しかし彼は何らかの欲望に突き動かされているのだ。
丁度良い頃合いの夜だった。深夜という時間には程遠いが、市役所はおろか百貨店などの営業も終わり、だいたいのところ人々の活動は収束に向かっているという時間帯。
そうであるから住宅街などは静寂そのもので、騒がしいのは飴野の心臓の鼓動とか心の高まりとか、頭の中で渦巻くように湧いて来る言葉の連なりとかだけ。彼の逸る足音だって静かである。
飴野は佐倉の部屋を訪れる。事前の連絡もなく、彼女の部屋のインターホンを押す。
突然にやってきた男を佐倉は出迎えるのである。自らどこかに出向いたりは滅多にしない女であるが、部屋の扉を叩く男を無下に扱ったりはしない。
いや、彼女は戸惑うだろう。この男を部屋に上げるべきか逡巡するだろう。「こんな時間にどうなされたんですか?」と質問を投げかけるくらいは当然だ。
しかしその守りは果てしなく緩く、無言で押し進んでくる飴野の侵入を止める力も、その意思もない。
飴野は佐倉の着ている黒い部屋着にかすかに触れながら、扉を支える彼女の腕をくぐるようにして、すれ違いになり、二人の位置は入れ替わって、部屋の中に入りおおせた。
飴野はさっさと何か言葉を発するべきである。依頼人の部屋とはいえ、突然押しかけたのである。例の芝居の計画など彼女はまだ知らない。
彼女の不安を和らげる必要がある。しかし何も考えてこなかったのか、それとも用意していた言葉を失念してしまったかのようである。
その代わり佐倉のほうが声を出した。
「どうなされたんですか、飴野さん?」
「ああ、えーと、近くを通りかかったんです」
飴野は少しも正当な理由になりはしない来訪の動機を口にする。
「近くを?」
「そうです、とても近くを」
「そうですか」
当然、佐倉は飴野に何かを問いたげにしている。飴野の態度に異変を覚えて、恐怖のようなものさえ感じているに違いない。
しかし何か言いたげにしている唇と細い喉元は、言葉を発するためにうっすらと開いているというより、まるで違う理由を秘めている気もする。
そのとき飴野は木皿儀という男性のことを考えたのである。
飴野よりも先に雇われたあの探偵。あの男もやはりこうやって、捜査を口実に彼女の部屋を何度も訪れたりしたのだろうか。
そして佐倉はあの男に不安を打ち明けたり、悲しみを訴えたりしたのか。
それに耳を傾ける振りをしながら、木皿儀は感情が溢れそうな彼女のの唇を塞いだのだ。
その事実を佐倉は否定したのだけど。
しかしこの部屋の一部始終に耳をそばだてている若菜氏が誤解するはずがない。その関係は成立していた。だからこそあの男は殺された。
実は若菜は小島獅子央だったのである。アルファ教団の偉大な導師。その気になれば、一人の人間をこの世から消せるくらいの権力は持ち合わせているはずの男。
そのような男を挑発するのである。とても厄介なことになるだろう。それと同時に、とても呆気ない行動で済むこともわかっている。
少し前に向かって進んでいけば、若菜氏を嫉妬の底に突き落とすことが出来るはずだ。木皿儀がしたようにとても呆気なく。
一歩か二歩、佐倉彩のほうに身体を寄せて、肩を掴んで、その開いた唇に唇を重ねる。
彼女が拒んだって問題はないのである。そうであっても若菜の嫉妬を掻き立てることが出来る。
40―7)
飴野は誘惑に駆られてもいる。扉の前ですれ違うときにかすかに触れて予感した、彼女の温かさと柔らかさ、その感触を確実なものにしたいという誘惑。
飴野は佐倉の姿を自分の視界に入れて、彼女の姿をしっかりと見定める。入浴は済んでいたのだろう。それどころか既に寝ていて、飴野が鳴らしたチャイムの音で起こしてしまったのかもしれない。身体から湯上りの熱は少しも感じない。
そんな時間に突然押しかけてきたのだから、佐倉は化粧をしていない。彼女の内実はそのまま剝き出しで、心労も年齢も、その魅力にだって何の細工も誤魔化しもされておらず、全てを曝け出している気さえするのである。石鹸かボディクリームの香りだけが、彼女が纏っている唯一の偽りだ。
演技なんて必要ないのかもしれない。二人は自然と愛し合うことが可能なのかもしれない。その結果、事件の解決に至ることが出来るのなら、それはしめたものだ。
いや、しかしそんなものは全て勘違いかもしれない。彼はただ自分の欲望を彼女の表情に投影しているだけではないのか。
二人の間に了解などない。彼女の中に、彼を受け止める愛も興味も、淋しさや不安すら何もない。
あるとしたら弱さだけ。だとすれば突け込めばいいのだけど、それだって皆無かもしれない。
飴野が前に進めば、彼はただの乱暴なならず者になるだけ。そんなことは彼の本意ではない。彼はいつだって了解を重視する男。
「君の不安は的中していた。この部屋は盗聴されている。何者かが出入りしている」
飴野は実際に背を向けたわけではないが、彼女から距離を取り、テーブルの傍に行き、彼女のパーソナルスペースから出て、ポケットから取り出したメモ用紙にそう書き殴った。
「え?」と言いかけた佐倉の唇を、彼は人差し指で塞ぐ。そのときまた二人の距離は限りなく近づいた。
「その相手を見つけ出すために、一芝居打つ必要がある」
