12)ロキの世界「彼女にだけわかる暗号」

文字数 17,679文字

12ー1)

 怒りやら悲しみやら喪失感やら、それなりに大きな感情が、我々を行動へと促すことがある。
 あまりに巨大な感情の場合、その処理を持て余すかもしれないが、それだって時間が経過すればモチベーションに変わるはずだ。
 しかしそれは大きな痛みも伴うもので、出来ることならばそんなものと遭遇はしたくない。
 それにそう度々と起こるものでもない。自分自身でコントロールも不可能だ。
 そもそも私はそんな人生のイベントをモチベーションにして書いてきたわけでもなかった。
 私は多分、読書体験を元手にして書いてきたのである。何か刺激的な本を読んだだけで、書く意欲が増したりしたのである。

 たかが本、たかが誰かの書いた文章、しかしそれに揺り動かされ、私をここまで書かせてきたのだといっても過言ではない。そういうことにしたい。
 映画では駄目だというわけではない。音楽だって刺激ではある。誰かが発した言葉によって火が付くこともある。自分に向けられた言葉ではなくても。
 しかしやはり文章だ。特に小説の文章がいい。それに触れたとき、書きたい意欲が増していく。
 
 今、不足しているのはそれかもしれない。思えば最近、夢中になって何も読んでいない。
 自分の中で言葉が枯れている感じがする。外からそれを注入する必要があるのだ。
 本屋にでも行こう。図書館は私の好みではない。本は所有したい。何か新しい作品を読みたいときは図書館ではなくて、いつだって書店だ。
 実際のところ本屋に行った後は、無暗やたらと書く意欲が高まったりするものである。
 小説の発表の場所はネットが舞台となりつつあるのだけど、しかしそれでもまだ本屋こそ、最先端の文化の発信地であるはず。特に翻訳や専門書についてはそう。

 私はそのような思案の末、読み返し作業をこの辺りで放置して、梅田で最も大きな本屋に行こうと部屋を出たのだけど、しかし駅に向っている途中に気が変わってきた。
 本屋に行くというアイデアは別に何も悪くないとしても、それよりも百合夫君に会って、話しを聞くべきではないのか。そんな気がしてきたのだ。
 今日は何かと騒がしい日だった。まず、梨阿に始まり、それから彼女を介してテフという新人作家とも出会うことになった。
 今日という日は誰かと言葉を交わすにうってつけな星の配置の日だなんて、自分の小説の登場人物のようなことを考えはしないのだけど、たとえば水星が活性化された日などとは。
 そんなことは微塵も思いはしないが、本屋に行って静かに本を見て回るより、百合夫君と会うほうが今の私に向いている気がする。
 
 次の作品でもしかしたら彼のセミナーについて扱うかもしれない。いや、扱うかどうかを早急に判断しなければいけないのだ。
 それを決めるために、彼と語り合うべきである。そういう状況であるのだから、本屋で重要な書物と出会う確率よりも、彼と話して何かを得る確率のほうが大きいことは間違いない。

 百合夫君の連絡先は知っている。指先を何度か動かすだけで、彼とコンタクトが取れるだろう。
 百合夫君はこの仕事に前向きだった。きっと私のために、無理をしてでも時間を作ってくれそうな気がする。突然、連絡しても、すぐに会えるに違いない。
 いや、こんな期待をしていたら、ちょっとでも当てが外れたときショックなので、よしておこう。
 もしかしたら仕事で東京に出張しているかもしれないではないか。海外に行っている可能性だってある。百合夫君は忙しいはずだ。
 案外、駆け引きのために焦らしてくる可能性もある。
 まあ、そんなことをしてくれば、もう一生会ってやるかという気分になるが。



12―2)

 本屋に本を買いに行くか、百合夫君と連絡を取るか、どちらにするべきか多少は迷いながら結局、私は彼にダイレクトメッセージを送った。君の恋愛セミナーについて詳しい話しを聞きたい。都合の良い日はいつだろうか? そのような簡素の文面。

 「今すぐでも大丈夫ですよ、ロキ先生!」

 百合夫君はすぐに折り返し電話をしてきた。その声は喜びで弾んでいるように聞こえる。
 天才的な女誑しというのはこのような人間なのか。私を落とすためならば、全ての先約を反故にすることも厭わない。
 それは当然、男性に対してもそう。つまり行動は迅速。ちょっとしたチャンスでも逃さない。駆け引きのために焦らしてくる可能性を危惧していた私は、何も理解していなかった。

 「ちょうど、梅田にいるんです」

 「では、今すぐに会おう」

 その電話の十数分後には、私たちは紀伊国屋の前で落ち合った。大阪の待ち合わせ場所で最もポピュラーなところ。
 百合夫君の横には女性がいた。一般的には美女と呼ばれ得るような人物。先に到着していた彼は、待ち合わせ場所でその女性と楽し気に会話している。

 「あっ、ロキ先生、来てくれましたね」

 彼は私を見つけ、パッと顔を輝かせてくれる。それは本当に嬉しそうで、彼と会うことを決心して良かったと思わせてくる表情。

 「じゃあ、これで」と言って、隣にいた女性が立ち去っていく。すれ違いざま、彼女は私に会釈する。私も会釈を返す。
 私はいぶかしげにその女性の背中を見送るが、百合夫君は何も説明してこない。
 女性は謎だけ残して消えていく。私も尋ねるべき話題でもないような気がして、そのままにする。
 これも百合夫君の演出の一つに思えてくる。自分の周りにはたくさんの女性がいるという誇示。「僕は暇潰しにスマホをいじったりするのではなくて、そんなときでも女たちを活用出来る」というアピールだというわけだ。
 だとすれば、彼もその女性について説明のしようはないだろう。尋ねるのも野暮だ。
 これが小説内の出来事であるのなら、この意味ありげな女性の登場は何かの伏線だということになるに違いないが。
 もちろんそうではないのだから、彼女の存在に何の意味もないだろう。本当にただの広告的な何か。

