25)占星術探偵「ワニとか猫とかウサギとか」
文字数 21,783文字
25ー1)
更に時は二十一世紀を迎えようとしていた頃。
おっと、一旦は締めの言葉を記したはずなのに、占星術探偵飴野がアルファ教団を取材している東京在住のジャーナリストと会うため、事務所を出ようとするシーンを読み返そうと思っていたのだけど、まだ語り残したことがあった。
もう少しだけ、「我が読書史(仮題)」などという決して書かれはしない企画の話題が続いてしまう。
その付け足しが、その目次の中に上手くハマるかどうかわからないが、書いておくべき必要性のある話題を思い出したのだから仕方がない。
それまでの私は文学、音楽、映画という教養の中で十分に満ち足りていたと思う。それらはだいたいアメリカ、ヨーロッパからやってきたもので出来上がっていた。
十代半ばの頃は日本の文学ばかりを読んでいたが、年を重ねるにつれて徐々に海外の作品に興味を示したということである。
取っつき安い日本の文学を土台にして、それで修練を経た末、海外の文学を読み進めるという志向だ。基本的にその傾向に沿って成長していた。
しかし時は二十一世紀を迎えようとしていた頃のことである。海外への志向が一段落して、日本にへと回帰する現象が起きたと思うのである。
「80年代的」「日本」が育んできた「サブカルチャー」と呼べばいいのだろうか、その種のカルチャーの存在感が増してきた。
それは90年代には一時的に脇に追いやられていたものであったのだけど、2000年代を過ぎた辺りに事態は変わり始める。
私の身にだけ起きたことではないと思う。日本の社会全体が、「80年代的」「日本」が育んできた「サブカルチャー」を再評価し始めたのだと思う。むしろ、私はブームに乗って、その流れの中に身を投じただけ。
「データベース論」なるものがクローズアップされるのがこの時期ということになるだろうか。それも物語とは何かについての示唆。
「データベース論」とは何なのか、この私に説明出来るようなものではないのだけど、簡単に触れると多分このようなもの。一つに確定した物語が語られているが、実は様々な可能性があったはずで。
つまり「これ」とは違う複数の可能性の存在。「これ」はそのデータベースの中から選び出された一つに過ぎなくて。しかも「これ」はちょっとした偶然によって決まったものでしかない。
その事実に自覚的であるかどうかで、「日本」的な「サブカルチャー」の豊饒な財産から、何か引き出すチャンスが高まったりするのかもしれない。そういう意味において、データベース的な考え方と、「日本」的な「サブカルチャー」の相性は良くて。
いや、それは「データベース」という言葉を、また別の意味で使用してしまっているのかもしれない。
「データベース論」とは何か、いくつかの解釈があるはずで、この短い文章の中でも私は二つの意味において使用しているに違いない。複数性に対するセンスと、パターンとかクリシェに対する意識という意味で。
物語とは何かについての示唆を与えてくれるのは前者だと思う。私の好みはそっちなのだけど、後者の考え方は2000年代のサブカルチャーと妙に相性が良くて、そういう意味においてはそれも重要で。
25―2)
更にもう一つ言及しておくべき話題を思い出した。
私が青春時代を送ったのは90年代だということは以前にも触れたことだと思うのだけど。そういうわけであるから、「我が読書史(仮題)」で読まれた作品の多くは90年的流行に負っているのは間違いない。
つまり、私がその青春時代の終りに見い出したあれ、つまり文学はどんなことを描いているのかという疑問に対する回答だって、けっこうな具合に90年代的回答ということになってしまっているのではないだろうか。
時代を超えた普遍的回答だと思い込んでいたのだけど、そんなこと言えはしない。所詮、90年代ならではしかないもの。
ジャン・ジュネについて言及した章で書いた通り、90年代は「ワニ」の文学が流行した時期だったと思ったりする。
果たしてその命名や区分に、どれほどの同意が得られるのかわからないのだけど、「ワニ」という名づけはけっこう的を射ている気がする。そして作家としての私は、今に至ってもまだ、「ワニ」的文学の中に居るに違いない。
ワニはメンタルヘルスと無縁だ。ふてぶてしくて頑丈で、プライドという厄介なものなど端から気にかけない種族。
ワニとして生きること、それが心を打ち負かそうとするメランコリーの波に抵抗する戦略なのである。
どこまでも果てしなく、低く低くワニのように身を伏せて、メランコリーの波から身をかわす。
しかし21世紀が始まった。新しい世紀になり、どこかの時点で「ワニ」の文学の流行は終わったに違いない。
21世紀の最初のトレンドはきっと「猫」だ。猫の文学の時代が始まったに違いない。
いや、これもまるで確信をもって宣言しているわけでもないのだけど、仮に提出した回答でしかないが、とりあえず「猫」。
ふてぶてしく耐えるのではなくて、猫のように素早く避ける時代。
孤独こそが居心地の良い状態だという態度で、高い塀の上で澄まし顔をしながら、猫のように毅然として、外からのストレスに抗するのである。
「恋愛の終わった世界」などを描いている私は、「猫」の文学の群れに身を投じているのかもしれない。
しかし21世紀になって二十数年経ち、今や猫を文学のトーテムとした時代の流行も終わって、近頃はもっぱら「兎」のブームが到来しているのかもしれないなんて気もしていて。
もう悲しみや苦しみ、喪失や重圧に抵抗しない。素知らぬ素振りもしない。メンタルヘルスに身を委ねる。
弱さを平然として曝け出す、獲物としての「兎」の時代。それが今なのだという仮説。
そんな仮説を提出して、この話題を終えたいところなのだけど、少し付け加えておきたことがある。
何となく思いついて、妙に気に入ってしまったこのアイデア。
それはあくまでトレンドの話しであると思う。時代によってワニ的トレンド、猫的なトレンドが流行したようだぞということを書きたかっただけで。
ワニ文学が正しいとか、猫文学を目指したいなんてことはありえない。ワニになろうが猫になろうが、ましてや兎になろうが、魅惑的な作品が書けるはずもない。
正解なんてないのだ。それが正解。むしろその流行を意識しながら、トレンドと適当に距離を取る必要があるのだろう。
とはいえ、動物的であることは文学的戦略としてかねてより存在して、それこそ「我が読書史(仮題)」でも少しだけ触れたかもしれないドゥルーズなどという人がそういうことを書きまくっているし、それ以前から文学者たちは蝶になったり、虫になったり、鼠になったりしていて、むしろ人間でいるなんて退屈だという主張が様々なところでなされている。
もしかしたら、今のトレンドはもう動物ではなくて、ロボットかもしれない。そのような可能性だってある。ロボットというか、人工知能とかいうあれだ。
しかし、もういい。動物たちの話題も、ロボットの話題も、ここでおさらばだ。「我が読書史(仮題)」なんて企画、どうせ書きはしないし、動物のメタファーの話題だって、これ以上突き詰めるほどのものでもないだろう。
とにかく私は次の作品を書きたいのだ。占星術探偵シリーズの四作目。それに取り掛かりたい。
しかしまだその取っ掛かりも見つけられていないので、自分の過去のそのシリーズを読み返している。それだって重要な仕事である。
というわけで、速やかに読み返し作業に戻りたい。
25―3)
と言いつつも、まだその前に「我が読書史(仮題)」からちょうど良い具合につながる話題があるので、それについて言及したいのだけど。
私だってさっさと読み返し作業に戻りたいのである。自分で作った探偵の活躍の行方を追いたい。読み返し作業に時間を費やして初めて、今日も仕事をしたなという手応えのようなものが感じられるのだし。
しかし今から言及したい話題は、占星術探偵シリーズのテーマにも大いに関連もすることで、このタイミングで触れるのがぴったりな気がする。
つまり、ここで再び、いや、もしかしたら三度目か四度目かもしれないが、三島由紀夫という文学者について触れたい。
「我が読書史(仮題)」では彼の文章がどうの文体がどうのという話題に終始したが、やはりそれだけの影響では終わることはなく、「占星術シリーズ」はけっこうな度合いで三島文学のテーマに依拠しているようであって。
一作目がアナルオーガズム。二作目は天皇、愛国、右翼。三作目は違う。あえてここで離れることにしたからだ。
三島は異常なほどにエクスタシーという体験に拘って、それを追求した挙句、切腹という答えに辿り着いた、というのは彼の自死の謎に答える一つの仮説だろうか。
そうだとすれば、オーガズムとは何なのかと知ることなく、三島文学について考えることは不可能だろう。
とはいえ、三島文学について本気で研究したり、追求したりするつもりなど別にない。そんなの手に余る作業だ。
私の仕事は小説を書くことで、その「小説を書く」という行為の中に三島について考えるということも含まれているということにしてもいいのだけど、そのような大変なことに真っ向から向き合う気はなくて。
例えば次の世代の哲学者が前の時代の哲学について批評することで、自分自身の哲学を語ったりするような、そういった厳密さに到達する覚悟なんてないということだ。
しかし「恋愛の終わった世界」を書こうと企画を練っていたとき、三島的なこの主題が不意に脳裏に浮上してきて、特に考えも無しに私はそれに飛びついしまったのだ。
アナルオーガズムというその手ごわいテーマ、三島文学について親しんでいなければ書きはしなかったことであろう。
その快楽。日常の範囲に収まりはしない破格の悦楽。麻薬のように突き抜けたエクスタシーをもたらす悪魔的何か。
三島にとって生きる意味とは、最高の快楽を味合うことだったのではないかと、その死から逆算すれば、そういう結論に辿り着いてしまいそうになる。
しかし、それはニヒリズムの問題であったのだと思う。人生などに価値はない。果たすべき目的も、もうない。人生なんてその程度のものだから、個人的な肉体的快楽を追求しよう。
ある時期、三島由紀夫はそのようなことを考え始めたのだ。
それは50年代が終わって60年代が始まった頃。政治への興味、天皇への愛も、全てはその快楽を高めるための道具の一つだったという説。
とにかく何が言いたいのかというと、オーガズムのことである。「占星術探偵対アルファオーガズム教団」において、そのようなテーマが扱われるようになったのは三島から由来している。この作家がどれだけ重要だったかという舞台裏の開陳。
その次の章で、探偵飴野はその教団に本格的に肉薄していくことになるはずである。その前に、その事実に触れておきたかったという次第。
25ー4)
さて、ようやく私は「占星術探偵シリーズ」のページを開く。探偵飴野はアルファ教団を取材しているジャーナリストに会いに、東京に向かう、そのようなシーンからこの章は始まる。
旅だ、旅に出るわけである。旅となると浮かれてしまうものだ。たとえそれが小説の中の登場人物の旅でも。一泊二日の旅に過ぎなくても。
旅のシーンを書くに当たり、飴野にどのような旅行鞄を持たせようかと、私はネットで検索したりしたものだ。まるで自分の買い物のように真剣に選んだ。
今の時代、商品へのアクセスは容易い。インターネットはほとんどカタログのようなものだろう。きっとこの世に存在する、あらゆる旅行鞄がヒットするに違いない。
探偵飴野に待たせるのだから、スーツ姿に似合うカバンが良い。背中に背負うリュックサックタイプは却下だ。スーツケースが必要なくらいの長旅でもない。小さなサイズのキャリーバッグはいくらでもあるだろうけど、我が探偵にああいうのを引きずらせたくない。
トランクケースなんかはどうだろうか。アンティークの革製トランクケースだ。
金具の鍵がついている一方、そのトランクに巻き付くようにベルトが二本あり、形は長方形で、角は革が二重に補強されていて。
二十世紀初頭、いや、もっと前から広く西洋で普及したタイプのトランクケース。
この作品を執筆しているときの私はそんな判断をしたようである。そういうわけで、飴野の左手にトランクケースが出現だ。
私自身がもし旅行に出るのなら、そんなものを利用しないだろう。見栄えは良くても、片手は塞がり、重さで手は疲れる。だから旅に行くのならリュックバッグを背負うのだけど。
しかしそういうものを持ちたい願望のようなものはある。
自分の生活で果たせないことを、フィクションの中で登場人物に代行させる。そんなことをして、いったい何が満たされるのか知りえないが、それも一つの小説を書くときのモチベーションのようなもの。
