14)ロキの世界「ホラー小説のアイデア」

文字数 14,238文字

14ー1)

 さて、私のほうの長い一日はようやく終わろうとしていた。それは本当に長い一日であった。
 しかし不意に設けられた百合夫君との会議は充実した。その帰りに立ち寄った心斎橋では、それなりに気に入った新しい靴も見つけることが出来た。自宅に帰る電車の中で勤しんだ自作を読み返す作業もいくらか捗った。
 その一日の最後、私は新しく買った靴を履き、その足元の写真を撮る。「素晴らしい靴を買えた」という喜びの文を添え、それをフロートで流す。
 別に新しい靴を買ったことを誰かとその喜びを共有したいわけではない。買ったことを報告したいわけでもない。
 私が元気でいること、上機嫌なことを報せたいのだろうか。パーティーで沈黙していると不機嫌に思われてしまうから、内容のないことでも話すべきであるのと同じ。
 もしくはSNSで何かを書くと、私の小説の閲覧数が微増する。そんな営業のためか。
 それらの全てが理由であろう。別にその行動の意味を深く問うことなく、私はフロートをいじる。

 それはそうと、靴を買うとき、この出来事はフロートで流すに値する、と心のどこかで思ってしまう自分に驚く。
 映画を観るときだってそうだ。ライブだって同じ。SNSに書くため、そのような行為を行っている気がするときがある。
 しかし別にそれはネガティブなことではない。SNSが存在するおかげで、私たちは昔よりもはるかにアクティブに行動している気がする。
 SNS自体が、私たちの相手をしてくれる友人のような。その向こうに具体的な実体がなくても、それそのものが張り合いのある反響物というか。

 いや、実際、その向こうに具体的な実体を想定しているかもしれない。その目当ての人が読んでいなくても、別の誰かが読んでくれるかもしれない可能性。そういうものがその張り合いとなっているに違いない。
 それは「恋愛の終わり」とも関りがある、何らかの現代的事象であろうか。
 ネットとかSNSなどが、私たちのコミュニケーションのあり方を根本的に変革したのだ。

 ところで、買ったばかりの新しい靴を夜に履くのは縁起が悪いらしい。それは昔からの言い伝えで、何やら死者を連想させる不吉な行いとのこと。
 しかしそんなことを気にしてはいられない。
 何せ私は重要なメッセージを発さなければいけないのである。明日も、昨日と同じカフェで打ち合わせをするという情報をさりげなく伝えるという使命。
 それは他の人たちに知られてはいけない、イズンという女性に向けてだけの暗号のようなもの。
 そのメッセージのさりげなさを装うため、それなりに印象的で分量のある情報をその前後に発しておかなければいけない。イズン宛てのメッセージを、その中に上手く紛れ込ませるわけである。

 「良い文章です、ロキ先生、きっと明日、その女性はやってきますよ!」と百合夫君からのメッセージが来た。「格好良い靴ですね。僕も欲しいです」

 私がフロートに流した数秒後、手元に置いてあったスマホが震え出した。彼のリアクションはいつだって速い。それは怖いくらいに。

 「彼女が来るかどうか、それは置いといて、明日の君との打ち合わせ、楽しみにしているよ」

 私もダイレクトメッセージを返す。

 「はい、僕もです。おやすみなさい」

 「おやすみ」

 まだ寝る時間でもなかった。夜中には執筆をしない。それこそ絶対に犯してはいけない禁忌の一つ。寝る前に執筆などしようものならば、端的に眠れなくなってしまう。
 私にとって夜は、アウトプットよりもインプットの時間で、この時間に本を読んだり映画を観るのが習わしである。
 どのような大事件が起きたとしても、このルーティンを破るわけにはいかない。それどころかインプットは人生最大の楽しみでもあるので、その作業を省くなどあり得えない。
 それにこの習慣は眠りに関係するのかもしれない。読んだり観たりしなければ、眠りが訪れてくれない気がするのである。
 スムーズに眠るためにも何かを読もう。具体的には昨日の夜に読んでいた本の続きを。



14―2)

 その翌日も梨阿が事務所に来た。
 約束をしていたのだからやって来るのは当然であるのだけど、私のほうは彼女の存在をすっかり失念していたので、その来訪にいくらか狼狽えたことは事実だ。

