27)占星術探偵「ラブコメに頻出するシーン」

文字数 24,445文字

27ー1)

 百合夫君は帰った。彼と一緒にイズンも立ち去ったようであった。佐々木とも別れ、私は自室に戻る。今、部屋に完全に一人である。
 孤独を感じている場合ではない。寂しさを覚えるべきではない。それを断ち切るように、探偵の世界に再び戻ろう。というより、小説の中の世界へ。
 我が作品の登場人物たち、飴野と山吹というおかしな組み合わせのカップルは東京に向かうために新幹線に乗っていた。もうそろそろ二人は東京に到着するはずである。その続きのシーンを読み返す。

 いや、その前に考えておきたいことがあった。それに突然、頭の中のモードを切り替えられないことも事実で、私の傍にはまだ百合夫君がいて、イズンがいるから。
 身体つきは華奢であるが、それなりに長身で、自信に溢れ、雰囲気が華やかで、それでいて風のように爽やかな男。
 百合夫君の美しい声はまだ私の脳内で木霊している。あれほど存在感が強烈な人物の気配が簡単に消えるはずもない。
 即座に仕事を始められるわけがないのは当然だとしても、それはそれとして、彼との会話の途中、ふと、私の脳裏を過ぎった興味深いアイデアがあった。次の作品として書かれるかもしれないアイデア。それについても点検しておきたい。
 私はPCをまだ立ち上げず、部屋にある黒板の前に立つ。何か考えごとするときの私のスタイル。この黒板に頭の中のモヤモヤを言語化するのである。

 例えば、ある作家を熱烈に愛する読者がいる。私も読者として様々な作家を愛して、その影響を受けて、小説を書いているわけであるが、そのような愛し方ではなくて、この場合、もっと疑似恋愛に近い愛のほうのこと。
 もっとわかりやすく喩えを持ち出すならば、スターとファンの関係のことである。
 当たり前のようにファンがスターを愛して、その振る舞いに注目して、熱狂したり、ときには落胆したりして、その関係を継続したり、切り上げて他のスター的存在に依存したり。
 とにかく矢印の方向性は、ファンからスター的存在へ向かっている。受信側から発信側へ、である。
 しかし今の私のその興味の矢印は、その逆ではないのかと思ったわけである。私という作家からイズンという読者への矢印。
 私はスターなどではないが、発信する側の人間である。一方、イズンは受け取る側の存在、という限定は適切かどうかわからないが、とにかく読者だった。

 次の作品でイズンを取り戻すなどという発言を、私は百合夫君に向かって何の気なしに発したりした。
 それは本当に私の心の底からの願望であり、意思であるが、そこにちょっとした興味深い逆転現象が起きていると思ったわけだ。
 つまり、私のほうが追いかける立場になったわけである。
 いや、その願望はそれほど切実でもない。イズンという読者は、私にとって何が何でも必要な存在とまでは言い切れないと思う。
 いなくなってしまうのならば、それも仕方がない。諦めよう。別に彼女のために書いていたりしない。
 しかしこれは小説のアイデアとして使えるのではないか。
 その感情をもっと増大させ、とことん極端にする。ある一人の読者に、ストーカーのように執着する作家を描くのだ。

 「どうやったら読んでもらえるのだ?」

 「なぜ君は僕の作品を追いかけるのを止めてしまったのだ!」

 そんな感じで、その特別な読者の一挙手一投足を見張り続けるのだ。

 それはネット社会、SNSの普及が引き起こした現代的な事象なのだろうかと思ったりもするが、しかしもっと以前から、作家と読者は文通など、あるいはサロンという場によって直接的につながっていたようである。
 明治大正、戦前の昭和の頃など、今ほど出版業も盛んではなくて、識字率の正しい数字は知りえないが、読者の数が限定されていたとすれば、作家と読者は狭い世界でもたれ合っていたわけである。
 実際、私小説「蒲団」などは作家と、元は読者だった弟子との関係を描いた愛憎劇ではなかったろうか。太宰治だってこのような短編を書いていた記憶もある。
 だとすれば、作家と読者の近しい関係というのは、別に珍しいものではなかったと言えるかもしれない。
 イズンへのこの生々しい感情がそのまま、物語になるのではないかという可能性だ。
 私はそんなアイデアを思いつき、少しばかり感情がさざ波立った。



27―2)

 田山花袋のその作品については、以前にも違う話題でも私は言及した気がするのだけど、その癖に私はしっかりとその作品を読んではいないのである。
 長くて難解そうだから読んでいないのではない。何となく小馬鹿にしているから手に取っていない。
 しかし読まなければいけない。読んでいないからこそ、私は大変な誤解をしていて、こう何度も言及してしまっている可能性がある。

 おそらく「蒲団」は一種の恋愛小説のはずである。読んではいないからはっきりとしたことは言えないのだけども。
 元は読者だった弟子との恋愛模様を描いた作品。
 しかしその男性作家と女性読者の関係が恋愛などに進展してしまえば、それは特別なことではなくなり、何ら特筆に値しなくなると思う。
 私が追求したいことはそういうことではない。そんなものはただの恋愛小説に過ぎなくなる。だから私は「蒲団」をそれ程評価していないわけである、いや、しかしまだ読んだことはないのだけど。
 作家とある特定の読者、その間に、恋など介在してはいけないのだ。
 作家からの発せられる感情は、ただ単に、「俺の作品を読んでくれ」だけ。しかしその感情は恋愛並みに熱く重い。

 ある時期まで、作家と読者の距離は近かっただろう。しかし知が大衆化して、読者層の幅が広がり、徐々にそれは遠ざかっていったはずだ。
 当然、戦後はその傾向に拍車がかかったに違いない。これまでは確かな姿をしていた読者が、もはや「数」でしかなくなった時期が到来したわけだ。
 それはつまり、何者かよくわからない「誰か」になった。しかも入れ代わり立ち代わり、次々と移ろってゆく。それでも、その何者かは本を買い、活動を支えてくれる。

 そんな時期が長らく続いていた。しかしSNSの普及でそれも変わったわけである。
 読者は具体的な姿で、再び作家の前に立ち現れてきた。
 そうだとするとこれは現代的な事象だと言えて、作品にしてみる面白味が十分にあると言える。

 私は「蒲団」を読むべきだ。いったいどのような作品なのだろうか。ワクワクしてきた。本棚にはなくても、電子書籍で簡単に読めるだろう。
 いや、それも必要な作業であるが、今すぐに取り掛からなければいけないことではない。
 それより私は自作の読み返し作業に立ち向かうべきである。それこそが私の仕事。
 別にノルマなどはないが、これをしっかりとこなさなければ一日を気分良く終えることは出来ない。
 飴野はある編集者に会うために東京に向かっていたのである。ひょんなことで、その旅に山吹美香もついてきた。
 新幹線は速く、事故もそうは起きない乗り物のはずだから、二人は時刻通り無事に東京に着いただろう。
 その日、東京中で雨が降っていたという設定にしたはずだ。せっかく目的地に到着したのに、心を萎えさせるような土砂降りの雨。
 まだPCが立ち上がらないので確かめられていないが、まあ、私が書いた作品であるからまずは間違いない。その記憶は定か。
 しかしそれは飴野と山吹というカップルの身体的距離を更に近づけるため、作者である私が降らせた雨。
 一つの傘の半径内で、この二人は肩を寄せ合うことになるだろう。