さて、飴野はそのトランクを左手に持ち、旅へ出発するため、事務所を出ようと扉を開けた。そのときである。
廊下の前、彼の事務所の扉の真ん前にサングラスの女性が立っていた。
飴野は「うわあ」と声を上げるキャラクターではない。しかし豪胆で冷静なな探偵というわけでもなく、彼はそのちょっとした異常事態を前に人並みに慌てた。
慌てながらも咄嗟に身構え、そのサングラスの怪しげな人物からの攻撃に備えた。
探偵という職業である。彼はまだ命を狙われるほどの攻撃に曝さたことは一度もないが、脅迫行為とは無縁ではない。これまで何度か、彼の鼻先を暴力行為がかすめたことはある。
とはいえ、この日本で拳銃で撃たれたりすることは滅多にないだろう。たとえ大阪ミナミの雑居ビルの薄暗い廊下であっても。
小説ではあるが、そんな展開にリアリティーはないから書いたりしない。起こりえるとすれば刺されたり、殴られたりする程度。その程度とはいえ、そのような目にだって絶対に遭いたくはないものであるが。
彼はどんな攻撃にでも対処出来るように防御意識を高めた。
その重いトランクを通路に置こうとする。いや、いざとなればそのトランクを盾に使えるかもしれないと考えを改め、むしろトランクの取っ手を握り直した。
しかしそのサングラスの脅迫者は飴野に何ら攻撃を仕掛けてこない。それどころか、「こんにちは」と、その安っぽいサングラスを外し、声を掛けてきた。
「この前はどうも。山吹です」
「ああ」
飴野は肩の力を抜いた。
目の前の人物は危険な人物ではない。彼に敵意など持っていないはずだ。そもそも、この人物に攻撃能力なんて皆無。
身長は高いほうだろう。いくらか猫背気味である。というか、姿勢がシャキッとしていない。
動物で例えれば、穏やかな草食動物側の生き物だろう。猫のようなすばしっこい感じはない。肉食獣の荒々しさもない。キリンとか象のような崇高さもない。羊か鹿のような人畜無害の類。
しかし山吹は面倒な来客だった。何の用があってここにやってきたのか不明である。煩わしいといっても、言い過ぎではない。
「やあ、何か用なのかな?」
飴野はそのような素っ気無い態度を見せてしまう。
25―5)
山吹美香の黒目がちな目は、飴野の表情を察してバタバタと泳ぎ出した。自分が歓迎されていないことを徐々に悟り始めたようだ。
「捜査のことが気になったんです。でも、それだけで、別に特別な用なんて何もないですよ」
山吹美香は必死に言い訳めいたことを言う。
「実は、ちょっと偶然、近くまで用事があって。ああ、ここが、あの探偵さんの事務所かって感じでビルに入ってみたんです。素敵なビルですね」
「そうかな」と飴野は切れかけの点滅する蛍光灯を見上げる。天井には蜘蛛の巣も張られている。
とはいえ、実際のところ、それほど悪いビルでもないことは事実だ。
「せっかくここまで来たから、ちょっと挨拶くらいはしようと思ったんです。でも事務所に突然、押しかけられても嫌がられるかなって。そういうときって、やっぱり電話とかメールしてからのほうがいいですよね?」
「まあ、そうかもしれない」
「でも切羽詰まった用事なんて何もなくて、だから逆に電話とかメールは変かなって。でもせっかくここまで来たんだし」
何とも幸先の悪い出来事だ。旅に出ようとした矢先に、それを邪魔する相手が立ちはだかったのだ。
別に新幹線の切符を予約しているわけではないから、決まった時刻に到着しなければいけないわけではないが、のんびりとしている余裕もない。
それなのに彼女は明らかに事務所の中に入りたそうな素振りで、飴野の後ろの扉を見つめてくる。
「いえ、実はもう帰ろうと思ったんです。まあ、飴野さんの探偵事務所が実際に存在しているのがわかっただけで充分な収穫で。でも、やっぱりせっかくここまで来たのに帰るのもどうかと思って。それで、扉に向かって『開け開け』って念じていたんです」
「え?」
「念力です。そしたら念力が通じたようで、飴野さんが凄いばっちりのタイミングで出てきました」
「本当に申し訳ない。今日は事務所は休業だ。今から東京出張でね。今まさに、出発しようと思っていたところで」
飴野は山吹が入りたそうに見つめている扉の鍵を冷然とした態度で閉める。その代わり彼女の視界に、例のトランクケースを掲げて見せる。ほら、この通り、泊りの旅行さ。
「そうなんですか? 残念でした。だけど一番最悪なのは、事務所に来たのに、留守だったときで。会えて良かったです」
「東京から帰ったら、すぐに時間を作るよ。むしろ山吹さんには、こちらから連絡したかったくらいで」
「そうだったんですか! 迷惑だったらどうしようかと思っていたんですけど、それを聞いて安心しました。では、私も一緒に行きますね。あっ、東京までって意味ではなくて、新大阪まで。それとも伊丹から飛行機ですか?」
「新大阪のほうだけど。一緒に来るだって?」
「はい、私は一刻も早くこの失踪事件が終わって欲しいんです。そのためなら、どんな協力でもするべきだって考えに変わったんです」
そういうわけで、今日、こうやってお伺いしたわけです。
確かに山吹美香の協力は不可欠だろう。利用価値と言えば言葉が悪いが、若菜氏の行方を捜すため、彼女はまだまだ重要な参考人だ。冷たくあしらうわけにはいかない。
「わかった、一緒に新大阪の辺りまで行こう」と飴野は言ってやる。
25―6)
飴野は難波から御堂筋線の電車に乗り新大阪まで向かうつもりであったが、山吹のためにタクシーを拾う。
その前にコンビニに寄り、ミネラルウォーターを二本買い、一本を彼女に手渡す。事務所に客が来たとき、コーヒーを出すような具合に。
「新幹線でどちらに行かれるんですか?」と尋ねてきたのはタクシーの運転手のほうだ。
「東京? はあ、なるほど。お仕事ですか?」
ええ、まあ、そんな感じですと適当に濁すような返事を返しても、「ちなみにお仕事は何をなさってはられるんです?」と、運転手からの質問が続いた。
今日は運が悪いことに、お喋りな運転手に当たってしまったか。飴野はそう思っているに違いない。まあ、そのようなことの全てが、ただの作家の演出に過ぎないが。
このような世間話し程度の会話で、探偵ですと答える気など、飴野にはない。
「ええ、ちょっと」ミネラルウォーター関係の仕事ですと、飴野はそのペットボトルの蓋を開けながら適当に嘘をつく。
え? そんな仕事もしてるんですかと山吹は小声で驚いている。
「本当はあれとちゃいます? 愛人さんと遊びに行くんとちゃいますか。パッと見た感じ、仕事に行く雰囲気も見せませんもんね」
「いえ、まさか」
「大丈夫です、僕は口が堅いんで、誰にもね、そんなことを言いふらしたりなんてしまへんで」
「まあ、実は草津温泉まで」
「あら、やっぱり! 温泉不倫旅行ですか! どこでお知り合いに? やっぱりそういう相手はキャバ嬢さんなんですか?」
「いえいえ、会社の後輩ですよ」
運転手が愛人説を唱えたのは、山吹が濃いサングラスをかけているからかもしれない。確かにサングラスのせいで、普段は地味な大学生にしか見えないはずの山吹が、怪しい夜の雰囲気を漂わせていなくもない。
さすがに自分たちがそのような関係でないことを山吹は承知している。飴野が適当に作り話しをしているだけだとわかり、ミネラルウォーター関係の仕事という言葉も嘘だと気づいた様子だ。
愛人扱いされて山吹は怒っている。と思いきや、「草津温泉、楽しみね」と話を合わせてくるから、山吹という女性の性格を飴野は改め思い知る。
山吹の個性は常識外れのノリの良さ。いや、ノリが良いというのは正確ではないかもしれない。過剰なほどにロマンチストで、冒険や嘘や突拍子のないことが好きなのである。
さて、タクシーは新御堂を走り始めた。大阪の北部をまっすぐに伸びる道路。
新御堂は西日本で最も交通量が多いらしい。この幹線道路に乗って北上していれば、このまま新大阪の構内にまで辿り着くという便利さ。
その間も飴野と山吹とタクシー運転手の三人は、虚構の上に築かれた世間話しを、一瞬の沈黙もなく言葉を交わし続ける。
飴野も山吹も適当な嘘をつきまくるから、話しの辻褄は合わなくなっていく。タクシーの運転手だって、もう二人の話しを別に真に受けていないだろう。いや、そもそも最初から真実なんてどうでもいいという態度で、ただ車内の沈黙を埋めるためだけに客と会話していたに違いないが。
新御堂筋の隣を電車も並走していた。タクシーを使わなければ、飴野はそれに乗っていたはずの北大阪急行である。その線を走る列車は新大阪駅に辿り着くまで、地上に顔を出したり、地下にもぐったりを繰り返す。
二人は話し好きの運転手の言葉に応じるだけで、若菜失踪事件についての会話を交わす暇もなかった。
何より新大阪は、彼の事務所からそれほど遠くもない。山吹と特に情報交換をする間もなく目的地に到着した。
新大阪の駅のホームは、その道路の上を横切るようにして建っている。格子状というか柵のような窓が無数に並んでいる、そんな形容が正しいだろうか。その駅は美しさや崇高さを微塵も感じさせないが、それなりには印象的な建物だろう。
新御堂を使えば、その幹線道路を降りる必要はなく、そのまま坂になった道路を昇っていくと、新大阪駅の三階の入り口に車を横付けすることが出来るはずだ。
二人はタクシーを降りた。ここでお別れのはずであるが、山吹は新幹線の出発の時間まで駅で待つと言い出す。
彼女の言い分は十分に理解出来る。二人は肝心の話題について語り合えずにいた。
飴野はそれに応じる。いや、結局そのまま彼女は東京にまでついて来ることになるわけであるが。
25―7)
週末は休みだとか、月曜日から金曜日の9時から5時までが就業時間だとか、私立探偵業にそのような決まりはなく、飴野は時計やカレンダーに従わずに行動をしていると思うわけであるが、はっきりとそう言い切ることも出来ない。
何せ彼も社会を相手にしているわけである。部屋に独りで籠って何かを製作しているわけではない。
社会が活動している時間に、彼が活動するのが当然だろう。社会が活動していない時間帯や曜日に、彼も仕事を休むことが合理的に違いない。
東京出張の日が何曜日であるかという設定を私は決めないで書き出したことを思い出す。
会社員の山吹の仕事が休みのようであるから、きっと週末なのだろうけど、それならば東京にいる相手の編集者と会ったりすることが出来るだろうか。
それはもちろん会えないわけでもないに違いない。「すいません、土曜日なのに」と一言セリフを放り込めば、それで成り立つ。「いえ、何の問題もありませんよ。私は週末も仕事をしていますから」
そのような些細な日常性を一切読者に意識させずに、そのシーンを描き切るというテクニックだってあるはずだ。
そんなものは余計な情報なのだから、読みやすさや勢いを重視するべきで、そのシーンの真に重要な本質だけを描けばいい。
曜日だとか時間帯だとか天候なんて、全てはどうでもいい余分な情報。
しかし私は日常のリアリティーを重視しているというより、そのような些細なことがどうにも気になってしまうタイプで、一度それに引っ掛かってしまうと、きっちりと解決したくなる。
特に執筆が進まないときとか、どんなディテールを書くべきか悩んでいるとき、細かい情報に思いを馳せてしまい、その結果、更に執筆は行き詰まることになるのである。
とはいえ、それは仕方がない。そこで躓いてしまったのならば、しっかりとこの問題に向き合って解決するしかない。
「実は仕事を辞めてきました。この事件が解決するまで、この件に集中しようと思って」
というわけで、この日は何曜日なのかという疑問の果て、山吹にこのようなセリフを言わせることにしたのである。
これで今日という日は、平日の昼下がりでも構わないことになる。
「仕事を辞めたって? この事件のために?」
飴野は呆れた表情で山吹の顔をマジマジと見る。何ならば、飴野は初めて山吹の顔を間近に見た瞬間である。
確かにこの事件の当事者である佐倉も、仕事を休職しているようである。
同居相手の婚約者が失踪したのである。精神的にも体調的にも大変な状態であろう。彼女がそのようなことになるというのは理解出来る。
しかし当の佐倉が休職しているだけだというのに、ほとんど無関係の山吹は仕事を辞めたという。
山吹の行動の軽さに飴野は呆れているのである。
「君が仕事を辞めても何の意味もない。その時間をこの事件の捜査に使うわけにもいかないではないか」
「ところが、そのつもりなんです」
飴野はその回答を前に絶句する。
「いつか辞めようと思っていたんです。この事件は良いきっかけでした」
私の人生にはもっと色んな可能性があって、あんな仕事に埋もれて時間を無駄にしたくなかったんです!
