3)占星術探偵「探偵の助手」

文字数 11,791文字

 3ー1)

 ところで占星術探偵シリーズの舞台は大阪である。
 この街を描くことこそ、このシリーズの個性にして本質、と誰も評しはしないが、作家本人はその気でいる。
 日本の副首都になって、上海かニューヨークのように栄えている日本第二の都市。近未来の大阪。
 戦後に一度は完全に埋め立てられていた水路や運河が復活して、街の中をヴェネチアのように舟に乗って移動も出来る水運の都市。
 小型の乗合船は、地方都市の市電のように気軽に乗ることが出来る移動手段で、それを使えば道頓堀も中之島にもあっという間に移動することが出来る。

 占星術探偵シリーズの主人公、飴野林太郎の探偵事務所は、道頓堀川から日本橋へ南に下る、国立文楽劇場と黒門市場の間を流れる運河沿いに建つ古い雑居ビルの最上階にある。
 日本橋二丁目がその住所だ。
 彼の事務所の最寄り駅は近鉄日本橋駅か堺筋線の恵比寿駅だが、乗合船の船着き場のほうがずっと近いから、彼はしばしばそれを利用する。
 乗合船に乗って、東横堀川を上れば大阪城だ。西横堀川を上がっていけば堂島まで行ける。
 道頓堀川から大阪湾のほうに西に下っていけば、湾岸地区で、そこにはカジノやホテルが軒を乗らべ、一晩中眠らない歓楽街がネオンを輝かせている。

 この作品の近未来の大阪の都市としてのアイデンティティは、「笑い」でもなく「人情」でもない。
 日本で二番目の都市、東アジアで有数の歓楽街として栄えている大都市という事実。
 道州制が導入されて、いくつかに分割された日本は、州によって違う政策が採用される。関西州は移民を受け入れることに積極的で、外国人労働者も自由に働くことが出来る地区などもある。
 人工島の夢洲、舞洲、咲州がその解放特区で、その特別な地区であれば、外国人はホステスやホストなどの水商売、性風俗の営業に携わることが可能なのである。
 英語、中国語、韓国語、フランス語、スペイン語、ロシア語、その町では様々な言語が飛び交い、様々な人種が活発に行動している。
 その辺りにはライブハウスやクラブなどが軒を並べ、一晩中、音楽が鳴りやまず、若者やそうでない者も、日本国籍の者も外国からの観光客も、音楽を聞きながら踊り狂っている。
 もちろん、その大阪の街は酒とドラッグ、セックスとバイオレンスに溢れているが、強烈な警察力によって、それなりに治安も保たれている。

 という設定を一生懸命に捻り出したが、このシリーズの序盤ではまだまだ活かされていない。
 しかしその架空の大阪は、関西だけでなく日本中から人口が流入しているので、大阪弁を使う市民もめっきり少なくなった。
 その設定はこの第一部でも充分に伺い知れるだろう。近代以降に培われた「大阪」的なものは、グローバルな発展の中に覆い隠されて、すっかり消えかけている。

 占星術探偵シリーズの主人公である飴野もまた、他の場所からこの街にやってきた流入者である。
 この土地に対する愛も愛着もない。日本で二番目の大都市で仕事をしているだけの認識。やがてこの街に飽きれば、彼はここを去るに違いない。

 言うまでもないことかもしれないが、占星術探偵の舞台が大阪なのは、私が大阪で生まれ育ち、その街がどこよりも馴染みの都市だからである。
 梅田も心斎橋も御堂筋も生活圏内である。わざわざ調べる必要もなく、すぐに街並みのイメージが浮かび上がり、具体的にその街の風景を知りたくなれば、買い物のついでに観て回ることが出来る場所。
 私が現在住んでいるところも仕事場がある事務所も、大阪だ。大阪市ではないが、そのすぐ北の街。
 例えば私が飴野の探偵事務所に行くためには、まず阪急電車に乗り、十三で淡路往きに乗り換える。そこから堺筋線に乗って大阪市を南下していけば、そぐにその架空の大阪に到着する。
 川も運河もいくつか埋められてしまったが、残っている流れはまだある。その痕跡や名残りだって充分に伺える。
 見ようと思えば、それは確かに見える。暗く淀んだ腐った水の流れが、かつて架かっていた橋が、その運河を往く船と船影が。