 ところで東京で雨が降る場合、しばしばその低気圧は先に九州を通り、その後、大阪でも雨を降らせているはずだ。
 西にいれば東の雨など予知出来る。それなのに二人は雨に驚いているという描写があるはず。
 それではいけない。だから、この日の雨は日本列島を西から横断してきた雨雲が降らせているのではなくて、太平洋の南から斜めに北上してきて、直接関東に乗り込んできた雨だったということにしよう。
 だから飴野は傘など持ってきていない。
 ようやくPCは立ち上がり、私は読み返し作業を始める。

 「雨ですね。雨が降るなんて。これはけっこうな雨ですよ」

 山吹は雨というごく当たり前の気象現象を前にして無駄に騒ぎ立てている。激しく動揺していると言ってもいいだろう。

 「どうしますか? 諦めますか? 目的地まで一目散に走りますか?」

 「面倒だけどコンビニでビニール傘を買おう」

 「その方法がありましたね」

 飴野は待ち合わせの相手に電話をかけている間、山吹に傘を買って来てもらう。何を思ったのか彼女は一本しか買って来なかったのである。
 彼女は非常識な女であるが、それなりに倹約家なところがあり、使い捨ての同じ傘を二本買うのは勿体無いことだと考えたよう。そのせいで、飴野は窮屈な思いをするのであるが。

 「これからあるジャーナリストに会って来る。直接この事件を解決に導く情報をくれたりはしないのだけど、アルファ教団を調べるためにはとても重要なことを教えてくれると思う」

 なぜ一本しか買わなかったんだ? だって勿体ないと思って。そういう遣り取りを交わした後、飴野はこれからの予定を山吹に伝える。

 「楽しみですね。腕が鳴ります」

 「長い仕事になりそうだ、明日の朝、会おう。明日、東京駅で待ち合わせするとして、それまで君は東京観光でもして好きに時間を使ってくれ。申し訳ないのだけど、夕食も一人で済ませて」

 「え?」

 山吹はその言葉を驚きを持って受け取る。そしてすぐさま、自分は相変わらずそそっかしいと反省するのである。いつの間にか、飴野の助手の気分に浸っていたと。

 「わ、わかりました。雨も強くなりそうなので、観光なんてする気分ではありませんが」

 彼女の言葉通り、雨は強くなる一方で止みそうな気配はない。



27―3)

 東京駅で別れるつもりであったが、まだ飴野は山吹と一緒に山手線に乗っている。世話のかかる奴だ。飴野は内心うんざりしているのである。
 非常な心で、この足手まといを追い返しておくべきであったと。新大阪駅で、だ。いや、せめて東京駅で。いったいどこまで彼女は着いて来るのだろうか。

 「そういえば君はホテルも取っていないはずだ、その代金は僕宛てに請求してくれればいい。僕はビジネスホテルを予約している」

 君が泊まるのもこれくらいのランクのホテルにするのだ、と飴野はそれとなく伝える。何やらひどくケチ臭い男であるが。
 「二本も傘を買うのは悪いと思って」と一本しか傘を買わなかった山吹である。金銭感覚面は常識的だろう。まさかスイートルームの料金を請求しては来ないはずであるが、飴野は山吹を疎ましく思い始めていたので、冷たい言葉で釘を差す。

 「一人で旅行なんてしたことなくて。どうやって宿なんて取ればいいのかわかりません」

 「ネットで検索すれば、全ては解決するよ」

 飴野は山吹をさっさとあしらって、目的地に向かって急ぎたい。時間に余裕がないわけではないが不案内な街だ。しかもこの雨。少しでも煩わしいことを減らしたいのに。
 やがて二人の乗った電車はそのジャーナリストが働く事務所のある五反田に到着した。飴野はこの街の居酒屋で彼と待ち合わせしている。

 「そのお店まで一緒に行きます」

 そんなことを言ってくる気配は十二分にあった。飴野は驚かない。山吹は初めて来た東京の街に意外なほどナーバスになっている。

 「ほら、だって傘も一つだし」

 「わかった、その店まで送ってくれ」

 ということで、飴野と山吹が一つの傘を差して歩くシーンが描かれるわけだ。

 「しかしここまでにしてくれ。僕は本気で若菜氏の行方を探しているんだ。そのジャーナリストとの会合に君を参加させる気は断固としてないからね」

 「わかっています、飴野さんの提案通り、この雨の中、東京観光してきます」

 駅を降りて、目的の居酒屋を探す必要があった。その店はジャーナリストの男性が働くビルの近くにあって、駅から近いわけではない。二人は一つの傘で、雨の中に出た。ビニール傘は途端に騒ぎ始める。
 コンビニの小さな透明の傘の下は、ある種の密室である。棺桶やロッカーの中に二人で入ったほどの密着はないが、それに次ぐくらいの。
 飴野と山吹の距離はゼロだ。そのときの二人が何を考えていたのか何も書いてはいないが、お互いのことを恋愛の対象として多少は意識したのかもしれない。
 というわけで、飴野と山吹のこの東京旅行で起きる、宿泊するホテルに関連するエピソードの顛末について先に触れておくと、ジャーナリストとの会合を無事に終えて、深夜疲れ果ててホテルに来た飴野は、ロビーで彼を待っている山吹と会うことになる。
 ホテルなど取れませんでしたと、彼女はあっけらかんと打ち明けてきて、そして一つ部屋で夜を明かすことになるわけである。

 ある種、お決まりのパターン。男女がこうして二人で旅行して、その夜、宿が取れないことが判明して、二人は同じ部屋に泊まることになり、何か寂しかったり、人生が虚しかったりして、酒の勢いもあり、あるいは大停電が起きたりさせたっていい。
 その密室で飴野と二人きりになったとき、山吹は親友である佐倉が自分で雇った探偵と寝ていたという事実を思い出すだろう。「私だってこの男と寝るという選択肢がなくはない」とか、そんな考えが過ぎったり。

 定番の展開なのである。曖昧な関係の二人が、同じ部屋で一夜を明かすことになるという古来からのシチュエーション。
 私はそのようなものを書くために飴野を東京への取材旅行に赴かせたわけではないのだけど、期せずして山吹が着いてきて、どうせならばといった軽い動機で、そのようなシーンにチャレンジしてみた。
 とはいえ予感だけ、気配のみ。飴野と山吹の間に決定的なことは何も起きない。この二人の人間関係を決定的に変貌させる前進などは決して。
 二人が身体を重ねたりなんてことはありえないのだけど、とはいえ、それなりに際どいシーンを用意しなくては、山吹が東京まで着いてきた意味だってなくなってしまう。
 「男女二人で旅行した」というエピソードを完結させる必要があるのだ。だから、ちょっとした甘やかな雰囲気を立ち上げなければ。

 山吹はいくらか重要な情報を提供して、捜査の役には立った。新幹線の中の長々と交わした会話で、このチャプターの役割りは務め終えたと言えるだろう。
 もうお役御免だ。退散してもいい。それはある面においては事実なのだけど、ある面においては確かなことではなく。
 読者たちはきっと、ある種の期待を抱いているに違いなのである。ラブコメディ的な作品に有り勝ちな約束事を。
 作者はそれを匂わせ、利用したのであるから、解決を見せなければいけない。その面白さをそれなりの形にして書かなければ、この章を完了させられない。そのような義務のようなものを負ってしまっている。