山吹美香はそんなことを饒舌に語るキャラクターではなく、ただそれを行動で現わすタイプだ。
「驚いたね」
「そうですか」
飴野はこの事件を解決するために、山吹を利用してしまった。彼女から必要な情報を収集するためだけに、いさかか強引にこの事件に巻き込んでしまったと言える。
この事態はある意味、その副産物であろう。だとすれば飴野にも原因がある。彼女の人生を狂わせたのは飴野だ。
しかし山吹は平然としている。実はまだ退職届など出してなくて、サボったのも今日が初めてだったんですけど。一回でもズル休みしたら、そういうのを上手く修復出来ないタイプなんで。
そんなセリフを付け加えるべきかどうか悩んだが、もう必要ないだろう。彼女は完全に仕事を辞めてしまった。
25―8)
山吹は東京行きのチケットを持っていない。入場券だけを買って、構内に入って、駅のホームで彼の旅の出発を見送るだけのつもりであったのだから。
飴野のほうもその心積もりであった。新幹線が来て、「では、これで」と山吹と別れるのを当たり前だと思っていた。
一緒に車内の中に入って来て、「まだ話し足りませんから、途中まで行きますね」と言ってきたときは、この日最大の感情の波が彼を襲う。何度も何度も、山吹の振る舞いに呆れてきたが、そのピークが到来したというわけだ。
「いえ、東京までは無理ですよ。つまり、名古屋辺りで一人で下車して、下りの新幹線に乗り換えます。あれ? 東京方面行きが下りでしたっけ?」
原則、東京方面が上りらしい。しかし探偵飴野はそんなことを知らないから、それを正しはしない。そもそも、そんなことどうでもいいことである。
「チケットなしに、新幹線には乗れない。無理に決まっている。君だって新幹線くらい乗ったことがあるだろ?」
「ありますよ、一回か二回くらい。車掌さんが見回りに来るんですよね。凄く便利だと思います、車掌さんから直接、名古屋行きのチケットを買えるから」
そんな言い合いをしている間に新幹線が発車してしまう。
飴野は一息ついて、具体的に言えば上の棚にトランクケースを載せて、座席を少しだけ倒し、テーブルの上にペットボトルの水を置いて、隣に座っている山吹の存在の意味を改めて考えて、それを頭の中でまとめ上げたあと、言葉を発した。
「先に確認しておくことにするけど」
「何ですか?」
「どうせ君は東京まで着いてくるつもりだろ?」
「え? それもありですね。では、そうします!」
「もうそれでいいよ。こうなれば、ありとあらゆることを君から聞かせてもらう」
飴野も覚悟を決めて、山吹を旅のお供として受け入れることにする。
山吹美香は若菜氏失踪事件に心躍っているのである。
もしかしたら自分の協力で、その謎が解かれるかもしれないという事態に興奮しているというより、端的にその非日常性に興奮しているだけかもしれないが。とにかく東京でもどこでも着いて行く気だった。
飴野には戸惑いしかない。とはいえ、山吹はこの事件を解決に導いてくれるかもしれない協力者ではある。
彼女の突拍子もない行動は、彼の調子を搔き乱して止まないのだけど、有益な情報を提供してくれる存在であることは確かである。
探偵は人の話しを聞く。ひたすら聞き込みをして回る主体である。
そうやって、この世界の各地に飛び散った真理か真実かの欠片をかき集めて、それらをつなぎ合わせるのである。
山吹もまた、その砕け散った真理か真実かの欠片の所有者だ。
当然のこと、彼女が全てを知っているわけではない。彼女が持っているのは破片でしかない。
何ならば、その真実なんてものは、犯人ですら所有してはいないのかもしれない。
犯人の決定的行動。人知れぬ場所で為されたその犯行は、隠され、細工され、時間が経過して偶然も作用して、真実は当人すらも把握出来ないくらいに複雑に入り組んでしまい。
最後に探偵が開陳することになる、「その事件の真相」という物語だって、一つのバージョンに違いないだろう。
しかしせめて、その一つのバージョンを形作るため、探偵は捜査する。
そのために、山吹という参考人の言葉に耳を傾けるのは彼の義務。
25―9)
話しを聞いて回る探偵の姿をどれだけ魅力的に描けるか、探偵小説において最も重要なのはそういうものだと考えるのだが、別に特異な意見でもないだろう。
探偵小説から余計なものを削ぎ落していくと最後に残るのがそれだと思っている。
探偵小説はミステリーというジャンルなのだから、謎の魅力こそが最も重要だという当たり前の意見もあるだろうが、私の作品には関係のない意見だ。
いや、それが素晴らしいに越したことはないが。何せ謎が魅力的であれば、その謎を解明しようと歩き回る探偵の姿だって魅力的に映るわけであるから。
謎が、物語を駆動させる。リーダビリティを促す。それはその通りだ。
しかしそれに頼らなくても、面白い探偵小説を書くことが出来る。会話と、その会話が交わされる場を魅力的に描くことで。
もちろんのこと、「会話と、その会話が交わされる場」を魅力的に描くことだって簡単ではないが。私の作品が他の作家に比べ、それに成功しているとも思っていないのだけど。
さて、大阪から東京までの二時間半の旅、その間、探偵飴野は山吹から聞き出せるだけの情報を聞き出そうとするシーンである。
まず、飴野は自分の所有している情報を先に彼女に披露する。
「木皿儀という探偵が重要なことは間違いない。彼が何者であったのか掴むことが出来れば、この事件の本質に迫ることが出来るに違いない。君も彼に会ったことがあるんだろ?」
そもそも木皿儀という探偵の存在を飴野に教えたのが山吹である。飴野以前に佐倉に雇われていた初代の探偵のことを。
木皿儀という重要人物の存在を飴野に伝えるため、山吹はこの「占星術探偵シリーズ」にデビューしたのだ。それが作家から担わせられていた、彼女の最初の役割りである。
佐倉は婚約者若菜の日頃の行動を怪しく思い、その悩みを親友の山吹に相談した。「探偵を雇って調べてもらえ」が、そのときの山吹のアドバイス。
佐倉はそれに従い、木皿儀が所属していた探偵事務所を訪れた。
というわけであるから、山吹こそ佐倉と木皿儀を結び付けた人物でもある。そしてその出会いが、若菜失踪事件の発端でもあった。
「あります、一度だけですけど。彼女の付き添いで探偵事務所に行ったときです」
「どんな男性だったろうか」
「ワクワクしました。私、探偵とか刑事とか、そういう人に興味があったんです。でも出てきた探偵さんはイメージと違ってました。爽やかで清潔感のある普通の男性という感じで。私は無精髭の生えた、ヨレヨレの服装のアル中を想像していたんです! アル中で駄目人間だけど実は有能、っていうのが私の理想で、期待を裏切られてがっかりでしたね」
山吹は「自分」を押し出してくる女なのである。木皿儀という人物の情報を客観的な視点で教えてくれるのではなくて、まず自らの主観的感想を第一に伝えてくる。
そんなことは聞いてないぞというのが飴野の内心の感想。
「では、聞き方を変えよう。そのときの佐倉さんの様子はどうだったろうか?」
新幹線は適度に騒がしかった。二人は周囲に気を使って声のボリュームを抑える必要性を感じない。
とはいえ、話しの内容が内容だけに自然と小声になり、その分、二人の口と耳の距離は近づいていく。
「佐倉はずっと嫌がっていました。探偵を雇って、自分の婚約者を尾行させるなんて良いことだと思えないって。確かに今から思えば、本当にあれで良かったのかって私も疑問を覚えます。だってまず自分の恋人を信頼するのが第一じゃないですか? それなのに探偵さんに頼るなんて。間違ったアドバイスをしてしまった気がして。でも佐倉を不安にさせたのは若菜さんであることも事実で」
山吹は木皿儀について何も触れようとしない。その理由が飴野にもわかってきた。彼女は木皿儀のことを何とも思っていない。この事件のキーパーソンだということを理解していないのだ。
飴野はそれを改めさせるため、少しばかり彼女を驚かせるセリフを放り込むことにする。
「木皿儀と佐倉さんは男と女の関係だったようだ。二人は寝ていた」
一瞬、新幹線の車内全体が静まり返って、車両ごと、その言葉に衝撃を受けたような空気が流れるが、そのとき偶然、新幹線がトンネルの中に入ったのだろう。
「う、嘘ですよね? えっ、つまりどういうことですか?」
しかし東海道線の大阪らから東京の間の、最初のトンネルはどこにあるのだろうか。まだ新幹線は京都を過ぎて、滋賀辺りを進んでいるくらいのはず。私はこの箇所を読み返しながら、そんなことを思ったりする。
「探偵と依頼人、それ以上の関係だったってことさ。不倫と言えばそう言えるのかもしれない」
「本気で言ってるんですか?」
山吹は驚きふためいている。
「そんなことなんてあるんですか? 探偵と依頼人の間柄ですよ? えっ、飴野さんもそういうの、しょっちゅうなんですか? 嘘ですよね、不潔過ぎませんか。信じられません」
親友のこんなことも、彼女は察知していなかったのか。しかし逆にこの鈍感さゆえ、山吹という女性は信じるに足る人物だと感じもする。
25―10)
先日、山吹に会ったとき、彼女は厚手のコートを着ていた。この物語の季節は春という設定であるが、その日に彼女が着ていたのは真冬のコート。
細くて華奢な彼女の身体を、分厚目の生地がふっくらと包んでいた。確かにまだ肌寒い日はあるが、桜は満開か散り始めた季節だ。
しかしその日から数日しか経っていない。今日は特別暑くもない。特段、季節が一歩先に進んだわけでもないのに、今日の山吹はコートを脱ぎ棄てて、それどころか半袖のTシャツだけの姿である。
まるで夏の避暑地でアイスクリームでも食べているような恰好をしている。麦わら帽子こそ被っていないが、その代わりサングラスを頭につけていて、充分にバカンスの浮かれた雰囲気を漂わせていた。
そのTシャツにはモーツアルトの顔がプリントされていて、薄ら笑いを浮かべている。
丁度良いところで踏み止まらずに、極端から極端に振れてしまう性格。作者である私が山吹に与えたかったキャラクターというのはそんなところだろうか。
春と秋がなくて、夏か冬しかない性格だ。いや、それは性格というよりも、ある種の弱さ、短所なのかもしれないが。
そんな山吹は飴野の先程の言葉を聞いて、ちょっとばかりショックを受けている様子である。彼女は何事にも大袈裟な反応を示すから、内心はその態度ほどでもないかもしれないが。
「佐倉は子供のときからモテモテでした。私が知ってる限りでも百人くらいの男の人が告白して、彼女に振られて。まあ、百人は言い過ぎかもしれません、でも十五人くらいは確実にいました」
山吹と佐倉は親友である。しかし二人はまるで似ていない。
似ていることが親友の条件なんてことはあり得ないだろうが、会話をするにしても一緒に遊ぶにしても、共通点は重要ではないだろうか。
それなのに佐倉と山吹の二人の間に、そんな感触は一切ない。
佐倉は「現実」が九割を占める世界に住んでいると言えるだろうか。仕事と酒とセックスと人との交流。
山吹は「空想」が九割を占める世界の住人だ。趣味が人生の中心にある。
俗な言い方をすればリア充とオタクの違いということになるが、小説の中ではそのような言葉を使いたくないので、行動や雰囲気でその違いを表現するべきだ。
占星術で例えると簡単である。佐倉は風と地の星座が多く、それでいて程よくバランスが取れているホロスコープの持ち主。山吹は火の星座が多く、地の星座が著しく欠落していて、一方に偏っている。
占星術に興味がない人には、むしろ伝わりにくくなってしまったかもしれない。いはゆる、属していたスクールカーストが違うはずなのだ。佐倉彩は上位にいて、山吹は下位に属していたというよりも、そもそもそのピラミッドから外れたところで独りゴロゴロとしているタイプの女。
とにかく二人は似ていない。本当に仲良くやっていたのかと疑いたくなる。
その親友のパーソナリティーを、最初から佐倉と似たタイプにしておくべきであったが、しかし作家にはきっと手癖のようなものがあって、自分好みのキャラクターを造形したら、自然と山吹タイプになってしまったということだ。
実際、佐倉のような登場人物を上手く動かすことが出来ていないが、山吹は自在に動かすことが出来ている。
ある意味において、山吹美香は成功しているキャラクターだ。
動かしやすいキャラクターを造形することが出来て良かった一方、その人物は佐倉の親友に相応しくないのではないかと、後から後悔しているパターン。実はそれが最も肝心な属性であったのに。
とはいえ、私は困りつつも、ちょっとした小細工を施すだけで、二人が親友であるという設定に説得力に持たせることが可能であることもわかっている。別にそれほど難しいことでもないだろう。
「家が近所で、小学校と中学校のある時期まで毎日遊んでました。親同士も知り合いで」
「あの子と一緒に銀行の受付ごっことか、美容師ごっことか、エレベーターガールごっことかやってましたね。おままごとなんてすぐに飽きたんで」