 夕方の百合夫君との打ち合わせに支障はないだろう。しかし梨阿との約束のほうをすっかり忘れてしまうくらい、私はナーバスになっているようである。
 そういうわけであるから何か書けたりするような心境ではない。むしろ梨阿といれば適度に心がまぎれるかもしれない。私は彼女の来訪を歓迎すべきだ。

 「あの靴、格好良いね」

 梨阿が玄関の靴箱辺りを見回しながら言ってくる。あの靴なら私の部屋の靴箱のほうにあって、事務所にはないが。
 
 「そうかな、ちょっと派手な気もするけど」

 「だけど、センスはありの部類ね」

 梨阿には珍しく、私の機嫌を取ろうとしているようだ。連日、私の事務所に来ることに、気後れのようなものがあるのかもしれない。

 「君も昨日の夕食、美味しそうだったじゃないか」

 昨日、梨阿はこの事務所を訪れた帰り、親友のテフと夕食を食べたらしい。梨阿もその様子をフロートに流している。

 「うん、あのパスタ、本当に美味しかったな」

 「この近くかい?」

 「そうだよ、駅前の店。行ったことないの?」

 「近いうちに行ってみるよ」

 お互いが流したフロートの話題は、挨拶としてはそれなりに盛り上がった。
 しかしSNSの話題をリアルで常に会う友人や知り合いとすることに、私などは違和感を覚える。
 SNSに大きく依存している癖に、現実の生活と、それとを切り離しておきたいなんて考えがあるのかもしれない。
 物心がついて以来ずっと、ネットと生きてきた世代は違う考えなのかもしれないが、二十歳前後でネットに遭遇した私のような世代には、ネットの話題を現実に持ち込んでくるのは何か妙な気分がする。
 だったら別の話題を用意しろと言われそうであるが、それも持ち合わせていないのであるから、これからも仕方なくSNSやネットの話題を続けていくしかないだろうが。

 それと似たようなことで、自分が書いた小説についての話題を、学生時代の友人や親戚、つまり作家になる以前に知り合った人とすることに対しても、大きな違和感を抱いてしまう。
 仕事の話題だからであろうか。あるいは、書いたもの全てが、私にとってリアルな日常に属してはいないからかもしれない。
 書いた物、それらは誰かと共有するものではなくて、個々がそれぞれに受け取る秘事だという認識なのかもしれない。それなのに大っぴらに話題にされることに、恐怖に近い感情を覚えてしまうとか。
 小説家以外の私を知らない人は仕方がない。そんな人との間には、小説の話題しか存在しえないであろう。
 しかし小説家になる前の私を知っている人に、小説について語られると、何やら揶揄われているような気分になる。
 照れ臭いというのもあるのかもしれない。それだと一種のナルシズムに近い何かだ。
 梨阿は当然、小説家の私しか知らない。何せ編集者の娘さんである。小説家でなければ、何ら接点がなかった存在。
 彼女の間で、小説以外の話題を交わすことは逆に不純な気がする。



14―3)

 「ねえ、私だってそれはさっさと小説を書き出したいわけよ」

 梨阿はソファに座りるや否や切り出してくる。

 「迷うことなく書いてくれ。何でも読もう」

 キッチンでコーヒーをいれてくれた佐々木からトレイを受け取り、私はそれをテーブルに持っていく。
 もちろん、「迷うことなく書くこと」なんてことはとんでもなく難しく、私自身が出来ていない行為であり、軽々しく発していいセリフだとは思えないが、しかし結局、書くしかないわけである。
 恋愛相談をされて、迷うことなく告白すればいいと返しているのと同じくらい、適当なアドバイスに過ぎないことはわかっている。
 しかし恋愛を始めるには勇気を持って告白に踏み出さなければいけないのは当然であり、それと同じように小説だって勇気を持って執筆に向かって踏み出さなければいけないのだ。
 恋愛と比べると、執筆の失敗はそれほど深刻ではない。一度や二度の失敗は楽に取り返せる。

 「君は書く、それを僕に読ませる。まずはそれの繰り返しだ」

 「うん、書けばいいっていうのはわかるけど、でも迷うわけよ、実はさ、昨日は打ち明けなかったけど、けっこうな数のアイデアはあるの。これまで、秘かに温めてきたアイデアが」

