7)占星術探偵「アストロツインの男」

文字数 18,742文字

7ー1)

 占星術探偵飴野林太朗は、失踪した婚約者を探して欲しいと依頼を受けた。
 こうして「占星術探偵対アルファオーガズム教団」という作品は始まったわけであるが、ところで「婚約者」という言葉に何か前時代的なものを感じざるを得ない気がする。
 恋人から、法的に認められる婚姻関係を結ぶまでの猶予期間、そのような時期にわざわざ何か名前をつける必要があるのだろうかと思うわけだ。
 いや、かつてはあったのだろう、しかしこの作品が舞台とする時代には相応しくない。「許嫁」という言葉が死んだように、その言葉も死に瀕しているに違いない。

 そんなことを疑問に感じてたりもしたのだけど、しかし結局のところ、訂正が必須とまでは思わなかったのかもしれない。この作品の作者である私は婚約者という名称を使い続けた。
 「失踪した恋人」と書くよりも、「失踪した婚約者」のほうに重みを感じたのだろう。
 いや、それならば、その登場人物たちを結婚させておけば良かったではないか。夫や妻であるほうが、更にその重みは増すはずだ。
 しかし若菜と佐倉を、その関係に至らせることに躊躇を感じてしまった。あのときの私は、二人をそこまで強固な関係にしたくなかった。というわけで逡巡の果て、婚約者なのである。

 まあ、そのようなことはどうでもいいのだけど。
 とにかく、ここでようやく本格的捜査の開始だ。占星術探偵の主役の飴野林太郎はまず、失踪した婚約者と佐倉彩がこれまで一緒に暮らしていた部屋を訪れる。
 そのマンションがあるのは大阪市内、東淀川区、つまりは新大阪駅の辺り。そこは平凡な大阪である。運河で行き来出来る範囲外。
 その日、佐倉彩は頭痛で悩まされていた。その痛みに苦しみ、しきりに表情を歪ませながら、約束通りの時間に部屋にやってきた飴野を迎い入れようとしていた。
 当然のこと、別の日にしようかと彼は提案するが、彼女は首を振る。

 「いいえ、明日も明後日も、来週も再来週も、どうせ頭の痛みに悩まされていますので」

 婚約者を殺めた罪の意識が、その頭痛の原因ではないかと飴野は考える。やはりそうか。彼は自分の推察が正しかったことを確かめられた気になる。

 「頭痛は?」

 「最近からです」

 「婚約者の失踪の前から?」

 「昔から片頭痛に苦しんでいましたが、それが酷くなって」

 「そうですか」

 部屋は2LDK。生活のレベルは中流以上だと受け取れる。金銭的に困っている気配は一切漂っていない。むしろ裕福な層であろう。
 上品で、清潔感の溢れる部屋である。そこには何か悲劇的な事件の名残りなど見受けられない。
 精神的な退廃、生活の崩壊なども見い出せない。平穏な日常が淡々と維持されている雰囲気だ。コーヒーを出す佐倉の手はかすかに震えてはいるが、それは頭痛のせいか、飴野への警戒が原因だろう。

 その部屋で、飴野と佐倉は二人きりである。もしかしたら頭痛の訴えは、飴野に対する一種の牽制にも思えた。
 頭痛に苦しむ姿を見せて、自らのセクシャルな女性性を減少させて、飴野を刺激しないようという無意識の働き。
 しかし頭痛に苦しむ女性が醸し出す隙から、不思議な色気も漂うのであった。

 「頼まれていたものを出来るだけ用意しました。生年月日の一覧です」

 佐倉は自筆のメモをテーブルの上に差し出す。飴野が望んでいたリストだ。

 「ありがとうございます。これであなたの婚約者は無事見つかるでしょう」

 飴野は佐倉の反応を試すため、彼らしからぬ大言壮語を言ってみる。その失踪者は失踪なんてしていなくて、この女性に殺されたかもしれないと考えているのに。

 「心の底から、それを願ってます」

 佐倉は特に感情を示さず、その言葉を口にする。



7―2)

 探偵飴野がこの部屋を訪れたのは、佐倉彩と若菜氏に関係する関係者の生年月日や出身地が書かれたリストを、彼女から受け取るためだけではない。
 それは占星術探偵飴野の捜査にとって重要な情報であるが、彼には他の用もある。

 「失踪なされた婚約者のことについてお尋ねしたい」

 生年月日を打ち込んで、ホロスコープを見比べるだけで、この事件は解決なんてされないだろう。
 飴野は探偵として当たり前の仕事をこなすつもりもある。つまり聞き込みである。
 失踪したその男性がどのような人物だったのか質問する。佐倉は彼の行方を探しているのである。当然、出来る限りの情報を提供してくれるだろう。
 但し彼女にとって都合の悪い事実を除いて。

 彼の名前は若菜真大。三十代。職業はデザイナー。
 デザイナーということになっているが、彼の職業の選択には苦労した。
 彼が東淀川区に住んでいようが、吹田市に住んでいようが構わないことであるが、彼がどのような職に就いていたかはそれなりに重要なことだ。
 彼が仕事で行き詰っていたことが、この事件の前兆であった。つまり若菜は自分の才能と向き合わざるを得ない職業に就業していたということ。
 何らかのクリエーター的職業。そのセンスで金を稼いできた男ということだ。
 そのような仕事がこの世界にどれだけあるのだろうか。例えば私の職業である小説家はそのたぐいであろうか。ミュージシャンや画家もそうだろう。ゲームクリエイター、映画監督、漫画家、シナリオライター。
 その種類は多いが、実際に就業している人間の数は少ない職業。
 私はいくつかの選択肢から、若菜の職業をそれにした。雑誌などの広告をデザインする仕事。
 ダイレクトに一般のユーザーに評価される作家性の強過ぎる職業よりも、会社などの組織に属しながら、自分の才能が問われる職業に就かせることがベストだと判断したのだ。

