15)占星術探偵「ダークウェブにて」

文字数 9,602文字

15ー1)

 飴野は近所の中華料理屋で出前を取った。岩神美々と千咲が帰って、事務所で一人になった飴野が最初に取った行動がそれ。
 餃子とチャーハンを頼んだらしい。彼はその中華料理を食べながら、捜査の続きをするつもりである。

 この今日の時代、電話で出前を取るなんて。確かに私の場合、最近はもっぱらネットで注文出来る店でしか出前なんて取らない。
 電話で注文するなど面倒だ。財布の中に現金だってほとんどない。玄関先で、その料理と引き換えに代金を払う自分の姿など、もはや想像も出来ない。ネットで注文して、そのサイトで支払って、あとは受け取るだけ。それが日常だ。
 しかし飴野は別に私の分身でもない。彼はこのような面倒を厭わない男だ。何と言っても探偵なのである。猥雑さの中で、人とぶつかりながら生きている。
 それを食べて、そのあと自分で皿を洗い、玄関先に置いておく。翌日、そのラーメン屋さんがその器を取りに来てくれる。
 彼の住む架空の大阪、運河が流れる日本橋2丁目近辺には、岡持ちを搭載した出前用バイクを使う昔ながらの飲食店がいまだに健在である。

 そういうわけで飴野は出前のチャーハンを口に運びながら、パソコンのディスプレイと向き合っている。
 佐倉のホロスコープ上に現れた、彼女の親友的存在とは誰なのか割り出そうとしているのである。
 佐倉の親友はおそらく学校の友人であるはず。小学校か中学校か高校かで、共に机を並べていた誰か。
 身内ではない。血筋によって関係する何者かではなくて、人生のどこかで出会った誰か。

 その親友が何者なのか、彼は佐倉に直接尋ねるのではなく、尾行したり盗聴したりすることもなくて、占星術で探り出すつもりである。

 占星術で探り出す、しかしそれには生年月日という個人情報が必要である。まずそれが大前提である。
 個人情報を手に入れることに苦労する時代だ。そもそも学校に名簿的なものが消えたらしい。しかし名簿はなくても卒業アルバムはあるだろう。
 名前さえわかれば、ネットに誕生日くらい上がっている可能性もある。逆に今はそのような時代でもある。
 もし過去に占い師のところに行っていれば、そこには生まれた時間も記録されている。飴野には占星術仲間と呼べるコネクションがある。心斎橋でバーをやっているマーガレット・ミーシャという友人にして彼の相談相手。その占い師からいくらかの情報を得られる。

 いや、飴野だって探偵の端くれだ。法律に縛られることなく、裏の世界で生きている男。一般の市民では辿り着くことの出来ない情報入手の方法を知っている。佐倉の通っていた小学校中学校高校大学、それら全ての名簿くらい容易に手に入れられる。
 大阪のどこかの雑居ビルの一室で、密かに営業しているアングラの何でも屋。ドラッグ、臓器、拳銃、偽造身分証明書、個人情報、そのようなこの世界のあらゆる危険な代物を取り扱っている店がある。そういう店に出向いて手に入れる。
 というやり方ではない。私はそんなやり方を採用しなかった。彼はインターネットを使って、その個人情報を手に入れようとする。

 電話で出前を注文した飴野であるが、彼だってネットの有用性は理解している。
 圧倒的遠距離を踏破するあの飛翔力。まるで無関係な相手であっても、何ら伝手が無い相手であったとしても、欲しいものを与えてくれる者とつながることの出来るインターネットのパワー。
 そのグレートなパワーを利用するというわけだ。
 ただし、そこは表のインターネットの世界ではなくて裏のインターネット。
 普通のウェブでは辿り着けない、その奥の奥、下層の下層。インターネットの闇の世界。いはゆる、ダークウェブと呼ばれる場所で。