3-2)

 運河沿いに立ち並ぶビルの外壁を、波立つ水が濡らしている。その水面が鏡のようになって、ゆらゆらとビルの形を逆さまに反射している。
 占星術探偵シリーズの大阪の街の中心部には運河が流れているという設定だ。それは私の好き勝手な妄想や願望ではないことはさっきから繰り返している。
 かつて、実際にこのような運河の流れていた時代があったのである。古地図を見ればそれは明らか。
 この架空の大阪は一度は埋め立てられた運河が掘り起こされて、再び整備されて、今現在も主要な交通手段の一つとして使用されているというわけだ。

 とはいえ、やはり自動車こそが大阪の交通網の中心であることは間違いない。
 それは架空の大阪も同じだ。現実の大阪と同様、架空の大阪にも高速道路網が寸分も狂うことなく同じ位置に敷かれている。
 そういうわけであるから、その運河は「明るい運河」と「暗い運河」に大別されることになる。
 例えばこの作品の主人公の探偵飴野が最寄りの船着き場から道頓堀に向かうときに乗る船は、いはゆる「明るい運河」を進む。その流れの上に別の建設物は建っていない。
 しかし「暗い運河」は違う。その真上を阪神高速環状線が走っている。
 そのせいで高架上のコンクリートの道路に日差しは遮られて、朝でも昼でも真っ暗だ。だから通称「暗い運河」。

 東西を流れる運河は「明るい運河」ではあるが、南北に流れる運河はほとんどが地下鉄のように暗い。
 しかも南北の運河の距離のほうが圧倒的に長いから、この街の水運はヴェネツィアほど趣きのある移動手段ではないだろう。
 この小説の中の大阪の住人たちは、この運河に何らポジティブなイメージを抱いていない。
 暗いからだけではない。水路の水は薄緑に濁り、不快な匂いを漂わせているからだ。
 ときおり、藻の絡まった自転車や、小型の冷蔵庫が上流から流れてきたりする。大変に不潔な河なのである。

 それでも以前と比べるとはるかに清潔になっているらしい。昔は胎児の死体や豚や牛が流れてくることもあったとか。
 水質だって相当に改善されている。しかし運河を清潔に整備し続けるのは大変なコストが必要である。大雨が降れば氾濫のリスクもする。
 今ある運河や水路の多くを再び埋め立てる計画が、しばしば議論されているらしい。
 現地の住人にすれば、船で移動するよりも結局のところ、車や地下鉄のほうがはるかに便利である。
 運河の船はどちらかというと観光客のためのもの。大阪人にとって、あってもなくても問題のない乗り物である。

 さて、まだこの作品の設定の説明を続けてしまうのだけど。次の説明はこの小説の主人公の探偵、飴野林太朗のその事務所について。
 飴野の探偵事務所は、日本橋の運河沿いにある雑居ビルの三階にある。
 目下のところ、彼はその事務所で生活もしていた。いわばオフィス兼住居というわけである。

 飴野はちゃんとした部屋を借りて、まともな生活を送りたいと思っているのかもしれない。しかし作者である私にその気はない。
 彼は大阪にいる限り、永遠にこの雑居ビルに住み続けなければいけない運命だ。
 彼は探偵であるのだから、少し変わった場所に住まわせたい。というわけで、探偵事務所兼自宅という環境がその住居。

 とはいえ、そこは決して住み心地の悪い部屋ではないはずである。
 近所に飲食店は多いから、独身の一人暮らしには便利だし、繁華街はすぐ近くではあるが、夜中になると静かなところで、生活することに何の支障もない。
 彼は想像以上に快適な居場所を見つけられたに違いない。
 確かにビル自体は相当古ぼけたビルではあったけれど。人間で言えば杖がないと歩けない老人のような感じ。
 外から見るとどことなく右側に傾いているように見えるし、それほど大きいビルでもないのに、抜けた歯のように空室が目立っていたし、ビルの廊下も薄暗く、若々しい活気とは無縁だ。