 「さあ、行きましょう、茶屋町のカフェでいいですよね? 僕のセミナーに興味を抱いて頂いて本当に有り難いです。何でも質問して下さい」

 百合夫君はそう言いながら、私を先導するように歩き出す。私も素直にあとを歩く。
 待ち合わせの場所から、その茶屋町のカフェまでの道のりは十分程度の距離だった。私たちは阪急駅構内を進み、梅田芸術劇場を過ぎる。

 そのカフェに到着するまで、百合夫君は様々な話題を投げかけてきた。野球、サッカー、政治、音楽、映画、コーヒー。
 彼との会話は妙に心地が良い。リズム感なのか、声の良さかわからないが、私は百合夫君の作る時空間の中で安息している。
 こちらは適当に相槌を打っているだけで、楽しい時間を過ごした気になれる。

 はっきり言って話題の豊富さならば、こっちも負けないつもりだ。広く、それなりに深く、私は世間に通じているつもりなのである。
 雑学の知識、ありきたりな話題を、まるで違う角度から切り取る力、複雑な現実から、単純な本質を掴み取る能力、全てにおいて私が数等上であることは間違いない。
 むしろ百合夫君の知識など大したことがない。その切り口は凡庸だ。
 しかしそのような能力を会話において、ましてや雑談などで発揮出来ないのが私という人間なのである。
 私たちは歩きながらの雑談を交わしているだけである。まだそれほど親密ではない。無言の時間を恐れている関係。
 ただただ沈黙を埋めているために言葉を差し出し合っている。
 そういうシチュエーション下での会話は百合夫君のほうが上手い。それはもう数段上のレベル。
 こういうときは深い話しではなくて、心地い音楽のような会話が重要なのだろう。会話の主導権は完全に彼に握られていた。
 彼はきっと、初めて訪れた美容室なんかでも、店員たちを笑わし、他の客が嫉妬するほどの笑顔を生み出していることであろう。
 知り合ったばかりの見知らぬ女性が相手でも当然、その力を発揮する。年老いていようが若かろうが、恋愛対象であろうがなかろうが。
 何せ彼はセミナーで、そのようなテクニックを教えているはず。
 私のような物分かりの良い男を楽しませるなんて、それはもう容易いことだろう。



12―3)

 店の名前に「大正」という文字が入っているから、その時代の雰囲気をコンセプトにしているに違いない。
 落ち着いた店内の内装も、文明開化期の和洋折衷感が溢れている。看板やメニューのフォントも、横書きを右側から読む時代の感じ。
 「イ」が「ヰ」と書かれていたり、カフェの店員も、給仕さんと呼びたくなる白いエプロン姿である。
 それでいて店内は静かで落ちついていて、重厚な雰囲気だった。少なくとも若い客が多くて、ざわざわした軽い感じのカフェではない。
 このカフェを選んだことにもそれなりの理由があるのだろうか。こういう静かな店のほうが、仕事の話しは上手くいくというデータなどがあったり。
 百合夫君の行動の全てに、そのような裏付けがある気がしてしまう。私は彼を買い被り過ぎているかもしれないが。

 我々はホット珈琲を注文する。もう既に彼のペースに乗せられているが、更にその深みに嵌ってしまう前に、私は先に言っておく。

 「とても前向きだよ。是非とも、君のセミナーを自分の作品で扱いと思う。しかし書けない場合もあるんだ。どうして物語が思い浮かばないってことも充分にあり得る。自分の納得出来るクオリティに達しないときがね。それもこれも僕の能力に限界があるからで。そのときは、この企画はなかったことになるのだけど」

 「そうですね、当然です、小説がとても難しいものだっていうのは、僕でもわかります」

 彼は神妙な態度で頷いてくれる。

 「もちろん、最高のアイデアが生まれる可能性だってある。僕はその方向に向かって、死ぬ気で努力するつもりだけど」

 「僕も、先生にインスピレーションを与えられるように頑張りますよ」

 「ああ、うん」

 私は臆病だろう。最初から逃げ腰で、彼に無駄な期待を与えないようにしている。失敗したときの自分の精神的負担を軽減するためだ。
 本当ならば、彼に期待をさせるだけ期待をさせて、何が何でもこの企画を作品化させなければいけないところまで自分を追い込み、そのプレッシャーに打ち勝つくらいの心意気でなくてはいけない。
 それくらいでなければ長編作品なんて完成しない。
 思えば小説を書き始めたばかりの頃はそうだった。私は若いときの荒々しいエネルギーを失おうとしているのかもしれない。
 こんなことで満足出来る作品を書き上げることが出来るのだろうか。それどころか、せっかくの協力者、百合夫君をシラケさせてしまったかもしれない。
 私が後ろ向きだと、彼だってモチベーションが沸かないだろう。