 ダークウェブなる場は、私たちが日常的に使うグーグルなどの検索サイトでは決して辿り着くことは出来ないところ。
 それどころか普通のブラウザでは入ることすら不可能。特殊なソフトを使って、自らのIDを匿名化して、自らが闇になり、その闇に紛れて、闇から闇を得るという仕組み。
 ダークウエブの世界は重い。普段はスムーズに動くPCが、軋みを立てるかのように引っ掛かり、ぎこちなく止まったりする。正確に表示されず、フォントは乱れ、意もしないページが現れることもある。
 しかしそこに行けば、大概のものは手に入る。



15―2)

 飴野はダークウェブの世界へ降りていく。普段、占星術で使っているパソコンとは別のを使って。
 デスクの三つ目の引き出しを開け、使い古したノートパソコンを取り出す。これがダークウエブ専用機だ。
 銀色の筐体の天板部はこすれていて、デザインも見るからに旧式で薄らデカい。そのノートパソコンを使い、暗い螺旋階段を下へ下へ。

 ダークウエブ、そこは法の光が差し込まない世界。完全に匿名が約束されている。警察の権力が簡単には入り込めない。だからこそ、あらゆる違法なものが自由に取り引きされているわけだ。
 ドラッグ、臓器、拳銃、偽造身分証明書、個人情報など。いや、実際、ダークウエブのマーケットで、それらのものが取り引きされているかどうかは知らないのだけど。まあ、原理的にはきっと可能だろう。
 一方、飴野が手に入れようとしているのは、さして危険な代物でもない。もしかしたら表の世界でも手に入るようなもの。
 ただの名簿なのである。その犯罪がバレたとしても、軽い注意で済まされそうなレベル。とはいえ、表の世界で簡単に手に入るようなものでもないから、その暗い世界で取り引きする。

 飴野は餃子とチャーハンを食べ終わった。その頃には佐倉がこれまで通ってきた学校の同級生の名前、生年月日、出生地など、ホロスコープを作るために必要な個人情報の全てを入手し終えた。
 それらの対価も、アンダーグラウンドの業者に仮想通貨で支払う。ダークウエブと仮想通貨を使うことで、誰がこのような情報を手に入れたのか一切外部には流れない。極めて匿名性の高い手段。

 というわけで、たいして時間もかからずに数百人の個人情報を飴野は手に入れることに成功したわけであるが、何や手際が良過ぎはしないだろうか。入手するための手筈が整ったくらいのほうがリアリティがあったのかもしれない。
 しかしテンポの良い物語のために、このような展開にしている。リアリティよりもリーダビリティだ。
 というのは言い訳でしかない。もっとスマートな展開もあり得ただろうけど、こうなってしまったというのは作者の実力不足だとしか言いようがない。
 しかし更に展開は加速する。そのまま飴野は徹夜して、彼女の同級生全てのホロスコープを作り、それを深く読み込んでいき、その中から誰が佐倉の親友なのか導き出す。
 若菜真大失踪事件について何か知っているはずの何者か。共犯者ではないが、きっと重要な相談相手であったであろう佐倉の親友。それはいったい誰なのか。
 やがて、山吹美香という蟹座の女が浮かび上がった。

 彼女だろうか? それとも・・・。
 候補者は他にも数人いる。小学五年生のときの級友、田中さん。中学一年のときの級友、森田さんの可能性もある。山吹だという決め手はない。
 しかし飴野はその女性に何かを感じる。最終的には直感だ。
 いや、直感などに頼っていいのだろうかと自問する。もう一度、ホロスコープを洗い直すべきか。もっと決定的な根拠を得るために、次はトランジットも重視して調べ直すべきだ。
 大丈夫、その必要はない。きっと山吹美香だ。
 飴野は天井を見る。窓の外を見る。「その通りだ」というサインのようなものを探そうとする。しかしそんなものは見当たらない。
 そのとき廊下に響く足音に気づく。やがてノックもなく扉も開く。千咲が事務所に入ってきた。これがサインだと彼は思う。
 山吹美香だな。