飴野は続けて、彼女にそう書いて渡す。
佐倉は首を傾げながら彼を見るだけで、その作戦に協力するかどうか何の意志も示してくれない。
同意を待たずに、飴野は勝手に始めることにする。
「若菜氏を見つけられそうにありません。きっと自殺したか、別の女性と暮らしているか。でも佐倉さん、僕がその代わりになりましょう。これからあなたを守りますよ」
飴野は恥ずかしさを覚えながら、まるで言い慣れないセリフを口にする。それは何と凡庸で、ありきたりな愛の言葉だろうか。
しかしそれでいいのである。軽薄でいい。無様で何の問題もない。むしろ若菜氏の怒りを掻き立てるため、低劣な男性であるべきだ。
「あなたはどうせ木皿儀という探偵とも寝たんだろ?」
「え?」
「僕の前任者の探偵ですよ、あなたのほうが僕よりも、その男のことをよく知っているはずだ」
「酷いことを口にするんですね」
佐倉も話し始めた。それが演技だということを了解してくれているはずだ。おそらく、きっと。しかし彼女の瞳には涙が混じり、飴野の言葉に酷く傷ついている気配も見せた。
「だったら僕だって構わないはずだ」
そんな涙を嘲笑うように、ここで女ににじり寄る。乱暴に腕をつかんで、傍のソファに押し倒す。彼の脚本にはそう書かれているはずだ。
「向こうに行って下さい。助けを呼びますよ」
「孤独な君に助けが? 君は僕以外に、もう誰にも頼れないはずだ」
「帰って下さい」
「嘘ではありません。君を好きになった。あなたも満更ではないはずだ。あの男を探す必要はもうありません。僕があなたの孤独を癒すと言っているんです」
いったいどこまで踏み込んでいけばいいのだろうか。
ベルトのバックルが外れる音は必要だろう。あの乾いた音は、収音性の低いマイクであっても、生々しい感度で拾ってくれるに違いない。
キスする音は? ないよりもあったほうがいいに違いないが果たして。
しかしもしカメラで盗撮もされているのなら?
この部屋のどこかにカメラがあるのなら、音だけでは誤魔化せない。
それならば本当に抱きついたりする必要があるだろう。キスする必要もあるだろう。彼女の服を脱がす必要だってある。簡単な演技では終われない。
いや、そんなものは部屋の明かりを消せば解決する。どんなに下手な芝居だって、暗闇ならば全てを有耶無耶にしてくれるはずだ。
問題は自然な演技で明かりを消すことが難しいことだ。そもそも強引に意を遂げようとする男は、このようなときに部屋の明かりを消したりするものだろうか?
中途半端な演技では駄目だ。どこまでも真実に近づく必要がある。佐倉彩が許してくれる限りどこまでも。
その真実が炎であるのなら火傷するくらいに。それが闇ならば、盲目になって自分の居場所がわからなくなるくらい。
私は少しばかり疲れて、ぐったりとソファに身体を委ねている。喫煙者ならここで一服するところだろうが、そのようなものを嗜まないのでコーヒーを飲んだり、キャラメルを噛んだりするだけ。
まあ、それでも充分にリラックス出来るのだから、何も問題はないのだけど。
音楽も聞きたい気分だ。俗っぽい歌謡曲がいい。メロディーが明確で、コード進行が単純で、ボーカルは伸びやかな歌。
ということで、インタビューは終わった。佐々木は去っていった、また明日もお願いしますという言葉を残して。
僕たちに明日が無事に訪れたら、この仕事の続きをしようなどと言って彼女を送り出す。
佐々木からそれに対する気の利いた返答なんて返ってこない。しかしインタビュアーもかなり疲労した様子だった。お互い不慣れな作業に疲労困憊である。
さて、私も確かに疲れているのだけど、疲れているから今日はもうこれで休もうなんて考え方を取らないのが、私が作家たる所以である。
疲れてはいるが、まだその時間ではない。休憩の時間ではないのだ。
私はそのときの気分ではなくて、とにかく慣習通りに働く。時刻表通りに運行する電車のような仕事人である。
というわけで、これから自分の作品の読み返し作業に勤しもうという所存。確かにそれ自体はあまり疲れる仕事ではないから可能なことなのだろうが、私の生真面目さは評価に値するものではないだろうか。
「占星術探偵、西宮のファミレスで」の章まで読み終えたのである。いよいよクライマックスである。
これまでも、「いよいよクライマックスが近い」などと繰り返してきた気がするが、遂にここで本当にクライマックスを迎えるのである。私の記憶が確かであるならば、きっとそのはず。
飴野はマーガレットに丁重に礼を言って、何ならば彼女とハグを交わして、欧米風に頬にキスまでして、別れた。
彼は山吹と共に大阪へ帰っていく。西宮市の灰色のアスファルトの道をガードレールに沿いながら、二人で肩を並べて、一緒に駅へ歩いていく。
「君がいてくれて、本当に良かった」
飴野は山吹の背中に優しく触れながら、そのような言葉を掛けるのである。
「え? は?」
「感謝する。言葉では言い尽くせないくらいの感謝だ」
「どうしたんですか、飴野探偵、何だか妙にあれですね、素直というか、優しいというか、紳士的というか」