 「僕は思うんですよ」

 百合夫君は言う。

 「ロキ先生は僕の恋愛セミナーの存在意義に、根本的に疑問を持っておられるって」

 「そんなことはないさ」

 「いえ、きっとそうです。なぜってロキ先生はきっと女性の扱い上手で、おモテになられるからです」

 「まさか! 僕が女性に通じていたら、小説なんて書いてないかもしれない。何せ、恋愛の終わりがテーマの作家なんだよ。女性も、いや、女性だけじゃない、男性も含めて全ての人間が、僕にとっては謎だし、恐怖だよ。扱いが上手いなんてありえない」

 「そんなふうには思えません。生まれついての女たらし。いわゆるジゴロでしょ」

 百合夫君は微笑みながら冗談めかして言ってくる。
 本気だとしたら何という誤解であろうか。しかし、こんなふうに誤解されても悪い気分はしないものだ。
 いや、これが百合夫君の人心掌握術に違いない。私の無意識の願望を読み取っているのだ。どのようなお世辞が有効なのか、完璧に把握している。それとも、これは全ての男性の気分を持ち上げるときの常套句なのかもしれないが。

 「ロキ先生の中には、女性の人格も宿っていて、まるで友人のように女性とも接することが出来るわけです。しかし当然、男性の人格もあり、そちらで男の魅力も出せる。僕が思うに、そういう人は最高度にモテるタイプですよ」

 「駄目だよ、僕なんて。無駄にプライドが高い。何か理由をつけて、終わりに持っていってしまう。結局、いつだってそうさ」

 私はいつになく口が軽くなってしまったようだ。自分の失敗するときのパターンを語ってしまう。

 「はあ、それはつまり、付き合っておられる女性のちょっとした落ち度とか、失敗とかを許せないで、無駄に追及してしまうって感じでしょうか?」

 「そうだね。本当に情けないことだよ。終わってみれば、なぜ、あの程度のことが許せなかったのかって、本当に後悔するんだ」

 「なるほど、それがロキ先生の落とし穴というわけですね」

 「落とし穴?」

 「そうです、人生でなぜか何度も繰り返し落ちてしまう罠。そういうのは誰にでもあります。他人からすればなぜそんなことを反復してしまうんだっていう不思議な失敗。しかし先生は既に、それに気づいておられる。それだけで、とても頭が良いことはわかります」

 百合夫君は臆面もなく私を褒めてくれる。

 「わかっていても失敗をするのならば、頭が良いなんて言えないよ」

 「その落とし穴から抜け出ることは簡単です。本当に簡単なんです。別の自分になり切ること。それが出来れば解決ですよ」

 カフェに腰を落ち着けて早々に、百合夫君は自分の恋愛セミナーの宣伝を始めたようである。
 しかしそれはごく自然で、本当に必然的な装いを持って、私の悩みに寄り添うような振りをしながらすんなりと、その話題の中に入っていくから、私は何の抵抗もなく引き込まれていく。



12―4)

 「僕たちのセミナーはとてもシンプルです。成功することとか、出世することとか、金持ちになることとか、ましてや、素晴らしい人生を送ることとか、そのような抽象的な目的を掲げてはいません」

 いないんです。百合夫君は強調する。

 「数多くの恋愛をすること、それだけです。それがこのセミナーの趣旨ですよ。その副産物として、仕事が上手くいったり、金持ちになったり、結果的に幸せになることはあるでしょう。でも最大にして唯一の目的は女性との関係。このことしか考えていません。で、先程の先生の悩み相談の続きですが」

 悩み相談をしたつもりはなかったのだけど、百合夫君の話しを聞こう。

 「別の自分に生まれ変われば、その悩みはいつの間にか搔き消されているでしょう。それは別に難しいことではありません、演技をすればいいのです、別人になり切るという演技です。それ自体は簡単なんです。しかし容易に持続はしない。すぐにいつもの自分に戻ってしまう。つまり同じ失敗を繰り返し、同じ落とし穴に落ちてしまう」

 「ああ、そうだね」

 「凄い映画を観て、感銘を受けたり、素晴らしい人に出会って、刺激を受ける。自分もあんな人間になりたいと思ったりする。でも時間が経過すれば、その志を忘れてしまう。平凡な日常の時間が大挙して押し寄せてきて、いつもの自分に戻ってしまう。それが人間の常です。しかしこんなことでは自分を変ることなんて永遠に不可能です。というわけで、それに対する対抗策です。『自分を変えるぞ』という志を、末永く継続させるためのメソッド」

 「うん」

 「とても単純だと思われるかもしれない。しかし端的に言えば、その強烈な刺激を常に受け続ければいいだけです。厳しい環境にいれば、誰だって成長します。偉大な人と過ごしていれば、影響されます。つまり、このセミナーに通い続けて貰えれば、ずっと強烈な刺激が持続するんです。本当に強烈です。物足りないと感じる受講者には、どこまでも強烈さを上昇させていきますからね。受講生とは個々に面談します。カウンセリングです。だから誰だって生まれ変わらせることが出来ます」

 「しかし月々の支払いは必要だろ?」

 「はい、お金を取ります。そうやって商売しているんだなって思われるかもしれませんが、本当に結果は出ます。常に僕たちと居ることが、成長のための必須条件なんです。先生も僕の恋愛セミナーを受けてくれればわかりますよ」