 「ああ、もうこんな時間か」

 飴野がいつもの挨拶とは違う言葉を発するので、千咲は怪訝な表情を見せる。

 「四時よ。昨日も私はこの時間に来たけど」

 彼の無精髭と、昨日と同じ洋服を着ていることに気づいたのか、「え、もしかして?」などと言いながら、飴野の姿をジロジロと眺めてくる。

 「徹夜で仕事をしていた。朝が来たことは知っていったけど、君まで来るとは」

 「飴野探偵にしては、珍しく仕事熱心やね」



15―3)

 果たしてホロスコープから、誰が親友かなど読み取ることが出来るものであろうか。
 不可能に決まっているではないか。本物の占星術師たちは私のそのアイデアを鼻で笑うに違いない。
 親友、この場合、重要な相談相手というくらいの定義であるが、いったい、どのような星がそれを教えてくれるというのか。
 例えば11ハウスは友人や仲間などを現わすハウスであるらしいが、幼馴染のような友人であるとすれば1ハウスも重要で、家族に近いくらいの存在であれば4ハウスとか、秘密を共有出来るほどの仲であれば12ハウスなど、他にも重要なハウスはある。
 ハウスだけでは駄目だ。水星同士が重なっているとか、太陽が特別なアスペクトを作っているとか。それから金星も重要だろう。もしかしたらキロンなどの小惑星も。
 こんな具合に、「親友的指標」を示しそうな星の配置は、いくつでも挙げることが出来そうだ。
 しかしそのような指標を最も数多く所有する相手が、親友だと決するのも単純過ぎる。甘ければ甘いほど美味しいスイーツではない。砂糖が大量に入っていればいいわけではないのだから。
 甘さとは逆の味、例えば塩味がむしろ甘さを引き立てたりするのと同じで、親友的指標だけではなくて、一歩間違えれば憎み合うことにもなりそうな、そのような危険な星の配置だって親友であり続けるためには重要な要素に違いない。

 どうやって星だけから親友などが割り出されようか。
 しかし飴野はそれなりに優秀な占星術師である。幼い頃から、経験豊かな祖母から教えを受けてもきた。複雑な計算を瞬時にやり遂げる、PCにダウンロードされている占星術ソフトもある。
 占星術ソフトが教えてくれるのは、星の正確な位置だけであるが、その面倒な作業が割愛されるのは大きなことだ。パソコンの登場は占星術を劇的に進化させたはず。

 山吹美香、この女に違いない。飴野はこの占い結果に、確信に近い手応えを感じている。

 「依頼人である佐倉彩、彼女の相談相手、この事件についての事情を知っているだろう親友の存在を突き止めた。早速、その人物に会いに行ってくる」

 飴野は何かのセリフを読むような口調で千咲に言う。
 いや、突き止めたというのは言い過ぎだ。トライ&エラーである。間違っていればやり直さなければいけない。
 やり直しが必要な場合があるため、一刻も無駄に出来ないわけだ。飴野は即座に行動に移ろうとする。

 「というわけだから、留守番を頼む」

 「うん、わかった。どうせ誰も来うへんと思うけど」

 「依頼人が来たら、丁重に迎えてくれよ」

 「はいはい。来たらね」

 飴野はソファの背もたれに無造作に引っ掛かっているジャケットを手に取り、それを羽織りかけて手を止めた。

 「なあ、千咲、留守番を頼んだのに申し訳ないのだけど。ちょっと事務所から出ていってくれないか」
 
 「はあ、何でよ? いきなり」

 「三十分、いや、二十分でいい。あの時計の長針が6を過ぎる頃まで」

 「長針が6? だから何でよ?」

 「昨日からシャワーも浴びてない。着替えてもいない。これでは外に出られない」

 「はあ? そんなこと気にする人やったっけ?」

 ここは飴野の事務所兼住居である。彼はここで仕事もして、寝泊まりもしている。
 しかしこの事務所は広さは充分であるがワンルームといったところで、台所のシンクも寝室も全てが一続きだ。区切られているのは玄関に当たる待合室のほうだけ。
 ベッドも依頼人が出入りする事務所の中にある。衝立の向こうに申し訳程度に隠しているだけ。
 もとは診療室であった部屋である。住居には到底向かない。しかしシャワーも入浴も好きな飴野は、オーナーの許可を取り、バスルームを設置してある。とはいえ、それがあるのは西側にあるベランダ。
 脱衣所などはない。サッシの窓の向こうがすぐに浴室である。つまり、着替えるところがないのである。