「この事件が解決したら、君にまず話すことになるだろう、どうやって真相にまで辿り着くことが出来たか、そこに至るまでの過程を全部」
「本当ですか? 私はお役に立てたんですか?」
「ああ、十二分に」
「嬉しいです。それだったら、っていうわけではないのですが・・・、いえ、やっぱり止めときます。いや、やっぱり言おう。私、飴野探偵事務所で働きたいなと思ったんです」
「え?」
せっかく温かな空気が流れていたのに。山吹美香のその発言によって、瞬時にそれは消え去ったと言っていい。
そもそも山吹は無断で、いやいや、それどころか何と彼を尾行して、この西宮に現れた。
その非礼を許して、飴野は山吹に優しい言葉を投げ掛けてやったのに。それなのに山吹のほうはそれを無下にするような厚かましいことを願い出る。親密な空気はすっかり白けてしまう。
「働きたいっていうのは、僕の事務所でスタッフとしてだよな」
「何でもします。部屋の掃除も、ターゲットの尾行も、時と場合によっては殺人も」
「それはどうかな。端的に言えば無理だよ。君を雇う余裕も予定もない」
山吹の冗談を無視して、飴野ははっきりと断る。
「どうしてですか?」
「どうしてって、別に一人で充分に務まっているからね。それに留守番などをしてくれる人もいて」
「ああ、前にも言ってましたね。でも私、多分、その人より役に立つと思います。だってその子、あれですよね、高校生か何かですよね?」
それがどうしたんだと声には出さず、飴野は山吹を見る。
「高校生だったら受験とかもあるんじゃないですか? 勉強も忙しくなりますよね? そうなったらどうするんですか? 後任候補は既にいるんですか?」
「いないとしても、どっちにしろ君はその候補にはなりえないな」
「本気ですか、飴野探偵!」
「ああ、本気だよ」
40―2)
「ちょっと待って下さい、じゃあ、こっちも言わせてもらいますけど。さっき、私に感謝するって言ってましたよね? 私がいなければ事件は解決しなかったというニュアンスでした」
大阪から西宮に出張してきた飴野と山吹は、まるで馴染みのないこの街の路上でちょっとした諍いを始める。
周りに迷惑を掛けるほど派手な騒ぎを起こすわけではないが、通りがかった人が眉を顰めるくらいには二人の声のボリュームは調節を欠いている。
「それは認める。だから君に感謝の言葉を口にしたつもりだ。もう一度、言ってもいい、ありがとう」
「どういたしまして。でも、それに対する謝礼は払ってもらってませんよ。捜査協力費用です」
「なるほど、いくら欲しいんだよ? 五万か十万か、今すぐ払ってやろう」
「そういうことではありませんよ。私が飴野探偵事務所のスタッフだったら、そういうのも払わなくていいですよって意味じゃないですか」
「いくらでも払うから、君との関係をここで切ろうって言っているんだよ」
「どうしてわかってくれないんですか、飴野探偵!」
激しい感情が突き上げてきて、山吹は立ち止まってしまう。「私はそんなことを望んでいるわけではないんです」
「わかっているよ」
飴野はこれまでと打って変わって小さな声でつぶやく。「だいたいのところは」
山吹は立ち止まり、飴野は気にせずに歩いていくから、二人の距離は徐々に離れていった。
「はあ? 何をわかっていると言うんですか?」
飴野の返答が聞き取りにくくなって、山吹は慌てて走り寄ってくる。
「もうすぐ事件は解決するだろう」
「はい?」
「まだ若菜氏がどこにいるのか、最も肝心なことが不明だけど、それもこれからの作戦できっと判明するはずだ」
「ふーん、そうなんですね、それは良かったですね」
もはやそんなことに何の興味もないという態度を山吹は見せてくる。
「これから佐倉さんの部屋で、若菜氏を呼び寄せる儀式を行う」
「え?」
とはいえ、山吹も飴野のその言葉には興味を惹かれる。
「儀式って何ですか、それ?」
「さあ、何て言えばいいか」
「火を焚いてその周りを回ったり、魔法陣の前で祈りを捧げたり?」
「まあ、それくらい滑稽なことだよ。誰かに見せられるものではない。傍目から見れば狂った行いだろう。しかし今からそれをやり遂げるつもりだ」
「そうなんですか、それは頑張って下さいとか言えません」
今から佐倉に会いに行くんですね、山吹美香はそんなことも付け加えてくる。
「その儀式を成功させ、この事件を終わらせるよ」
「はあ、そういうことになるんですね」
再びその現実にぶつかって、山吹は声を落とした。この素直な態度を見て、飴野は優しいことを掛ける気になったのかもしれない。
「君はこの仕事に興味があるんだろ? また事務所に遊びに来ればいいさ」
「え?」
「絶対にスタッフとして雇うことはないけどね。しかし邪険に扱うことはないもない」
「ああ、何となくわかってくれてたんですね」
山吹はそうつぶやいた。
「でも私、もしかしたら尾行の天才なんじゃないかって思ったりするんですが。実際、飴野さんに気づかれることなく、ここまで着いてくることが出来ました」
そしてまた悪びれることなく、リクルート活動を開始する。
「もう普通の仕事に戻れる気がしないんですよねえ」
「探偵の仕事だって普通の仕事だよ」