 梨阿はかなり驚くべきことを、さらりと言ってきた。

 「ほう、それは楽しみだね」

 書くべきアイデアが幾つか携えているなんて、それは凄いことだ。もしかしたら彼女は書き続けることが出来るのではないだろうか。やる気があるのかないのか定かではなかったが、これで話しは変わってきた。
 いや、梨阿は用心深い性格だ。軽々しくない。考える前に、行動するタイプではない。
 私たちに向かって小説を書きたいと打ち明けたからには、それなりの理由があって当然であったろう。書きたいこと、完成しそうなアイデアが既にあったということ。
 つまり、本気だったわけだ。

 「そのアイデアを全部聞かせてくれよ。僕が一番面白いって思ったものを書き始めればいいだけ。簡単ではないか」

 「うん、わかった。でもいやだ、口で説明するのは。これを読んでよ」

 彼女はカバンからノートパソコンを取り出し、ワードか何かのソフトを立ち上げて、それを私に手渡してくる。

 「ここに箇条書きで書いてきたから」

 ノートパソコンごと手渡して読んでくれなんて珍しい形のプレゼンのやり方であるが、それもこれも私に見せる予定なんてなかったからであろう。

 「ちょっと待って、やっぱりやめようかな。これを見せるのは今日じゃないかも」

 そんなことを言いながら、一旦、私に渡しかけたノートパソコンを私から取り上げようとする。しかしその力は弱い。

 「面白いよ、凄いじゃないか」

 まだ一行も読んでいないが、そのモニターを覗く振りだけをして、私は言う。梨阿の力は更に弱まる。

 「嘘でしょ?」

 「本当だよ」と言いながら、私はノートパソコンごと受け取り、そのアイデアに目を通していく。



14―4)

 アイデアその一。弟を殺した女の子が主人公。彼女は弟を殺して埋めて、行方不明になったと両親に嘘をつく。遊んでいる途中、はぐれたという嘘。本当は首を絞めて、土の中に埋めたのだけど。
 家に帰り、はぐれたことを告げると両親は大騒ぎになる。すぐに両親たちは探しに出かける。
 彼女は家で一人、留守番することになる。すると電話が鳴る。弟からの電話だ。

 「恐いね、うん」

 私はそこまで読んで、彼女に言う。

 「でしょ?」

 梨阿の妙なハイテンションは続いている。

 「『お姉ちゃん、僕だよ』『今から帰るからね』と電話から弟の声が聞こえる。この辺りが本当に怖いね。でも、『お姉ちゃん、どうしてあんなことしたの?』ってセリフはいらないかもしれない」

 「私もそんな気がしてた」

 「弟が自分が殺されたって事実に言及するべきかどうかって問題だ。弟と姉の年の差は?」

 私は尋ねる。梨阿の企画書には、いくつか重要なことが抜け落ちている。

 「姉は中学生、弟は小学生低学年くらいかな。ねえ、小学生の男の子の細い首、触ったことある?」

 「ないよ」

 「小刻みに動くのよ。呼吸してるからね。で、熱くて、柔らかくて、中学生の女子でも壊せる細さ、脆さなの。体重をかけて、身体にのしかかって、『死ね、死ね』って言いながら首を絞めて。姉は弟を憎んでるのよ。両親の関心や愛を独り占めしているから」

 「君は一人っ子だろ?」

 「居たけど、殺したの」

 嘘よ。キャキャハと笑いながら、梨阿は言う。

 「中学生の女子が、人間を森の埋めるのは大変だよ。そういうリアリティをどうするか、そもそも、殺して埋めるに適した森なんて、大阪とか東京にはない」

 「田舎を舞台にするべきかな」

 「そうだね、どっちかの親の田舎に帰ったって設定にすれば、まあ、簡単に解決するね」

 「でも、どこかで読んだことがありそうな話じゃない、これって。大丈夫かな?」

 梨愛は少し不安そうな表情をするが、それでもニコニコと浮かれている。

 「うん、僕もホラーのネタに詳しいわけじゃないからね。あるのかもしれないけど。しかし弟の首を絞めるときの、その感触の描写は興味深いよ。君はそういうのを描き込みたいんだろ?」

 「うん、そう、なのかもしれない」

 「電話のところがクライマックスで、そこでまず怖がらせて、最後に家のチャイムが鳴る、と。そのときの恐怖の心情をどこまで描写するか、君のセンスの見せ所だよ」

 「恐怖の心情をどこまで描写するべきか、教えてくれないの、それが先生の役割りでしょ」

 「正解はないからね、ありかなしか、出来上がったものを読んで判断する。まず書くべきさ」

 「アイデア2のほうが自信があるんだけど」

 私はそれにも目を通す。佐々木も私たちのところにやってきて、そのノートパソコンを覗き込んで来た。
 私たちの会話を盗み聞きしている間に、興味を惹かれたのだろう。佐々木が関心を抱いたということは、梨阿の何らかのセンスを彼女も認めたということかもしれない。
 関心を持つに値しないと判断すれば、平然と無視し続ける、私の秘書の佐々木はそういう性格だ。