 しかしこの選択が最適であったのかどうかわからない。デザイナーという職業のことをよく知らないままに、私はそれを選択したことも事実だ。
 もしかしたら作品のリアリティを損なうような判断だった可能性もある。もっと最適な仕事があったかもしれない。
 そのせいか、その仕事について小説の中でほとんど言及もしていない。いずれにしろ、もう完成した作品だ。「占星術探偵対アルファオーガズム教団」はこのような形で世の中に出回っている。

 若菜真大は二十代の頃から社内で頭角を現していた。社交性やコネなどを使って成功を収めたタイプではなくて、人付き合いは苦手ではあるが、自らの才覚によって周りに認められた男。
 自分の才能に自信を持ち、その才能を磨くことに時間を費やす生真面目な仕事人だったのである。
 しかし三十代に入り、彼は仕事で手応えを感じることが少なくなった。若いときの閃きを失い、新鮮なアイデアの湧出が枯渇しつつあることを感じていた。
 重要なプロジェクトでも結果を出せなくなり、社内での安定的なポジションを失いつつある。
 そして若菜が手を出したのがアルファ教団の自己啓発プログラム。
 やがて探偵はそのような推理をすることになるのであるが、飴野がそれを察知するまではまだもう少し先。



7―3)

 飴野林太郎、「恋愛の終わったあとの世界」を彷徨う探偵。
 恋愛が終わってしまった世界なのに、恋愛にだけ拘り続け、苦しむ人々。恋愛が終わった世界で、恋愛にさっさと見切りをつけて、別の幻と生きようとする人々。彼は様々な人たちと出会うであろう。
 「占星術探偵対アルファオーガズム教団」の登場人物、失踪者である若菜真大は、「恋愛の終わったあとの世界」に適応して、そこで別の幸せ、別の快楽を見つけていた。
 彼は新世界の住人になっていたのである。
 しかし彼の婚約者の佐倉は旧世界で生きている。彼が自分を置いて新世界に旅立っていった事実に気づき、戸惑い、苦しんでいる。
 というような単純なまとめ方は決して出来たりしないのだけど、この作品の目指した方向性はこの辺りだろうか。

 「あの人を愛さなければ、私はこんなに苦しむことはなかったんでしょうね」

 こんなわかりやすいセリフだって発することはない。出来ることならば書いてみたかった遣り取りではだけど、これほど単純な物語に辿り着くことは出来なかった。

 「彼が失踪した原因、率直に言って、どのようなことが考えられるでしょうか?」

 さて、探偵飴野は極めてあり来たりな質問から始める。
 佐倉は足を組んだ姿勢でソファに腰を掛けている。長い丈のスカートではあるが、足首からふくらはぎの僅かな部分、少しだけ素肌が露出している。彼女は頭痛の痛みを我慢するために、身体をよじっているようで、眉の皺は更に深くなり、額を押さえる頻度も増えている。

 「つまり、なぜ彼は失踪したのか、何か思い当たることがあれば、どんなことでも聞かせ欲しいということです」

 「わかりません」

 「何も?」

 「もしかしたら、愛は冷めかかっていたのかもしれません」

 「なるほど。他の女性の影は?」

 「ありませんでした」

 「そうですか。なぜそれが確信出来るのですか?」

 「わかりますよ。二人で住んでいたのですから」

 「というと?」

 「彼が誰かと会っていた形跡は一切ありませんでした」

 「そうですか」

 つまり何も思い当たることなく、突然、消えてしまったということですか? 
 婚約者が失踪したのに、その予兆はなく、彼が消えた今、あのときの遣り取りが原因だったのかもしれないと顧みるような、自分の過失は一切ないと? 

 飴野はこのような辛辣な言葉を吐いたりするタイプではない。
 全ての謎を知り、全ての謎を発生させているのは佐倉彩だ。彼女が真相を語り始めたら、物語の謎のいくつかは解けるだろう。
 しかし彼女はまだ何も話しはしない。飴野の力量などを試しているのかもしれない。この探偵は謎の真相に立ち会う価値があるかどうか。
 だから質問に対してまともな回答を返さない佐倉を、非協力的だと言って責めたりしてはいけない。
 探偵が依頼人に何かを尋ねたからといって、誠実な回答が簡単に返ってくるとは限らない。
 回答を得るためには、自分が全ての謎に立ち会うに相応しいことを証明しなければいけない。飴野はその事実を十分にわきまえている。

 「何も思い当たる節がないんです。こんなことでは、彼を探し出すことなんて不可能ですよね?」

 佐倉は言うのであった。
 「そうだ」と飴野が答えれば、もう探すのは諦めますと言ってくるか、別の探偵を探しますと言い出してきそうな、何やら投げやりな口調で。

 「いえ、むしろこの世界の探偵で、あなたの失踪者を探し出せるのは、この僕だけかもしれない。星が真実を教えてくれるはずです」

 しかし飴野は真面目な表情で、少し自信を滲ませて言うのであった。

 「星ですって?」

 「星、占星術です。この僕があなたの依頼に応え、出来るだけ速やかに苦しみから解放してみせますよ」



7―4)

 佐倉彩の部屋を訪れたその帰り道、探偵飴野は自分の事務所には戻らず、友人のマーガレット・ミーシャの店に向かった。
 ここでまた新しい登場人物だ。マーガレットも探偵助手の千咲と同様に、この作品のレギュラーの脇役である。
 彼女は占星術探偵飴野の占星術友達といったところ。
 とはいえ、彼よりもずっと格上の占星術師だ。今の彼女の職業はバーのオーナーにしてママ。