 「本当にすまないと言ってるじゃないか。さあ、たったの二十分だ。君の長い人生のわずか二十分」

 飴野はシャツのボタンをすぐに外し始める。さっさと千咲を部屋から追い出すように。

 「この事務所の周り、何もないやん、時間潰すところが。嫌や、外に出たくない。今から宿題するから、飴野さんのほうなんか見いへんよ」

 「君が僕の立場だったら、どうなんだよ? 僕が仕事に集中しているからって言い訳で、納得するのか」

 「納得するわけないけど。私がシャワーを浴びるときは絶対に飴野さんに出ていってもらうけど」

 「だから君も出ていくべきじゃないか」



15―4)

 千咲は飴野に恋慕している。そんなことは明らかであろう。彼女は毎日、この事務所に押しかけてくるのだ。
 学校の帰り、いや、休日であっても、友達や恋人にも会わずに、飴野の事務所にやってきて、お菓子を食べたり、勉強をしたり、スマホの充電をしたりして、彼の近くで同じ時間を過ごす。
 暇な探偵ではあるが、飴野は外を出歩いていることが多い。
 普通の探偵の半分の時間も働いてはいないだろう。それでも探偵の職場は事務所なんかではない。街であり、社会だ。
 そんなとき千咲は忠実な犬のように、事務所所で飴野の帰りを待っている。彼が部屋に入ってきたとき、その喜びが顔に出ないように押し隠す。
 彼女は言うのだ。

 「この部屋、図書館とか、自分の部屋なんかよりも、宿題が捗るわ。何かわからへんけど、集中出来る」

 何もないからかな。空っぽやもん。

 勉強が捗る。だから私はこの部屋に居る。それが千咲の建前である。
 実際のところ、部屋は空っぽどころか何かと物が溢れていているのであるが、テレビなどないことは事実。
 音楽もない。ラジオもない。静かである。確かに気が散る要素は少ないのかもしれないと飴野は思う。しかしそんな言葉をそのまま真に受けているわけでもない。
 言い訳めいたことを口にする千咲を前に、「ふーん、そんなものか」と適当な返事を返しながらも、飴野は目を細めて、窓の外から青い爽やかな空を仰ぎたくなる気分にもなる。つまり、別に悪い気はしないといったところ。

 二人は決して触れ合うことはないにせよ、心は触れ合ったり重なったりしていて、その事実にお互いが反発することはなく、そのままそっと同じ場所に留まり続け、穏やかな時間を過ごしている。
 飴野と千咲はそのような関係として安定していた。しかしその「安定」に対する意見は、二人の間に大きな齟齬があった。
 千咲はその安定的な関係を壊してしまいたいと思っている。飴野は露ほどもそんなことを考えていない。

 ところで、実際にこのようなシーンを書いてはいないのだけど、その逆のシチュエーションだって成り立つであろう。その逆というのは、前の章でのやり取りの逆ということ。
 徹夜明けの飴野はシャワーを浴びてから出かけたい。だから少しの間、千咲にこの事務所から出ていって欲しい、と言い放ったのであるが、その逆だ。
 例えば大雨の中、千咲が部屋の中に駆け込んでくるのだ。
 大阪の街を襲った突然の雨。熱帯地方のようなスコールだ。日本的に言えばゲリラ豪雨。
 高気圧の暖かな空気と北から雪崩れこんでくる寒気がニアミスすることによって、雨雲が発生し続けて大量の雨を降らせる現象。
 傘を持っていなかった千咲は、その雨を避けられず、逃げ切られず、追いつかれ、喰いつかれ、衣服も髪の毛も身体も、容赦なく蹂躙され。
 身体の芯にまで雨に侵略された千咲は、もはや急いでも無駄ではあるが、それはもう大変な大事件に見舞われたという態度で事務所の中に駆け込んでくる。
 出迎えた飴野は、びしょ濡れの千咲に驚く。それとも呆れたりするほうが、彼と千咲の関係において適当な反応だろうか。