14―5)

 「今のところ、君には一かけらの才能もない。しかしこれから五年、十年、努力し続けることが出来たら、いつか花開くかもしれない」

 その相手に才能がありそうでもなさそうでも、誰に対してもそう言い放ちたい気分が私の中にある。
 それはあらゆる作家志望者に対して、出会って即、のっけから。
 いや、作家志望だけではない。何かを目指している者全てに通じる言葉だと思っている。つまり、最終的には継続が重要だという意見だから、才能があろうとなかろうと知ったことではないというわけだ。

 そもそも小説家にとっての才能とは何だろうかと考えるのである。例えば走ることに才能は必要かもしれない。歌うことにも。投げることも、蹴ることも、飛ぶことも、描くことも、喋ることも、弾くことにも。
 動詞だけで完結しているような能力に関してはそう。その単純な世界は才能だけが全てなのかもしれない。
 しかし小説は複雑である。書くだけではない。いや、確かに書くだけではあるが、小説それ自体は数多くの要素の集合で成り立っているはずで、つまり、登場人物、テーマ、物語、風景描写、時代との接点、読みやすさなどなど。
 それら全てをこなすのに、ただ単に「書く」という才能だけで乗り切ることが出来るのだろうか。
 風景描写の才能を持っている者はいるのかもしれない。時代の空気を掬い上げ、それを表現することに長けた才能というものもあるだろう。物語を面白く語ることの出来る才能を持っている者もいるようだ。
 そのいずれかの才能が一つあれば、圧倒的な輝きが目に飛び込んできて、何の文句もなくこいつは天才だと断じてしまいたくなるだろうとは思のだけど。
 しかしそういう才能が瞬時に見えてこなくても、才能がないと言い切るが出来ないのが小説の世界だと思う。
 つまりそれこそ、様々な複数の要素の集合、その総合力で小説が成り立っていることの証左だろう。
 突出した一つの才能などが重要ではない。動詞的な天才では、小説という複雑な様式に対応しきれない。
 となれば重要になってくるのが技術であり、技術が重要であるのなら経験や修練が物を言い、それはすなわち継続だということになり、持って生まれた才能などは二の次。

 また余計な寄り道をしてしまった。しかし余計な寄り道をして申し訳ない気分になっていたら何を語れるというのか。
 さて、梨阿が持ってきたアイデアその2である。

 とある新月の日、その日一日を、学校で一言も話さないで過ごすことが出来れば、どんな願い事でも叶う。
 主人公はそのような「おまじない」のようなものを信じ込んでいる少女。
 彼女の叶えたいことは恋愛成就。好きな先輩と付き合うこと。
 意を決して、彼女はそのおまじないを開始する。しかしその日に限って、その好きな先輩と遭遇する機会が多く、それどころか彼が話しかけて来ることもある。
 せっかく仲良くなれるチャンスだったのに、おまじないを優先して、彼女は彼を無視してしまうのだ。
 友達が話しかけてきても無視。先生が話しかけてきても無視。主人公の彼女はひたすらそのおまじないの願掛けに邁進する。
 本当にこれで良いのかと迷いが生じてくる。孤独感を感じ、後悔を感じ、心は疲れ果て。
 そして、昼休みを過ぎた頃から、彼女を取り巻く世界が変わる。彼女の周囲に変な影が現れ初め、不気味な声が聞こえて。心霊的な体験をするのだ。
 しかし、それは願い事が叶う予兆のような空気感。現実の世界と、霊的な世界がつながったという感触。

 「クラスメートを無視して、好きな先輩を無視して、おまじないを優先させる。彼女はあり得ないことをしている。非論理的なことだ。それを自分でも認識している。その不安が心霊現象として現れるわけか」