 マーガレットの店は難波の裏手、千日前のビルの二階にある。
 個性的なバーや飲食店がテナントに入っている雑居ビル。小説の中ではそのように限定しているわけではないが、「味園ビル」という実在の建物をモデルにしている。
 地上五階の派手なネオンが看板に掲げられた商業ビルである。
 竣工されたのは50年代らしい。そしてバブルの時代にその繁栄のピークを迎えた。
 サウナやホテル、ダンスホールにキャバレー、スナックなど並んでいて、低価格で一晩中遊んでいられるらしい。

 そのビルのみならず、その周辺の風景は、大阪的というよりも昭和的なものと言えるのかもしれない。
 使われる広告のフォントなど昭和時代に流行したフォントばかり。そういう景色が今の若者たちに受けて、客足の絶えない人気の場所となっているのかどうか知らないが、愉快なビルであることは事実。
 私は別にこのビルに思い入れがあるわけではなく、一度か二度、取材のために足を運んだ程度ではあるが、このビルを自分の小説のために利用させてもらっている。

 さて、近隣のバーに比べると、ミーシャの店は少しも個性的ではない。
 店構えもシンプルだし、彼女が占い師であることを知る客は常連だけだ。この店で際立っているのは、マーガレット・ミーシャの容姿のみ。

 マーガレットが男性であるのか女性であるのか、正確のところを飴野は知らない。
 いや、かつて男性であったことは間違いないようだ。とりあえず今は女性として生きていて、飴野もそのように接している。
 年齢も知らない。かなりの数の整形手術を施し、顔から年齢が消え失せて、人工的な美だけが発せられている。
 整形手術と化粧によって不自然に作成された美であるが、それは奇跡的な成功を遂げていた。彼女が美しい生き物であることは万人が認めるであろう。

 マーガレットは占星術探偵シリーズで最も派手な登場人物に違いない。
 フィクションの中か、テレビの中にしか存在し得ないような空想上の生き物。
 占いを大きく扱った小説として、私のこのシリーズを読んでいる読者の多くは、彼女のファンのようである。私も愛着のあるキャラで、大切に描いているつもりだ。

 飴野はカウンターに座り、ウーロン茶を注文して、若菜真大の誕生日をマーガレット・ミーシャに告げた。

 「この男性と完璧に同じ生年月日の人物が顧客の中にいれば教えて欲しいのだけど」

 「何よ、唐突に」

 「失踪した人物を探す事件を請け負ったんだ。この生年月日の人物は依頼人の女性の婚約者なのだけど。何の痕跡も残さず、どこかに消えてしまった」

 「そういえば、あなたは探偵だったわね」

 「今のところ、星以外に頼れるものがなくて」

 「それで私に助けを求めてきたわけね」

 マーガレットは占星術師として生計を立てていたことがある。それどころか、売れっ子の一流占い師だった。いまだにこの業界とのパイプも太い。

 「わかった、探してあげるわ」

 飴野がマーガレットに要求した情報、失踪した若菜氏と同じ生年月日の人物についての情報。
 それらの全てがプライバシーに関わる個人情報である。取扱いに注意しなければいけない代物だ。
 しかしマーガレットは少しの逡巡もなく、それを飴野に提供しようとするのである。
 彼女に倫理感や常識がないからではなくて、二人の間に結ばれた信頼関係がなせる業といったところか。
 マーガレットはすぐにノートパソコンをいじり始める。



7―5)

 「何人か見つかったみたいね」

 マーガレットは仲間の占い師たちとの間で、顧客の情報を共有している。
 日本のどこかで占い師に接して、自分の情報、もしくは自分の知り合いの情報を教えてしまったら、それらは全てこのファイルに収められることになる。
 生年月日や出生地はもちろんのこと、そのとき相談された悩み、容姿の特徴、話し方、第一印象、ときには顔写真すら、このファイルに添付されていることもある。
 有料無料、一流の占い師か二流か。対面での占いか、ネットを通してかなど問わない。占星術ギルドに属している占い師たちが、長い年月を掛け、せっせと積み上げている顧客情報ファイルだ。

 とはいえ、そこから自由に情報を引き出すことの出来る占星術師は一握りという設定にしておこう。
 マーガレットはその一握りのトップに位置する占星術師。

 「その中の一人に出来れば会ってみるつもりでいる。だから近くに住でいる男性が望ましいのだけど」

 「関西には二人。神戸と滋賀ね」

 「よかった。とりあえず捜査の引っ掛かりは出来たようだ」

 「で、この子は何者なの? もう少し詳しいことを教えなさいよ」

 「ああ、もちろん。失踪したらしい、どこかに消え失せたのさ。依頼人は婚約者の女性なのだけど、警察は彼女の相手をしない、ただの家出という扱いだ。実際、今のところ確かに事件は見受けられない。しかも、それなりの貯金を引き出した形跡もあるらしい」

 「完全に家出ね。カードやスマートフォンの使用履歴は?」

 「それはないらしい、警察の報告によると。どこかに彼が生存しているという証拠だって無さそうだ。もしかしたらその男性は殺されたのかもしれないと僕は考えている。星に拠る判断だけど」

 「死はホロスコープには表れないというテーゼがあるのに、なぜそそう思うのよ?」

 「しかし殺意はホロスコープに現れるだろ? 依頼人の女性のホロスコープには、その男への殺意として受け取れることが出来る星の配列があったからね。つまり、ノーアスペクトの火星が、彼の太陽に0度でオポジション。それを冥王星が増幅させていた。しかもその組み合わせが天頂で輝いている。二人は交際してはいけないカップルだった」

 「でも、どんなに強烈な殺意を抱いてしまっても実行するとは限らない。それにさ、自分で殺しておいて、どうしてあなたに捜査の依頼をするの? そんなことありえなくないかしら?」