 「池で泳いできたのかい」

 「雨が降って来たんよ、いきなり大雨やで。池で泳いできたって何それ。っていうか、どうせなら琵琶湖で泳いできたんかって言ってよ。それが大阪でこの冗談を言うときの基本やで」

 「琵琶湖か。まだ行ったことがないな」

 「私もそれほど琵琶湖のこと知らんけど」



15―5)

 「何か服あるかなあ? 私が着れそうなサイズの」

 ずぶ濡れの千咲は飴野にそのようなこと要求するだろう。
 水は厄介だ。まず重い。水分を含んだ状態の服など身に着け続けられたものではない。
 そしてその水分は、他にも被害を及ぼす。例えば、濡れたままではソファには座れない。そんなことをすればソファは酷いことになってしまうだろう。
 水分は体温よりも低いので身体を冷やす。最悪の場合、風邪を引くなんてこともありえる。
 とにかく濡れた衣服は早急に乾かすべきであるというのが人類の共通の結論である。

 「君が着れそうな服だって?」

 「うん、明日、ちゃんと洗って返すから」

 飴野もすぐに頭の中でタンスの引き出しを開け、何を彼女に着せるのが適当か思いを巡らしている。
 白いシャツなどはありきたりだ。狙い過ぎている。こんなものを貸し与えるのは深い関係を築いている同士。まあ、Tシャツとスウェット辺りが適当だろうか。
 ねえ、ちょっと、私が着替える間に、事務所から出ていってや。などと千咲は言わない。
 それどころか、バスタオルとシャツを受け取ってすぐ、何の躊躇もなく千咲は着替え始めようとする。
 慌てて、いや、さりげない態度で飴野は後ろを向く。
 窓が視界に入る。外は雨。千咲の言った通りだった。嘘ではない。まだ夕方であったが厚い雲に覆われて真っ暗だ。
 その闇のせいで、ベランダに続く大きな窓は今、鏡となって部屋の中をかすかに映し出している。
 窓の外の風景も見えるが、窓は鏡にもなっている。二つの写真が重なったときに起こる現象、多重露出、映画でいうところのオーバーラップのような現象。本当の鏡のようにはっきりと背後を写しているわけではないが、確かに千咲はそこに写っていた。

 飴野が後ろを向いたように、千咲も背中を向けている。その窓に映っているのは千咲の後ろ姿だ。
 彼女はブラウスを脱ぎ終えて、背中に横向きの白い線と肩甲骨が動いている。
 千咲が後ろを向いているから、その気になれば盗み見も出来る。彼は探偵だ。窃視することに何の良心の呵責も感じない。
 しかしそんな気にはなれない。彼女は助手である。大切な相手。何よりも千咲が自分に懸想していることを自覚している。
 あるいはこれは何か罠の気配だという気もする。見てしまったが最後、飴野と千咲の間にある何かが壊れてしまう。それは千咲が壊したい何か。飴野は逆に守りたい何か。

 そういうわけで飴野はそれを守る気でいるから、ただただ気まずい時間だけが流れていた。
 千咲も途中で自分の取った決断を後悔したに違いない。大胆過ぎたわりには少しの見返りもない無意味な行為だったと、何もかも馬鹿らしく感じ始めただろう。
 今日で世界が終わってしまうんじゃないかって思えるくらいの激しい雨に打たれたせいで、自分はどうかしていた。しかし別に何も終わりそうもない。激しい雨も弱まり出している。

 さて、長々とそんなシーンを夢想してしまったが、私はそれを小説に書いてはいないのだ。
 そんなもの、今現在どこにも存在していない文章。しかし使える機会があれば、躊躇なく使いたい。
 更に付け加えるとすると、実は千咲は傘を持っていたのだ。そういうことにしよう。
 「あっ、傘を持ってたの忘れてたわ」と帰り際、カバンの中の折りたたみ傘に気づくのである。本当に忘れていたのか、わかっていて差さなかったのか、飴野を戸惑わせるセリフをこのシーンの最後に言わせよう。