「いえ、普通の仕事というのは本当に普通なんです。仕事中に何も面白い出来事が起きないんです。ほとんど毎日が同じことの繰り返しなんです。その繰り返しの外側に出ることが出来ないんですよ」
「探偵だって似たようなもんさ」
「そうだとは思いません。国際的陰謀に巻き込まれたり、世の中が引っ繰り返るような政府のスキャンダルを暴いたり」
「しない。そのような仕事と遭遇するわけがない。不倫とか、浮気とか、結婚しているのに別の人物と恋愛している既婚者の不貞を暴くとか、そういう陳腐な事件と関わるだけだ」
「それでも十分に愉快だと思います」
40―3)
探偵飴野は愚かしいほどに捜査情報をペラペラと話し回っているに違いない。しかも占い師とか、事件の参考人とかに。
これがプロフェッショナルな探偵の態度なのであろうか。少し冷静になって鑑みるまでもなく、決して褒められたものではないだろう。
「これから若菜氏を呼び寄せる儀式を行う」と山吹に向かって打ち明けたのだって、本当に目に余る行為ではないだろうか。若菜を見つけるために今から何かしらの作戦を行うという宣言をしたわけである。
とはいえ、それをきっかけに情報が漏洩して、捜査に深刻な影響をもたらしてしまうようなことは絶対にないのだけど。
読者に、そのような危うい雰囲気なども感じてもらいたくない。マーガレット・ミーシャも山吹美香も、このシリーズのレギュラー登場人物。決して彼を裏切ったりはしない、安心安全な身内のような存在なのである。彼を貶めるような危険な挙動に出ることは決してない。
極論すれば、マーガレットも山吹も、飴野の内心を吐露させるために存在している鏡のような登場人物だ。
そのために作られたのだから、事件について相談を受けるのは当たり前であり、その会話が外に漏れたりしないのもまた当然だ。
飴野の周りには、「彼の内心を吐露させるために存在している鏡のような登場人物たち」で溢れている。
それもこれも、飴野が抱いた事件についての推理や憶測、情報の整理を、会話の形で展開させるためである。飴野が一人で考えるという一人称の独白ではなくて。
それは小説のスタイルの問題。だから彼は捜査情報をペラペラ話し回っているという事情。
さて、西宮から大阪までは一緒に帰り、「事件解決のため、ちょっとばかし不可思議な儀式を行なってくる」と言って山吹と別れた探偵であるが、彼はその儀式が行われるはずの佐倉彩の部屋に向かわず、今、独りで大阪城公園のベンチで西外濠の堀の石垣などをを見つめたりしながら、ある人物の到着を待っていた。
この待ち合わせ場所に来るのはずなのは岩神美々。
陽はすっかりと陰っているが、まだ大阪城公園は賑わっている。東南アジアのどこかからやってきた観光客が賑やかに会話していたり、犬を散歩している家族がいたり、若い社会人カップルがデートしていたり。
とはいえ、飴野の孤独が目立ったりしない。誰かといる人より、孤独な人のほうがずっと多いようだ。
飴野は別に、自分がどちら側に属しているのかなんて考えたりしない。それもこれも彼もこれから人と会うことになっているからだろうか。
しかし「ごめんなさい、飴野探偵、今日は行けそうにない」と岩神美々からの電話を受けるのだった。
「仕方ないじゃない、そういう仕事なのだから」と美々は先に怒りをあらわにしてくる。約束を違えた美々を飴野はまだ責めたわけではないのに、その前に先制攻撃を仕掛けてくるのだ。
「君から会いたいと連絡が来た時には、こっちは駆け参じているというのに」
その先制攻撃に負けず、飴野は言い返す。
「もう到着している。君は人との約束というものを軽く見ているようだね」
「私にはどうにも出来ないのよ! これが公僕の人生なの。こうやって大阪の治安は守られているんだから。それより、ちょっと待って。いつ私があなたに会いたいなんて連絡を寄こした? 誤解されそうな言い方は止めて欲しいのだけど」
「この間の新大阪のときのことだ。しかし言葉の綾さ、そんなことで言い争う気はない」
「飴野探偵、私と会話するときは、必ず正確な言葉遣いを心掛けて! あなたがどのような勘違いをしているのか知らないけれど」
「勘違いだって?」
「あなたは私を便利な女のように扱っていると言ってるのよ!」
あなたは私を自分の女のように扱っている。そっちのセリフのほうが良かっただろうか。
しかし美々はここまで際どい発言をする性格ではないはずだ。よっぽど言葉が滑らなければ、「恋愛」を想起させるような言葉を軽々しく口にするような女性ではない。
「今日も機嫌が悪いな」
「何ですって」
「うんざりするよ、その刺々しさに。さっさと誰か恋人を見つけて欲しいね。彼氏でもいれば、君の不安定なメンタルも安定するんじゃないかな」
逆に飴野が際どい言葉を投げかける。とてつもなくポジティブな受け手であれば、「俺がお前を幸せにしたい」というニュアンスを感じなくもないが、いや、それ程に寛容は聞き手は存在しないだろう。ただ単純に彼女を嘲るような言葉。
「本当に失礼な言葉。世の中一般の女性を軽く見ている発言ね」
「ああ、そうかもしれない。この話題はもういいよ。君に報せておきたいことがある。もうこの際、電話でもいいから耳に入れてくれ」