 飴野が借りているその部屋には以前、心療内科がテナントとして入っていた。
 借り手だった医師はギャンブルで大変な借金を作って夜逃げしたという設定を拵えてある。
 リフォームする資金がもったいないという建前を設けて、まだその診療所の内装はほとんどそのまま残っている。
 もちろんそれも、「変わったところに住んでいる」ということを狙っての作者である私の意図。

 扉を開けると、まず患者たちの待合室として使われていた小さな部屋がある。
 その部屋と診察室の間に、小さなガラスの引き戸のある受け付けもまだ残っている。
 それを目にした依頼人たちの誰もが、ここは本当に探偵事務所なのかと首を傾げるに違いない。

 しかし内装が診療所のままであっても何の支障もないはずだと、私も飴野も思うのである。
 探偵も心療内科の医師も、やる仕事にそれほど変わりはしないだろう。話しを聞く相手が依頼人か患者かの違いだけ。
 ただし、心療内科の医師は数日分の薬を手渡せば、その職分を果たせるが、探偵はそうはいかないのだけど。
 依頼人から話しを聞き、その依頼を解決するにはそれなりの時間が必要である。苦労だって伴うだろう。心療内科の医師ほど恵まれた立場ではまるでない。



3―3)

 まだこの事務所についての説明を続ける。この年季の入ったビル、「優森ビル」という名前であるが、そのビルと同じくらい、ここのオーナーも齢を重ねた老人だった。
 オーナーは気さくで親切な人物。彼が親切であるから飴野は事務所に住むという勝手なことが許されているというわけである。
 飴野はその優森ビルのオーナーの一家と親しくすることになった。
 ほとんど鞄一つだけで大阪まで来た飴野に、冷蔵庫やソファ、ベッドなど家財道具一式を貸してくれたり、自宅に招待され、夕食をご馳走してもらったりしているのである。

 借りた部屋のオーナーの家族と親しくなるなんて、実際の日常生活においては滅多にないだろう。前近代ならいざ知らず、21世紀になったこの日本の都市で。
 そんなことが風習となっていれば、どこのオーナーも友達だらけになってしまう。住人とイチイチ付き合っていたら、出費だって甚だしい。
 だからこれはフィクションならではの嘘に違いないが、とはいえ現実において決して起きない出来事だとも言えない。

 さて、いったい何が優森氏にこのような行動を取らせたのか。
 「関東から来た探偵」というもの珍しさがその理由だろうか。滅多に借り手候補が現れない物件であるから、契約させるための躊躇ない営業努力だったのだろうか。
 飴野は後者であると解釈する。これが大阪的な商売のやり方なのかと。つまり、契約するかどうか迷っている飴野を自宅に招待して、「別に事務所で寝泊まりしてもええで」とか、「ほんなら古い冷蔵庫とかテレビ、使うか?」と好条件を提示して、いつのまにか契約にまで至らせるという手口。

 飴野にとっての大阪とは、馴れ馴れしくて厚かましく、しかしこちらが少し拒絶の色を示すと、やにわに優しい気遣いを示してきて、それに気を許してしまったら、心の奥までドカドカと入り込んで、そのまま居座ってしまう何か。

 いや、そのオーナーよりも、飴野の大阪の印象を決した人間がいる。そのオーナーの孫娘、千咲だ。
 オーナーさんの家に招待してもらったとき、彼女と出会ったのだ。
 優森千咲こそが飴野が大阪で見つけた最初の友人だろう。それどころか、いつのまにか彼の仕事の助手のような位置を占めようとしている。

 運河と事務所についての説明に続いて、今度はその脇役のことを説明することになり、説明ばかり続くのは恐縮なのだけど。
 例えば飴野がどこかで昼食を食べ終え事務所に戻ると、その千咲がかつて心療内科の受け付けだったガラスの引き戸からひょっこりと顔を出し、「おかえり」などと声を掛けてくる。
 いつからか、ここは彼女の受け持ち場のようになっていた。教科書やら参考書などを持ち込んできて、彼女の勉強スペースのようにしている。
 もちろん、そこで勉強するだけではなくて、一応は探偵の助手であるから彼女は事務所の留守番を務めてくれている。