 「だから興味深い事件なんだ。複雑な心理の中に踏み込んでいかなければいけない。彼女は殺したことに罪の意識を感じている。それにとても苦しんでいる。しかし刑事たちは尋ねてこない。逃げ切りたいと思う一方、罪を告白する機会もどこかで求めている」

 「ふーん、本当かしらね」

 マーガレットは占星術師として、飴野よりもはるかに格上である。彼の読みを馬鹿にしているというのは言い過ぎだとしても、そんなのは平凡な生徒が提出したレポート程度。
 飴野もその事実を認めている。マーガレットを尊敬してもいるだろう。だからこそ、こうやって相談に来ているわけだ。

 「こっちがその依頼人の女性のホロスコープだけど」

 飴野は佐倉のホロスコープもマーガレットの前に差し出した。

 「きれいな女性ね。羨ましいわ」

 彼女の写真を見せたわけではない。ただ星の並びを見ただけである。

 「いえ、美しさだってホロスコープには現れない。でも人目を惹く魅力の持ち主か否かは星が教えてくれる。この金星の輝きはかなりのものね。天王星と金星のタイトなアスペクト。そこに火星が絡んでいる」

 美などは主観的なものである。文化によっても、その価値観は変化するだろう。
 だとすれば、美などというあやふやなものは、ホロスコープには現れるはずがない。
 しかし他者を惹きつける人間はいる。そしてそれは文化を越えて、それなりに共有される価値観のはず。
 だから、「他者を惹きつける魅力」はホロスコープに現れるに違いない、それが占星術師マーガレットと飴野の考え方といったところだろうか。

 「だけどここ数年、彼女の金星、愛と美を司るその惑星に不調の時期が続いていた、そう読めないかい?」

 「読めるわね。婚約者との関係に悩んでいたのね」

 「そしてトランジットの火星が、彼女のネイタルの火星に重なる。そのとき彼女は踏み越えてはいけないラインを超えた」

 「だから彼女がその失踪者を殺したって?」

 マーガレットは飴野を馬鹿にするように笑う。「その解釈はちょっと単純過ぎないかしら?」

 「君は違う読みをすると?」

 「さあね、でも私はあなたのようにすぐに答えに飛びつきはしないわ。もう少し多角的にその火星を点検してからね、何らかの回答を出すのは」

 「それは僕だって同じだよ。だから失踪者と同じ生年月日の人物と会ってみようと思っているわけだから」



7―6)

 同じ生年月日に生まれた他人のことを、占星術ではアストロツインと呼び、重要な研究対象になっている。この作品の中においてはそのような設定だ。
 もちろん同じ生年月日であっても、それぞれの両親の誕生日が違う。兄弟の、友達たちの誕生日が違う。
 同じ人生を歩んでいるわけがないことくらい占星術師だってわかっている。
 そもそも、生まれた時間が少しでも違えば、十二のハウスに入る星も変わってくるのだ。
 生年月日が同じ程度では、まるで違うホロスコープになるのであるから、占星術の初心者だってそのことは理解しているだろう。

 しかし何かしらの同一性だってあるはずだと判断するのが占星術的な思考でもあろう。
 表面的には一致していなくても、深い深層では相似していて、それをヒントにすれば、片割れの人生も予測がつくはず。
 飴野はそんな考えのもとに、若菜真大と同じ生年月日の男性のことを知りたがろうとしている。
 若菜真大と同じ生年月日の二人の男性、一人は神戸在住。もう一人は滋賀に住んでいる。二人とも、異性の友人が占い師のもとに相談に行っている。

 「相談に来た女性の二人とも、浮気のことに悩んでいたようね」

 マーガレットは言う。

 「浮気性のホロスコープか」

 「でも占い師のところに相談に来る女性の悩みのほとんどがそれよ。だから重要なことではない。普通の女と、普通の男のカップルだったってこと」

 「そうだね。恋愛をしていたら突き当たる、ありきたりな悩みだ」

 「神戸のカップルは性生活の不一致に悩んでいたという記録もあるわ」

 「ああ、それはとても興味深い指摘だ。若菜真大たちの火星は弱い。土星に強く制御されている。そしてその火星は、月と金星とも相性が悪い。浮気好きの遊び人というよりも、異性に対して奥手な男性。女性に苦手意識があると解釈出来る」

 「つまり、それはセックスに対する苦手意識ね。でもその一方、彼の金星はとてもきれいわ。アセンダントも天秤座にあるし、女性にモテる男性だった」

 「写真は見た。長身の優男だ。仕事もデザイナーで、金星を使って仕事をしていた。それなりの成功者だ」

 「ホロスコープ通りね。太陽も悪くない。結婚相手としては申し分なかったんじゃないかしら」

 「彼女の木星が、彼の太陽を強めている。彼女と出会って、仕事も上向いたに違いない。生活を共にする相手として最高だった。結婚を考えてもおかしくない関係だ」

 「でも、男と女はそれだけでは幸せになれないのよね。セックスよ」

 夜の住人、マーガレット・ミーシャはそこを強調する。彼女はフロイト以上にそれの虜だ。

 「浮気性というなら、その女性のほうがはるかに異性に対してアクティブね。彼と交際していても、彼女の欲深き金星は満たされていなかった。彼女は他に男を作ったのかもしれない。それでトラブルになった?」

 「そのトラブルが殺人に帰結したんだ」

 「それはどうかしらね、その点であなたに同意することは出来ない。女性のほうが男性を殺したという見立てでしょ? 私は男性がどこかに生きていると判断するわね」

 「彼女のホロスコープに強烈な殺意なんて読み取れないと?」

 「いえ、それは認めるわ。だけどそこに至るには、まだ何か足りないわ。瞬発的な殺意の火花がパッと弾けたとしても、男性の命を左右するほどではなかった。現実化していないってことよ」