「でも一時期疎遠になった時期もあるんです。佐倉にボーイフレンドが出来たときです。彼女は学校一の不良と付き合い出したんです。中学生の癖にタバコを吸ってる男子でした。その人もモテモテで」
「その不良とはすぐに別れたみたいなんですが、その後、あの子に別の友達も出来て。派手でかわいい子たちです。私も塾に行き出したんでね」
「私たちが親友に戻ったのはここ数年のことで、お互い社会人になってからです。あの子が若菜さんと付き合い出した頃だと思います」
実は佐倉彩の本質だって、大人しい少女ということにしておこう。山吹が提案する「銀行の受付ごっこ」や「エレベーターガールごっこ」の相手を喜んで務めてくれるような女の子だった。
しかし佐倉彩の美が、周囲から抜きん出た生来の性的魅力が、彼女を派手な世界に連れ去っていったのである。
その力学が佐倉と山吹の親友関係を引き裂いた。
高校は別だ。大学も違う。二人とも社会人になり、地元に残った同士でまた会うようになり、以前の仲を取り戻したような案配だ。
「佐倉といるとウキウキします。あの子はお洒落できれいで、全てにおいてちゃんとしていて。私もそんな女性になりたかったんですが」
25―11)
佐倉と山吹はその性格、行動、雰囲気や生き方など何一つ似てはいないわけであるが、とはいえ、山吹美香は佐倉彩の分身だと解釈が出来るに違いない。
例えば山吹のこの物語の中での役割りを、佐倉一人に集約することは不可能ではなかったはずだ。
佐倉はこの物語のファムファタルという存在。飴野と佐倉はもっと頻繁に顔を合わせたり、心をぶつけ合ったりすべきであるのに、彼女の出番は少ない。
私は佐倉との衝突を避けて、山吹という登場人物のほうへ逃げてしまったような気もする。
佐倉のセクシャルな大人の雰囲気を前にして尻込みしてしまったのだろうか。
この東京出張の同行者だって、佐倉であっても問題はなかったわけだ。作家として、私は佐倉という登場人物を動かし損ねていたに違いない。
先程から何か反省しきりであるが、それはきっと正しい反省。
もっと動かしまくりたくなるような特別な個性。それを上手く設定することが出来なかった。
そもそも佐倉のようなキャラクターを描くことが不得意だったのだろう。その結果、山吹という登場人物が生まれ落ちたとも言える。
しかし、そんなことを思う一方、佐倉彩がフットワーク軽く動き回るタイプの登場人物ではないことも確かなのである。
彼女は突然、きまぐれに飴野の事務所にやってきたりはしない。ましてや東京に同行するなんて軽い行動に出るはずもない。
重くて、不動な、占星術でいえば山羊座的な特性の人物。飴野が彼女の部屋のドアを何度もノックして、ようやく返事を返す女だ。
だとすれば山吹美香が誕生したのも必然的だったとも言えるのだけど。
山吹美香はペラペラと喋る。佐倉彩と対極に位置する軽さ。彼女は車内販売で買ったアイスクリームの硬さと格闘しながら、飴野に唾を飛ばし、こんなことを発言する。
「若菜さんは私っぽい人だって佐倉は言ってました。私に似てるらしいんです」
その言葉を聞いて、飴野は二人のホロスコープを思い出してみる。しかし特別な共通点を思い浮かべることは出来なかった。
「どんなところで似ていたと、佐倉さんは思ったんだろうか?」
先程から似ている似ていないという話題が続いている。それに辟易してしまいそうであるが、我慢して自作を読み返すとしよう。
「さあ、わかりません、何となく聞き流して、それについて深く追求なんてしなかったから」
「そういうところが似てたのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「自分自身の評価に無頓着なところだ。普通なら気になるはずなのに」
「あの子の説明がイマイチ腑に落ちなかったんですよ。そういえば好き嫌いが異常に多いところも似ているって言ってたような。キノコ、ナスビ、トマト、カニ、生魚、若菜さんも嫌いらしいです」
「あっ」と山吹は声を上げた。
「今思いついたんですけど、私と若菜さんが似てるから、佐倉は若菜さんのことで私に相談してきたのかもしれませんね。だってこんな女ですよ、私。普通、私に恋愛の相談とかしますか?」
「確かにそうだ」
「そんなことないよ」ってお世辞でも言って下さいと早口で言いながら、山吹は飴野の返事を待たずに先を続ける。
「若菜さんは、これまで付き合ってきた人と全然タイプが違うって佐倉は言ってて。ふーんって感じなんですけど、いったいどれだけの人数と付き合ってきたんだって。でも佐倉もけっこう悩んでたし、あの子の力になれるのは嬉しいから、必死にアドバイスしていたんですけど」
しかし、そんな山吹が最終的にしたアドバイスが、若菜を探偵に尾行させろというアドバイス。ある意味、山吹は最悪な行為を唆した。その結果、佐倉と若菜は離別する。
いや、彼女もその事実を重く感じているからこそ、これほど飴野に協力的だとも言える。山吹の行動は彼女なりの誠意だ。
25―12)
「若菜さんについてもっと詳しく教えて欲しい。君は彼に何度も会ったことが?」
飴野は山吹に質問を投げた。実はここが重要な場面なのだ。山吹美香は若菜真大という、いまだ謎の多い失踪者についての情報を発表するため、この場に召喚された。
「何度か、って程度です。でも二人きりになったことはないし。それに佐倉に悪いじゃないですか、私が若菜さんと仲良くし過ぎると。だから気を遣って、わざと素っ気ない態度を取って、仲良くならないようにしていたんです!」
山吹らしい。子供っぽくて、独善的で、独りよがりな根拠だ。それを堂々と語って来る。飴野は苦笑いするが、それについて口を挟まない。
「何だか仙人みたいっていうか宇宙人みたいっていうか、何にも囚われない自由な感じ」
「え?」
「若菜さんの印象です。変わった人なんです、全てに対して超然としているっていうか」
「それが若菜氏に対する君の印象?」
「そうですね。動物で言えば猫、いえ、それより爬虫類系でしょうか」
山吹のその言葉を聞いて、飴野は戸惑いを感じる。何か飲み込めないものを感じながらも、違った角度からの質問する。
「彼に他の女性がいた気配は?」
「わかりません。いたのかもしれません、モテそうな男性でしたから」
「君にはそう見えていたのか」
「え? だって、あの佐倉を口説き落とした人ですよ! ちょっとした遊び人って感じでしたよ。だからあの子も、浮気を疑っていたわけで。佐倉は彼にベタ惚れで、絶対にあの人を失いたくないって必死で」
飴野は更にその違和感を覚えるのである。どう考えても、彼がホロスコープから読み取っていた男性像と違う。
飴野は若菜の写真を見ている。彼が話す動画だって、佐倉から見せてもらっている。
飴野だって若菜がモテないタイプとは思っていない。あの佐倉の隣にいても決して不釣り合いではない男性として、それらの記録媒体には残っていた。
その上で齟齬を感じるのだ。飴野がホロスコープから割り出した若菜の人物像、そして残された写真と動画を加味した若菜という男は、「遊び人」なんかではないと。
そんな人物ではないからこそ若菜は佐倉と仲違いして、逃げるようにしてアルファ教団にハマり、その果てに・・・。
山吹が気軽に発した言葉は、その推理をつまずかせる発言だ。ましてや佐倉が彼に「ベタ惚れ」だったという意見もピンと来ない。
それともう一つ、その前の山吹の発言にも首を傾げてしまう。「何にもとらわれない自由な感じ」だって?
そんな自由な雰囲気を発している人間が、カルト的な自己啓発にのめり込むなんて思えない。
不器用で、生真面目で、生きにくさを覚えている者が落ちてしまう穴、それがそういう類のセミナーではないのか。それともその意見は飴野の偏見だろうか。
もしかしたらアルファ教団という自己開発セミナーでの自己改造の果て、全てに対して超然としている自由な人格に成り果てたという可能性もあるが。
いや、そもそもどこまでこの女の発言が信用出来るだろうか? 男性一般に対する認知が歪んでいるのかもしれない。
ちょっとでも複数の女性と親しくしていると、男をプレーボーイ扱いする輩。
無視しておいて問題ない情報なのかもしれない。実際、彼はその情報をスルーして、また別の質問を山吹にぶつける。
「彼に友人は多かったのだろうか?」
「どうですかね、そんな感じには見えなかったです。あっ、でも、そういえば」と、ここでさりげなく重要な情報を山吹は再び発することになるのであるが、その情報が重要であることに、飴野はまだ気づくことは出来ない。
「奇妙な友人がいると佐倉は言ってました。けっこう年上の男性らしいです。その人と月に何回も会ってるって」
「ふーん」
彼は念のためにその情報をメモしておくが、優先順位Cとそこに銘打ってだ。
「その年上の男性とやらを、君は見掛けたことは?」
「ありません、佐倉だってなかったようです」
「だったら、そんな友人と会ってはいなかったのかもしれないね。それこそ言い訳だよ、佐倉さんに嘘をついて、その実、アルファ教団に通っていた可能性が大きい」
「あっ、そうか」
「しかしそれにしては、変に具体的ではあるけれどね、年上の友人なんて」
飴野は優先順位Bに改めようかと二重線を引きかけた。しかし止める。そのままCにしておく。
彼は若菜氏のホロスコープを思い起こして、そこに重要な友人的存在を現わすサインがあったかどうか想いを馳せる。
そもそも山吹は佐倉のそのサインから探し出した人物である。若菜にだって山吹のような友人が存在していても何ら不思議ではないのだ。
しかし山吹を探し出せたのは、彼女が佐倉の同級生であったからだ。その卒業名簿などから運良く探し出せた。
しかし年上の友人など、星を使って探すのは不可能に違いない。
25―13)
飴野と山吹が乗っている新幹線はようやく三河安城駅を定刻通り通過したらしい。それでも東京はまだまだ遠い。
飴野との会話に飽きると山吹はそれを勝手に打ち切り、到着までの間、静かな寝息を立ててぐっすりと眠ることになるので、二人の会話が到着までずっと繰り広げられるわけではない。幸いなことに、もうすぐ飴野は山吹に解放されるだろう。
しかしもう少しだけ二人の会話は続く。今度は飴野が話す番だ。
山吹から貴重なことが聞けたと探偵は思っている。それは思わぬ収穫だったと認める。
彼は彼女の協力に報いるために、どこまでこの事件の捜査が進んでいるのか、いくらか情報を開示してやる。
「もしかしたらアルファ教団なんて存在しないかもしれない、そんな可能性も考えたんだ。それは木皿儀という探偵がでっち上げた架空の組織なんじゃないかってね。彼は佐倉さんに惚れた。佐倉さんと若菜さんの間を決定的に引き離すため、そんな出鱈目の調査報告を作り上げて、彼女に提出した」
「まさか、本当ですか! 私たちはすっかり騙されていたわけですか」
山吹は興奮して声を上げる。
「てっきり若菜さんは!」
彼女もアルファ教団がどのような組織か知っている。若菜がその組織に深く関わっていたことは、佐倉に対する裏切りだと考えているよう。
「木皿儀は探偵だ。佐倉さんを騙そうと思えば、それが簡単に出来る立場にあったと言える。いや、でも、やはりその組織は実在するんだ」
「あっ、どっちなんですか、いったい」
「木皿儀のでっち上げの可能性も考えたってことさ。しかし彼が佐倉さんと若菜さんを引き離すための嘘をつくとしても、そんな面倒な組織をここに関わらせる必要なんてない。ただ単に別の女がいた、あの男は浮気をしている、そう報告書に書けばいいわけだよ。その組織自体は存在する。若菜さんもおそらく、そこの会員だったはずだ。少なくとも佐倉さんはそれを信じ込んだ。木皿儀がそれなりの証拠を提出したからだと言える」
「はあ」
「しかし、他の女性と浮気していたという証拠をでっち上げるより、この組織に関わっていたという嘘を捏造するほうが簡単だった可能性もあって。それに、女性にとって浮気されていたと教えられるより、その組織と関わりのあることのほうがショックだろ?」
「そうですね、アブノーマル過ぎる組織ですからね」
結局のところ、まだ何も確かなことは言えない。探偵は常に全ての事実を疑いながら捜査するものだと飴野は山吹に言う。
「今のところ確実なことは、木皿儀と佐倉さんがそれなりに深い仲だったということ、少なくとも依頼人と探偵という関係は越えていた」
「まだ信じられません。佐倉がそんなことをしていたなんて」
飴野は彼女のその発言をそのまま真に受けない。山吹がどこまで佐倉の貞淑を信じているというのか。
「若菜失踪事件を解決するため、これから捜査しなければいけないことはアルファ教団について詳しく調べること」
飴野は山吹に語り掛けながら、自分にも言い聞かせるのである。
「アルファ教団がどんな組織なのか把握しておきたい。この東京出張の目的はそれさ。アルファ教団について世界で一番詳しいジャーナリストがいる。その人に会うためだ」
「そうだったんですか」