 「やっぱり。相変わらず暇やね、この事務所」

 彼女はシャーペンを置いて、呆れたように言うであろう。

 「一時間か二時間くらいここにいるけど、来客も電話も一本もなかったよ。こんなんで家賃とか払っていけんの? 心配やわ」

 「今日は特別だよ。君がいないときは、来客も電話もひっきりなしだ」

 「嘘ばっかり。そんな見栄張らんでええって。もし暇やったら、ちょっと教えて欲しいことがあんねんけど」

 「何を?」

 「勉強を」

 「仕方がない、留守番をしてくれていたお返しだ」

 飴野は気軽に受け入れる。学生に勉強を教えるのは大人の義務だとか考えている。それくらいの常識は持ち合わせているのだ。

 「数学? それとも英語?」

 「違うの、飴野さんの得意の占いでですね、どこが出るか教えて予想して欲しいわけなんですよ」

 彼女は自分の言っていることを十分自覚しているようで、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。

「わかってるよ、自分がずるいことをしようとしてるのは。でも別に全教科そうやって教えて欲しいわけちゃうし。ただまあ、ちょっと苦手な日本史だけ、どの辺が出そうか、占星術で予想して欲しいだけ」



3―4)

 優森ビルのオーナーの家にお邪魔したとき、その孫娘の気を惹くためというわけではないが、飴野は得意の占星術を披露した。千咲の性格や未来を占ってやったのだ。
 若い女の子でそういうことを嫌う人は少ないはず。彼もこの大阪で探偵業を成功させるための地盤固めをしようと、まず手始めにビルのオーナーさんの家族と親交を深めるつもりだった。
 飴野のその浅はかな思惑は、思ったより彼女のハートに響いたようだ。是非、自分も占いを覚えたいと彼女は弟子入りを希望してきた。
 それでこうやって放課後、彼の事務所に寄るようになったのである。

 まあ、さっきも言った通り、事務所を空けるときの留守番役も彼女は務めてくれる。
 依頼人が来たとき、お茶を出してくれることもある。料理は作ってくれないが、食器くらいは洗ってくれたことがある。洗濯はしてくれないが、アイロンをかけたほうが良いよとアドバイスをしてくれたことならある。
 邪魔なときもあるが、我慢が出来ないほどではない。
 占星術探偵飴野の助手兼弟子という名目で、彼女はこの事務所に通い詰めてくるようにようになった。

 「わかった、テストでどの辺りが出題されるのか占ってやってもいい。だけど完璧に予想するなら、その日本史の教師の正確な誕生日と、テストを作成した日を知る必要があるね」

 というわけで先程の会話の続きである。

 「はあ?」

 「いや、それだけじゃ足りない。その教師の両親、配偶者がいるなら配偶者、子供居るなら子供の誕生日も必要だ。同僚の教師の誕生日も知っておいたほうが良いだろう。その教師の性格と行動パターンを完全に把握し、その上でそのときの気分を理解して、どのような問題を出しそうか予測する必要がある」

 「え? ありえへんくらい面倒臭そうなんやけど」

 「占いは魔法じゃないからね、執拗なまでの準備が必要さ。でもデータが完璧に揃えば、完璧な未来が占えるはずだ」

 いや、実際、テストにどのような問題を出るかなんて予想するのは不可能だろうと飴野だって考えている。
 どれだけのデータを揃えても、今の占星術の水準ではきっと無理だ。
 だってそれは、はるか遠くの宇宙から、一人の教師の机の上を覗き込むような行為。簡単なわけがない。
 これを的中させるためだけに全ての時間を費やせと言われれば、もしかしたら何年後かには、最先端の占星術はそれなりの結果を出すことは出来るかもしれないが。
 しかしそれならば、とりあえず日本史の教科書を丸暗記したほうが労力は少ないに違いない。到底、コストに見合わない。

 とはいえ、星たちが指し示す、たった一つの未来は存在する。
 この世界は運命に支配され、全てがあらかじめ定められている。
 占星術師はそれを信じて疑わない。
 この世界は多元的ではないのである。平行世界など存在しない。運命を別ける分岐点もない。星が押し付けてくる宿命に、我々が抗うことは決して出来ないから。
 きっとそれが占星術の世界観に違いない。
 この作品の作者である私は占いの専門家でも何でもなく、生半可な理解者に過ぎないのだけど、そのように考えている。