 「でも世の中は衝動的な事件で溢れている。取り返しのつかないことをやってしまったと、後から嘆き苦しむ殺人」

 「衝動的に見えて、その実、それは長きに渡る無意識の結晶なのよ。彼女の無意識には、彼を殺したいという意志までは形成されてなかったんじゃないかしら」

 「それが君の解釈かい」

 「あなたと対立するわね」

 「君との話し合いで迷いが出てきてしまったけど、どちらかの男性には会って来るよ」

 とにかく若菜真大と同じ生年月日の男性二人の情報を手に入れたのである。それは大きな収穫。
 飴野はその二人を調べることを、この捜査の糸口とする。



7―7)

 占星術探偵の主人公、飴野林太郎は天才探偵ではない。その推理能力はむしろ平凡かもしれない。
 ほつれた袖の裾に注目したり、すり減った靴の踵を見たりして、依頼人の職業を言い当てたり出来ないだろう。
 現場を観察しただけで、ずる賢い犯罪者の密室トリックを見破ったりしない。
 彼は全知全能のシャーロック・ホームズ的探偵ではないのである。
 そして実は、天才的に優れた占い師でもない。それどころか彼の占いから導き出された推理は、まるで見当違いだったりする。

 飴野自身は占いを信じてはいるのである。その力に頼り切っていると言っていい。
 占星術師であることを恥ていない。それは彼の誇りだ。だから当然、占いで得た推理結果をもとに捜査を始める。
 しかしそんなことで真相に辿り着くことは決して出来ないのだ。なぜってそれは、占星術というものが、ズバリと何かを的中させることは不可能だからという、そんなごく常識的なことが理由で。

 むしろ彼は占星術に頼っているせいで、単純な事件を複雑にしてしまっている可能性だってあるのかもしれない。
 占星術などを介在させてしまったその結果、まるで見当外れの推理をしてしまい、捜査線は混乱して行き詰まり、最悪の場合、新たな事件が起きてしまったり。
 占いによって導き出されてしまった勘違いと、真相との差、そのずれによってこの小説の物語は駆動されていると言えるかもしれない。
 実際、飴野は佐倉を殺人者と見誤うわけだ。彼が占星術に頼っていなければ、起こることはなかったかもしれない間違い。
 占星術に頼ったことが原因で、現実は複雑な迷路と化してしまう。

 占星術探偵は捜査に行き詰り、推理に迷い、手がかりを失っても、それは自分が星を読み損なったことが原因だと解釈する。
 決して占星術に不信感を覚えることはない。そのときだって改めて占星術に頼る。
 飴野はホロスコープを読み直し、またそこから別の何かを読み取る。それを糸口にして、気持ちも新たなに捜査を再開する。

 彼は諦めない。折れないのだ。だからこそ事件は解決する。それが真実に違いない。
 別に星が殺人や失踪の信実を指し示してくれるわけではない。
 しかしその人並外れた行動力と情熱、粘り強さを飴野に与えているのは、彼が占星術を信じているからに違いない。
 いずれ星が真相を教えてくれると確信しているからこそ、飴野は諦めることがないのである。
 この小説において占星術は、そんな逆説的な役立ち方をしているのが本当のところだ。

 さて、この章辺りからその捜査が本格的に始まったわけであるが、今のところ事件の捜査の糸口となりそうな情報など、飴野は何も持っていない。依頼人の佐倉彩から得た情報は本当に僅か。
 普通の探偵ならば、こんなときどのような捜査をするのだろうか。若菜氏の友人、会社の知人に会いに行き、失踪前の彼の様子について尋ねるのだろうか。
 そうに違いない。あらゆるミステリー作品で馴染みの展開だ。
 しかし占星術探偵の飴野の捜査は違う。彼は若菜氏の友人や会社の知人に会いに行くことはない。
 その代わり、若菜氏と同じ生年月日の男性に会いに行くのだ。

 その男性はもちろん、若菜と会ったことなどない。若菜の存在すら知らない。
 若菜真大とはまるで無関係の男性である。当然、その失踪事件と何の関わりもない。
 ただ単に若菜氏と生年月日が同じだけ。それだけの人物。
 しかし占星術師にとって、その同じ生年月日生まれの別人は、若菜の分身のような存在であり、その男性の人生を知ることによって、若菜の人生も知ることが出来るという発想。

 占星術師の友人マーガレット・ミーシャから、失踪者若菜と同じ生年月日の男性たちに関する情報を提供してもらった。神戸と滋賀に在住しているらしい。
 飴野はその男性たちとコンタクトを取ることにする。あなたはとある失踪者と同じ生年月日なのだけど、これまでの人生について教えてもらえないだろうか。
 そんなことを言っても怪しまれるに決まっている。下手をしたら不審者として、通報されてしまうかもしれない。
 ジャーナリストとか、あるいは保険の調査員の振りをして話しを聞くか、彼らのSNSを割り出して、そこから情報を探るべきか。あるいは時間をかけて知り合いになるか、やり方はいくらでもあるはずだ。
 しかしこの男性たちならば、本当のことを言ったとしても協力してもらえるはずだと、彼は判断するのである。
 それも占いによる判断だ。この誕生日の生まれの人間は、どうやら占いやオカルトなどが嫌いではないようだと。



7―8)

 若菜真大と佐倉彩との間にあったトラブル。それは若菜のホロスコープと、佐倉のホロスコープが重ねたときに出来上がってしまう星と星の不調和が原因である。
 もう少し占星術的用語を使えば、いはゆる凶角というもの。
 その凶角を形成してしまう関係が、殺人へ至らしめたというのが占星術探偵飴野の解釈。
 というわけであるのだから、若菜とほとんど同じホロスコープを持つ男性を調べても、その殺人の謎を明かすことが出来ないことくらい飴野だってわかっている。
 言うまでもなく、その人物は佐倉と同じホロスコープの女性とは出会っていないから。それが事件を引き起こした原因であるのに。
 いや、だからこそ、その男性たちは失踪することなく、今も神戸や滋賀に健在でいられるわけである。それが占星術的理解。
 それでも若菜氏と同じ生年月日のその男性を通して、何か知ることが出来るかもしれない。今のところ、飴野は若菜のことを何一つ知らない。