 「そうだね、それもいいかもしれない。取材をするよりも、僕が実験台になったほうが、理解は早いかもしれない」

 「一カ月でも構いません。先生はきっと、自分が生まれ変わったことに気づきます。もちろん、辞めてしまえば、すぐにはいつもの先生に戻ってしまうと思いますが」

 「サイコパスの勧めだっけ?」

 百合夫君のセミナーの独自性はそちらにあるはずだ。大野さんが彼を私に紹介した理由、そして私が彼に興味を抱いた理由、その全ては彼が提示したそのメソッドにある。

 「そうです、与える男になるのではなく、女性から奪う男になる。そのために、サイコパスたれ!」

 「でも僕はそんな類型になるわけにはいかないな」

 共感性とか憐れみが重要だ。それがなければ、小説など書けない。

 「心配ありません。セミナーの受講を辞めれば、いつもの先生にすぐに戻るはずです。ちょっとした旅行のようなものだと思って、気軽に試して欲しいです。損はしません」

 「取材をして、君の恋愛セミナーのメソッドを理解するのと、それを自ら実践するのとでは、費やす時間も労力も段違いだ。取材だけで十分だよ。人を殺したことはないけれど、殺人の描写は出来る。軍隊に入隊しなくても、軍について書ける」

 「そうですか、確かにそういうものかもしれませんね。でもきっと、先生も試してみたくなりますよ」

 百合夫君は自信満々な態度を見せてくる。

 「でもそんなのが本来の目的ではなかったはずだ。君の目的はそのセミナーの魅力を直接的か間接的かを問わず、僕に伝えること」

 「ああ、そうでした。本来の目的を忘れてましたよ。でも先生に試して欲しいんですよね。それで初めて僕たちのセミナーの凄さが伝わるはずですからね」



12―5)

 百合夫君のセミナーの教えは際どいものだ。何せ、「サイコパスの勧め」なのだ。自分以外の者を人として扱うな、と教えている。これを称賛することは出来ない。賛同なんて出来ない。
 彼もそれについては十二分に理解しているようである。
 百合夫君は私の反応を伺いながら、ときには照れ笑いを浮かべたりして、このセミナーのメソッドがヤバい事案であることを、自分でも重々承知しているとアピールしてくる。
 「大丈夫ですよ、ロキ先生、僕もあなたと同じ常識の持ち主ですから」「僕たちは何もかもわかった上で、やっているんです」
 そのような言い訳を挟んでくるわけである。
 それは事実だろう。彼は自分を正義だとは思っていない。その毒性の高さを理解している。「サイコパス」という言葉を使っていることからも明らかだ。
 彼はあえて、その危険なものを利用しようしているわけだ。だからと言って何か罪が減じるわけでもないのだけど。

 「サイコパスとはつまり、傷つかない生き物です。恥じらいを感じない。物怖じをしない。躊躇をしない。相手の都合を考えない。そのような人格を演じろ。それが僕たちのメソッドです。しかしその人格を家庭や職場、学校で安易に使うべきではない。それが理想です。なんせ、サイコパスですからね。全ての人を、人として扱わない。その結果、自分も人として扱われることはなくなってしまうんです。当然ですよ、嫌われるんですから!」

 私は相槌を打つ。

 「ホームではサイコパスになってはいけない。そう、僕たちはその場所をホームと呼んでいます。家庭、職場、学校、僕たちが日常を送っている現場です。サイコパスとして生きていいのは、ホームの外だけ。本当の自分と、サイコパスの自分。二重性であることが重要なんです。常に演じているということを自覚しているべきで、ナチュラルにサイコパスになってはいけません。僕たちはそれもしっかりと教えています」

 ところで先生、そもそもの問題としてですね、恋愛セミナーに参加したいなんて思ったりしますか? 

 百合夫君は僕に尋ねてくる。

 「僕のセミナーってことではなくて、この世にあらゆる恋愛セミナーにです。思いませんよね? まあ、先生は成功者だし、若いときから女性で困ったことはないでしょうけど」

 「そういうわけではないけれど。でも、わざわざ誰かに恋愛の仕方を教えてもらうのは、気が引けるね。それくらい、自分の力でクリアーしたいと思うかもしれない」

 「そうなんです。恋愛セミナーに参加するということは、ある意味、自分の弱さを認めるということです。自分は誰かに頼らなければ、恋愛も出来ない弱者だって」

 「ああ、うん」

 「これは大きなハードルです。それなりにプライドがあれば、このようなセミナーに通いませんよ! 残念なことに多くの日本の男性たちの常識はそういうものです。恋愛セミナーなんてダサい、格好悪い」

 百合夫君は自らそれを経営しながら、冷静に分析している。

 「僕はそのイメージを刷新するために、サイコパスというキャラクターを前面に打ち出すことにしたんです。君たちは弱者じゃない。むしろ、ここに通うことで、ヒエラルキーの頂点に駆け上がることになるとアピールしたい」

 「頂点?」

 「はい、サイコパスは、弱肉強食が当たり前のこの世界の頂点、トップオブトップに君臨する存在です。王のように冷酷で、神のように残酷で。それを頂点と言わずして何と言いましょう。その残酷さと冷酷さを身に着けることが出来れば、欲しいものは何でも手に入れることが出来る。成功、名誉、財産、女性たち」

 「良いことだらけだ」

 「しかも、サイコパスには誰でもなれる。残酷さと冷酷さを身に着けることが出来れば、です。その代わり、どんなときも物怖じしてはいけない。傷ついてはいけない。躊躇してはいけない。サイコパスとして生きるのは、楽ではありませんよ。だけど、十分な見返りがあります」