 それなのに占星術が予測する未来はしばしば外れるものだ。もちろんのこと、当たるも八卦当たらぬも八卦などという言葉があるように、占いなんてそのようなものだ。
 外れたとしても誰も怒りはしないだろう。しかしこの作品の登場人物である占星術師はそんなふうに考えていない。
 占いが外れるのは、占星術の進歩がまだ未発達だからという考え。もしくは正確な結果を出すのに必要な情報が足りないから。
 充分な情報が集まればその精度も自然と上がる。占星術とはそんな能力であるという理解。

 「ねえ、そこまで本格的な占いじゃなくていいから、何となく傾向というか、出そうな問題とか、それくらいはわかるでしょ?」

 千咲はまだ懲りた様子を見せず、そんなことを言ってくる。

 「仕方ない、少しだけ占ってみるか」

 飴野はため息をつきながらノートパソコンを開く。その小さくて薄っぺらい機械の中に、全ての占いのデータが揃っている。いわばこれが飴野のアストロラーべである。
 古代の占星術師は天体観測用の器具を使い、複雑で面倒な計算を駆使して、惑星の位置を測っていた。
 しかし現代の占星術師にはパソコンかスマホがあれば、未来も過去も垣間見ることが出来る。

 「テストの日はいつ?」

 「えーとねえ、確か十日後」

 「十六日か。その日は水星が逆行し始める日だな。忘れ物やケアレスミスに、普段よりも注意しないといけないね」

 「それくらいのアドバイス、うちのお母さんでも言えるわ」

 彼女は呆れるように言う。



3ー5)

 千咲はお喋りで、沈黙することを知らないタイプである。占星術的に言えば水星が風の星座のどこかにあり、それが金星か木星と関係を持っていて、その働きを活性化させているという具合だろうか。
 現実的な説明をすれば、彼女には姉がいて、年上に甘えるのも上手いからだろう。
 飴野にもしきりに質問を浴びせかけて、彼の考えを引き出そうとする。おそらく飴野はそんな千咲を嫌いではない。

 「でも世界史でも数学でも、そんなことを勉強することに何の意味があるんやろって思うねんけど」

 千咲は言ってくる。

 「素数も因数分解も、エジプトの王朝の名前も、実生活に何の役にも立たへんやんか。これはあれなん? 暗記力の訓練なん? そういうふうに割り切ればいいの?」

 まあ、しかしこれは質問というよりも、テスト期間中のストレスをこんな形で飴野にぶつけているだけであるが。勉強なんて実生活で何の役にも立たないではないか、と。

 「英語の勉強は百歩譲って、ありとするわ。私だって海外旅行とか行ってみたいし。でも古典なんて、もう滅んだ日本語やで、あんなもん。何で勉強せなあかんのよ?」

 「それが勉強というのは、もう驚くほど役に立つわけだよ。一言で説明することが出来ないくらい様々な効用というかな、そういうのに満ちている」

 千咲は自分が吹っ掛けた議論に、飴野が乗ってくれたことに内心ニヤリとする。彼女はこんなやり方で飴野に構ってもらうことが好きなのである。

 「って、『学生は勉強しろ』派の大人は言いますけど。それは一種の何ていうか、欺瞞っていうか。もう聞き飽きたセリフなわけですよ。大人になれば誰もが、若いときに勉強してなかったことを後悔するとか、嘘つけよって感じやわ」

 「君も年齢を重ねれば、その言葉が痛いほどに理解出来るようになるんだろうけどね」

 「ならへんよ、絶対。私が思うに、外で若者たちに騒がられるのが迷惑やから、勉強でもしとけって言ってるんとちゃうん? 大人たちが秘かに団結して、ガキどもは学校か勉強部屋に籠ってろって仕向けてるんやろ」

 「まるでわかっていないな」

 「じゃあ、何よ、別に将来、学者とかになるわけもない、うちらが勉強をしなければいけない理由は?」

 「まず実生活に役立つかどうかという二分法が間違っている。何かに役立つから勉強に勤しむという発想が愚かしさに溢れている。まさに世間知らずで、教養の足りない子供の認識だ」