 飴野は神戸に向かう電車の中で、改めて若菜氏のホロスコープを読んでいる。まず、そのホロスコープのどこに注目すべきか。
 一見、平凡に見えるそのホロスコープ、その中で際立つのは冥王星だと彼は見当をつけていた。
 いや、きっと多くの占星術師が彼と意見を同じにするだろう。
 彼のネイタルのホロスコープと、プログレスチャートを見比べたときに感じること、それは冥王星の怪しいまでの主張。

 ちなみに私の理解が正しければ、ネイタルのホロスコープというのは生まれたときの星の配置のことで、プログレスのチャートというのはその時期以降の任意の日付けのホロスコープ、そのような説明で合っていると思うのであるがどうだろうか。
 とにかく生まれた日のホロスコープと、ある時期のプログレスチャートとの関係を見れば、過去や未来などが伺い知れるというのが占星術である。そのような理屈は何となく共有されるのではないだろうか。

 つまり、時期にすれば三年前の夏頃、若菜氏の自我を示すようなポジションの辺りで、冥王星が何か大きな働きかけをしたのではないか。
 占星術探偵は彼のホロスコープからそのような読みを導き出している。端的に言えば、そのとき彼の人生に何らかの大きな変革があったということを意味しているはず。

 冥王星は破壊と再生を象意する惑星だ。その冥王星が彼に何らかの変革を強いた。若菜氏はそれに抵抗することなく、素直に乗っかり、自分の運命を変えた可能性が大きい。
 だとすれば、それは彼の人生にとって大きな出来事となったのは確実。

 その出来事とは何だったのか? それが判明すれば、彼が失踪した理由も掴めるかもしれない。
 もちろん、それが彼の失踪の原因となっているとは限らない。婚約者、佐倉の人生だって同じくらいに重要である。
 それだけではない。まだ何者かわからないが、彼女の他にも彼の人生を狂わした重要な人物がいるはずだ。例えば若菜の愛人とか、佐倉を嫉妬で苦しめた人物とか、そのような何者か。
 あらゆることが重要である。まだこの段階で何も断定してはいけない。
 それでも、冥王星がもたらしたその何らかの出来事を、無視していいことにはならないと飴野は思う。

 若菜氏の人生を変えたかもしれない、冥王星による破壊と再生の儀式。その儀式には水星も関わっているようだ。金星も火星も無視出来ない。アセンダントと太陽も、計算に入れておく必要があろう。果たして、このとき何があったのか? 



7―9)

 「占星術? それって当たるんですか? 僕には信じられませんけど。しかし協力が必要だというならば、少しくらいの時間は割きましょう」

 若菜と同じ生年月日の神戸の男、柳氏は非常に協力的だった。面倒な交渉や粘り強い説得をまるで必要としなかった。
 柳氏がこれほどにも協力的なのは、この作品の作家である私が、物語のテンポの良さを重視して、彼をそのような性格に仕立てたからに過ぎないわけであるが、それを読者に納得させるリアリティは重要だ。
 「おいおい、あまりに都合の良い展開ではないか」と読者に思わせるわけにはいかない。
 神戸に住む会社員が、怪しげな探偵になぜ気軽に時間を割いてくれたのか、その根拠。それを巧みに描き出すのが作家の腕の見せ所だろう。

 この作品はリアリズムを重視したものではないが、軽視してもいない。細部の心理描写は重要である。
 突然、自分の前に現れた探偵を怪しみつつも、この男性は旺盛な好奇心で飴野の依頼に応じる。それを言動、表情から、さりげなく描く。
 柳氏は平凡な日常に退屈していたのかもしれない。あなたの人生について教えて欲しい、そのように言われて 彼の自己顕示欲が疼いたのかもしれない。初対面ではあるが、飴野の人となりに好感を抱いたのかもしれない。
 それらの全てを織り込めて、説得力を持たせる。
 成功したのかどうかはわからないが、この場面を描くにあたり、作家として私がそれらを意識したことは確か。

 ところで、二人の会合場所にも迷った。
 一時間も会話を交わしたりはしないが、二、三分の立ち話しで終わるような遣り取りでもない。初対面の二人はどこかに腰を落ち着けて、一つの空間で席を同じくする。
 飴野はどこで柳氏と会話を交わすべきか。
 駅前の居酒屋か、郊外のファミリーレストランなどが無難だろう。
 柳氏の愛車の中、神戸の夜景が一覧出来る観覧車の中、そういうのもありかもしれない。初対面の男二人で膝を突き合わせ、狭い居場所で会話をしているという異様さ。そういうのが面白いのではないかと考えたりしたのだ。
 柳氏の自宅を訪れるのもありだ。勤務先の事務所なども、ありきたりではあるが穏当な選択だろう。

 さて、採用したのはボクシングジムの中。柳氏はボクシングを趣味としている。プロなどではない。会社員をしながら、暇な時間にだけここに通っている。

 「三年前ですか? そうですね、ちょうど僕がボクシングジムに通い始めた頃ですね」

 鍛え抜かれた肉体のボクサーたちがリング上でスパーリングをしているのを目の前にしながら、飴野は首にタオルを巻いた上半身裸の柳氏と会話を交わすのである。

 「運動不足で身体を動かしたくて。スポーツジムにするかボクシングジムにするか迷ったんですけど、結局、ここにしたんです。はい、確かにそうです」

 三年前に起きた、冥王星による破壊と再生の儀式。きっと、若菜真大と同じ生年月日であるこの男性、柳氏にも何かを引き起こしていた違いない。
 彼にとって、それはボクシングを始めたことだったよう。