「あなたなんかに割く時間、私には一分もないんだけど」
「ケンカしている時間はあるのに? 約束だったじゃないか、この事件については最後まで協力関係を維持するって」
「そんな約束を交わした覚えはないけど」
「暗黙の約束だよ、僕と君はそういう関係だろ? 君が先にそれを破る気ってわけか?」
「飴野探偵、何だか酷く気が急いているみたいね」
「今からちょっと危ない橋を渡るつもりなんだ。それを君に報せておきたい」
「そんなこと、突然言われても協力出来ないけど?」
「遺言代わりの伝言だよ。僕が殺されたときの容疑者の目星を伝えておきたい」
いつかの飴野も、このようなセリフを女性に向かって言っていた。そう、アルファ教団の本部に乗り込む前だ。助手の千咲に向かってのセリフと一語一句が似ている。
そのときも彼の心配は杞憂に過ぎなかった。飴野はまた同じ轍を踏もうとしているわけでるが。
とはいえ、岩神美々は彼の言葉に切迫したものを感じ取ってしまうだろう。
「わかったわ、五分だけ、あなたのために時間を割いてあげる」
「いいだろう、三分で終わらせるさ」
40―4)
あれほど悪しざまに罵りながら、飴野は岩神美々を頼りにしている。彼は屈託なく、事件についての相談を始める。美々のほうも同じだ。彼女もさっきの諍いなど忘れたように、平然と対応してくれる。
このような二人の関係性について、説明が必要なのだろうか。お互いに甘え合っているとも言えるが、強い信頼で結ぶついているとも言えて、二人とも投げつけ合った言葉をそのまま真に受けることもない。
「佐倉さんは最近、誰かに尾けられているらしい。尾行だよ。何者かが彼女を観察しているだんだ。彼女の留守中、部屋の中に侵入された形跡もあるようだ」
「大変なことね。警察に相談は?」
「してない」
「事件が起きてからでは遅いのに」
「その通りだ、しかしその何者かは若菜氏ではないかと僕は考えている。彼女は観察されているというより、見守られているのかもしれない」
「本当に?」
「いや、まだその証拠は掴めていないけど。しかしその男がもしも若菜氏であるのならば、それで全ての謎が解けるのかもしれない」
「どういうこと?」
「どこかに潜みながら、ずっと生活を観察しているなんて非現実的な行いだ。正体がバレることなく尾行し続けるなんて、簡単なことではない。だけどそれを言うならば、そもそも失踪することが簡単なことではないと思うんだ。彼は仕事を辞めている。住むところだって失っている。それなのに金銭的な苦労に悩むことなく、身を潜め、しかも自分のかつての婚約者の生活を見張り続けるなんて」
「そんなこと絶対に不可能な所業ね。ということはつまり、その尾行者は若菜氏ではないということにしかならないじゃない。まるで別の人物の仕業だってこと」
「もちろん、それもあり得ないことではない。この場合、僕の推理は全く外れていたということになるのだけど。しかしその尾行者は別に佐倉彩に何か危害を加えようとはしていない。ただ単に彼女を観察している。そんなこと、若菜氏でなければいったい誰が?」
「さあ。でもまだあなたも暴けていない何者がこの事件に関わっている可能性だって」
「それはある。その可能性を絶対認めないわけではないけれど。当初、アルファ教団といういかがわしい組織が関係しているのかと疑った。その組織に関係する何者かが尾行しているのかと。しかしその線は即座に消えた。アルファ教団は佐倉さんに興味も脅威も抱いていない。そもそも、アルファ教団はこのような組織ではなさそうだ」
「だったら、尾行者も観察者もいないとか? 全てはその女性の被害妄想」
「それもあり得るだろう。その瞬間、捜査は行き詰る。もう僕も為す術なしだ。しかし尾行者はいるだろう。そしてその人物が若菜氏だとしたら、どうして彼は身を潜める場所に苦慮することなく、生活資金に悩むこともなく、佐倉彩を見張り続けることが出来たのかも判明するだろう。そして彼の正体だってそのとき明らかになる」
「若菜氏の正体?」
「それについての目星も着いた気でいるのだけど。その説明は解決したときまで待って欲しい」
若菜氏が小島獅子央というアルファ教団の思想的バックボーンであるかもしれないという推理。しかし大阪府警のれっきとした刑事を前に口籠ってしまう。その推理を捜査のプロを相手に打ち明ける勇気と準備はまだない。
「とにかく、その尾行者が若菜氏かどうか確かめるために、僕自身も木皿儀の真似をしてみようと思っている」
「えーと、意味が分からないのだけど」
「どうやら若菜氏は佐倉さんの部屋に盗聴器を仕掛けている。部屋の会話を聞いているようだ。まあ、そもそもそこは彼の住んでいた部屋でもあったのだけど」
「それを見つけたの?」
「いや、まだ。しかしきっとあるはずだ」
「相変わらず、状況証拠なのね」
「あるさ、僕の行動だって、佐倉さんを尾行している男は正確に把握しているようなんだ。とある会話が筒抜けだった、だからその尾行者の尻尾を掴めなかったことがあったからね」
飴野は先日、佐倉との奇妙なデートを思い出す。二人は尾行者をあぶり出すため、梅田の街を歩き回った。しかしまるでその作戦を見破ったかのように尾行者は姿を現さなかった。