12―6)

 「君と話して、ふと思いついたアイデアがある」

 百合夫君の長い解説はまだ終わったわけではないだろう。しかしこの辺りで私の語るターンだ。

 「はい、是非教えて下さい」

 「関西近郊で殺人事件が頻発し始める。どの事件も、犯人は呆気なく逮捕される。男性が激情して、女性を殺した事件だ」

 「ちょっと待って下さい、何ですか、それ?」

 「君のサイコパス論を聞いて、思いついたストーリーの種だよ」

 「おお、先生は何かひらめいたんですね?」

 「そんな大層なことじゃないけど。まあ、最後まで聞いてから君の感想を教えてくれ。殺人事件が頻発している。その事件に共通点はない。犯人も違うし、被害者も違う。似ているのは男性が、女性を殺したことだけ。依頼人の申し出を受けて、探偵は一つの事件を探っていく。やがて、その無関係だと思われた複数の事件に、ある共通点が浮かび上がる。犯人の男性たちはみな、君のセミナーの受講生だった」

 「おお!」

 自分のセミナーが物語の中に組み込まれたことを知り、百合夫君は感嘆するように声を上げた。

 「で、でも、そ、それはどうでしょうか」

 とはいえ、いつでも明るく、ニコニコとほほ笑んでいる百合夫君が珍しく、表情を曇らせた。そして本当に困ったように、言葉に詰まりながら言ってくる。

 「有り難いことです。先生の小説の中に扱われるだけで光栄なんです。でも何と言うか、きっとその設定にはリアリティーがないと思うんです」

 「そうかな」

 「僕のセミナーを受けたということは、サイコパスになり得た受講生たちってことですよね? サイコパスは怒りという感情からも遠ざかります。嫉妬もしません。誇りを傷つけられたなんて思ったりもしない。怒りに我を忘れて、殺人なんて犯すわけがありません」

 「なるほど、君のサイコパスの共通点は人を殺すことではない」

 「はい、世間では人殺しのことを全部ひとまとめにサイコパス呼ばわりしたりしますが、決してそうじゃない。もちろんそういう類のサイコパスもいるんでしょう。でもそれはサイコパスである前に、ただの快楽殺人者です」

 百合夫君の言っていることは、完璧に的を得ている。私も世間の粗雑な定義に惑わされていたのかもしれない。

 「では、さっきのをひっくり返そう。こっちのアイデアはどうだろうか。この関西近郊で女性たちの自殺が極端に多い。年頃の若い女性たちだ。どうやら皆、ある男性と知り合ったあとに自殺した様子。恋愛して、失恋をして自殺。有り触れていると言えば、有り触れている。その男性だって同じ人物ではない。みんな、別人である。事件性はないようだ。それでも、若い女性の自殺が極端に増えたことは不可思議である。依頼を受けて、その自殺の事件と関わることになった探偵はやがて真相に辿り着く。自殺した女性たちが恋愛していた男性たち、その共通点だ。皆、君のセミナーの受講生だった」

 「ああ、はい」

 「君の受講生が玩び、捨て女たち。彼女たちは、君が作った冷酷な男たちに傷つけられ、心を殺された」

 「それはあり、でしょう。妥協します。それにしても悪い男たちだ」

 「占星術探偵は、君のセミナーを徹底的に断罪するだろう」

 「仕方ありませんね。実際に女性が自殺した事例はありませんよ。しかし別れるくらいなら、ここから飛び降りると言われたことは僕もあります。別れるのは難しい」

 「つまり、けっこうリアリティはあるってことか?」

 「そうですね、あるでしょう」

 女性を玩び、自殺にまで追い込んでしまうサイコパス。最悪の人物。非難されてしかるべき事案。いや、それこそが、百合夫君の掲げているセミナーのイメージそのままである。つまり、強者であれという教え。
 そのサイコパスたちは占星術探偵に断罪されるであろう。私が彼らを美しく書くことはない。物語の中で完全な悪役。それでも、この展開は百合夫君にとって不満はないようである。



12―7)

 私たちは梅田のカフェで熱い会話を交わしていた。もしかしたら新しい作品が書けるかもしれないという想いが、私を熱くしているのだろう。
 一方の百合夫君が、私のように興奮しているのかどうかは知らない。
 何せ、彼は他人を利用することを辞さない男、サイコパスの勧めの提唱者なのである。彼が感情の虜になっているなんてことはないのかもしれない。
 それでも熱くなっているように見える。だから私は彼の意気込みに応えて、素晴らしい新作を書き上げたいと思ってしまう。

 そのときであった、私の身にちょっとした椿事のようなことが起きたのは。私たちのテーブルの横を歩いていた女性が足を止めて、「ロキ先生?」と呼び掛けてくる。

 「すいません、プライベートなのに思わず声を掛けてしまって」

 彼女は声を掛けてから、途端に我に返ったように恥じ入り出した。
 街中で偶然に読者に遭遇して、声を掛けられることなんて滅多にない。知り合いに遭遇することだって、私の人生にはそうは起きないことである。
 別にこの種のイベントを忌み嫌っているわけではない。ただ単に顔を知られていないことと、知り合いが少ないことが原因なだけ。
 しかし私が今日のこの出来事を椿事と呼ぶのは、ただ読者に声を掛けられたからではない。