 「まあ、そんな感じなのかもしれない」

 「この企画書を読んだ限りでは、ホラーというより、ちょっと幻想的な青春学園ラブストーリーって感じだね」

 「それは嫌だ。読者を恐がらせたいの。ゾッとさせたいの。私が描きたいのはホラーで、不思議な話しとかは絶対に嫌」

 「だとすれば、まだまだ具体的なアイデアが不足していると思う。アイデア1でいえば、弟からの電話みたいなの」

 「ああ、なるほどね」

 梨阿は私の言葉に熱心に頷いて、メモまでし始める。
 まだまだ粗削りである。とはいえ、意欲的な作品ではある気はする。個人的には、アイデア1よりも好きだ。
 こんな安っぽいおまじないを本気で信じて、それを実行に移して、そして実際に不思議な出来事を起き始める世界。その呆気ない感じがシュールで、非論理的で、私には非常に興味深い。



14―6)

 「それにこの企画にはラストシーンも書かれてない」

 私は言う。アイデア2の話しだ。

 「わかっているよ。どうすればいいかまだ悩んでて。結局、おまじないなんか信じきれなくなって、『やっぱりごめん』って感じで、みんなに話しかけていって。でも誰も許してくれなくて、逆に彼女が無視されるとか、そういう恐怖も思いついたんだけど、それは何か違うような気がして」

 「それは人間の恐さだね。ドロドロした心理的なもの。上手く立ち回れば切り抜けられたかもしれないレベルの恐怖だ」

 「うん、そういうのは別に書きたくなくて、霊よりも人間が怖いなんて面白くない。ありきたりな人間ドラマでしょ、そういうの」

 梨愛は人間ドラマが嫌いなようである。それは明確なこだわりのようであり、それこそがホラー小説を書きたいという理由のようであり。
 しかし彼女が人間ドラマなるものに関して、どれだけ深く理解しているのかは定かではない。その奥深さを知り始めれば、それを軽視することは出来なくなるに違いない。
 そうであるとしても、目下のところ彼女の人間ドラマ嫌いは尊重されるべき個性であろう。

 「でも、おまじないをやり切って、願い事が叶うってラストはあり得ないと思う。だってそんなの退屈過ぎるでしょ。途中で心が折れて、願い事は叶わず、でも友達も失わず、先輩に謝りに行って、正直に話して、逆に仲良くなって」

 「良いラストシーンだ、青春って感じがする」

 「でも、それも目指している感じとはまるで違って。重要なのはやっぱり恐怖で、どうやって恐がらせるかをもっと考えないといけなくて」

 梨阿はその「どうやって恐がらせるか」のアイデアを考え始める。学校、廊下、孤独、不安、雨、思いついたキーワードをメモ用紙に書いていく。
 私はしばらくその作業を見守っていたが、すぐに良いアイデアは出そうにない、まだまだ時間が掛かりそうだ。冷たく聞こえるかもしれないが、そんなことは独りになってからやってくれと告げるように、私は切り出す。

 「結論からいけば、アイデア1から手をつけるべきだろうね。アイデア1なら、きっと挫折することなく書き上げることが出来る。君の中で、かなり具体的なイメージが出来ているだろ? アイデア2は意欲作だけど、まだまだ足りないピースが多い」

 わかった、じゃあ、アイデア2から書きことにすると、顔を上げることなく言ってきて、私を唖然とさせてくる。

 「嘘よ、冗談。アイデア1を書いてくるね」

 慌ててとりなすように言ってくるが、しかし梨阿は釈然としない表情をしていた。
 彼女は別に天邪鬼な性格わけでもなく、私に反発してみたかったわけでもなく、本当にアイデア2から書きたいようである。
 いや、彼女の気持ちは理解出来る。曖昧で、謎と闇に包まれているアイデア2を早く形にしたいのだ。そのモヤモヤとしたものをあらわにして、すっきりとさせたいわけだ。
 アイデア1はラストシーンまでイメージ出来ていて、もう謎がない。彼女にとって、わかり切った作品。

 それでもそのアイデア1を作品として完成させるのは、とても大変なことである。書いているうちに様々な矛盾が生じてきて、予定変更を余儀なくされ、理想とした物語が書けるとは限らない。完成にこぎ着けることだって難しい。
 だからこそ無事に書き上げたときは、その作品に心から満足してはいなくても、途方もない充実感を覚えるはずだ。
 その途方もない充実感が、次の作品へのエネルギーとなるはず。まず、何かを完成させて自信をつけるべきなのだ。絶対にアイデア1から取り掛かるべきだ。