「それこそ、尾行者は存在しないという事実の証明とも言えるんじゃない?」
「その通りだけど、少なくとも佐倉さんは、尾行者の存在に少しの疑いも抱いていない。彼女にとっては、その何者かは確実に存在するんだ。だったら、それに乗るしかない」
「はあ」
「どっちにしろ、いるのか、いないのか、それを明らかにするために、ちょっとした芝居を打とうと思っている」
「芝居って?」
「ああ、でもそれはある種の挑発行為でもあって。その部屋で交わされる会話の、一部始終を耳に澄ましている男がいれば、激怒するような挑発さ」
「何それ?」
「そのままの意味さ。数日後に僕が死んだら、犯人は若菜氏だろう。ということで、そのことを信頼出来る誰かに報せておきたかったのさ。まあ、万が一の可能性だよ」
「ちょっと待って、あなたのやろうとしていることが全然呑み込めないのだけど」
「とにかく、そういうことだ。三分過ぎただろうか。では、また」
40―5)
「では、また」と言って、飴野は颯爽と電話を切った。
死ぬかもしれない。これが美々との最後の会話になるかもしれない。少しばかり感傷的になりそうな場面、飴野は自分の命を突き放すようにして、つまりクール極まりない態度で、その電話を断ち切った。
では、死地へと赴こう、と。強い風が彼の前髪を乱すだろう。荘厳な音楽が流れ、気分を盛り上げるだろう。雨が降って来てもいいかもしれない。冬なら雪だ。ここでドラマティックなシーンに切り替わったはずなのだ。
しかし岩神から電話がかかってくる。一度ではない。執拗に。うるさいほどに。
会話のシーンは終わって、アクションが始まるはずであったが、それは探偵の勝手な都合で、まだ岩神美々のほうはその変貌に追い付いていない。
「何だよ? 岩神美々?」
電源を切ってもいいのだけど、仕方なく飴野は応答した。
「そのようなことを私は許すとでも思っているの、飴野探偵?」
「何だって? もう君に用はない。出番は終わったよ」
「最後まで説明しなさいよ、あなたが死のうが私には関係ないけれど、意味深なメッセージだけを残されて、もやもやしたまま別れたくないわけよ。あなたには義務がある」
「義務だって?」
「しっかりと説明する義務が。もっと詳しくその作戦のことを教えなさい」
「口では説明しにくいな」
「そんなこと知ったことじゃない」
「忙しいんだろ? この街の治安を守るため、さっさと現場に戻れよ」
「もちろん戻るのだけど。でもあなたが死んだら、その事件解決に煩わされてしまうんだから、知っておいて損はないでしょ」
「言葉にすれば極めて馬鹿らしい作戦に思われてしまう気がするのだけど。まあ、簡単に言えば、これから佐倉さんの部屋に押しかけ、彼女を口説きに行く。君を好きになったって」
「はあ? えーと、飴野探偵、あなたは気でも狂ったの?」
「いや、至ってまともだ」
「幻滅した、これまで私はあなたのことを勘違いしていたみたい」
「違うよ、だからそれこそが若菜氏を誘い出すための罠さ。佐倉さんと示し合わせた上で、そのような芝居を打つんだ。果たして盗聴器の向こうで耳を澄まして聞いている若菜氏はそれをどう受け取るだろうか」
「え? どう受け取るっていうの・・・」
「それを試すとつもりなんだ。何も反応を示さなければ、この作戦は失敗だ。しかし自分の婚約者に近寄る男ならば、誰彼構わずに殺意を抱く狂った人物ではないという証明になるだろう。嫉妬を抑えられない身勝手な殺人者ではなかった」
「あなたは木皿儀を殺したのは若菜氏だと考えているわけ?」
「ああ、そのことについて、もっと君に説明しておくべきだったかもしれない」
「若菜氏が木皿儀探偵を殺したのは、その男が佐倉さんと恋仲になったからと?」
「そういうことだと仮定して、僕もあの男と同じ行動に出てみる。それで若菜氏を誘き寄せることが出来るかどうか」
「来なければ?」
「若菜氏はイノセントだろう」
「来れば?」
「若菜氏が僕に対しても殺意を向けてくるのならば、ただの殺人鬼だと言い切ってもいい。もう別れた女なのに、彼女に近寄る男を片っぱなしから皆殺しにする狂人。警察の出番だろう。あとは君たちにその処置をお願いしたい」
「自分の命を張るの? やっぱりあなたはおかしい」
「それほど深刻なことでもないさ。危機を予知しているから上手く逃げてみせる」
「そんなことをしなければいけないほど、特別な事件とは思えないのだけど」
「いや、ただ単に全ての事件にそれなりに全力を尽くすだけで、その事件が特別かどうかで態度を変えたりしない。刑事の君だってそうだろ?」
「それはそうかもしれないけれど」
「もう地下鉄に乗る。多分、危険に巻き込まれることがあっても、今日とか明日に死ぬことはないだろう。また君に会って、改めて説明する時間くらいはあると思う。もう切る。けっこうナーバスな気分になってきた」
「ちょっと待って」
しかし飴野は電話を切り、スマホの電源も落として、地下鉄のホームへと階段を降りていく。
地下鉄谷町線の深い地下の入り口。その地下道は飴野の運命とつながっているだろう。
40―6)
しかし星は?