 まあ、そのシーンはまだ時系列的にはもう少し先なので、また後で言及することにするとして。とにかく、この先、飴野と山吹との間で一波乱起きる。
 物語の筋にとって重要なのは、ジャーナリストとの会合のほうだ。それはもう、段違いにそちらのほうが重要。
 まずそれを消化しておかなければいけない。



27―4)

 その記者が働いているのを東京か大阪にするか、私はいくらか悩んだはずだ。
 アルファ教団の本部は大阪である。しかしその組織は全国規模、何ならば海外にも進出しようかという勢いらしい。
 アルファ教団は関西ローカルな組織ではないということを強調するためにも、その記者は東京在住ということにしよう。
 やはり東京は情報の集積地だ、メディアに乗っかるような情報は東京で手に入れる。そんなリスペクトのようなものを、その地に捧げようではないか。
 というわけで、我らの探偵飴野は東京に出張してきた。その男は出版社に雇われている記者なのか、フリーの記者なのか、その辺りは曖昧だが、とにかく「アルファ教団」を取材している人物が飴野の前にやってきた。

 いや、まだ来ない。その記者の役割りを、飴野に「アルファ教団」についての情報をもたらすだけの者とするか、それともこれからのシリーズにおいても度々登場する、情報提供者として機能させるべきか、そんなことについても悩んだ。新しい登場人物を作るとき、私はしばしばそのようなことで悩むのであるが。
 そういう迷いが生じたら必ず後者を選んでしまう。登場人物を造形するのはそれなりに面倒な行為で、せっかく作り上げた人物は何度も利用したいというのが作家の心理といったところか。
 このシーン一回限りで終わりというのは勿体無い気がするのである。
 それに無駄な登場人物を増やしたくはない。出来るだけ一人の人物に役割りを集約させる。
 というわけで、このジャーナリストはこの作品だけではなく、シリーズのレギュラーとなるのだけど、しかしこの時点では「占星術探偵」がシリーズ化するかどうかなど決まっていないのだから、果たしてレギュラーとして登場したという言葉が相応しいのかどうか。しかし私にその気があったのは事実。

 さて、やってきたようである。
 その男はヘヴィメタバンドのTシャツを着ている。どうやらそれを自分のアイデンティティとしているようである。
 長髪だ。耳や鼻にピアスはしていない。ジャラジャラと鎖やら、鋲のついた腕輪などもしていない。
 ヘヴィメタ愛好家としてはソフトな格好ではあるが、その時代遅れの汚らしい長髪はインパクトがある。
 飴野が第一印象で感じたように、その男はいまだバンドロックを愛好している。
 パンクではなくヘヴィメタだ。パンクには政治的メッセージが含まれているが、ヘヴィメタにそんなものは皆無。
 80年代という時代とつながっているヘヴィメタは、病んだメンタルを反映もしない。きわめて健全なミュージックだ。
 ヘヴィメタのミュージシャンたちは練習熱心で、演奏が上手いことをプライドとしている。それゆえに生真面目で、その結果、無害。
 その男の仕事に対する態度もそんな感じである。ジャーナリズムで巨悪を打倒して、世界を変えようなんて考えていない。
 傍観者であり観察者。情報の収集者。コレクターなのだ。それがこの男、海棠の人物像。
 そう、名前は海棠。本名なのかペンネームなのか飴野は知らない。見た感じは三十代後半か四十代前半といったところ。飴野よりも十歳ほど年上。
 巨漢だ。背が高い。そのベタついた長髪と服装は、何やら湿気臭い四畳半の古いアパートから出てきたような雰囲気ではあるが、眼差しは明るく、声も朗らかで透き通っていた。

 「わざわざ、東京までようこそ」

 飴野の前の席に座りながら、そんなことを言ってくる。飴野もビジネスマンのように腰を低くして、丁重な挨拶を返す。
 結局、紹介や伝手などなく、飴野は手ぶらでやってきた。どうにか交渉して、彼に協力を仰がなくてはいけない。
 とりあえず会うところまでは漕ぎつけた。それだけで目標の半分は達したようなものである。遠い大阪から来た労も充分に伝わったようである。
 海棠の飴野を見る眼差しは好意的とまでは言えないが、敵意などはない。この場に来るのも面倒だという感じだってなく、むしろ飴野に対する好奇心のようなものが伺える。海棠の仕事振りを褒め称えたメールが功を奏しているのかもしれない。

 「探偵さんですか? そんなふうには見えないね。何て言うか普通のサラリーマンって雰囲気だ」

 「ある意味、これは変装です」

 「あえてサラリーマン的な格好をしているわけか」

 「そうです、しかし、いつからかこれが本当の姿になったんです。海棠さんは想像した通りでしたのイメージでした」

 二人はお互いの見た目を傷つけないように触れ合って、それを挨拶の代わりとする。



27―5)

 「男が消えたんです。僕はその男の行方を探しています。依頼者は彼の恋人。彼の足取りを追ううちに、浮上してきたのがアルファ教団という組織です。そこは何とも怪しげで、秘密に満ちていて。その失踪者のことを知るためには、まずその組織を理解する必要がある。それで海棠さんにお話しを伺おうと思って。海堂さんはこの日本で最もその教団に詳しい記者」

 飴野は海棠の信頼を得なければいけない。ただ単に彼の前にいるだけで、情報が転がってくるわけではない。精一杯にプレゼンをして、この事件に興味を持ってもらう。そのためならば嘘をつくことも辞さない。
 いや、嘘はいけないかもしれない。しかし派手に装飾することくらいは許されるだろう。甘い砂糖を大目に加えたり、何なら化学調味料で味付けして、波乱万丈な読み物として提示する。

 「しかしこの依頼人の女性も怪しくて。もしかしたら彼女が犯人なのかもしれません。結婚を約束した相手が、その教団に通っていたわけです。怒りを感じない女性はいない。彼女はその事実を知り、その一瞬の怒りに囚われて、殺人にまで至ってしまった」

 「ああ、アルファ教団の会員だったなんて、それは恋人に対するちょっとした裏切りだものね」

 海棠は笑みを噛み殺すような表情で、飴野の話しに相槌を打つ。彼はアルファ教団の内実を生々しく想起しているに違いない。

 「いや、それはちょっとした裏切りどころじゃないね。大変な裏切りだ。ということは失踪なんかではなくて殺人事件ということかい? 依頼人が実は容疑者だと?」

 「その可能性があります。しかしそんなわかりやすい事件ならば、アルファ教団を探る必要はない。その女性のことを調べて、殺人の証拠を掴めばそれで済みます。この事件はもう少しややこしいところがあって。彼女は僕以前にも探偵を雇っていました」

 「ほう、君は二代目の探偵だと?」

 「その最初の探偵が婚約者を尾行して、アルファ教団に関わってることを突き止めていました。しかしその探偵は謎の自殺を遂げている」

 「面白い。記事になりそうだ」

 「どうやら彼女はその探偵とデキていたようなんです。つまり二人は男と女の関係だった。もしかしたら手を下したのはその探偵かもしれない。失踪した婚約者が邪魔になって殺されてしまったという可能性」