 「アイデア2のディテールを一方で考えながら、アイデア1のほうを書き上げていく。それが理想だろうね」

 「わかった、そうする。これが私の最初の作品になるわけね。何て言うんだっけ、そういうの?」

 「処女作かい」

 でも、そうならない。習作にしかならないさ、きっと。
 数年後、その作品の出来栄えを否定して、自分にとっての最初の作品はこれだと別の作品を挙げ、その履歴を修正するはずである。
 もちろん、そんな意見など口にしない。初めての作品を書こうとしている作家に対して言うセリフではない。

 梨阿はすっきりしたような表情をしていると思う。目的が定まり、何をするべきかはっきりした。しかも勇気を持って発表したアイデアは肯定された。
 まあ、これで不安そうにしていたら、教え甲斐の少しもない厄介な弟子だということになる。

 「学校に居るときは授業中に書いて、放課後はここで書いて、一週間もあれば、何とか形に出来ると思う」

 ここで書くだって? まあい、いいだろう。ここは佐々木の仕事部屋だ。私の問題ではない。
 佐々木は無表情で聞いている。ありなのか、なしなのか、判断出来ない表情だ。

 「好きなだけ居てくれればいいよ。僕はこれから会議さ。梅田に行かなければいけない」

 「ふーん。・・・ああ、だからね、そこに女性が待ってるんだ」

 梨阿が言う。

 「何だって?」

 「先生のオーラがピンク色だから」



14―7)

 梨阿は霊感があるらしい。
 霊感、謎の能力である。よくわからない。しかしこの少女の勘が妙に良いことは事実であり、それどころか彼女は何らかの幻を見ている気配もある。実際、これから私が女性と逢うかもしれないことを察知しているようなのである。
 偶然かもしれない。観察力に長けているだけかもしれない。しかし彼女自身は、それを神秘的な超能力と規定しているようで、「君は勘が良いね」と言っても否定してくるのである。「本当に見えているから」と。

 「でも、何か不純な感じがする。そのピンク色が濁ってるもん」

 梨阿は私から微妙に視線を外して、誰もいないはずの中空に視線を彷徨わせている。

 「何だよ、そのオーラって、どういうふうに見えるのさ?」

 「さあ、わかんないけど。何となく見えるの。見えてしまうんだから仕方がないじゃない。じゃあ、外れてるわけ?」

 梨阿のその質問に何と答えるべきか迷った。仕事相手である百合夫君と会うだけだと答えるべきなのか、それとも君の勘は当たっている。女性と会うよと語るべきか。

 「百合夫君と会議だよ、君も会っただろ」

 数秒迷った末、私はそう答えた。しかしこれは嘘なのだろうか。誠実さを欠いているのだろうか。だってあの女性がその現場に現れるかどうか定かではないのだから。
 そもそも、梨阿に嘘をついても私の良心は少しも傷まない。なぜ彼女に自分の異性関係を明かさなければいけないのか。
 私が彼女の小説の師匠であるのならば、尚更だ。そのようなことを語り合う関係ではない。私は平然と嘘をつくことにする。

 「そうか、わかった! そこで待っているのあの女でしょ?」

 しかし梨阿は意外と執拗だった。彼女は何か思い至ったようだ。更に私に向かって切り込んでくる。

 「一昨日、私の家に来たとき、後ろにいた生霊。夕食会で会ったとか言ってた人」

 イズンのことだ。不気味にも的中である。

 「ああ、あの日ね。私も様子がおかしいような気がしてたんだけど」

 佐々木までその話題に加わってきた。彼女は私と一緒に、梨愛が持ってきたホラー映画のアイデアに目を通したりしていたが、特に感想やアドバイスをするでもなく無言を貫いていた。
 その佐々木がこのタイミングでおごそかに口を開いてきた。

 「夕食会の出席者ってことは読者というか、先生のファンですよね。ファンの人と仲良くするつもりなんですか、特定の誰かを特別扱いするというか」

 「そういうことなんだ、うわ、何か嫌な感じ」

 「いやいや、ちょっと待てよ」

 梨阿と佐々木は、私がこれからその女性と逢うことを前提に話しを進め出している。それは背後霊とかオーラとかに基づいた霊的な指摘、そんなものを基盤にした推定なのに。
 私はそれを認めたわけではない。しかし私がその女性と逢うことは二人の間では規定事実となったようであった。
 そしてそれは決して間違ってもいないから、強気に否定することは出来ないのだが。