15―6)

 これも書いてはいないシーンなのだけど、例えば飴野と千咲はこのような会話を交わしたこともあるのだろう。
 何の変哲もないある日の出来事。事務所に依頼人が一人も訪れなかった日。請け負っている仕事もないから、捜査にも出ない。事務所でコーヒーを飲んだりしているだけの日。
 あるいは飴野と千咲は向かい合って、一日中ボードゲームで遊んでいた日。いや、飴野と千咲はほとんど毎日、そのような日々を繰り返しているのだけど。

 「告白されてんけど。クラスの男の子に」

 千咲が唐突にそんなことを言い出すのだ。

 「それは良かったね」

 「何か私と出会ったことは運命やねんて。学年で三番目くらいのイケメンに言われたら、けっこう嬉しいセリフやと思わん?」

 「信用出来る相手かどうかホロスコープを調べてくれって頼みかい」
 
 「ちゃう。違うよ、だってもう断ったから」

 「そうか、星の配置の悪い日に告白してしまったわけだね、相手のほうは」

 「どんな日に告白されても断ってるよ」

 そんな会話である。

 なぜ断ったのだ? などと飴野は尋ねない。「つまり、他に好きな人がいるのか?」なんて親切なリアクションなどしない。それこそ千咲の望んでいることなのであるが。

 千咲は飴野との距離を詰めようとしている。この曖昧な関係を変えようとしている。
 それに関して二人は了解しているだろう。飴野だって、千咲の思惑はわかっている。
 その上で、飴野はいなす。とはいえ、千咲を避けたりはしない。当然であるが、そのことでからかったりしない。むしろその事実に言及したりもしない。
 何となく了解したまま続いている、そのような安定した関係。

 安定しているのだ。千咲はそれが不満である。彼女は飴野への当てつけに、誰かと付き合い、この事務所に彼氏を連れてきて、飴野がどのような反応をするのか試してやればいいのに。
 もしかしたらその刺激は、一気に二人の距離を近づけるかもしれない。
 いや、そんなものは作者の私の気分次第で描かれることシーンである。その気になれば、私は飴野と千咲が口づけを交わす場面を書くことも出来る。それ以上のことだって。
 しかしそんなシーンは書かれないだろう。精々のところ、海で溺れた千咲を助けるため、飴野に人工呼吸をさせる程度が許容範囲。

 飴野と千咲の距離は近づくことはない。それがこの小説の基本設定なのだ。
 その基本設定は私の中にあるのではなくて、きっと私と読者との間に存在している。だから私が都合良く改変出来るようなものではない。
 何が何でも飴野と千咲の距離を近づけたいのであれば、手続きが必要である。読者を納得させる物語上の必然的な展開が。
 飴野がなぜ、これまで千咲への態度を変える気になったのか、それを説明しなければいけない。
 説明という言葉は適切ではない。それを物語の中に上手く織り込み、読者を言いくるめるのだ。
 逆に言えば、これさえあれば、どのような描写でも可能なのであると言えるだろう。
 きちんとした手続きを踏んで、法律に手を加えたり改正することが出来れば、どんな変革でも為し得ることの出来る現在の行政の仕組みと同じ。

 ところで私は千咲の恋情について長々と語っている。何度も繰り返し言及してきたことであるが、占星術探偵シリーズは「恋愛の終わった世界」が舞台である。
 それなのに千咲は恋をしている。何も終わっていないではないか、そう思われてしまうかもしれない。
 しかし終わったのは、それのありきたりな形態が、である。
 登場人物の誰もが、何か別の形でそれを探している。だからむしろ、彼らは恋というものに執着しているのかもしれない。
 とはいえ、千咲自身はきわめて有り触れた恋愛の形を求めているだろう。彼女は若いのである。まだ何に対しても絶望などしていない。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み