「それともう一つ、木皿儀という男が何者であったのか知ること。それもこの事件の鍵となるに違いない。当然、出来ることならば彼に会って話しを聞きたい。しかしそれは無理そうなんだ。実はもういない」
「え?」
山吹はまだその事実を知らない。
「実は木皿儀という男は死んでいる。自殺したらしいんだ。佐倉さんの近くで一件、別の事件が起きていた。だからもう今では、若菜さんはただ単に家出したとか、姿をくらましたとか、そんな範疇を出ている。何かしらの暴力が発生していた可能性がある」
「本当なんですか、それ?」
さすがに能天気な山吹美香も深刻な表情になる。
「本当に本当なんですか?」
しかしその発言後すぐに、山吹はぐっすりと眠りに落ちるのであるが。
更に時は二十一世紀を迎えようとしていた頃。
おっと、一旦は締めの言葉を記したはずなのに、占星術探偵飴野がアルファ教団を取材している東京在住のジャーナリストと会うため、事務所を出ようとするシーンを読み返そうと思っていたのだけど、まだ語り残したことがあった。
もう少しだけ、「我が読書史(仮題)」などという決して書かれはしない企画の話題が続いてしまう。
その付け足しが、その目次の中に上手くハマるかどうかわからないが、書いておくべき必要性のある話題を思い出したのだから仕方がない。
それまでの私は文学、音楽、映画という教養の中で十分に満ち足りていたと思う。それらはだいたいアメリカ、ヨーロッパからやってきたもので出来上がっていた。
十代半ばの頃は日本の文学ばかりを読んでいたが、年を重ねるにつれて徐々に海外の作品に興味を示したということである。
取っつき安い日本の文学を土台にして、それで修練を経た末、海外の文学を読み進めるという志向だ。基本的にその傾向に沿って成長していた。
しかし時は二十一世紀を迎えようとしていた頃のことである。海外への志向が一段落して、日本にへと回帰する現象が起きたと思うのである。
「80年代的」「日本」が育んできた「サブカルチャー」と呼べばいいのだろうか、その種のカルチャーの存在感が増してきた。
それは90年代には一時的に脇に追いやられていたものであったのだけど、2000年代を過ぎた辺りに事態は変わり始める。
私の身にだけ起きたことではないと思う。日本の社会全体が、「80年代的」「日本」が育んできた「サブカルチャー」を再評価し始めたのだと思う。むしろ、私はブームに乗って、その流れの中に身を投じただけ。
「データベース論」なるものがクローズアップされるのがこの時期ということになるだろうか。それも物語とは何かについての示唆。
「データベース論」とは何なのか、この私に説明出来るようなものではないのだけど、簡単に触れると多分このようなもの。一つに確定した物語が語られているが、実は様々な可能性があったはずで。
つまり「これ」とは違う複数の可能性の存在。「これ」はそのデータベースの中から選び出された一つに過ぎなくて。しかも「これ」はちょっとした偶然によって決まったものでしかない。
その事実に自覚的であるかどうかで、「日本」的な「サブカルチャー」の豊饒な財産から、何か引き出すチャンスが高まったりするのかもしれない。そういう意味において、データベース的な考え方と、「日本」的な「サブカルチャー」の相性は良くて。
いや、それは「データベース」という言葉を、また別の意味で使用してしまっているのかもしれない。
「データベース論」とは何か、いくつかの解釈があるはずで、この短い文章の中でも私は二つの意味において使用しているに違いない。複数性に対するセンスと、パターンとかクリシェに対する意識という意味で。
物語とは何かについての示唆を与えてくれるのは前者だと思う。私の好みはそっちなのだけど、後者の考え方は2000年代のサブカルチャーと妙に相性が良くて、そういう意味においてはそれも重要で。
25―2)
更にもう一つ言及しておくべき話題を思い出した。
私が青春時代を送ったのは90年代だということは以前にも触れたことだと思うのだけど。そういうわけであるから、「我が読書史(仮題)」で読まれた作品の多くは90年的流行に負っているのは間違いない。
つまり、私がその青春時代の終りに見い出したあれ、つまり文学はどんなことを描いているのかという疑問に対する回答だって、けっこうな具合に90年代的回答ということになってしまっているのではないだろうか。
時代を超えた普遍的回答だと思い込んでいたのだけど、そんなこと言えはしない。所詮、90年代ならではしかないもの。
ジャン・ジュネについて言及した章で書いた通り、90年代は「ワニ」の文学が流行した時期だったと思ったりする。
果たしてその命名や区分に、どれほどの同意が得られるのかわからないのだけど、「ワニ」という名づけはけっこう的を射ている気がする。そして作家としての私は、今に至ってもまだ、「ワニ」的文学の中に居るに違いない。
ワニはメンタルヘルスと無縁だ。ふてぶてしくて頑丈で、プライドという厄介なものなど端から気にかけない種族。
ワニとして生きること、それが心を打ち負かそうとするメランコリーの波に抵抗する戦略なのである。
どこまでも果てしなく、低く低くワニのように身を伏せて、メランコリーの波から身をかわす。
しかし21世紀が始まった。新しい世紀になり、どこかの時点で「ワニ」の文学の流行は終わったに違いない。
21世紀の最初のトレンドはきっと「猫」だ。猫の文学の時代が始まったに違いない。
いや、これもまるで確信をもって宣言しているわけでもないのだけど、仮に提出した回答でしかないが、とりあえず「猫」。
ふてぶてしく耐えるのではなくて、猫のように素早く避ける時代。
孤独こそが居心地の良い状態だという態度で、高い塀の上で澄まし顔をしながら、猫のように毅然として、外からのストレスに抗するのである。
「恋愛の終わった世界」などを描いている私は、「猫」の文学の群れに身を投じているのかもしれない。
しかし21世紀になって二十数年経ち、今や猫を文学のトーテムとした時代の流行も終わって、近頃はもっぱら「兎」のブームが到来しているのかもしれないなんて気もしていて。
もう悲しみや苦しみ、喪失や重圧に抵抗しない。素知らぬ素振りもしない。メンタルヘルスに身を委ねる。
弱さを平然として曝け出す、獲物としての「兎」の時代。それが今なのだという仮説。
そんな仮説を提出して、この話題を終えたいところなのだけど、少し付け加えておきたことがある。
何となく思いついて、妙に気に入ってしまったこのアイデア。
それはあくまでトレンドの話しであると思う。時代によってワニ的トレンド、猫的なトレンドが流行したようだぞということを書きたかっただけで。
ワニ文学が正しいとか、猫文学を目指したいなんてことはありえない。ワニになろうが猫になろうが、ましてや兎になろうが、魅惑的な作品が書けるはずもない。
正解なんてないのだ。それが正解。むしろその流行を意識しながら、トレンドと適当に距離を取る必要があるのだろう。
とはいえ、動物的であることは文学的戦略としてかねてより存在して、それこそ「我が読書史(仮題)」でも少しだけ触れたかもしれないドゥルーズなどという人がそういうことを書きまくっているし、それ以前から文学者たちは蝶になったり、虫になったり、鼠になったりしていて、むしろ人間でいるなんて退屈だという主張が様々なところでなされている。
もしかしたら、今のトレンドはもう動物ではなくて、ロボットかもしれない。そのような可能性だってある。ロボットというか、人工知能とかいうあれだ。
しかし、もういい。動物たちの話題も、ロボットの話題も、ここでおさらばだ。「我が読書史(仮題)」なんて企画、どうせ書きはしないし、動物のメタファーの話題だって、これ以上突き詰めるほどのものでもないだろう。
とにかく私は次の作品を書きたいのだ。占星術探偵シリーズの四作目。それに取り掛かりたい。
しかしまだその取っ掛かりも見つけられていないので、自分の過去のそのシリーズを読み返している。それだって重要な仕事である。
というわけで、速やかに読み返し作業に戻りたい。
25―3)
と言いつつも、まだその前に「我が読書史(仮題)」からちょうど良い具合につながる話題があるので、それについて言及したいのだけど。
私だってさっさと読み返し作業に戻りたいのである。自分で作った探偵の活躍の行方を追いたい。読み返し作業に時間を費やして初めて、今日も仕事をしたなという手応えのようなものが感じられるのだし。
しかし今から言及したい話題は、占星術探偵シリーズのテーマにも大いに関連もすることで、このタイミングで触れるのがぴったりな気がする。
つまり、ここで再び、いや、もしかしたら三度目か四度目かもしれないが、三島由紀夫という文学者について触れたい。
「我が読書史(仮題)」では彼の文章がどうの文体がどうのという話題に終始したが、やはりそれだけの影響では終わることはなく、「占星術シリーズ」はけっこうな度合いで三島文学のテーマに依拠しているようであって。
一作目がアナルオーガズム。二作目は天皇、愛国、右翼。三作目は違う。あえてここで離れることにしたからだ。
三島は異常なほどにエクスタシーという体験に拘って、それを追求した挙句、切腹という答えに辿り着いた、というのは彼の自死の謎に答える一つの仮説だろうか。
そうだとすれば、オーガズムとは何なのかと知ることなく、三島文学について考えることは不可能だろう。
とはいえ、三島文学について本気で研究したり、追求したりするつもりなど別にない。そんなの手に余る作業だ。
私の仕事は小説を書くことで、その「小説を書く」という行為の中に三島について考えるということも含まれているということにしてもいいのだけど、そのような大変なことに真っ向から向き合う気はなくて。
例えば次の世代の哲学者が前の時代の哲学について批評することで、自分自身の哲学を語ったりするような、そういった厳密さに到達する覚悟なんてないということだ。
しかし「恋愛の終わった世界」を書こうと企画を練っていたとき、三島的なこの主題が不意に脳裏に浮上してきて、特に考えも無しに私はそれに飛びついしまったのだ。
アナルオーガズムというその手ごわいテーマ、三島文学について親しんでいなければ書きはしなかったことであろう。
その快楽。日常の範囲に収まりはしない破格の悦楽。麻薬のように突き抜けたエクスタシーをもたらす悪魔的何か。
三島にとって生きる意味とは、最高の快楽を味合うことだったのではないかと、その死から逆算すれば、そういう結論に辿り着いてしまいそうになる。
しかし、それはニヒリズムの問題であったのだと思う。人生などに価値はない。果たすべき目的も、もうない。人生なんてその程度のものだから、個人的な肉体的快楽を追求しよう。
ある時期、三島由紀夫はそのようなことを考え始めたのだ。
それは50年代が終わって60年代が始まった頃。政治への興味、天皇への愛も、全てはその快楽を高めるための道具の一つだったという説。
とにかく何が言いたいのかというと、オーガズムのことである。「占星術探偵対アルファオーガズム教団」において、そのようなテーマが扱われるようになったのは三島から由来している。この作家がどれだけ重要だったかという舞台裏の開陳。
その次の章で、探偵飴野はその教団に本格的に肉薄していくことになるはずである。その前に、その事実に触れておきたかったという次第。
25ー4)
さて、ようやく私は「占星術探偵シリーズ」のページを開く。探偵飴野はアルファ教団を取材しているジャーナリストに会いに、東京に向かう、そのようなシーンからこの章は始まる。
旅だ、旅に出るわけである。旅となると浮かれてしまうものだ。たとえそれが小説の中の登場人物の旅でも。一泊二日の旅に過ぎなくても。
旅のシーンを書くに当たり、飴野にどのような旅行鞄を持たせようかと、私はネットで検索したりしたものだ。まるで自分の買い物のように真剣に選んだ。
今の時代、商品へのアクセスは容易い。インターネットはほとんどカタログのようなものだろう。きっとこの世に存在する、あらゆる旅行鞄がヒットするに違いない。
探偵飴野に待たせるのだから、スーツ姿に似合うカバンが良い。背中に背負うリュックサックタイプは却下だ。スーツケースが必要なくらいの長旅でもない。小さなサイズのキャリーバッグはいくらでもあるだろうけど、我が探偵にああいうのを引きずらせたくない。
トランクケースなんかはどうだろうか。アンティークの革製トランクケースだ。
金具の鍵がついている一方、そのトランクに巻き付くようにベルトが二本あり、形は長方形で、角は革が二重に補強されていて。
二十世紀初頭、いや、もっと前から広く西洋で普及したタイプのトランクケース。
この作品を執筆しているときの私はそんな判断をしたようである。そういうわけで、飴野の左手にトランクケースが出現だ。
私自身がもし旅行に出るのなら、そんなものを利用しないだろう。見栄えは良くても、片手は塞がり、重さで手は疲れる。だから旅に行くのならリュックバッグを背負うのだけど。