 「マジで仲良くならないほうが良いよ、その女性と」

 「何を根拠に、そんなことを言うのか理解出来ないね」

 「破滅が待っているってこと」

 「誰の?」

 「先生の」

 嫉妬かもしれない。梨阿は私とその女性との仲を邪魔したいわけだ。だから破滅という強い言葉で牽制してくる。いや、そんなものは自惚れかもしれないが。

 「佐々木さん、その女性、知ってるんですか?」

 「会ったことはないけれど。プロフィールは見たはずよ」

 「きれいだった?」

 そのプロフィールを見せてくれと言わないのが、梨阿の常識的なところではある。

 「うん、かなりね」

 「きれいな女性の読者が近づいてきた。男だったら放っておかない。君たちはそんな思い込みをしているわけか」

 「何か間違っているとでも?」

 「ちょっとばかり無礼な思い込みだね」



14―8)

 「その女性はヤバいよ。先生に幸運をもたらすなんてことは絶対にない。その人と仲良くなっても、その先に待ち構えているのは破滅、悲しみ、落胆、そういうネガティブな感情だけ。悪霊ってわけじゃないけれど、何て言うか」

 梨阿はいっぱしの占い師のような口調で言ってくる。

 「その人が悪いんじゃなくて、先生とその人の相性が悪いっていうかね」

 「それは君の勘。いや、霊感ってことにしておいてもいい。僕だって別にそういうのは嫌いじゃない、自分の小説の主人公は占星術師だからね。しかしそれを人生の指針にするつもりはないわけで」

 そもそも別にその女性とこれから会う予定はないから、どっちにしても君のアドバイスは無駄だ。私をカファで待っているのは百合夫君だよ。私は改めて梨阿の霊感を否定する。

 「そういえば、クラスの知り合いのこと話したっけ? その彼氏、ヤバいよってアドバイスしたんだけど。絶対に付き合わないほうがいいって。そういうオーラが見えたの。で、結果、その子は自殺未遂よ」

 「何だって? 君の友達がいて?」

 「友達というか、クラスメートって程度の間柄なんだけど。その子に彼氏が出来て、でもその頃から彼女のオーラが変な感じになってきて、じゃあ、二股三股、浮気されまくりでリストカットっていう顛末」

 「なるほど、そして失恋と」

 「そういうこと」

 「いや、しかしそれの何が問題なんだい。これも恋愛の有り触れたシーンだよ」

 「どういうことよ?」

 「傷つくのが怖くて、恋愛なんて出来ないってことさ。それでもその友達は彼氏が出来きたとき幸せだったはずだ。ウキウキして楽しい時間もあった」

 「まあ、そうだけど」

 そもそも異性と出会って、仲良くなって、しかしその果てにあるのは決まって破滅、悲しみ、落胆、そういうネガティブな感情なのではないだろか。
 相性など関係ないのだ。ヤバいオーラなんてありえない。我々が絶対に死んでしまうのと同じで、出会いが最終的に行きつく先は全てが別れ。
 梨阿のアドバイスはつまり、あなたはいつか死にます、と言っているのと同じなのだ。もちろん恋愛には結婚というゴールや、死ぬまで添い遂げるというハッピーエンドがあることは事実であるが。
 しかしそっちこそが奇跡で、滅多に起こりえないこと。ましてや梨阿の年頃となれば確実。
 いずれにしろ、梨阿のような若輩者からのアドバイスなど、失笑ものだ。本当にオーラが見えようが未来が見えようが、考慮に値しない。

 「関係を失うだけじゃない。先生は大切なものを失うかもしれない、私が言っているのは、そういうレベルの話しです」

 「なるほど、例えば作家としての名誉とかを失うって?」

 「きっと、そういう感じね」

 「その喪失が次の作品の糧となるかもしれない」

 「ならない、一方的な喪失だと思う」

 「ねえ、でもちょっと冷静に考えたら、何も起きない。そんな気がしない?」

 またしばらく、居るか居ないかわからないように沈黙していた佐々木が、唐突にそんなことを言ってくる。

 「何も起きないってどういうことですか?」

 「先生が誰かに対して、積極的にアプローチするとか、見たことある? その読者さんとこれから逢うとしても、結局は何も起きず、世間話しをして、で、その世間話しも大して盛り上がることなく、終わり。そんな感じじゃない」

 「はあ、確かにそうですね」

 「無難に生きているというか、臆病というか」

 「小説を書いて、自分の夢の世界に閉じこもるだけのタイプって感じですか」

 「そう、それ」

 「でも私たちの知らないところでは、けっこう悪いことをしているような気配とかは?」

 「ないない、そんな度胸があるのなら、見せて欲しいくらいで」

 二人は随分と勝手なことを言っている。おい、俺だって、やるときはやるんだ! などと言い返して、二人の挑発に乗るほど馬鹿ではない。
 その通り、私は行動しない臆病者さ、と笑っておく。それでこの話題が終わるのならば、良い流れである。