 「酷い女性だね。とんでもない悪女だ」

 背もたれにもたれていた海棠は、いくらか前のめりの姿勢になってきたようである。飴野の話しに興味を感じ出したのか、続々と料理がテーブルの上に並び始めたせいか。

 「婚約者の浮気を疑い、探偵を雇って、その挙句、自分はその探偵と浮気? そして婚約者が邪魔になって殺人だって! それだけではなくて、その探偵も死んでいるなんて」

 「そういうことです」

 海棠の気を引くためとはいえ、飴野は佐倉を不当に貶めてしまった気がして、いくらか心が痛んだ様子。だからというわけではないが、すぐに別の説も披歴する。

 「しかしこの事件、全然違う見方も出来るんです。全ての黒幕はその探偵だったという推理です。実はその婚約者の男性は、アルファ教団に通ってはいなかった。それどころか、そんなものは存在していていなくて、彼女を奪うためにでっち上げた嘘、架空の組織。探偵は依頼者の女に惚れて、そのような策を立てた」

 「いや、それはあり得ない。あの組織は確かに存在するからね。だからこそ、君はわざわざ東京まで僕に会いに来たんだろ?」

 「もちろんそうです。最初の頃、そんな可能性もあり得るんじゃないかと心を過ぎりましたが、さすがにありえない」

 「そら、そうだ。検索すれば、無数にヒットする」

 「やはりアルファ教団について知らなければ、消えた男性を理解することは出来ない。どんなところなんですか、そこは? 海堂さんから詳しい話しを伺たいと思い、東京まで来ました」



27―6)

 さて、この作品「占星術探偵対アルファオーガズム教団」は、ここにおいてようやく、その教団がアルファオーガズムと呼ぶところのアナルオーガズムについて具体的に言及されることになる。 そして「恋愛が終わったあとの世界」というテーマも前面化されることにもなるだろう。
 若菜は恋愛という一対一の関係を途中で降りた男。アルファ教団に通ったことがその始まり。失踪という形で彼女の前から消え失せたことがその結果。飴野はそのような推測の下、捜査を進めていた。
 アルファ教団という組織についての成り立ちやらフィロソフィーについての詳細な説明がなされれば、それがより明確になるだろう。

 「だけど、そういうのは苦手だな。いったい何から説明していけばいいのか難しいしね。まず、君はどれくらいあの組織について知っているのか教えて欲しい。飴野さん、君のこの組織への理解がどれくらいなのか」

 海棠はそう言ってくる。何も知らないから一から教えて下さいなどという態度は許されないようだ。
 受け身では何も持って帰られそうにない。飴野はその生半可な知識を総動員して、憶測などを交えながらも、言葉を発し続けなければいけないようだと決心する。
 もし彼の理解が間違っていたら、海棠は訂正してくれるだろう。むしろ大いに間違って、たくさんの正確な情報を引っ張り出すことに集中すべきだ。

 アルファ教団について語るということは、あからさまに性について語るわけだ。海棠が言い淀んでいるのも、それが原因の一つ。飴野が山吹をここに同席させなかったことも、そういうことであろう。
 テーブルの上には酒がある。しかし飴野はまだそれにほとんど口をつけていない。
 幾らか酔っていなければ話しにくい話題もあるが、この事件のために恥も外聞も捨てて、素面のまま話しを進めよう。

 「前立腺という器官があるんですよね、男の身体の中に。それを刺激することによって、破格の快楽を手に入れられるという、何か信じられないような秘密を有する神秘的な器官」

 「うん」

 「身体的な快楽だけで比べれば、女性を相手のセックスなどとは比較出来ないレベルの。アルファ教団は会員のその快楽を手にするための方法を伝授している組織。そういう理解でいいのでしょうか」

 「ああ、そんなところだね」

 「失踪した婚約者若菜さんは、その快楽の虜となった。アルファ教団は手取り足取り教えてくれるのでしょうか?」

 「どうもそうらしいね。僕は体験したわけじゃないのだけど、自ら潜入調査なんてしてないからね、でもけっこうな数の会員たちから話しを聞く限り、そのオーガズムに達することの出来た会員はかなりの数に上る。詐欺なんかではないことは事実さ」

 「この快楽を会得すれば、女性の存在など不必要になる。その破格の快楽は、誰に頼ることなく自らで動員出来る、そのような教義だと要約しても?」

 「問題ないかもしれないけれど。しかし僕が思うに、それだけの組織だったならば、きっとアルファ教団は今のような成功を手に入れていない。ただのマニアックなセックス教団、それだけでは貪欲な快楽主義者しか入会してこないだろ? でもアルファ教団の会員はもっと多様だ。幅が広い。彼らは巧みに男性たちのコンプレックスを刺激している。自己啓発要素というかね、この厳しい世界を幸せに生きられるため、長い人生を独りで生きるため、そのためにアナルオーガズムを会得しろ。そうすれば人生は一変する」

 「なるほど、まさにそれは自己啓発ですね」

 「アナルオーガズムを身につければ、自分を変えられる。その結果、仕事は成功して、結婚生活も上手くいく、女性にもモテる、はたまた超能力を手に入れられるなんて謳い文句まであって。それを出鱈目だと笑えないくらい、それなりの完成度のある世界観に基づかれた教義のようなものが存在するわけさ。作ったのが小島獅子央という人物」

 若菜の本棚にその小島獅子央の本が数冊並んでいたのである。飴野はそれを発見して、そこからアルファ教団に辿り着いたのだから、彼もその人物に関心を寄せている。

 「その人に会われたことは?」

 「ないよ! そうか、なるほど、飴野さんの知識はそこで止まっているわけか。獅子央は謎の存在だよ。彼のことは誰も知らない。彼の正体が判明すれば、それはちょっとしたスクープだ。業界内で僕の名前は高まるに違いない」

 「そうだったのですか」

 「もしかしたら架空の人物かもしれない、この組織を切り回しているのは酒林という男性だ。獅子央は彼が創作した人物だって可能性がある」

 「酒林ですか」

 重要な人物がここで登場した。アルファ教団の総帥、酒林という男性。

 「でも、酒林にあんな本が書けると思えないんだ。彼も解説書を書いているけど、どれも安っぽくて。獅子央の書いた文章とはまるで別物だ。酒林は組織を運営することに長けたタイプで、この組織を大きくした実績はある。とても有能な人物だけど、思想家とか指導者って感じではない。だから小島獅子央という人間が、どこかに別にいる、僕はそんな確信をしているんだけどさ」



27―7)

 その教団の理論的指導者というべき男が小島獅子央という謎の人物。彼の執筆した書物がこの教団のバイブルのようなものである。
 飴野は大阪から持参したその函入りの本を海棠の前で開ける。「文学とアナルオーガズム」という題名の本。

 「ああ、読んでいるんだね。この教団のことを知りたければ、まずはこれを読むしかないよね。どうだった?」

 「難解でした、文学や哲学には疎いので、理解出来たのは半分くらいでしょうか。会員の誰もがこれを読んでいるのですか?」

 「持っているかもしれないけど、ちゃんと読めたりはしてないだろう。共産党の党員だからって、マルクスの『資本論』を読めたりはしないようにね」

 海棠はそんなベタなセリフを発している。何か気恥しくなるような発言だ。
 作者である私はそれを書き直すべきであると思っていたのだけど、しかし海棠とは「ありきたりなセリフを堂々と言う」性格ということにすれば、その羞恥心もクリアーされる。
 それを彼のキャラクターにしてしまうべきだ、そのように考え直したわけである。