 グローブが顔面に衝突する音。マットを擦るブーツの底。コーチの怒鳴り声も聞こえる。そしてけたたましいゴングの金属音。
 それをBGMに、柳氏の口調は軽やかである。
 そこは彼のホームだ。ボクシングで汗を流した後でもあり、柳氏もいくらか高揚している。飴野という怪しげな探偵に気を許したとしても、別に不思議ではないはず。



7―10)

 占星術探偵と柳氏が会った日。当然、飴野は占星術的に、「月が機嫌の良い日」を選んでいるのだ。それは投資家がリスクオンを選択する、株価が上昇しやすい日でもあり、困難な恋も実りやすい、告白に適した日でもあり、そして知らない探偵に声を掛けられても、気安く応じてしまう日でもあり。

 「なぜボクシングを始められたのですか?」

 飴野は尋ねる。

 「さっきも言ったように、運動不足解消かな。会社と自宅の往復の生活では、身体が徐々に重くなっていくだけで」

 「しかしジョギングだってよかったはずです。水泳、ヨガ、スポーツジム、キックボクシング、選択肢はたくさんあったのでは?」

 「それこそ占いでわかったりしないのですか?」と柳氏は冗談めかして言ってくる。

 「はい、柳さんのホロスコープを読んで、ある程度の当て推量はしてます。それがどれくらい当たっているのか知りたいのです。こちらから先にその推理を披露すれば、柳さんの回答にいくらかバイアスがかかってしまうのでね」

 「なるほど」

 柳氏は素直に納得してくれる。

 「そうですね、どうしてボクシングを選んだんだろう?」

 彼は記憶を探っているのだろう。少年時代のこと、青年時代のことを。このシーンにしか登場することのない人物ではあるが、柳氏にもバックボーンがあり、私はそれを考えるのにも多少の時間を割いた。
 そのような仕事を手伝ってくれる助手がいればいいのに、なんて思うこともある。
 秘書の佐々木は違う。彼女の仕事は小説外の仕事。スケジュール管理とか、ホームページの管理。小説に関する仕事で最も踏み込んだとしても、資料集め。
 助手ならば、もっと共同執筆に近いくらいの仕事をしてくれるだろう。面倒な風景描写を代わりに書いてくれたり、登場人物の詳細なバックボーンを考えてくれる人材。
 今のところ、そういう存在はいない。将来的に雇う予定もないが。

 「やっぱり、ケンカに強くなりたかったのかもしれませんね」

 さて、飴野の質問に柳氏は答えを出してくれた。

 「弱かったのですか?」

 「そうですね、ある日、駅でぶつかった男から謝れって凄まれたことがあって、そのときは結局逃げったわけですから、僕は弱い部類の男だったと思いますよ」

 今、彼がとても強い男だから言えるセリフだろう。その口調には自信が伺える。

 「それはいつ?」

 「ずっと昔です。二十代のときかな。会社に入っても間もない頃ですね。その悔しさがずっと残っていて。『何でお前に謝らなあかんねん。お前が謝れや!』って言い返したかったのに、それが出来なかった。何度も夢に見るわけですよ。起きてる時も、思い出して悔しく汗が出てくる」

 まあ、それは言い過ぎかなと柳氏は苦笑いする。

 「そういうこともあって、僕は強くなりたかったのだと思います」

 「ボクシングをすると強くなれるわけですか?」

 「そうやって改めて問われると困るのですが。でも、ボクシングは凄いですよ。殴られることに恐怖を感じなくなるんです。もちろん痛いし、嫌なことですけど、恐怖が消える。恐怖の克服です。ケンカが怖くなくなるんです。それだけで自分が強くなった気がする。殴る力なんてどうでもいいんです。実際、ボクサーはリングの外では人を殴ってはいけないわけで」

 柳氏はボクシングを始めたことによって何を得たのか語ってくれているが、つまり、それはコンプレックスの解消だ。彼がボクシングを始めたことで獲得したのは、ずっと心の奥で苛まれていたコンプレックスの解消。
 それは失踪者若菜氏のことを考えるときのヒントとなるだろうと、占星術探偵は考えるわけである。



7―11)

 ボクシングを始まるまで、柳氏は争うことが怖かった、らしい。ケンカをすることが怖かった、らしい。柳氏はそれらを恐怖する自分を許すことが出来なった、ようだ。
 しかし三年前の夏頃、彼のホロスコープにおいて冥王星が大きな働きかけをしてきた時期、彼は自己変革のためにボクシングを始める決心をした。
 ボクシングをやっている今の彼は自信に溢れている。

 「あなたがボクシングを始めた頃、その失踪した男性も何かを始めているようです。それが彼の人生を大きく変えた、ホロスコープではそう読めるんです。とはいえ、失踪の直接的な原因かどうかわかりませんが」

 二人の会話は続いている。飴野は柳氏に尋ねた。

 「彼も何かを始めているって?」

 「はい、その男性にとってのボクシング的な何かです。柳さんがこの格闘技をすることによって得ることの出来たものを、失踪者の男性も得たはずです」

 「僕はいったい何を得たのかな。まあ、自信とか勇気とか?」

 「そう、ポジティブなものですね。その男性もきっと、力強い何かを獲得することに成功したはずです」

 「失踪者が具体的に何を始めたのかは?」

 「さあ、今の段階ではまるで見当は付きませんね。でも、それが判明したとき、事件は解決に一歩前進するはずです」

 「でも嫌だなあ、僕もいつか失踪するのか」

 「いや、それは大丈夫ですよ」

 柳氏の言葉は冗談であろうが、飴野は彼の不安を和らげる。

 「別にあなたたちは、『失踪しやすいホロスコープ』というわけじゃありませんからね」

 「へえ、そんなものがあるんですか?」

 「きっとあるでしょう。例えば逃避傾向を示すような星の配置とか。それは火星が弱かったり、海王星が強ければその傾向が強まるでしょう。しかしお二人は違います。失踪した若菜氏だって、たまたま空いていた穴に落ちてしまったんです。その道を通ることがなければ落ちなかった穴です。生まれたときから落ちることが定められていたわけではありません」