占星術の指し示す事実は飴野のこの行動を後押ししているのか?
肝心なときに、飴野は占星術と折り合いをつけることを忘れている。それもこれも若菜氏は小島獅子央ではないのかという思い付きに浮かれているせいかもしれない。
その大胆な推理。それに自分自身で酔っているのだ。
少しばかり大胆な行動に赴こうとしている今こそ、占星術と向き合うことが重要なのに。もしかしたら星はまるで逆の事実を示していて、彼を冷静にしたかもしれないというのに。
しかし彼は何らかの欲望に突き動かされているのだ。
丁度良い頃合いの夜だった。深夜という時間には程遠いが、市役所はおろか百貨店などの営業も終わり、だいたいのところ人々の活動は収束に向かっているという時間帯。
そうであるから住宅街などは静寂そのもので、騒がしいのは飴野の心臓の鼓動とか心の高まりとか、頭の中で渦巻くように湧いて来る言葉の連なりとかだけ。彼の逸る足音だって静かである。
飴野は佐倉の部屋を訪れる。事前の連絡もなく、彼女の部屋のインターホンを押す。
突然にやってきた男を佐倉は出迎えるのである。自らどこかに出向いたりは滅多にしない女であるが、部屋の扉を叩く男を無下に扱ったりはしない。
いや、彼女は戸惑うだろう。この男を部屋に上げるべきか逡巡するだろう。「こんな時間にどうなされたんですか?」と質問を投げかけるくらいは当然だ。
しかしその守りは果てしなく緩く、無言で押し進んでくる飴野の侵入を止める力も、その意思もない。
飴野は佐倉の着ている黒い部屋着にかすかに触れながら、扉を支える彼女の腕をくぐるようにして、すれ違いになり、二人の位置は入れ替わって、部屋の中に入りおおせた。
飴野はさっさと何か言葉を発するべきである。依頼人の部屋とはいえ、突然押しかけたのである。例の芝居の計画など彼女はまだ知らない。
彼女の不安を和らげる必要がある。しかし何も考えてこなかったのか、それとも用意していた言葉を失念してしまったかのようである。
その代わり佐倉のほうが声を出した。
「どうなされたんですか、飴野さん?」
「ああ、えーと、近くを通りかかったんです」
飴野は少しも正当な理由になりはしない来訪の動機を口にする。
「近くを?」
「そうです、とても近くを」
「そうですか」
当然、佐倉は飴野に何かを問いたげにしている。飴野の態度に異変を覚えて、恐怖のようなものさえ感じているに違いない。
しかし何か言いたげにしている唇と細い喉元は、言葉を発するためにうっすらと開いているというより、まるで違う理由を秘めている気もする。
そのとき飴野は木皿儀という男性のことを考えたのである。
飴野よりも先に雇われたあの探偵。あの男もやはりこうやって、捜査を口実に彼女の部屋を何度も訪れたりしたのだろうか。
そして佐倉はあの男に不安を打ち明けたり、悲しみを訴えたりしたのか。
それに耳を傾ける振りをしながら、木皿儀は感情が溢れそうな彼女のの唇を塞いだのだ。
その事実を佐倉は否定したのだけど。
しかしこの部屋の一部始終に耳をそばだてている若菜氏が誤解するはずがない。その関係は成立していた。だからこそあの男は殺された。
実は若菜は小島獅子央だったのである。アルファ教団の偉大な導師。その気になれば、一人の人間をこの世から消せるくらいの権力は持ち合わせているはずの男。
そのような男を挑発するのである。とても厄介なことになるだろう。それと同時に、とても呆気ない行動で済むこともわかっている。
少し前に向かって進んでいけば、若菜氏を嫉妬の底に突き落とすことが出来るはずだ。木皿儀がしたようにとても呆気なく。
一歩か二歩、佐倉彩のほうに身体を寄せて、肩を掴んで、その開いた唇に唇を重ねる。
彼女が拒んだって問題はないのである。そうであっても若菜の嫉妬を掻き立てることが出来る。
40―7)
飴野は誘惑に駆られてもいる。扉の前ですれ違うときにかすかに触れて予感した、彼女の温かさと柔らかさ、その感触を確実なものにしたいという誘惑。
飴野は佐倉の姿を自分の視界に入れて、彼女の姿をしっかりと見定める。入浴は済んでいたのだろう。それどころか既に寝ていて、飴野が鳴らしたチャイムの音で起こしてしまったのかもしれない。身体から湯上りの熱は少しも感じない。