 「随分と言ってくれますね。ほんなら大人の認識を聞かせてもらいたいんですけど?」

 「何て言えばいいかな、人生は生活だけでは出来てはいないということかな。生活とは別の位相がある。生活の一段上か、もっと奥のほうか、どこか指定することは出来ないけれど。そこに人生を豊かにしてくれる何かがあって、それを感じ取るために学問はあるのさ」

 「何、それ?」

 「仕事ではない、遊びでもない。芸術とか音楽には似ているけど、どこか違う。つまりそれが学問だよ。わからないのは君に学問の素養が足りないからだ。学びが足らない。だから学ぶしかない」

 「そんなん、ズルい言い方やわ。勉強したらその価値がわかるから、勉強しろなんて言われても、全然、勉強する気になれへんで」

 ホンマがっかりやわ。飴野さんもそっち側の大人やったとは。何か裏切られた気分がする。
 千咲は言う。



3―6)

 「しかし君は外国語を学ぶ価値は認めるんだろ?」

 「それはまあね、役に立つから」

 まだまだ飴野と千咲の勉強談義は続く。
 しかし飴野が開陳している意見は、果たして飴野という登場人物の持つ彼固有の思想なのだろうか。それとも作者の考えをただ単に代弁しているだけなのだろうか。
 当然、前者でなければいけない。作品の主役だからといって作者の分身ではいけない。

 「だったら、勉強とは三種類の言語を学ぶためにあるという説を披露して、君を説得しようか」

 「はあ、何ですか、それは」

 「外国語、それはわかりやすい。異なる言語を話す人とコミュニケーションするために、異なる言語を学ぶ」

 「うん、だから英語は私もそれなりに勉強してるし。でもやたら難しい数学とか、どうでもいい世界史の知識とかは何? って感じで」

 「数学だってある種の言語なんだ。宇宙や自然の法則と語り合うための言葉なのさ。そして、それ以外の科目は全て日本語の勉強だと思えばいい。国語は当然、歴史も地理も理科も、数学と英語以外全ては日本語の授業だ。君は日本語も不自由だろ?」

 「はあ、何言ってんの? 口喧嘩になったら、いつも私が飴野さんに勝つけどね」

 「おいおい、僕が君に負けたことがあっただろうか」

 「今も飴野さんのほうが負けてるやろ? 私は色んな国の人とコミュニケーションしたいけど、別に宇宙とかと自然とかと語り合いたくないわけで」

 「いつか語り合う必要が出るだろう」

 「ないわ、ない。でもわかった。勉強が重要ってことを百万歩譲って認めてあげるとしても、テストですよ。テストなんてもので人の能力を測ろうとする行為についてどう思うん? 何か嫌らしい感じしいひん? 私だって勉強はしてもいいとは思ってるけど、テストで良い点を取るために勉強するっていうのが嫌や」

 だからもうテスト勉強するの辞めた、お菓子食べよ。

 「テストには時間制限があるだろ? 大学受験の問題や実力テストは順番通りやっていたら、絶対に間に合わないだけの分量がある。時間との勝負になるのさ。それは大変に役立つ訓練だよ、枝葉に気を取られず、即座に本質だけを突くための。それこそ、実生活に役立つ」

 「どういうこと?」

 「必要価値が高いかどうかで振り分けて、高いものに力を注ぎ、低いものを後回しにする。あらゆるものに対して、等分の力を注ぐことは不可能だ。時間には限りがある。それを学ぶのに打ってつけなのが実は案外、学校のテストだったりするはずさ」

 「はあ、イマイチ納得出来へん」

 「仕事が出来るというのもそういうことだよ。まず優先順位を振り分ける。無駄に人を待たせてはいけない。君だって仕事が出来る人間にはなりたいんだろ?」

 「それはまあね。でも、そんなことやったら部活とか、何ならゲームでも、そういう訓練出来るんとちゃうん? っていうか、そもそも仕事で出来るやんか」

 「社会に出て、仕事の現場で学ぶのは遅いに決まっている。でも確かに楽器を必死に練習したり、何かのスポーツに打ち込むことも、それは同じだろう。だけど君は何も頑張っていないじゃないか。だったらとりあえず勉強でもしておけばいい」

 「それは確かに・・・。でも占星術師に弟子入りしたから、その習得に打ち込もうと思っているんやけど」

 「弟子入りって僕の?」

 「そうよ、前にも言ったやん」

 「勉強しない奴は破門だよ。正式に弟子入りを認めて欲しければ、全科目八十点以上が条件だね」

 「はあ? 嘘やん!」



3―7)