しかしそういうものを持ちたい願望のようなものはある。
自分の生活で果たせないことを、フィクションの中で登場人物に代行させる。そんなことをして、いったい何が満たされるのか知りえないが、それも一つの小説を書くときのモチベーションのようなもの。
さて、飴野はそのトランクを左手に持ち、旅へ出発するため、事務所を出ようと扉を開けた。そのときである。
廊下の前、彼の事務所の扉の真ん前にサングラスの女性が立っていた。
飴野は「うわあ」と声を上げるキャラクターではない。しかし豪胆で冷静なな探偵というわけでもなく、彼はそのちょっとした異常事態を前に人並みに慌てた。
慌てながらも咄嗟に身構え、そのサングラスの怪しげな人物からの攻撃に備えた。
探偵という職業である。彼はまだ命を狙われるほどの攻撃に曝さたことは一度もないが、脅迫行為とは無縁ではない。これまで何度か、彼の鼻先を暴力行為がかすめたことはある。
とはいえ、この日本で拳銃で撃たれたりすることは滅多にないだろう。たとえ大阪ミナミの雑居ビルの薄暗い廊下であっても。
小説ではあるが、そんな展開にリアリティーはないから書いたりしない。起こりえるとすれば刺されたり、殴られたりする程度。その程度とはいえ、そのような目にだって絶対に遭いたくはないものであるが。
彼はどんな攻撃にでも対処出来るように防御意識を高めた。
その重いトランクを通路に置こうとする。いや、いざとなればそのトランクを盾に使えるかもしれないと考えを改め、むしろトランクの取っ手を握り直した。
しかしそのサングラスの脅迫者は飴野に何ら攻撃を仕掛けてこない。それどころか、「こんにちは」と、その安っぽいサングラスを外し、声を掛けてきた。
「この前はどうも。山吹です」
「ああ」
飴野は肩の力を抜いた。
目の前の人物は危険な人物ではない。彼に敵意など持っていないはずだ。そもそも、この人物に攻撃能力なんて皆無。
身長は高いほうだろう。いくらか猫背気味である。というか、姿勢がシャキッとしていない。
動物で例えれば、穏やかな草食動物側の生き物だろう。猫のようなすばしっこい感じはない。肉食獣の荒々しさもない。キリンとか象のような崇高さもない。羊か鹿のような人畜無害の類。
しかし山吹は面倒な来客だった。何の用があってここにやってきたのか不明である。煩わしいといっても、言い過ぎではない。
「やあ、何か用なのかな?」
飴野はそのような素っ気無い態度を見せてしまう。
25―5)
山吹美香の黒目がちな目は、飴野の表情を察してバタバタと泳ぎ出した。自分が歓迎されていないことを徐々に悟り始めたようだ。
「捜査のことが気になったんです。でも、それだけで、別に特別な用なんて何もないですよ」
山吹美香は必死に言い訳めいたことを言う。
「実は、ちょっと偶然、近くまで用事があって。ああ、ここが、あの探偵さんの事務所かって感じでビルに入ってみたんです。素敵なビルですね」
「そうかな」と飴野は切れかけの点滅する蛍光灯を見上げる。天井には蜘蛛の巣も張られている。
とはいえ、実際のところ、それほど悪いビルでもないことは事実だ。
「せっかくここまで来たから、ちょっと挨拶くらいはしようと思ったんです。でも事務所に突然、押しかけられても嫌がられるかなって。そういうときって、やっぱり電話とかメールしてからのほうがいいですよね?」
「まあ、そうかもしれない」
「でも切羽詰まった用事なんて何もなくて、だから逆に電話とかメールは変かなって。でもせっかくここまで来たんだし」
何とも幸先の悪い出来事だ。旅に出ようとした矢先に、それを邪魔する相手が立ちはだかったのだ。
別に新幹線の切符を予約しているわけではないから、決まった時刻に到着しなければいけないわけではないが、のんびりとしている余裕もない。
それなのに彼女は明らかに事務所の中に入りたそうな素振りで、飴野の後ろの扉を見つめてくる。
「いえ、実はもう帰ろうと思ったんです。まあ、飴野さんの探偵事務所が実際に存在しているのがわかっただけで充分な収穫で。でも、やっぱりせっかくここまで来たのに帰るのもどうかと思って。それで、扉に向かって『開け開け』って念じていたんです」
「え?」
「念力です。そしたら念力が通じたようで、飴野さんが凄いばっちりのタイミングで出てきました」
「本当に申し訳ない。今日は事務所は休業だ。今から東京出張でね。今まさに、出発しようと思っていたところで」
飴野は山吹が入りたそうに見つめている扉の鍵を冷然とした態度で閉める。その代わり彼女の視界に、例のトランクケースを掲げて見せる。ほら、この通り、泊りの旅行さ。
「そうなんですか? 残念でした。だけど一番最悪なのは、事務所に来たのに、留守だったときで。会えて良かったです」
「東京から帰ったら、すぐに時間を作るよ。むしろ山吹さんには、こちらから連絡したかったくらいで」
「そうだったんですか! 迷惑だったらどうしようかと思っていたんですけど、それを聞いて安心しました。では、私も一緒に行きますね。あっ、東京までって意味ではなくて、新大阪まで。それとも伊丹から飛行機ですか?」
「新大阪のほうだけど。一緒に来るだって?」
「はい、私は一刻も早くこの失踪事件が終わって欲しいんです。そのためなら、どんな協力でもするべきだって考えに変わったんです」
そういうわけで、今日、こうやってお伺いしたわけです。
確かに山吹美香の協力は不可欠だろう。利用価値と言えば言葉が悪いが、若菜氏の行方を捜すため、彼女はまだまだ重要な参考人だ。冷たくあしらうわけにはいかない。
「わかった、一緒に新大阪の辺りまで行こう」と飴野は言ってやる。
25―6)
飴野は難波から御堂筋線の電車に乗り新大阪まで向かうつもりであったが、山吹のためにタクシーを拾う。
その前にコンビニに寄り、ミネラルウォーターを二本買い、一本を彼女に手渡す。事務所に客が来たとき、コーヒーを出すような具合に。
「新幹線でどちらに行かれるんですか?」と尋ねてきたのはタクシーの運転手のほうだ。
「東京? はあ、なるほど。お仕事ですか?」
ええ、まあ、そんな感じですと適当に濁すような返事を返しても、「ちなみにお仕事は何をなさってはられるんです?」と、運転手からの質問が続いた。
今日は運が悪いことに、お喋りな運転手に当たってしまったか。飴野はそう思っているに違いない。まあ、そのようなことの全てが、ただの作家の演出に過ぎないが。
このような世間話し程度の会話で、探偵ですと答える気など、飴野にはない。
「ええ、ちょっと」ミネラルウォーター関係の仕事ですと、飴野はそのペットボトルの蓋を開けながら適当に嘘をつく。
え? そんな仕事もしてるんですかと山吹は小声で驚いている。
「本当はあれとちゃいます? 愛人さんと遊びに行くんとちゃいますか。パッと見た感じ、仕事に行く雰囲気も見せませんもんね」
「いえ、まさか」
「大丈夫です、僕は口が堅いんで、誰にもね、そんなことを言いふらしたりなんてしまへんで」
「まあ、実は草津温泉まで」
「あら、やっぱり! 温泉不倫旅行ですか! どこでお知り合いに? やっぱりそういう相手はキャバ嬢さんなんですか?」
「いえいえ、会社の後輩ですよ」
運転手が愛人説を唱えたのは、山吹が濃いサングラスをかけているからかもしれない。確かにサングラスのせいで、普段は地味な大学生にしか見えないはずの山吹が、怪しい夜の雰囲気を漂わせていなくもない。
さすがに自分たちがそのような関係でないことを山吹は承知している。飴野が適当に作り話しをしているだけだとわかり、ミネラルウォーター関係の仕事という言葉も嘘だと気づいた様子だ。
愛人扱いされて山吹は怒っている。と思いきや、「草津温泉、楽しみね」と話を合わせてくるから、山吹という女性の性格を飴野は改め思い知る。
山吹の個性は常識外れのノリの良さ。いや、ノリが良いというのは正確ではないかもしれない。過剰なほどにロマンチストで、冒険や嘘や突拍子のないことが好きなのである。
さて、タクシーは新御堂を走り始めた。大阪の北部をまっすぐに伸びる道路。
新御堂は西日本で最も交通量が多いらしい。この幹線道路に乗って北上していれば、このまま新大阪の構内にまで辿り着くという便利さ。
その間も飴野と山吹とタクシー運転手の三人は、虚構の上に築かれた世間話しを、一瞬の沈黙もなく言葉を交わし続ける。
飴野も山吹も適当な嘘をつきまくるから、話しの辻褄は合わなくなっていく。タクシーの運転手だって、もう二人の話しを別に真に受けていないだろう。いや、そもそも最初から真実なんてどうでもいいという態度で、ただ車内の沈黙を埋めるためだけに客と会話していたに違いないが。
新御堂筋の隣を電車も並走していた。タクシーを使わなければ、飴野はそれに乗っていたはずの北大阪急行である。その線を走る列車は新大阪駅に辿り着くまで、地上に顔を出したり、地下にもぐったりを繰り返す。
二人は話し好きの運転手の言葉に応じるだけで、若菜失踪事件についての会話を交わす暇もなかった。
何より新大阪は、彼の事務所からそれほど遠くもない。山吹と特に情報交換をする間もなく目的地に到着した。
新大阪の駅のホームは、その道路の上を横切るようにして建っている。格子状というか柵のような窓が無数に並んでいる、そんな形容が正しいだろうか。その駅は美しさや崇高さを微塵も感じさせないが、それなりには印象的な建物だろう。
新御堂を使えば、その幹線道路を降りる必要はなく、そのまま坂になった道路を昇っていくと、新大阪駅の三階の入り口に車を横付けすることが出来るはずだ。
二人はタクシーを降りた。ここでお別れのはずであるが、山吹は新幹線の出発の時間まで駅で待つと言い出す。
彼女の言い分は十分に理解出来る。二人は肝心の話題について語り合えずにいた。
飴野はそれに応じる。いや、結局そのまま彼女は東京にまでついて来ることになるわけであるが。
25―7)
週末は休みだとか、月曜日から金曜日の9時から5時までが就業時間だとか、私立探偵業にそのような決まりはなく、飴野は時計やカレンダーに従わずに行動をしていると思うわけであるが、はっきりとそう言い切ることも出来ない。
何せ彼も社会を相手にしているわけである。部屋に独りで籠って何かを製作しているわけではない。
社会が活動している時間に、彼が活動するのが当然だろう。社会が活動していない時間帯や曜日に、彼も仕事を休むことが合理的に違いない。
東京出張の日が何曜日であるかという設定を私は決めないで書き出したことを思い出す。
会社員の山吹の仕事が休みのようであるから、きっと週末なのだろうけど、それならば東京にいる相手の編集者と会ったりすることが出来るだろうか。
それはもちろん会えないわけでもないに違いない。「すいません、土曜日なのに」と一言セリフを放り込めば、それで成り立つ。「いえ、何の問題もありませんよ。私は週末も仕事をしていますから」
そのような些細な日常性を一切読者に意識させずに、そのシーンを描き切るというテクニックだってあるはずだ。
そんなものは余計な情報なのだから、読みやすさや勢いを重視するべきで、そのシーンの真に重要な本質だけを描けばいい。
曜日だとか時間帯だとか天候なんて、全てはどうでもいい余分な情報。
しかし私は日常のリアリティーを重視しているというより、そのような些細なことがどうにも気になってしまうタイプで、一度それに引っ掛かってしまうと、きっちりと解決したくなる。
特に執筆が進まないときとか、どんなディテールを書くべきか悩んでいるとき、細かい情報に思いを馳せてしまい、その結果、更に執筆は行き詰まることになるのである。
とはいえ、それは仕方がない。そこで躓いてしまったのならば、しっかりとこの問題に向き合って解決するしかない。
「実は仕事を辞めてきました。この事件が解決するまで、この件に集中しようと思って」
というわけで、この日は何曜日なのかという疑問の果て、山吹にこのようなセリフを言わせることにしたのである。
これで今日という日は、平日の昼下がりでも構わないことになる。
「仕事を辞めたって? この事件のために?」
飴野は呆れた表情で山吹の顔をマジマジと見る。何ならば、飴野は初めて山吹の顔を間近に見た瞬間である。
確かにこの事件の当事者である佐倉も、仕事を休職しているようである。
同居相手の婚約者が失踪したのである。精神的にも体調的にも大変な状態であろう。彼女がそのようなことになるというのは理解出来る。
しかし当の佐倉が休職しているだけだというのに、ほとんど無関係の山吹は仕事を辞めたという。
山吹の行動の軽さに飴野は呆れているのである。
「君が仕事を辞めても何の意味もない。その時間をこの事件の捜査に使うわけにもいかないではないか」
「ところが、そのつもりなんです」
飴野はその回答を前に絶句する。
「いつか辞めようと思っていたんです。この事件は良いきっかけでした」
私の人生にはもっと色んな可能性があって、あんな仕事に埋もれて時間を無駄にしたくなかったんです!