 「ああ、君は」

 先日の食事会に参加してくれた私の作品の読者、ファンクラブの会員だ。確か彼女のは名前はイズン。

 何という偶然の再会だろうか、私は表情を輝かせてしまう。
 あのときの出会い以来、彼女のことがいくらか気になっていたのだから、会えて嬉しくないわけがない。
 私の目の輝きを見て、彼女もホッとしたように微笑んだ。

 私は本当にドキドキしてしまっていた。この偶然の再会は、この百合夫君との企画の先行きを明るく照らし出す前兆のようなものにも思えてきたのだ。
 私は偶然というものを重視している。いや、それはあらゆるクリエーターに共通しているのではないだろうか。
 例えば何か新しいアイデアを思い付いた瞬間、外で雹が降り出したとする。雹じゃなくても雪、何なら雨でもいい。それだけの偶然ですら、特別なアイデアの誕生を、天が祝福しているような感触。
 イズンとの再会にも、私はそんな幸いの前兆、百合夫君とのこの企画を前に進めろというシグナルに思えた。

 逆に、何かを思いついた瞬間に、嫌な出来事に遭遇すると先行きは暗くなる。近所の騒音。不快な虫の出現。面倒な連絡の到来。機械の故障。
 そんなハプニングを引き起こしたアイデアはあっさりと捨てるか、軌道修正をする。占星術探偵の作者である私は、占星術的な思考に、いくらか毒されているようだ。

 「すいません、お忙しいところ」

 彼女は奥のテーブルで、友人とコーヒーを飲んでいたようだった。店を出る間際、私に声を掛けてきたという状況。

 「また先生とお話出来るように、次の夕食会にも応募しますね」

 そんな言葉を言い残して、彼女はカフェを出てしまった。もう一度振り返ってみたときも、彼女はいくらか名残惜しげにこちらを見ているように思えた。いや、私がそう思いたかっただけかもしれない。

 「駄目ですね、先生、このまま後ろ姿を見送るんですか?」

 百合夫君が言ってきた。彼は妙に真剣な表情だ。悲し気と言ってもいいかもしれない。

 「このまま見送るって?」

 「彼女はシグナルを発していましたよ。それもかなり明確なシグナルです。先生という存在に対する、全的な『イエス』というシグナル。少し突くだけで割れる風船のようだった」

 ああ、なるほど。先生はこうやってアバンチュールの機会を逸してきたんですね。実に勿体ない! 
 彼はわざとらしい表情で嘆く。

 「何を言っているんだ。今は君と仕事をしている最中だった。女性に気を取られている場合じゃない」

 「そんなものは愚かな言い訳ですよ。仕事のチャンスよりも、女性との出会いを重視すべきです。なぜなら、そちらのほうがずっと得難い偶然なのだから!」

 ロキ先生は何もわかっておられない。まあ、だからこそ教え甲斐がある生徒だと言えますと百合夫君は微笑む。



12―8)

 「あの女性は先生の読者さんなんですね? 熱烈なファンということですね」

 当然、百合夫君はその話題を続けるようであった。そのせいか、まだそこに彼女がいるような錯覚を感じてしまう。

 「先日、食事会に来てくれた読者の一人さ」

 女性の話題なんてやめて、さっさと仕事の話しに戻るべきだと言い放ちたい気持ちもあったが、この話題が私たちの仕事に直結していることもわかっていた。

 「作家の先生もそういう仕事をしているんですね」

 「まあね。面倒だと思ったりもするけど、直接読者と交流するのは有益でもある。モチベーションも上がるよ。僕はそれほど得意なほうではないけど、まあ、苦手でもないんだろう」

 「とても魅力的な女性じゃないですか。美しいだけでなく、秘密をしっかりと厳守しそうな身持ちの堅さも感じられる。自分の分際を弁えていながら、夢見がちな瞳をしている。好奇心もあり、頭も良いということ。さすが先生の読者さんですね」

 「妙な褒め方だ」

 「さっきの女性を口説きましょうよ、サイコパスとして、彼女を釣って、抱くんです」

 「何だって?」

 百合夫君は何を言い出すのかと、私は仰け反る仕草を見せる。
 いや、驚きながらも、彼がそんなことを言い出すのではないかと予想出来ていた。

 「でも別に口説く必要もありませんね。彼女は先生のファンですから。きっと、作家として尊敬しているだけじゃなくて、異性としての魅力も感じている。声を掛けるだけで充分です。それに関して、難しいテクニックは必要ありません」

 「いや、ちょっと待ってくれ。僕は君のセミナー取材をしたいと思ってはいるよ。しかし別に、君の生徒になる気はないさ」

 「ああ、そうでした、すっかり勘違いしてました。でも経験は重要ですよね?」

 それは難しいところである。自ら身をもって体験することは重要ではある。しかしそれと同時に、経験は何かを狭めてしまうこともある。
 この場合、狭めてしまうのは想像力。彼のサイコパス論を会得するにしても、想像の中だけに留めておくべきかもしれない。
 空白を想像で埋める。誤解や勘違いなど気にしない。それでこそ、個性的な描写が出来る。私はそういうタイプの作家だ。
 とはいえ、経験にはやはり大いなる価値があることも事実である。生々しい現実を体験してこそ、描けるリアリティーもあるわけだ。

 「経験は重要だよ。それで何か作品のヒントにあることもあるかもしれない。しかし百歩譲って、僕が君の生徒になるとしても、そのターゲットが彼女である必要はないんじゃないだろうか。彼女は僕の大切な読者だ。それに君も言っていたじゃないか。ホームにいる女性には手を出すなって」