 「そうですか、少し安心しましたよ。でもこの僕もその道に迷い込めば、落ちてしまうわけですよね?」

 「はい、しかしそれは誰だって落ちるかもしれない穴です。だから問題はどうしてその穴の開いている道を通ってしまったのか、です。何が彼をその道に導いたのか」

 「ちなみにその男性が失踪したのはいつですか?」

 柳氏が尋ねてくる。飴野がその質問に答えると、彼は大変に驚愕する。その時期にちょうど彼はボクシングの練習中、大きな怪我をしたらしい。

 「彼の人生においては失踪という形で現れたものが、僕にとっては怪我として現れたということですか?」

 「そう言えるでしょうね」

 「凄いですね、本当に占いは当たるんですね!」

 柳氏は驚嘆している。
 こういうことは占いの現場でしばしば起きる現象ではないだろうか。占われたほうが自分の人生と照らし合わせて、それに符号する事実を勝手に見つけ、占いは凄いと勝手に盛り上がってくれる現象。

 「我々は星たちに絶大な影響を受けて生きているんです。つまりボクシングとその怪我が当然つながっているように、若菜氏の失踪も、その冥王星が引き起こした出来事とつながっているに違いない。その確信を得ることが出来ました」

 飴野は柳氏のその驚きに乗じる。占星術というのは全てを見通す魔法のような力だとアピールする。まだもう少しこの人物から話しを引き出さなければいけないのだ。
 しかし読者は飴野のその言葉を真に受けてはいけない。これが当たったのは偶然。あるいは何かの気まぐれか、悪戯のようなもの。
 この作品内においてすら、占星術がそのような全能な力ではないことは確実である。



7―12)

 「実はこの失踪事件、女性問題が絡んでいるのかもしれません。先程の落とし穴の例え話を続ければ、その穴を掘ったのはある女性だと解釈出来るんです。だから柳さん、あなたにもそういう類の質問をしなくてはいけない」

 飴野は言う。しかし相手の態度はさすがに硬化する。

 「探偵さん、こんなことまで僕は話さなければいけないのですか? さすがに躊躇するなあ」

 先程の占いが不気味なほどに的中してしまったことが、逆に彼を脅かしたのかもしれない。
 この占い師なのか探偵なのかよくわからない謎の男は、俺のことをどれだけ見透かしているというのか! そんな警戒心も芽生えてきたという可能性。
 飴野も柳氏の態度の変化に気づく。今日はこの辺りで引き上がるべきだと判断する。
 下手に踏み込んで、二度と協力してもらえなくなることのほうが損である。
 いや、実際のところはこのシーンを最後に柳氏が再登場することはないのだけど。この段階ではそんなことを飴野は知らないので、「そうですか、ではまたいつか」と一旦は大人しく引き下がることにしたわけだ。

 飴野にはまだ核心的な質問をぶつけてはいないという悔いがあった。若菜には別の女性がいたかもしれない。その事実を知って、佐倉は犯行に走った。
 痴情の縺れが原因の事件。飴野はこのような検討をつけている。
 出来ることならば、柳氏にもその辺りのことについて踏み込んで尋ねたい。占星術でいうところの金星と火星についての話題だ。
 つまり、あなたにはパートナーがいるかどうか。そのパートナーとの間に何か問題はないかどうか。浮気問題、性的な趣向の問題。
 とはいえ、初対面の相手にこのような質問をして、真実を引き出すような話術の持ち主はそうはいないだろう。飴野は決して器用な男でもない。

 「僕は結婚もしていないし、婚約者もいないです。その男性の環境とはまるで違いますね」

 柳氏が教えてくれたのはその程度のこと。彼はそう言って立ち上がった。飴野も立ち上がる。

 「ありがとうございます。参考になりました」と握手を交わして、飴野はこのボクシングジムを立ち去る。

 そういうわけであるから飴野の足取りは軽くはない。これではボクシングを趣味としている男性と会い、その格闘技についての話しをしただけ。彼が切り込みたかったのは、そのようなスポーティーな話題ではない。
 夜の話し、女性の話題、性的なコンプレックス。このホロスコープの持ち主が、何が何でも隠し続けたいこととは何か。そういうことを知りたかったのに。

 いや、女性問題について尋ねたいと飴野が切り出した途端、柳氏は防衛的な態度を見せ出したと判断出来るかもしれない。
 ということは、そこに何か彼のプライドを傷つける繊細な問題が潜んでいる可能性がある。
 それは重視していい情報かもしれない。いや、ただの偶然かもしれないが。
 「さあ、どう解釈するべきだろうか」なんて独り言を飴野は発することはない。ただ彼は迷いを滲ませた表情で帰路を急ぐだけだ。

 さて、しかし何一つ重要な話を聞くことは出来なかったと飴野は落ち込んでいるようであるが、小説なんてものは無駄な遠回りはしないものである。
 この神戸での会合で、飴野は事件解決につながるキーワードを得ている。
 柳氏がボクシングを始めるという形で、自らの悩みやコンプレックスを解消しようとしたように、失踪者である若菜氏も、それらを解消するために何らかのことを始めたに違いない。
 それはボクシングジムに通うといった習慣に類似する、何らかの自己変革的試みで。
 占星術探偵のその適当な当て推量はピタリと的中しているわけだ。それが何なのかもすぐに判明するだろう。

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