 さて、「文学とアナルオーガズム」という架空の書物について、簡単に説明しておこう。
 それはジャンルで言えばきっと文芸批評であろうが、そのような作品として始まりながら、スピリチュアルな自己啓発として終わるので、実際にそのような本が存在するのなら「奇書」という称号を貰い受けることが出来るだろう。それが名誉なことかどうか知りえないが。
  それゆえ、三島由紀夫、大江健三郎、稲垣足穂、ジョルジョ・バタイユ、ジル・ドゥルーズまで扱いながら、怪し過ぎる結末ゆえに、あらゆる方面から無視されたという設定。
 しかし巨大な教団を作り上げる礎となる著作だった。ベストセラーにはなるはずもないが、届くべき人には届いた、とても幸せな作品だ。
 アナルオーガズムを体験することが出来るようになれば、意識のステージが上がって、あらゆる能力が飛躍的に上昇する、そういう非科学的な事象を、主に文学作品を援用しながら、これでもかと実証しようとしている内容。
 第一章、三島由紀夫とアナルオナニー。日本を代表するオナニストは、アナルで感じていた! 三島由紀夫の死の秘密。
 第二章、大江健三郎著「万延元年のフットボール」の主人公の兄は、アナルにキュウリを入れた状態で自殺していた。大江健三郎にとってのアナルオナニーとは。
 第三章、少年愛者、稲垣足穂のA感覚と飛行体験。
 第四章、中上健次もやっているアナルオナニー。
 第五章、ヨガと悟りとアナルオナニー。
 第六章、ジル・ドゥルーズ、あるいはアントナン・アルト―。器官なき身体とは、アナルでオーガズムを感じることである。
 第七章、男は、アナルオーガズム体験で生まれ変わることが出来る! 

 これは架空の本であることはさっきも書いた通りであるが、このような作品内作品が存在する小説を書いた私自身、アナルオーガズム体得による自己啓発法など信じているわけではないことだって付け加えておこう。

 「アナルオーガズムを体得すると、意識は覚醒して、これまで見えなかった色彩、匂い、予兆、振動を感じることが出来る。すなわち人を超えた人、超人になることが出来るのである。その人間が作家ならば、彼の文章は艶やかになり、その物語に血肉が通う。音楽家ならば、その音色は・・・」

 この作品内作品には、このような文章が書かれているわけであるが、もちろんフィクションだということである。
 果たしてこのようなやり方で、人が成長したりするものであろうか。眠っていた可能性、感性が花開くものであろうか。
 ありえない。信じてはいない。わざわざこんな申し開きするまでもない。
 とはいえ、三島由紀夫や稲垣足穂らについて書かれた内容までがフィクションというわけでもないのは当然だ。その作品で言及したり引用していることは、実際に彼らの小説に書かれた文章や、対談などの発言だ。
 つまり、その気になれば「文学とアナルオーガズム」という文芸批評書を完成させることは可能かもしれないということ。



27―8)

 この東京出張のチャプターで書きたかった最大のポイントは一つ。アルファ教団のトップである酒林という男性の存在、飴野にその情報を与えるため、この章は書かれたのだ。

 「獅子央がジーザスだとしたら、酒林はパウロってわけさ。ジーザス・クライストの言葉を広めるために伝道に勤しむ男。獅子央がソクラテスで、酒林がプラトンでもいいだろうけど」

 海棠は言う。

 「まあ、獅子央は自らで本を書いているんだけどね。だからジーザスともソクラテスとも違う。酒林は獅子央の思想ををわかりやすく噛み砕き、この世の男性に向かってアナルオーガズムの魅力を過激にアジテーションする役割りだ。我々が得ることの出来るアルファ教団の情報は全て酒林が発するもの。一方、獅子央はベールの向こうの謎の存在」

 「組織が上げている動画に出演している男性ですね。とても流暢に喋っている。最初、彼が小島獅子央かと思っていました」

 飴野もアルファ教団を調べる過程で、酒林が演説する動画の存在を知っていた。それを何度も観ていた。だから彼が重要な人物であることには既に気づいていただろう。
 しかし飴野が事務所の中で独りその認識に至るより、東京五反田の居酒屋で何者かとの会話によってそれに至るほうがインパクトは大きいだろうと思う。
 飴野が受け取るインパクトではなくて、読者が感じるインパクトである。酒林という男が重要人物であることの認識、それは東京にまで出向かなければ得られなかった情報という位置づけ。

 「そう、なかなか演説は上手い男だ。塾の講師になっていても、人気講師になれただろうな。政治家でもそれなりに成功するかもしれない」

 年齢は五十代だろうか、それよりも老けて見える。眼差しに鋭さはなく、穏やかそうだ。小太りである。濃い髭の剃り跡が青く、肌は荒れていて。
 うだつが上がらない、モテそうにない男というのが酒林像である。その具体的な容姿は読者それぞれが勝手に想像してもらえると有り難いこと。

 「なあ、君たち、もう女なんてうんざりだろ? 女なんてものは『私を幸せにして』と口を開けて待っているだけの鳥の雛だ。我々があいつらに構ってやる必要はない。勿体ないことだって? 女たちは性欲を解消するための最高の道具だって? いや、男の本当の快楽に女なんて必要ない。一人で生きよう、男たちよ」

 スマホの動画の中で、酒林がアジテーションをしている。そのイントネーションは共通語の中に、関西訛りがわずかに入っている。
 酒林はまた別の動画ではこんなことを語っている。

 「男たちよ、もう女たちに構うのは止めようではないか。それだけで、我々の幸福度は飛躍的に上がるだろう。しかもだ、その行為は女たちを助けることにもなるだろう。なぜって、女たちも男から性的に扱われなくなるのだから。本当のフェミニストならば、きっと獅子央の教えに賛同してくれるはずだ。男の快楽に女はいらない。いや、男の快楽に、他の男だっていらない。我々は独りだけで、宇宙に到達出来るレベルの快楽を手に入れられる!」

 「全ての男が一人で生き始めたら、人類は絶滅するかもしれない。そんな反論もあろう。確かにその通りだ。子供を産み、子孫を繁栄させることは重要だ。しかしそれはまだ目覚めていない鈍感な男たちに任せようではないか。私たちは人類の繁栄には背を向け、最高の官能のためにだけ生きる。それこそ、男がこの世界に生まれてきた意味」

 「その代わり、我々はその鈍感な男たちを軽蔑してはいけない。彼らは私たちの代わりに、種を維持してくれるのだから。本当の官能を知らぬまま、本当の人生の意味を知らないまま、ただ生活するだけの男たちに拍手を! 何と憐れだろうか! あの女どもと生活を強いられる夫たち、父たちよ。いや、あなたたちの中にも、子を育てている者はおられるかもしれない。子を産んだ後、真の快楽に目覚めた男。それこそが最も理想の人生だ」

 「女にモテたい、その願望を我々は尊重もする。誰かに肯定されたい、そんな意思に理解も示そう。もちろん、あなた達が一度、アナルオーガズムの張り裂けんばかりの官能に目覚めたのならば、そんな雑念に支配されることもなくなるだろうが」

 「いや、しかしである。女にモテたいという願望だって獅子央の教えが叶えてくれるのだ。アナルオーガズムを会得して、女になんて執着することがなくなった我々は、それゆえに女に愛されてしまうことになる。なぜかって? 女性たちに向けてきたこれまでの視線の質が変わるからだ。女を欲していたときの、性にぎらついた、攻撃的でありながら、好色的であり、小心にビクついていたあの視線は消えるから」

 「あのときは醜かった。我々は女の奴隷だった。そんな男がモテるわけがないではないか! しかし女を必要としなくなったとき、私たちは逆説的に女に欲望されることになる。アナルオーガズムを手にした男は、セックスの支配者でもある。女を相手にしても、性の強者ぶりを発揮するだろう。つまり、好きなように生きるがいい、目覚めし者たちよ!」