山吹美香はそんなことを饒舌に語るキャラクターではなく、ただそれを行動で現わすタイプだ。
「驚いたね」
「そうですか」
飴野はこの事件を解決するために、山吹を利用してしまった。彼女から必要な情報を収集するためだけに、いさかか強引にこの事件に巻き込んでしまったと言える。
この事態はある意味、その副産物であろう。だとすれば飴野にも原因がある。彼女の人生を狂わせたのは飴野だ。
しかし山吹は平然としている。実はまだ退職届など出してなくて、サボったのも今日が初めてだったんですけど。一回でもズル休みしたら、そういうのを上手く修復出来ないタイプなんで。
そんなセリフを付け加えるべきかどうか悩んだが、もう必要ないだろう。彼女は完全に仕事を辞めてしまった。
25―8)
山吹は東京行きのチケットを持っていない。入場券だけを買って、構内に入って、駅のホームで彼の旅の出発を見送るだけのつもりであったのだから。
飴野のほうもその心積もりであった。新幹線が来て、「では、これで」と山吹と別れるのを当たり前だと思っていた。
一緒に車内の中に入って来て、「まだ話し足りませんから、途中まで行きますね」と言ってきたときは、この日最大の感情の波が彼を襲う。何度も何度も、山吹の振る舞いに呆れてきたが、そのピークが到来したというわけだ。
「いえ、東京までは無理ですよ。つまり、名古屋辺りで一人で下車して、下りの新幹線に乗り換えます。あれ? 東京方面行きが下りでしたっけ?」
原則、東京方面が上りらしい。しかし探偵飴野はそんなことを知らないから、それを正しはしない。そもそも、そんなことどうでもいいことである。
「チケットなしに、新幹線には乗れない。無理に決まっている。君だって新幹線くらい乗ったことがあるだろ?」
「ありますよ、一回か二回くらい。車掌さんが見回りに来るんですよね。凄く便利だと思います、車掌さんから直接、名古屋行きのチケットを買えるから」
そんな言い合いをしている間に新幹線が発車してしまう。
飴野は一息ついて、具体的に言えば上の棚にトランクケースを載せて、座席を少しだけ倒し、テーブルの上にペットボトルの水を置いて、隣に座っている山吹の存在の意味を改めて考えて、それを頭の中でまとめ上げたあと、言葉を発した。
「先に確認しておくことにするけど」
「何ですか?」
「どうせ君は東京まで着いてくるつもりだろ?」
「え? それもありですね。では、そうします!」
「もうそれでいいよ。こうなれば、ありとあらゆることを君から聞かせてもらう」
飴野も覚悟を決めて、山吹を旅のお供として受け入れることにする。
山吹美香は若菜氏失踪事件に心躍っているのである。
もしかしたら自分の協力で、その謎が解かれるかもしれないという事態に興奮しているというより、端的にその非日常性に興奮しているだけかもしれないが。とにかく東京でもどこでも着いて行く気だった。
飴野には戸惑いしかない。とはいえ、山吹はこの事件を解決に導いてくれるかもしれない協力者ではある。
彼女の突拍子もない行動は、彼の調子を搔き乱して止まないのだけど、有益な情報を提供してくれる存在であることは確かである。
探偵は人の話しを聞く。ひたすら聞き込みをして回る主体である。
そうやって、この世界の各地に飛び散った真理か真実かの欠片をかき集めて、それらをつなぎ合わせるのである。
山吹もまた、その砕け散った真理か真実かの欠片の所有者だ。
当然のこと、彼女が全てを知っているわけではない。彼女が持っているのは破片でしかない。
何ならば、その真実なんてものは、犯人ですら所有してはいないのかもしれない。
犯人の決定的行動。人知れぬ場所で為されたその犯行は、隠され、細工され、時間が経過して偶然も作用して、真実は当人すらも把握出来ないくらいに複雑に入り組んでしまい。
最後に探偵が開陳することになる、「その事件の真相」という物語だって、一つのバージョンに違いないだろう。
しかしせめて、その一つのバージョンを形作るため、探偵は捜査する。
そのために、山吹という参考人の言葉に耳を傾けるのは彼の義務。
25―9)
話しを聞いて回る探偵の姿をどれだけ魅力的に描けるか、探偵小説において最も重要なのはそういうものだと考えるのだが、別に特異な意見でもないだろう。
探偵小説から余計なものを削ぎ落していくと最後に残るのがそれだと思っている。
探偵小説はミステリーというジャンルなのだから、謎の魅力こそが最も重要だという当たり前の意見もあるだろうが、私の作品には関係のない意見だ。
いや、それが素晴らしいに越したことはないが。何せ謎が魅力的であれば、その謎を解明しようと歩き回る探偵の姿だって魅力的に映るわけであるから。
謎が、物語を駆動させる。リーダビリティを促す。それはその通りだ。
しかしそれに頼らなくても、面白い探偵小説を書くことが出来る。会話と、その会話が交わされる場を魅力的に描くことで。
もちろんのこと、「会話と、その会話が交わされる場」を魅力的に描くことだって簡単ではないが。私の作品が他の作家に比べ、それに成功しているとも思っていないのだけど。
さて、大阪から東京までの二時間半の旅、その間、探偵飴野は山吹から聞き出せるだけの情報を聞き出そうとするシーンである。
まず、飴野は自分の所有している情報を先に彼女に披露する。
「木皿儀という探偵が重要なことは間違いない。彼が何者であったのか掴むことが出来れば、この事件の本質に迫ることが出来るに違いない。君も彼に会ったことがあるんだろ?」
そもそも木皿儀という探偵の存在を飴野に教えたのが山吹である。飴野以前に佐倉に雇われていた初代の探偵のことを。
木皿儀という重要人物の存在を飴野に伝えるため、山吹はこの「占星術探偵シリーズ」にデビューしたのだ。それが作家から担わせられていた、彼女の最初の役割りである。
佐倉は婚約者若菜の日頃の行動を怪しく思い、その悩みを親友の山吹に相談した。「探偵を雇って調べてもらえ」が、そのときの山吹のアドバイス。
佐倉はそれに従い、木皿儀が所属していた探偵事務所を訪れた。
というわけであるから、山吹こそ佐倉と木皿儀を結び付けた人物でもある。そしてその出会いが、若菜失踪事件の発端でもあった。
「あります、一度だけですけど。彼女の付き添いで探偵事務所に行ったときです」
「どんな男性だったろうか」
「ワクワクしました。私、探偵とか刑事とか、そういう人に興味があったんです。でも出てきた探偵さんはイメージと違ってました。爽やかで清潔感のある普通の男性という感じで。私は無精髭の生えた、ヨレヨレの服装のアル中を想像していたんです! アル中で駄目人間だけど実は有能、っていうのが私の理想で、期待を裏切られてがっかりでしたね」
山吹は「自分」を押し出してくる女なのである。木皿儀という人物の情報を客観的な視点で教えてくれるのではなくて、まず自らの主観的感想を第一に伝えてくる。
そんなことは聞いてないぞというのが飴野の内心の感想。
「では、聞き方を変えよう。そのときの佐倉さんの様子はどうだったろうか?」
新幹線は適度に騒がしかった。二人は周囲に気を使って声のボリュームを抑える必要性を感じない。
とはいえ、話しの内容が内容だけに自然と小声になり、その分、二人の口と耳の距離は近づいていく。
「佐倉はずっと嫌がっていました。探偵を雇って、自分の婚約者を尾行させるなんて良いことだと思えないって。確かに今から思えば、本当にあれで良かったのかって私も疑問を覚えます。だってまず自分の恋人を信頼するのが第一じゃないですか? それなのに探偵さんに頼るなんて。間違ったアドバイスをしてしまった気がして。でも佐倉を不安にさせたのは若菜さんであることも事実で」
山吹は木皿儀について何も触れようとしない。その理由が飴野にもわかってきた。彼女は木皿儀のことを何とも思っていない。この事件のキーパーソンだということを理解していないのだ。
飴野はそれを改めさせるため、少しばかり彼女を驚かせるセリフを放り込むことにする。
「木皿儀と佐倉さんは男と女の関係だったようだ。二人は寝ていた」
一瞬、新幹線の車内全体が静まり返って、車両ごと、その言葉に衝撃を受けたような空気が流れるが、そのとき偶然、新幹線がトンネルの中に入ったのだろう。
「う、嘘ですよね? えっ、つまりどういうことですか?」
しかし東海道線の大阪らから東京の間の、最初のトンネルはどこにあるのだろうか。まだ新幹線は京都を過ぎて、滋賀辺りを進んでいるくらいのはず。私はこの箇所を読み返しながら、そんなことを思ったりする。
「探偵と依頼人、それ以上の関係だったってことさ。不倫と言えばそう言えるのかもしれない」
「本気で言ってるんですか?」
山吹は驚きふためいている。
「そんなことなんてあるんですか? 探偵と依頼人の間柄ですよ? えっ、飴野さんもそういうの、しょっちゅうなんですか? 嘘ですよね、不潔過ぎませんか。信じられません」
親友のこんなことも、彼女は察知していなかったのか。しかし逆にこの鈍感さゆえ、山吹という女性は信じるに足る人物だと感じもする。
25―10)
先日、山吹に会ったとき、彼女は厚手のコートを着ていた。この物語の季節は春という設定であるが、その日に彼女が着ていたのは真冬のコート。
細くて華奢な彼女の身体を、分厚目の生地がふっくらと包んでいた。確かにまだ肌寒い日はあるが、桜は満開か散り始めた季節だ。
しかしその日から数日しか経っていない。今日は特別暑くもない。特段、季節が一歩先に進んだわけでもないのに、今日の山吹はコートを脱ぎ棄てて、それどころか半袖のTシャツだけの姿である。
まるで夏の避暑地でアイスクリームでも食べているような恰好をしている。麦わら帽子こそ被っていないが、その代わりサングラスを頭につけていて、充分にバカンスの浮かれた雰囲気を漂わせていた。
そのTシャツにはモーツアルトの顔がプリントされていて、薄ら笑いを浮かべている。
丁度良いところで踏み止まらずに、極端から極端に振れてしまう性格。作者である私が山吹に与えたかったキャラクターというのはそんなところだろうか。
春と秋がなくて、夏か冬しかない性格だ。いや、それは性格というよりも、ある種の弱さ、短所なのかもしれないが。
そんな山吹は飴野の先程の言葉を聞いて、ちょっとばかりショックを受けている様子である。彼女は何事にも大袈裟な反応を示すから、内心はその態度ほどでもないかもしれないが。
「佐倉は子供のときからモテモテでした。私が知ってる限りでも百人くらいの男の人が告白して、彼女に振られて。まあ、百人は言い過ぎかもしれません、でも十五人くらいは確実にいました」
山吹と佐倉は親友である。しかし二人はまるで似ていない。
似ていることが親友の条件なんてことはあり得ないだろうが、会話をするにしても一緒に遊ぶにしても、共通点は重要ではないだろうか。
それなのに佐倉と山吹の二人の間に、そんな感触は一切ない。
佐倉は「現実」が九割を占める世界に住んでいると言えるだろうか。仕事と酒とセックスと人との交流。
山吹は「空想」が九割を占める世界の住人だ。趣味が人生の中心にある。
俗な言い方をすればリア充とオタクの違いということになるが、小説の中ではそのような言葉を使いたくないので、行動や雰囲気でその違いを表現するべきだ。
占星術で例えると簡単である。佐倉は風と地の星座が多く、それでいて程よくバランスが取れているホロスコープの持ち主。山吹は火の星座が多く、地の星座が著しく欠落していて、一方に偏っている。
占星術に興味がない人には、むしろ伝わりにくくなってしまったかもしれない。いはゆる、属していたスクールカーストが違うはずなのだ。佐倉彩は上位にいて、山吹は下位に属していたというよりも、そもそもそのピラミッドから外れたところで独りゴロゴロとしているタイプの女。
とにかく二人は似ていない。本当に仲良くやっていたのかと疑いたくなる。
その親友のパーソナリティーを、最初から佐倉と似たタイプにしておくべきであったが、しかし作家にはきっと手癖のようなものがあって、自分好みのキャラクターを造形したら、自然と山吹タイプになってしまったということだ。
実際、佐倉のような登場人物を上手く動かすことが出来ていないが、山吹は自在に動かすことが出来ている。
ある意味において、山吹美香は成功しているキャラクターだ。
動かしやすいキャラクターを造形することが出来て良かった一方、その人物は佐倉の親友に相応しくないのではないかと、後から後悔しているパターン。実はそれが最も肝心な属性であったのに。
とはいえ、私は困りつつも、ちょっとした小細工を施すだけで、二人が親友であるという設定に説得力に持たせることが可能であることもわかっている。別にそれほど難しいことでもないだろう。
「家が近所で、小学校と中学校のある時期まで毎日遊んでました。親同士も知り合いで」
「あの子と一緒に銀行の受付ごっことか、美容師ごっことか、エレベーターガールごっことかやってましたね。おままごとなんてすぐに飽きたんで」
「でも一時期疎遠になった時期もあるんです。佐倉にボーイフレンドが出来たときです。彼女は学校一の不良と付き合い出したんです。中学生の癖にタバコを吸ってる男子でした。その人もモテモテで」
「その不良とはすぐに別れたみたいなんですが、その後、あの子に別の友達も出来て。派手でかわいい子たちです。私も塾に行き出したんでね」