 「はい、確かにそれが僕の理論です。でも彼女はホームの存在でしょうか? だとすれば、先生のことを知っている女性、全てがホームということになる」

 「君の言葉をそのまま受け取れば、有名人にはホーム以外の場所が極端に少ないということになるんじゃないのかな?」

 「いえ、先生は意図的にホームという概念を拡張なされている。そんなやり方で僕の提案を拒否しようとするなんて」

 「しかし僕が彼女と遊び、傷つけて別れてしまったとする。彼女がその気になれば、その噂は僕の読者の間に広まる。その範囲がホームってことじゃないのかい?」

 「いえ、あくまでホームは日常の濃密な人間関係の場所のことです。先生が恐れられているのはネットの噂ですよね?」

 「まあ、そういうことになるね。でもそれを軽視出来ない世界になったことは事実だろ?」

 「確かに別れ方は重要です。抱いて、玩んで、飽きて、必要がなくなり捨てるにしても、別れるときには気を使うべきです。先生は有名人ですからね。しかし有名人だからこそ、残酷な別れも許されたりするとも言える。憧れの人は手の届かない存在という一般理解があるからです。そもそも、先生はあの女性と残酷な別れ方をするつもりなんですか? 例えば子供を腹まして、堕胎費用も払わずに逃げるとか?」

 「まさか!」

 「避妊はして下さい。サイコパス論を唱えている僕でも、そんことは勧めていませんから」

 「わかった。とにかく君の言い分では、読者などのファンはホームにいる存在ではないと?」

 「そうです、適度な距離感のある他者です。そうであるのですから、先生は彼女から逃げてはいけません。絶対に声を掛けて、ものにしなくてはいけません」

 実のところ百合夫君の提案に乗れば、彼女と知り合えることが出来るかもしれない。
 それは魅力的な未来であった。私はその誘惑に流されてしまいそうになっている。

 「連絡先はご存知ですよね?」

 その底意を見抜いたように、百合夫君は言うのである。

 「知らないよ」

 「ファンクラブの会員だっておっしゃられたのに?」

 「それを知っていても、連絡したことのない宛て先は、知っている連絡先にはならないだろう」

 「ぬるい考えです。これではサイコパスになれない。先生はまだ格好をつけておられる」

 「連絡先は秘書が管理している.それに手を出すわけにはいかないな」

 「わかりました。では違う作戦でいきましょうか」

 この話題は依然として続く。



12―9)

 「彼女は先生のフロートを読んでいますよね。読んでいて当たり前だと思いますが」

 百合夫君の言葉だ。

 「リアルの世界でチャンスを逃しても、インターネットが救ってくれることがあります。出会いのチャンスも、再会のチャンスも、ネットが与えてくれます」

 私の小説家としての成功がそれを体現している気がする。私はネット世代の作家なのだ。ネットの力は知っている。

 「まあ、読んでいるだろうね。自惚れるわけではないけど」

 私は返す。

 「では、フロートに暗号を書きましょう。それを読めば、彼女は来てくれます」

 「暗号だって?」

 フロートというSNS。ネットという大きな河に、自分の言葉を気軽に流すことが出来る。
 その言葉を誰もが読むことが出来るわけだ。私のような職業の場合、特にそのような使い方をしている。
 しかし不特定多数に向けて書いたようでいて、実は特定の相手へのピンポイントのメッセージであったりもする。それがバレたときは、様々なものを失うものであるが、滅多にばれたりもしないだろう。

 「フロートで彼女にだけわかる暗号を発信するなんて、そんなやり方、子供っぽくて嫌だと思われるかもしれませんが」

 「むしろ、女性ぽいというべきか」

 「だから効果があるんです。女性はそういうのが大好きなんです。今日、ここで会ったことは、先生と彼女しか知らない事実です。他の読者の方々は知りません。先生はフロートに、明日の夕方もこのカフェで会議をすることになったということを、それとなく書いて下さい。『明日もこのカフェにいるという』というメッセージは、彼女にしか伝わりません」

 「なるほど」

 「明日、彼女がここに来られたら、僕は適当に帰りますよ。お二人でコーヒーを飲みながら、仲を深めて、その日のうちに関係を結んでください」

 「気が進まないな。それに、彼女は本当に来るだろうか?」

 「それはわかりません。彼女にだって、どうしても抜け出せない、何か重要な用事があるかもしれない。実は結婚しているとか、婚約者がいるとか、意外と彼女はプライドが高くて、このメッセージに乗ってこないとか、様々な可能性はありますよ。でも、彼女が来ないからといって傷ついてはいけない。それがサイコパスのすすめの最初の教えです。相手を平気で傷つけるのがサイコパスではありません。どんなことに見舞われても、滅多に傷つかないのがサイコパスなんです」

 「それをまず身をもって、体験しろと君は言うわけかい」

 「そういうことです」

 百合夫君は一切の譲歩を見せなかった。何が何でもイズンと再会しろと、断固として私に迫ってくる。
 彼はわかっているのだ。私が彼女に関心があること。どうにかして、彼女と近づきたいこと。そのために、私が背中を押されたがっていることを。
 それを見抜いた上で、百合夫君はその役を忠実に務めているに違いない。