27―9)

 酒林は容姿端麗とは程遠いが、その声は太く強く、美しい声をしている。その演説振りにファナティックさはない。
 唾を飛ばし、怒号交じりに激しく叫んでいるのではなくて、ゆったり笑いながら、切々と説得しようとする感じだ。

 「酒林とお会いなったことは?」

 飴野は動画サイトを閉じて海棠に尋ねた。

 「取材を依頼して、それを承諾してくれた。しかしそれはインタビューに答えてくれるためではなくてね、『二度とお前のところの雑誌で、我々のことを取り扱うな』って怒鳴るためだった。酒林は僕の文章の何かが気に入らなかったらしい。別に茶化していたわけでもない。批判の目を向けていたわけでもないんだけどね。ただただ好奇の眼差しを向けられるのを嫌がったのかもしれない。何せ、あのセミナーの教えがあれだからね。会員たちは人目を異常に気にしている。アルファ教団の関係者で堂々と顔を晒しているのはその酒林くらいだ。人目を恐れて、コソコソとしているのは獅子央だって同じだ」

 「小島獅子央のプロフィールなども公開されてないのですか?」

 「ああ、年齢も国籍も全て不明だよ。本当に存在するのか疑わしい。しかし君が手に持っているその本、『文学とアナルオーガズム』という書物を書いた男が存在することは間違いのないことだろうからね、酒林では書けない。だから小島獅子央は実在すると断言出来る」

 「どのような人物像を推理されてますか?」

 「さあ、わからないよ。実はそこまで興味はないんだよね、僕の興味は酒林のほうかな。そして彼のアジテーションに踊らされる会員たち」

 「では、酒林の詳しいプロフィールは? 彼の生年月日や出身地の情報が欲しいんです。ホームページなどには載っていないようですね」

 「手に入れられるずだよ。出身大学や前歴も判明していたはずさ」

 飴野はその情報をもとにホロスコープを作るつもりである。しかし自分が占星術師であることは明かさない。海棠のようなタイプを相手に打ち明けても怪しまれるだけだという判断である。

 「それと会員の誰かを紹介してもらいたいんです。アルファ教団の会員たちの考え方を知れば、失踪者若菜への理解も深まるはずで」
 
 「元会員の知り合いが数人いる。関西在住者の連絡先を教えておくよ」

 この会合も終わりに近づいている。海堂は親切な人物だった。二人のフィーリングも合ったと言える。飴野にとって、それなりに有益な東京出張だった。
 飴野はふと、失踪者若菜の行方に思いを馳せてみる。女と生きることに疲れ、自らの快楽だけを追求することを選択したその男は今、この国のどこかで、哀しい後ろ姿を身にまとい、襲い掛かる後悔の感情を押し殺して、あるいは無限の自由に満足した表情で、ビジネスホテルかカプセルホテルかネットカフェ、もしくは知り合いの家に居候して、事件のほとぼりが冷めるまで身を隠すつもりなのだろうか。
 それとも、そのささやかな願望は叶わず、惨劇は起こっていて、彼は多くの血を流したか、頭蓋骨を陥没させたか、首を絞められたかして、どこか山奥の土の下で腐り果てているのか。

 「アルファ教団は攻撃的な組織では決してない。しかし彼らは秘密を重視している。嗅ぎ回られることを非常に嫌う。会員たちのプライバシーを守るためならば、それなりの実力行使に出る。一度、僕の自宅に投石されたこともあったんだ。まあ、あの組織がやったかどうかはわからないけれど。しかし他に恨みを買うような相手はいなくて」

 「僕の前任者、同じ依頼人に雇われていた探偵が自殺したんです。まさに彼はその組織を嗅ぎ回っていた。果たしてそれは本当に自殺だったのか?」

 「いや、でもそれはどうかな。さすがに殺しまで犯して、秘密を守ろうとする組織ではないはずだ」

 「そうなんですか?」

 「うん、そこまで危険なカルト集団ではない、僕はそう信じている。その探偵さんは他の事件に巻き込まれた可能性のほうが高いと思うのだけど。しかし何とも言えないね」

 「例えばあの組織の禁断の秘密に近づいてしまったとかは? 最終的な実力行使に出ざるを得ないくらいの秘密を手に入れた」

 「それはあるかもしれない。会員たちの個人情報こそ禁断の情報だ。これを手に入れれば脅迫の種になる。アルファ教団に通っていることがばれたら社会的に終了だもん。会員には意外とエリートや富豪が多い。だけどあの教団が殺しまでやるかなあ」

 「では、会員の誰かが、彼を殺ったという可能性のほうが?」

 「うん、そっちのほうが考えられるだろうか。その探偵が教団の会員を脅迫していた、この事実を黙っていて欲しければ、いくら振り込め! と」

 「若菜氏が彼を殺した・・・」

 「あり得るだろうね」

 しかし何の証拠もない。可能性だけの推理だ。
 またお会いしましょう。二人はその五反田の居酒屋を出て、丁寧なお辞儀をして別れた。まだまだ会話の種は尽きないが、ここで一つの区切りだ。

 「何か興味深い情報を手に入れることが出来たときは、海棠さんにも是非」

 「うん、僕も君の捜査に出来るだけ協力したいと思うよ」



27―10)

 これで東京出張の目的を果たしたのだから、この章は終わらせて、飴野を大阪での活動に戻らせてもいい。
 むしろそれを急ぎたかったのだけど、しかし面倒なことに、まだ区切りをつけておかなければいけない物語のラインが残っている。
 以前にも触れていたことであるが、山吹とのやり取りのオチ、それを語り切っておく必要があろう。
 成り行きから飴野と山吹は行動を共にすることになった。飴野はまるでその気はないようであるが、山吹は非日常的な東京小旅行に少しばかり浮かれている様子。
 作者である私は二人の間で何か起きりそうな気配を高めて、読者の気を惹こうとしたのだ。
 その何かというのをもう少し具体的に説明すれば、飴野と山吹との仲が急接近することになるかもしれないイベントのようなものであろうか。
 それについて語り終えることなく、別の章に移るなんてことが許されるわけがない。
 
 海棠との会談を終えた飴野は、予約していたビジネスホテルに帰った。
 身体的にはそれほど疲れてはいないが、初対面の相手と長い会話を交わし、精神的には疲労し切っている。手に入れた情報を頭の中でまとめ、これからの捜査方針についても練りたい。いや、それよりも今日はゆっくりと眠りたい。
 しかしそのホテルのロビーで山吹が待っていたという展開だ。彼女はトコトコと飴野に近寄って来て、ホテルを何件か回ったけど、どこも予約がいっぱいで、今晩の寝床が確保出来なかったという旨を報告してくる。