「私たちが親友に戻ったのはここ数年のことで、お互い社会人になってからです。あの子が若菜さんと付き合い出した頃だと思います」
実は佐倉彩の本質だって、大人しい少女ということにしておこう。山吹が提案する「銀行の受付ごっこ」や「エレベーターガールごっこ」の相手を喜んで務めてくれるような女の子だった。
しかし佐倉彩の美が、周囲から抜きん出た生来の性的魅力が、彼女を派手な世界に連れ去っていったのである。
その力学が佐倉と山吹の親友関係を引き裂いた。
高校は別だ。大学も違う。二人とも社会人になり、地元に残った同士でまた会うようになり、以前の仲を取り戻したような案配だ。
「佐倉といるとウキウキします。あの子はお洒落できれいで、全てにおいてちゃんとしていて。私もそんな女性になりたかったんですが」
25―11)
佐倉と山吹はその性格、行動、雰囲気や生き方など何一つ似てはいないわけであるが、とはいえ、山吹美香は佐倉彩の分身だと解釈が出来るに違いない。
例えば山吹のこの物語の中での役割りを、佐倉一人に集約することは不可能ではなかったはずだ。
佐倉はこの物語のファムファタルという存在。飴野と佐倉はもっと頻繁に顔を合わせたり、心をぶつけ合ったりすべきであるのに、彼女の出番は少ない。
私は佐倉との衝突を避けて、山吹という登場人物のほうへ逃げてしまったような気もする。
佐倉のセクシャルな大人の雰囲気を前にして尻込みしてしまったのだろうか。
この東京出張の同行者だって、佐倉であっても問題はなかったわけだ。作家として、私は佐倉という登場人物を動かし損ねていたに違いない。
先程から何か反省しきりであるが、それはきっと正しい反省。
もっと動かしまくりたくなるような特別な個性。それを上手く設定することが出来なかった。
そもそも佐倉のようなキャラクターを描くことが不得意だったのだろう。その結果、山吹という登場人物が生まれ落ちたとも言える。
しかし、そんなことを思う一方、佐倉彩がフットワーク軽く動き回るタイプの登場人物ではないことも確かなのである。
彼女は突然、きまぐれに飴野の事務所にやってきたりはしない。ましてや東京に同行するなんて軽い行動に出るはずもない。
重くて、不動な、占星術でいえば山羊座的な特性の人物。飴野が彼女の部屋のドアを何度もノックして、ようやく返事を返す女だ。
だとすれば山吹美香が誕生したのも必然的だったとも言えるのだけど。
山吹美香はペラペラと喋る。佐倉彩と対極に位置する軽さ。彼女は車内販売で買ったアイスクリームの硬さと格闘しながら、飴野に唾を飛ばし、こんなことを発言する。
「若菜さんは私っぽい人だって佐倉は言ってました。私に似てるらしいんです」
その言葉を聞いて、飴野は二人のホロスコープを思い出してみる。しかし特別な共通点を思い浮かべることは出来なかった。
「どんなところで似ていたと、佐倉さんは思ったんだろうか?」
先程から似ている似ていないという話題が続いている。それに辟易してしまいそうであるが、我慢して自作を読み返すとしよう。
「さあ、わかりません、何となく聞き流して、それについて深く追求なんてしなかったから」
「そういうところが似てたのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「自分自身の評価に無頓着なところだ。普通なら気になるはずなのに」
「あの子の説明がイマイチ腑に落ちなかったんですよ。そういえば好き嫌いが異常に多いところも似ているって言ってたような。キノコ、ナスビ、トマト、カニ、生魚、若菜さんも嫌いらしいです」
「あっ」と山吹は声を上げた。
「今思いついたんですけど、私と若菜さんが似てるから、佐倉は若菜さんのことで私に相談してきたのかもしれませんね。だってこんな女ですよ、私。普通、私に恋愛の相談とかしますか?」
「確かにそうだ」
「そんなことないよ」ってお世辞でも言って下さいと早口で言いながら、山吹は飴野の返事を待たずに先を続ける。
「若菜さんは、これまで付き合ってきた人と全然タイプが違うって佐倉は言ってて。ふーんって感じなんですけど、いったいどれだけの人数と付き合ってきたんだって。でも佐倉もけっこう悩んでたし、あの子の力になれるのは嬉しいから、必死にアドバイスしていたんですけど」
しかし、そんな山吹が最終的にしたアドバイスが、若菜を探偵に尾行させろというアドバイス。ある意味、山吹は最悪な行為を唆した。その結果、佐倉と若菜は離別する。
いや、彼女もその事実を重く感じているからこそ、これほど飴野に協力的だとも言える。山吹の行動は彼女なりの誠意だ。
25―12)
「若菜さんについてもっと詳しく教えて欲しい。君は彼に何度も会ったことが?」
飴野は山吹に質問を投げた。実はここが重要な場面なのだ。山吹美香は若菜真大という、いまだ謎の多い失踪者についての情報を発表するため、この場に召喚された。
「何度か、って程度です。でも二人きりになったことはないし。それに佐倉に悪いじゃないですか、私が若菜さんと仲良くし過ぎると。だから気を遣って、わざと素っ気ない態度を取って、仲良くならないようにしていたんです!」
山吹らしい。子供っぽくて、独善的で、独りよがりな根拠だ。それを堂々と語って来る。飴野は苦笑いするが、それについて口を挟まない。
「何だか仙人みたいっていうか宇宙人みたいっていうか、何にも囚われない自由な感じ」
「え?」
「若菜さんの印象です。変わった人なんです、全てに対して超然としているっていうか」
「それが若菜氏に対する君の印象?」
「そうですね。動物で言えば猫、いえ、それより爬虫類系でしょうか」
山吹のその言葉を聞いて、飴野は戸惑いを感じる。何か飲み込めないものを感じながらも、違った角度からの質問する。
「彼に他の女性がいた気配は?」
「わかりません。いたのかもしれません、モテそうな男性でしたから」
「君にはそう見えていたのか」
「え? だって、あの佐倉を口説き落とした人ですよ! ちょっとした遊び人って感じでしたよ。だからあの子も、浮気を疑っていたわけで。佐倉は彼にベタ惚れで、絶対にあの人を失いたくないって必死で」
飴野は更にその違和感を覚えるのである。どう考えても、彼がホロスコープから読み取っていた男性像と違う。
飴野は若菜の写真を見ている。彼が話す動画だって、佐倉から見せてもらっている。
飴野だって若菜がモテないタイプとは思っていない。あの佐倉の隣にいても決して不釣り合いではない男性として、それらの記録媒体には残っていた。
その上で齟齬を感じるのだ。飴野がホロスコープから割り出した若菜の人物像、そして残された写真と動画を加味した若菜という男は、「遊び人」なんかではないと。
そんな人物ではないからこそ若菜は佐倉と仲違いして、逃げるようにしてアルファ教団にハマり、その果てに・・・。
山吹が気軽に発した言葉は、その推理をつまずかせる発言だ。ましてや佐倉が彼に「ベタ惚れ」だったという意見もピンと来ない。
それともう一つ、その前の山吹の発言にも首を傾げてしまう。「何にもとらわれない自由な感じ」だって?
そんな自由な雰囲気を発している人間が、カルト的な自己啓発にのめり込むなんて思えない。
不器用で、生真面目で、生きにくさを覚えている者が落ちてしまう穴、それがそういう類のセミナーではないのか。それともその意見は飴野の偏見だろうか。
もしかしたらアルファ教団という自己開発セミナーでの自己改造の果て、全てに対して超然としている自由な人格に成り果てたという可能性もあるが。
いや、そもそもどこまでこの女の発言が信用出来るだろうか? 男性一般に対する認知が歪んでいるのかもしれない。
ちょっとでも複数の女性と親しくしていると、男をプレーボーイ扱いする輩。
無視しておいて問題ない情報なのかもしれない。実際、彼はその情報をスルーして、また別の質問を山吹にぶつける。
「彼に友人は多かったのだろうか?」
「どうですかね、そんな感じには見えなかったです。あっ、でも、そういえば」と、ここでさりげなく重要な情報を山吹は再び発することになるのであるが、その情報が重要であることに、飴野はまだ気づくことは出来ない。
「奇妙な友人がいると佐倉は言ってました。けっこう年上の男性らしいです。その人と月に何回も会ってるって」
「ふーん」
彼は念のためにその情報をメモしておくが、優先順位Cとそこに銘打ってだ。
「その年上の男性とやらを、君は見掛けたことは?」
「ありません、佐倉だってなかったようです」
「だったら、そんな友人と会ってはいなかったのかもしれないね。それこそ言い訳だよ、佐倉さんに嘘をついて、その実、アルファ教団に通っていた可能性が大きい」
「あっ、そうか」
「しかしそれにしては、変に具体的ではあるけれどね、年上の友人なんて」
飴野は優先順位Bに改めようかと二重線を引きかけた。しかし止める。そのままCにしておく。
彼は若菜氏のホロスコープを思い起こして、そこに重要な友人的存在を現わすサインがあったかどうか想いを馳せる。
そもそも山吹は佐倉のそのサインから探し出した人物である。若菜にだって山吹のような友人が存在していても何ら不思議ではないのだ。
しかし山吹を探し出せたのは、彼女が佐倉の同級生であったからだ。その卒業名簿などから運良く探し出せた。
しかし年上の友人など、星を使って探すのは不可能に違いない。
25―13)
飴野と山吹が乗っている新幹線はようやく三河安城駅を定刻通り通過したらしい。それでも東京はまだまだ遠い。
飴野との会話に飽きると山吹はそれを勝手に打ち切り、到着までの間、静かな寝息を立ててぐっすりと眠ることになるので、二人の会話が到着までずっと繰り広げられるわけではない。幸いなことに、もうすぐ飴野は山吹に解放されるだろう。
しかしもう少しだけ二人の会話は続く。今度は飴野が話す番だ。
山吹から貴重なことが聞けたと探偵は思っている。それは思わぬ収穫だったと認める。
彼は彼女の協力に報いるために、どこまでこの事件の捜査が進んでいるのか、いくらか情報を開示してやる。
「もしかしたらアルファ教団なんて存在しないかもしれない、そんな可能性も考えたんだ。それは木皿儀という探偵がでっち上げた架空の組織なんじゃないかってね。彼は佐倉さんに惚れた。佐倉さんと若菜さんの間を決定的に引き離すため、そんな出鱈目の調査報告を作り上げて、彼女に提出した」
「まさか、本当ですか! 私たちはすっかり騙されていたわけですか」
山吹は興奮して声を上げる。
「てっきり若菜さんは!」
彼女もアルファ教団がどのような組織か知っている。若菜がその組織に深く関わっていたことは、佐倉に対する裏切りだと考えているよう。
「木皿儀は探偵だ。佐倉さんを騙そうと思えば、それが簡単に出来る立場にあったと言える。いや、でも、やはりその組織は実在するんだ」
「あっ、どっちなんですか、いったい」
「木皿儀のでっち上げの可能性も考えたってことさ。しかし彼が佐倉さんと若菜さんを引き離すための嘘をつくとしても、そんな面倒な組織をここに関わらせる必要なんてない。ただ単に別の女がいた、あの男は浮気をしている、そう報告書に書けばいいわけだよ。その組織自体は存在する。若菜さんもおそらく、そこの会員だったはずだ。少なくとも佐倉さんはそれを信じ込んだ。木皿儀がそれなりの証拠を提出したからだと言える」
「はあ」
「しかし、他の女性と浮気していたという証拠をでっち上げるより、この組織に関わっていたという嘘を捏造するほうが簡単だった可能性もあって。それに、女性にとって浮気されていたと教えられるより、その組織と関わりのあることのほうがショックだろ?」
「そうですね、アブノーマル過ぎる組織ですからね」
結局のところ、まだ何も確かなことは言えない。探偵は常に全ての事実を疑いながら捜査するものだと飴野は山吹に言う。
「今のところ確実なことは、木皿儀と佐倉さんがそれなりに深い仲だったということ、少なくとも依頼人と探偵という関係は越えていた」
「まだ信じられません。佐倉がそんなことをしていたなんて」
飴野は彼女のその発言をそのまま真に受けない。山吹がどこまで佐倉の貞淑を信じているというのか。
「若菜失踪事件を解決するため、これから捜査しなければいけないことはアルファ教団について詳しく調べること」
飴野は山吹に語り掛けながら、自分にも言い聞かせるのである。
「アルファ教団がどんな組織なのか把握しておきたい。この東京出張の目的はそれさ。アルファ教団について世界で一番詳しいジャーナリストがいる。その人に会うためだ」
「そうだったんですか」
「それともう一つ、木皿儀という男が何者であったのか知ること。それもこの事件の鍵となるに違いない。当然、出来ることならば彼に会って話しを聞きたい。しかしそれは無理そうなんだ。実はもういない」
「え?」
山吹はまだその事実を知らない。
「実は木皿儀という男は死んでいる。自殺したらしいんだ。佐倉さんの近くで一件、別の事件が起きていた。だからもう今では、若菜さんはただ単に家出したとか、姿をくらましたとか、そんな範疇を出ている。何かしらの暴力が発生していた可能性がある」
「本当なんですか、それ?」
さすがに能天気な山吹美香も深刻な表情になる。
「本当に本当なんですか?」
しかしその発言後すぐに、山吹はぐっすりと眠りに落ちるのであるが。