 「わかったよ。今夜、フロートにその暗号を書こう。そして明日、ここでまた君との会議を設けよう」

 「偽の会議です。彼女をおびき寄せるための。ドキドキしませんか? ワクワクしませんか?」

 する。落ち着かない。何度もため息をつきたくなる緊張感だ。
 この緊張感が日常の中に侵入してくれば、執筆に悪影響をもたらすだろう。
 小説を書くためには、圧倒的な退屈が重要なのだ。ワクワクするような生活の中で、執筆という行為は難しい。
 しかしその誘惑を撥ねつけられるほど禁欲的でもない。私はそれにあっさりと首を垂れてしまう。

 「君のペースに乗せられているね」

 私は言う。

 「すいません、不快な気持ちにさせてしまったかもしれません。先生に自分の恋愛セミナーを取り上げてもらおうと必死過ぎますよね」

 取材相手に翻弄されるのはよくあることだ。
 これまで私が取材をしてきた相手は多数。アイドルを熱心に追いかけるファンたち。アニメやゲームの二次元のキャラを愛して、実物の女性たちとには見向きもしない男性たち。歓楽街で働く女性。そのスカウトとして働いている男性。アナルオーガズムを体験するためのコツを伝授するサイトの運営者。
 そのようないかがわしい連中だけではない。大阪の歴史を調べている学芸員。民俗学者。探偵。占い師。デザイナー。
 しかし百合夫君ほど私に大きな影響力を与えようとしてくる相手はいないだろう。



12―10)

 百合夫君と別れ、梅田のカフェをあとにして、私は地下鉄御堂筋線に乗り、独りで心斎橋に向かう。
 新しい靴が欲しくなったのである。ジャケットやシャツだって欲しい。
 いや、シャツやジャケットはたくさんある。明日何を着るべきか、いくつか思い当たるものがクローゼットの中に吊られていると思う。だから、それよりも新しい靴が欲しい。
 確かに靴だってたくさんあるのだけど。しかも初めて履く靴は靴擦れするだろう。
 しかし明日のための特別な靴を買いたい。そんな気分であった。別に十万もする革靴を買いたいわけではない。カジュアルなスニーカーでいい。
 新しいファッションアイテムを欲しがるなんて、君は何だか浮かれているみたいだな。そうズバリ指摘されそうであるが、果たしてその通りである。
 むしろ、こういう気分は大切だろう。この浮かれた気持ちをそのまま、モノに変換するわけである。
 今日、新しく買った靴は、この浮かれ気分の記念として後々まで残る。その靴を見る度に、今日の感情を思い起こしたりすることもあるかもしれない。
 とはいえ、そんなのはただの消費活動に過ぎないが。
 その気持ちを文章にすれば、それは日記とか、上手くいけば小説になる。数万円もする靴を買わしめる衝動を文章にすれば、いったいどのようなものが書けるだろうか。

 そんなことを考えながら心斎橋の改札口を出て、やがてオーパの横の階段を上がる。御堂筋沿い、あるいはその奥の路地にあるセレクトショップなるものをいくつか覗けば、それなりに気に入る靴に出くわすであろう。
 心斎橋である。長堀のほうに行けば、かつてそこには大きな運河が走っていた。
 「占星術探偵シリーズ」の架空の大阪において、それは主要な交通手段。現実の大阪では、それはとうの昔に埋め立てられ、「橋」という地名だけがその名残りを伝えている。

 「占星術探偵シリーズ」の大阪を描くために、無暗やたらと大阪市内を歩き回ったものである。
 部屋の中で地図を眺めたりすることも悪くはない。古地図はたくさんのインスピレーションを与えてくれる。ネットのマップもかなり重宝した。大画面のモニターでグーグルマップを眺めるだけで、かなりの情報が頭の中に入る。
 しかし直接歩き回ることは特別だ。そんなことは当然であろうか。歩いているだけで本当にワクワクしてきて、物語のアイデアが湧き出てきそうな予感を覚える。
 あの小説の舞台にいるという感動。自分の作品なのに、そんなことに感動してしまうのだ。

 「占星術探偵シリーズ」を三作も書き上げてきたが、まだまだまだその感動は私の中に疼いている。まだこの街を描き切れていないとも思う。
 新作が具体的に形を帯びてくると、更にそのワクワク感は膨れ上がってくるはずだ。見るもの、感じるもの、聞いたこと、体験したこと、全てが新しい作品を書くための糧となる生活が始まるのである。
 何もかもが、新しい作品を書くためというその一点に組織化されて、一切の無駄がなくなる。それこそが作家の人生だ。

 ああ、その特別な日々が待ち遠しい。出来るだけ早くその日々が到来することを望むのだけど。
 
 今はまだ、登場人物たちの姿が見えない。登場人物を具体的に想定出来ていないのだから仕方がない。この街を占星術探偵飴野が独り、行き先を見つけられず彷徨っているだけ。
 出来るだけ書く生活に戻りたいものである。本当にそれを切実に望んでいる。
 しかし今はショッピングだ。私はスニーカーを買うためにここにやってきたのである。明日、とある女性と逢うときに履くかもしれないスニーカー。

 現実の大阪の太陽は沈み切っていた。大丸心斎橋店の前、銀杏並木道が連なる御堂筋にはたくさんの人が歩いていた。
 私の小説などにまるで無関心な人たち。小脇にルイヴィトンのバッグを抱えた男、シャネルで着飾る女性、外国からの観光客も多い。中国人、韓国人、台湾人、もっと遠い国から来た人たち。
 夜の人々は美しい。人というより影に近くなるからであろうか。そのせいか、私は夜に街を歩くのが好きだ。

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