 「ネットカフェで寝ることにします」

 「あっ、そう、わかった」などと言えるわけがない。飴野の判断を読者たちも見守っているのだ。

 「僕がネットカフェで泊まるよ、君はこのホテルを使ってくれ」

 飴野はうんざりしたような表情を一切見せず、むしろ最大限の紳士的口調で言う。

 「それは申し訳ないです。勝手についてきたのに」

 「その通りだと思うけど、この際仕方がない。というか、君のホテルの探し方が下手なんだよ」

 「そうでしょうか」

 「ホテルの受け付けロビーに直接行くよりも、電話かネットで予約すれば何とかなるはずでね」
 
 しかしこの時期、世界から日本へと観光客が押し寄せていた頃でもある。山吹に手本を見せつけようと、飴野はスマホで自分のためにホテルを探そうとするが見つからない。

 「ほら? ですよね? どこもいっぱいなんです」

 山吹は勝ち誇るように言う。飴野も疲れ切っている。ネットカフェなんかに泊まる気はさらさらない。というわけでそれが起きる。
 ところで、それぞれの寝床を確保することが出来ずに、仕方なしに男女が同じ部屋の中で一夜を過ごすことになるというシチュエーション。
 ときには自然災害のせいで、あるいは交通事故が原因のハプニングで、あるいはただの手違いで、舞台は旅館の一室であったり、体育館倉庫の中であったり、何ならば洞窟の中であったりと様々なバリエーションがあるが、あらゆる物語で使い古されたお馴染みの展開だ。
 それは日本近代小説の祖、夏目漱石の「三四郎」の冒頭で展開されるのであるから、由緒正しき青春小説のシチュエーションだと言い張りたくなる。
 私が書いているこの作品も、「三四郎」から始まるその系列に連ならんがため、「まだそれほど仲良くもない男女が、成り行きで同じ部屋に泊まることになる」シチュエーションを書こう。
 いや、そんな立派な志や計画などあるわけではなく、ただの成り行きで描かざるを得なくなったのだけど。



27―11)

 飴野と山吹は成り行きで同じ部屋で一夜を過ごすことになった。
 しかしただ単に予約がいっぱいで、どのホテルも部屋を取るのが困難であったというだけでは説得力は充分だと言えないだろう。更に何かをハプニングを起こして、この流れに説得力をもたせなければいけない。
 例えば震度5強の地震が起きて、交通は混乱しているとか、少しばかり大きな事件、近所で発砲事件が起きて、この街をパトカーが走り回っていて、外を出回るのが不安だとか。
 色々と悩んだ挙句、とんでもない大雨が降っているから、ということを選択した。
 そもそもこの日の東京の街に、作者である私は雨を降らせていたのである。これを利用しない手はない。これから別のホテルやらネットカフェを探し回る気が起きないような豪雨だ。二人はその雨の中に閉じ込められるのだ。

 「わかりました、飴野さん、私に絶対に触れないって約束してくれるのなら、この部屋で一緒に泊まっても構いませんよ」

 山吹はロビーから外に降る雨を見ている。その横顔はこれまで見せたことがないほど真剣というか無表情に近く、すまし顔だとも言える。
 一方、飴野は彼女の言葉が信じられずに、「何と言ったんだ?」と聞き返す。そもそもこの部屋を予約していたのは僕なのに、なぜそのような上位の立場から語って来られるのだというニュアンスで。

 「証文を書いて下さい。『今夜、私こと探偵飴野は、山吹美香に指一本触れないことをここに誓います』って。いえ、動画を撮りましょう、このカメラに向かって、そのセリフを言って下さい。約束を破ったときは裁判所で会いましょうね」

 「ちょっと待てよ、驚いた、いや、呆れたね。二の句が告げられない。なあ、君、そもそもこのホテルは僕が予約していた。君の要領が悪くて、こういう羽目になったんだ。別のホテルを探す時間はけっこうあったはずだ。いや、全ての問題の根幹は君が勝手に東京まで着いてきたことにある。それなのに君のことを思って、僕は予約していた部屋を譲り渡してやったのに」

 「はい、私が悪いと思いますよ。だから私も最高に譲歩したんです。もう他のホテルは見つかりそうにありません。ここで一緒に泊まりましょう。そう言ってあげているんです。その代りです、私に触れないと約束して下さい」

 山吹はスマホを取り出し、容赦なく彼にカメラを向けようとしてくる。

 「そんな馬鹿げた宣誓するまでもない。君は絶対的に安全だ」

 「いえ、とても不安です。悪い男の軽い言葉に騙されて、絶望に突き落とされてきた女性がどれだけ多いか」

 「そうかもしれないけれど、このケースはそれに当て嵌まらないさ」

 山吹は無礼なことに、カメラを回し始めたようである。山吹はこのような女だ。彼女の悪ふざけに付き合ってやるしかない。飴野は仕方なく、彼女の望む言葉を言ってやる。

 「えーと、何だっけ? 私は一ミリたりとて、この女性に感心も興味を抱きません、だっけ?」

 「飴野探偵! ちゃんと言って下さい。『私はいかなる劣情にも負けることなく、この可憐なる女子を、我が母か実の娘のように大切にする』と!」

 そういうわけで、受け付けに行き、もう一つ部屋は取れないかと掛け合うが断られる。追加料金を払うから、一つの部屋を二人で使わせてくれ、という形で話しがまとまるという次第だ。



27―12)

 山吹は妙に懐き出した親戚の子供か野良犬のようなもので、飴野の後ろを下手な言い訳をしながら常に着いて回るのである。邪魔である。飴野のペースを噛み乱す。しかしそれがこのシリーズにおける彼女の役割りといったところだろうか。
 飴野の探偵事務所で助手をしている千咲などと、その役割りが被っているであろう。
 実際のところ、千咲と山吹の仲は悪く、その唯一のポジションを巡って対立するのだけど、この時点ではまだ山吹も千咲もお互いの存在を知らない。
 もし私が、作品から無駄を出来るだけ省くコストカットの使命を申しつけられたなら、どちらかの人物を消し去るべきだと忠告するところであろう。
 それが無理ならば、もっと極端な性格を付与して、二人を描き分ける必要があるとアドバイスをしよう。
 私は後者を選んだわけであるから、この二人をしっかりと描き分けなければいけないだろう。
 とはいえ、役割りは似ているが、二人の性格は違うはずだ。千咲は人を愛することも、人に愛されることも上手なタイプである。
 山吹美香はそれが苦手で、妙なところでひねくれていて不器用である。
 しかし山吹はそのような性格ゆえ、今度は山吹美香は岩神美々というまた別の登場人物と相似してしまうことになる。今度はこちら側に気をつけなければいけなくなる。
 いずれにしても、この三人が飴野を取り巻く女性脇役ということになる。三角関係ではなくて四角関係である。角が一つ多い。
 いや、この作品でも佐倉彩という女性が登場して、飴野と身を寄せ合ったりするので、この三人に限定されるわけでもなく、更に角は多くなることもあるだろう。
 とはいえ、レギュラー登場人物に限定すれば、やはり重要なのはこの三人ということになる。
 この三人のキャラクターの描き分け問題はまた言及することになるだろう。このお題ならもっと様々なことを語ることが出来そうである。だからここは一先ず物語に戻ることにして。

 東京の有り触れたビジネスホテルの廊下。飴野と山吹というおかしなカップルは、ホテル特有の乾いた空気と妙な静けさの中に居る。
 部屋に向かうために乗り込んだ気詰まりなエレベーターの中、飴野は出張で事務所を留守にすることを、千咲に伝え忘れたことを思い出した。
 彼女は事務所に帰ってこない飴野を心配しているかもしれない。しかしスマホを見ても、彼女からの連絡などないようである。
 むしろ何の連絡もせず、事務所を開けっぱなしにしている飴野に憤り、無視するという態度に出ているのかもしれない。