 「でも、その女性に、それなりの関心を抱いていることは確かみたいですよ」

 「その通りね、それだけでも充分に軽蔑に値するけどね」

 「いや、君たちが語っている女性なんて、そもそも存在しない」

 私は言う。しかし二人は私のその意見を歯牙にもかけない。存在していることは確信しているようである。



14―9)

 霊感、例えば霊が見えるとか。そのような能力があることは、梨阿にとってプラスなのであろうか? 
 人生にプラスかどうかではない。つまり、ホラー作家向きかどうかという問題において。
 彼女が本当に何かを見ているとすれば、将来的には大したホラー小説を書くことが出来ず、いずれ転向を強いられるかもしれない。何やらそんな気がする。
 霊を見ることが出来るとか、オカルト的体験が豊富とか、そんなことはホラー作家に必要な資質では決してないだろう。
 ホラー小説家に必要な資質とはきっと、恐怖に敏感かどうかではないだろうか。恐怖に敏感であるということが、読者を恐怖させるセンスに繋がると思うのだ。
 むしろ日常的に霊を感じて生きていれば、徐々に恐怖に鈍感になりはしないか。
 梨阿はさっさと霊感少女というキャラクターを投げ捨てるべきだ。それとも、恐怖への敏感さこそが、彼女に霊という幻想を見せているのだろうか? 

 ところで昼下がりのガラガラの阪急電車は何やら不気味だった。
 霊とか霊感やらについて考えていたせいか、乗客の中に死者が混じっているような気がしてくる。
 梨阿が普段からこのような不気味な世界に生きているのだとしたら、いくらでもホラー小説のアイデアが浮かんできそうにも思えてくる。彼女のその能力の意義を否定するのは早計かもしれない。

 そういうわけで、梨阿たちと別れ、私は阪急電車に乗っている。亡霊も乗っているかもしれない昼下がりの列車に。
 この電車はもしかしたらイズンに逢えるかもしれない梅田のカフェの近くまでレールが伸びているわけであり、私はその事実に胸の高鳴りを隠せはしないのだけど、その一方、梨阿の発した警告が、私を憂鬱にさせててもいた。

 「その女性はヤバいよ。仲良くなっても、何も良いことをもたらしはしない」というあの警告が、棘のようにチクチクと心を刺している。昨夜までの単純な浮かれ気分が、いくらか薄れてしまっていた。
 彼女のオカルト的な発言を真に受ける気はないが、しかし、霊感に基づいただけの当て推量なのに、いくらか事実をかすめていたことは確かであった。それは不気味な反響力で私の中にこだましている。

 梨阿が言う通り、イズンは悪霊かもしれない。私に恐るべき未来をもたらしたりするのかもしれない。
 イズンという女性は、全てを失っても足る存在なのか? そんなはずがないではないか。
 それならば彼女に近づくのは避けておこう。例えば私が百人いるとすると、三十人くらいはそのような意見を抱いている。
 いや、梨阿の戯言を信じるなど、それは何よりも愚かなことである。占いや霊感を信じて、不確かな未来に飛び込むことを躊躇して、行動を自制するなんて。
 そう考える者が残りの七十人というところであろうか。しかし私は一人の反対者でもいると、積極的な行動者にならないタイプだ。

 さて、どうすべきだろうか。いや、こんな問題で頭を悩ます必要なんてない。全ては成り行き次第である。
 そもそもの話し、今日、彼女が私たちの前に現れるとも限らないのだ。もう二度と彼女と顔を合わせない可能性だってある。面倒な問題は彼女と逢ってから考えればいいこと。
 そんなことよりも次の作品である。一刻も早く、自作に取り掛からなければいけない。私が本当に頭を悩ますべき問題はそれ。
 梨阿の相手をして、原稿を読み返す時間がまるでなかった。電車に乗っている時間は長くはないのだけど、五分でも十分でも時間があれば、私はそれを読み返すことにする。
 まだ描くべきモチーフを見つけられていない私に出来ることは、自分の過去作を読み返すことぐらい。
 どこまで読み進めていただろうか。私はスマホを触りながら、その記憶を呼び起こす。


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