そんな時間に突然押しかけてきたのだから、佐倉は化粧をしていない。彼女の内実はそのまま剝き出しで、心労も年齢も、その魅力にだって何の細工も誤魔化しもされておらず、全てを曝け出している気さえするのである。石鹸かボディクリームの香りだけが、彼女が纏っている唯一の偽りだ。
演技なんて必要ないのかもしれない。二人は自然と愛し合うことが可能なのかもしれない。その結果、事件の解決に至ることが出来るのなら、それはしめたものだ。
いや、しかしそんなものは全て勘違いかもしれない。彼はただ自分の欲望を彼女の表情に投影しているだけではないのか。
二人の間に了解などない。彼女の中に、彼を受け止める愛も興味も、淋しさや不安すら何もない。
あるとしたら弱さだけ。だとすれば突け込めばいいのだけど、それだって皆無かもしれない。
飴野が前に進めば、彼はただの乱暴なならず者になるだけ。そんなことは彼の本意ではない。彼はいつだって了解を重視する男。
「君の不安は的中していた。この部屋は盗聴されている。何者かが出入りしている」
飴野は実際に背を向けたわけではないが、彼女から距離を取り、テーブルの傍に行き、彼女のパーソナルスペースから出て、ポケットから取り出したメモ用紙にそう書き殴った。
「え?」と言いかけた佐倉の唇を、彼は人差し指で塞ぐ。そのときまた二人の距離は限りなく近づいた。
「その相手を見つけ出すために、一芝居打つ必要がある」
飴野は続けて、彼女にそう書いて渡す。
佐倉は首を傾げながら彼を見るだけで、その作戦に協力するかどうか何の意志も示してくれない。
同意を待たずに、飴野は勝手に始めることにする。
「若菜氏を見つけられそうにありません。きっと自殺したか、別の女性と暮らしているか。でも佐倉さん、僕がその代わりになりましょう。これからあなたを守りますよ」
飴野は恥ずかしさを覚えながら、まるで言い慣れないセリフを口にする。それは何と凡庸で、ありきたりな愛の言葉だろうか。
しかしそれでいいのである。軽薄でいい。無様で何の問題もない。むしろ若菜氏の怒りを掻き立てるため、低劣な男性であるべきだ。
「あなたはどうせ木皿儀という探偵とも寝たんだろ?」
「え?」
「僕の前任者の探偵ですよ、あなたのほうが僕よりも、その男のことをよく知っているはずだ」
「酷いことを口にするんですね」
佐倉も話し始めた。それが演技だということを了解してくれているはずだ。おそらく、きっと。しかし彼女の瞳には涙が混じり、飴野の言葉に酷く傷ついている気配も見せた。
「だったら僕だって構わないはずだ」
そんな涙を嘲笑うように、ここで女ににじり寄る。乱暴に腕をつかんで、傍のソファに押し倒す。彼の脚本にはそう書かれているはずだ。
「向こうに行って下さい。助けを呼びますよ」
「孤独な君に助けが? 君は僕以外に、もう誰にも頼れないはずだ」
「帰って下さい」
「嘘ではありません。君を好きになった。あなたも満更ではないはずだ。あの男を探す必要はもうありません。僕があなたの孤独を癒すと言っているんです」
いったいどこまで踏み込んでいけばいいのだろうか。
ベルトのバックルが外れる音は必要だろう。あの乾いた音は、収音性の低いマイクであっても、生々しい感度で拾ってくれるに違いない。
キスする音は? ないよりもあったほうがいいに違いないが果たして。
しかしもしカメラで盗撮もされているのなら?
この部屋のどこかにカメラがあるのなら、音だけでは誤魔化せない。
それならば本当に抱きついたりする必要があるだろう。キスする必要もあるだろう。彼女の服を脱がす必要だってある。簡単な演技では終われない。
いや、そんなものは部屋の明かりを消せば解決する。どんなに下手な芝居だって、暗闇ならば全てを有耶無耶にしてくれるはずだ。
問題は自然な演技で明かりを消すことが難しいことだ。そもそも強引に意を遂げようとする男は、このようなときに部屋の明かりを消したりするものだろうか?
中途半端な演技では駄目だ。どこまでも真実に近づく必要がある。佐倉彩が許してくれる限りどこまでも。
その真実が炎であるのなら火傷するくらいに。それが闇ならば、盲目になって自分の居場所がわからなくなるくらい。