 「助手に連絡するのを忘れていた。もしかしたら僕のことを心配しているかもしれない。まだ眠ってはいないだろう」

 飴野は部屋の鍵を開けてすぐ、スマホを取り出して電話をかける。
 どうやら本当に二人で夜を明かすことになりそうである。部屋は思ったよりも狭い。扉が閉じられた瞬間、山吹が身にまとっている香りが飴野の鼻先を包み込んだ。
 その香りは山吹が示す唯一の「女性らしさ」のようなものだった。それにも関わらず、この部屋に二人でいる限り、目を閉じようが、出来るだけ遠ざかろうが、飴野はそれからは逃れられない。
 飴野は外部から助けを呼ぶようにして、別の女に電話をする。

 「飴野探偵事務所は従業員を雇っていたんですね」

 山吹が言う。

 「そんなしっかりとしたものではないけれど。事務所を空けているときに留守番をしてもらう程度だ。給料だって払っていない。むしろ彼女にすれば、僕の事務所は図書館代わりの勉強部屋という感じだろう」

 「・・・彼女、勉強部屋?」

 「ああ、高校かどこかに通っている学生だ」

 その事務所の入っているビルのオーナーの孫娘でね、なんて言い訳めいた馴れ初めは説明しない。山吹がこの関係をどのように受け取ろうが知ったところではない、というスタンスを取ることにする。

 「なるほど、道理で。飴野探偵はそういうカテゴリーに属している人だったんですね?」

 「何だよ、そういうカテゴリーって? 今、東京にいる。出張さ」

 電話がつながった。飴野は山吹から背を向ける。どうやら山吹は、飴野のことを若い女性を好む少女愛者だと誤解している気配であるが、飴野はそれも気に留めない。

 「明日には戻る。事務所に伝言のメモを残してくれば良かったけど、すっかり忘れていた。すまないとは思っている。お土産だって? 東京の特産品なんて何もないじゃないか。東京で買えるものはだいたい大阪でも買えるだろ? 北海道とか九州だったら、僕も何か買う気にはなるけれど」

 飴野はなかなか電話を切れない。電話の向こうで、千咲は意外なくらいに長話しをしてくるのである。学校であったこととか、今日の晩御飯が美味しかったとか、そんな他愛もない話題。

 「その助手の方ってどんな人なんですか?」

 その電話の間、すっかり放置されている山吹が言ってくる。電話の間は話しかけて来るなと飴野はあしらう。すると、「ああ、わかりました、先にシャワー浴びますね」と大声で山吹が言ってきて、電話の向こうの千咲が、「え、誰かいるの?」と聞き返してきて、「いや、誰も。テレビの音さ」と噓をつかざるを得なくなり。

 事件解決とは直接関係しない、このようなシーンなどさっさと終わらせるべきなのか、それとも登場人物たちの人間関係こそがシリーズものの醍醐味であるのか、私の好みは後者であることは間違いないが、この作品の読者の好みはいずれであろうか。



27―13)

 ちなみにそれと知らず、間違って浴室を開けてしまい、秘かに思いを寄せる女性と裸ではち合わせてしまうという、ラブコメディやらラブロマンスものに頻出するシーンも、漱石の「草枕」に登場していて、それもまた描いてみたい気はするが、この章では書かれはしない。
 そのようなスリリングな遣り取りもなく、シャワーを浴びて出てきた山吹は、さっさとベッドの中に入っている。
 一方、探偵飴野はホテルの小さなデスクに座り、居酒屋での海棠との会話を思い返しながら、愛用の手帳に思いついたことを書き連ねていた。
 彼は海棠との会話を密かに録音もしていた。証拠のためなんかではなくて、ただ単に記録しておくために。 
 それはいつものことである。彼の仕事のやり方だ。とはいえ、その録音を聞き返すことは滅多にないのだけど。
 それよりもまだ記憶が鮮明なうち、その会話の中の印象的な情報を、紙に書き残すようにしている。
 面倒なので、録音物を聞き返すことはないが、メモは頻繁に見返すものである。何気なくメモを見ているだけで事件の全体像が見えてくるなんてこともある。メモを作ることを飴野は重視しているのだ。

 「つまり婚約者の若菜さんは、佐倉を捨てたんでんすよね? それって、そんなにあれなんですか?」

 「それって?」

 山吹はまだ眠っていない。部屋の電気は消されて、デスクの明かりだけが灯っていた。その明かりが飴野の横顔を照らしている。
 山吹は一応、気を遣って、セミダブルベッドの壁際の端に眠り、飴野のスペースを開けている様子。しかし飴野はこのデスクに突っ伏して眠るつもりだ。

 「だから、若菜さんが虜になってしまったという、何とか何とかズムってやつです」

 山吹は言い難そうに言葉を選んでいる。

 「ああ、あれね。さあね、僕もよく知らないさ。だけどアルファ教団の会員数は凄い勢いで増えているらしい。多くの男たちを魅了しているようだ。それは本当に凄い快楽をもたらすんだろうね」

 「飴野さんは御経験はないんですか?」

 「ない、あるわけないだろ。普通の男はそんなものを体験してはいない。普通の男というものが存在しているのか知らないけれど」

 「じゃあ、若菜さんは特別な男性だったということなんですか?」

 「若菜さんがどんな男性だったのか捜査するのも、この依頼の目的だったのかもしれない。だから、まだ答えは保留だけど、しかし普通も特別も、この事件に関係ないに違いない」

 「でも佐倉を捨てて、そっちを選ぶなんて・・・。私には想像も出来ませんね。だってあの佐倉ですよ? 飴野さんも会ったことありますよね?」

 山吹は親友の佐倉の魅力を素直に認めている。絶世の美女であるという評価を下しているらしい。だからこそ、アナルオーガズムにはそれを捨てさせるほどの魔力があるのかと、彼女は単純に驚いているのだ。

 「わかりません、わかりません、何一つ理解出来ませんね」

 「むしろその快楽は女性のほうが想像するのが容易に違いない。普通の男性が感じる快楽なんて、また、普通という言葉を使ってしまったけど・・・、せいぜい女性の感じる数分の一だって話しさ。だけど、そっちのオーガズムはレベルが違う、女性と同等か、それ以上の快楽だっていう噂だよ」

 「は、はあ・・・」

 気まずい沈黙が二人の間に落ちてくる。山吹は話題を選び間違えたのか、それともこれはわざとで、ある種、飴野を挑発する意図があったのか。
 一方、作者の私の意図は明確である。先程の約束によって、決して触れ合わないと誓い合った二人であるのに、オーガズムというセックスの根本に係る話題を交わしてしまい、気まずさと気恥しさで妙な空気になる、そんなアイロニックな状況を描こうという意図。

 さて、ひょんなことから、一つの部屋で夜を明かすことになるというシチュエーション。別に全ての作品を精査したわけではもちろんないが、その偶然を利用して、その男女は肉体関係を結ぶなんてことは決して起きえないに違いない。少なくとも青春小説というジャンルにおいては。
 そのシチュエーションに陥ってしまった二人は、結局のところ、どんなアクションも起こすことはない。ただまんじりとして、夜が明けるのを待つだけ。
 そのじれったさという感情のために描かれるのだから、彼らが欲望に負けて何かをやり始めたら身も蓋もない。
 当然のこと、私もそれに倣う。
 二人はまるでそれへと至るウォーミングアップのような際どい会話を交わしながらも、決してそのポジションを動いたりすることなく、それぞれその場所で眠ってしまう。山吹はベッドの端の端で、飴野はデスクに突っ伏した姿勢で。
 そんなふうに平穏に夜は終わるのである。


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