 というわけで、探偵飴野には助手がいるのであった。優森千咲という未成年の高校生がその役割りを務めている。
 飴野が借りている事務所のビルのオーナーの孫娘。それが二人の最初の関係性だったが、いつからか彼女は助手兼弟子というポジションを担うことになった。

 とはいえ、助手といっても彼女が探偵の捜査を手伝うことは一切ない。占星術師の弟子としても、それを熱心に学ぼうという姿勢は皆無だ。
 とにかく毎日、学校が終われば、千咲は彼の事務所に顔を出してくるから、この作品に登場し続けるだけで、「占星術探偵シリーズ」の物語の中で何か重要な役割りを任せられることはない。

 いや、飴野の話し相手というのが彼女の真の役割りだから、それが充分に重要な仕事であるわけだけど。
 小説の登場人物が何か意見を開陳するとしても、それを内的独白として描くよりも、会話という形にしたほうがいい。
 小説の作者として、私はこのように考えるわけである。というわけで、千咲の存在意義はそれ、主人公の対話相手である。

 優森千咲という女、髪型は基本的にいつも短めである。髪の毛が肩まで達することはない。そこに達する前にはさっさと切りたくなっている。
 学生なのだから、それなりに健康的に日焼けしているようだ。とはいえ、水泳部に所属していたり、テニスなどの部活に勤しんでいるわけではない。本人が日焼けに気をつけていないだけ。
 身長は高くも低くもなく、今のところ太っても痩せてもいない。その容姿に何の個性も有していないが、別に悩んでいる様子もない。
 つまり、学校で一番の美少女で、密かにファンクラブが作られていたり、隣の学校からその美貌の噂を聞きつけて、生徒が見学に来たりなんてことはあり得ない。だから同性に妬まれたりすることは滅多にない。
 しかし本人は自分の容姿に何の不満もないという様子で、鏡に映った自分を満更でもないという表情で見返している。「もうちょっと鼻がスッとしていたほうがいいけど、まあ、こんなもんやろ」という具合に。
 それなりに生真面目なせいか、いつも大きく膨らんだ学校鞄を持ち歩いている。その鞄にウサギのキーホルダーをつけていて、とても気に入っているようだ。
 そのウサギをマジマジと見ながら、「どっか私に似てる気がするでしょ?」などと口走ったこともある。それが理由で、このウサギのキャラクターを偏愛しているよう。

 さて、勉強というものに関して、飴野と千咲が対話を交わしたというエピソードの続きがまだあって。
 飴野は勉強の必要性やテストの有意義な点について、千咲に向かってまくし立ててしまったが、本当にそれが自分の本音なのかと疑問も覚えた。
 何ならば、自分のさっきの発言にうすら寒いものすら感じてもいた。
 だって勉強が出来て、テストに長じている人物などが、どこまで優れた人間だというのだろうか。そもそも、そのような大人が魅力的なのか。
 確かに、椅子の背もたれに背中をつけた格好で座りながら、スナック菓子を頬張る千咲の姿はだらしがない。
 鉛筆を口と鼻に挟みながら、「勉強なんてやってられへんて、ホンマに」と駄々をこねる様はあまりに無様である。
 しかし効率に血眼を上げて、社会での成功に邁進され出しても、それは恐怖だ。この千咲がそんなふうに変わってしまったら最悪である。

 だいたいそのような人物が探偵なんかと仲良くしてくれるわけがない。大阪の雑居ビルに出入りすることもなくなるだろう。
 キャリアステップアップのための人脈がどうとか、コストパフォーマンスがどうとかと言って、探偵などが生息する裏の世界を軽蔑し始めるに決まっている。

 「わかった、今度のテストで平均七十点くらい取れば、それでも及第点としよう。君を弟子とて認めることにする」

 そのような思考を経た末、飴野はそんなことを口にする。

 「七十点かあ。ちょっと頑張ったら取れなくもないリアリティーやけど・・・。でも今回は無理やろな」

 だからどの辺が出題されるか、占いで教えてよ! と二人の会話は起点に戻る。


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