16)ロキの世界「酒を飲みながら交わすべき会話」

文字数 13,033文字

16ー1)

 電車は梅田に着いた。物語の中の探偵や彼の仲間たちと別れて、私は現実の中に戻っていく。
 というと大袈裟過ぎる。何か小説の世界と現実界は別れていて、二つの世界を行き来しているといったニュアンスを感じさせる。
 そんなことはない。ただ単に読んでいた原稿を閉じただけ。

 書くことにどっぷりと集中すると、そのあと、現実との齟齬のようなものを感じたりすることがある。
 例えば誰とも会話する気になれなくなるとか、単純に上手く言葉が出て来なかったりとか、そういうこと。
 むしろ執筆に集中すると脳が活性化されて、饒舌になりそうなのだけど。でもそうはならない。むしろ逆。
 書いているときと話しているときでは、きっと脳の違う部位を使用しているに違いないと思うのである。
 まあ、しかしそれは思い込みというか、私の個人的事情かもしれない。別にそんな研究発表を読んだとかではない。
 書くことは、私にとって人と遠ざかることであるわけだ。だからこそ、それはストレス発散とか癒しに通じるのだろう。南の島で一人になって寝転がるのに近い何か。

 そういうわけであるが、自分の原稿を読み返すだけでは精神の状態はさして変容しない。
 電車内で執筆していたわけではない私は、至って平常に電車を降り、大阪の街の人並みに溶け込む歩行者となり、しばし歩いた後、待ち合わせのカフェに着いた。店名に「大正」という文字が入った例のカフェだ。
 百合夫君は既に店に到着していて、即座に私を見つけて、手を振って来る。

 「先生、良いジャケットですね。今日のような日に着るに、最も完璧なチョイスです。その新しい靴とも合ってます」

 百合夫君はわざわざ立ち上がり、そんな言葉と共に私を迎えてくれる。
 お世辞だろう、私に自信を持たせるための。しかし心地良い言葉である。私は自分の洋服の趣味にそれなりに自信があるタイプだ。それを否定されると言い争いになるかもしれない。まあ、百合夫君がそんなことを言ってくるわけがないが。

 「ジャケットは七つ持っているんだけど、今日は上から三つ目のジャケットだよ。ちなみに昨日のは四つ目だった。一つレベルがアップしたというところだね」

 私はそのイタリア製のジャケットを誇らしげに見降ろす。紺地のシンプルなジャケットである。

 「どういうレベルなんですか、値段ですか? それとも気に入っておられる順ですか?」

 「まあ、気に入っている順だろうね」

 私は仲が良い相手でも、顔を合わせてしばらくはぎこちない態度を見せてしまう。たとえ昨日に顔を会ったばかりであっても、十年ぶりの再会なのかと思われるくらいの距離感で接することがあるのだ。
 そのような面倒な性格であるのだけど、しかし百合夫君が相手の場合、その限りではないようだ。彼が相手だと、私は自分自身と対話するようにオープンに話している。

 「とにかく気合いが入っているってことですね」

 「それはどうかわからないけれど」

 私はさりげなくカフェを見回す。昨日、彼女と顔を合せた時間よりも、ずっと早い。イズンは来ていないようである。

 「大丈夫です、まだ来てません」

 そもそも彼女が絶対に現れないはずの、かなり早い時刻に待ち合わせをしたのである。
 彼女が来るまで、百合夫君は自分の恋愛セミナーについての講義を私に伝授するつもりなのだ。

 「でも、果たして来るのかな」

 「来ますよ、大丈夫です。来なかった場合、僕はこれまでの研究をやり直さなければいけない。それくらい今回のはイージーケースです。彼女は先生の読者さんです。熱烈なファンなんです。再会出来る機会を逃すわけがありません」

 カフェの店員にコーヒーを注文する。彼女が来ても来なくても、私は次作のために百合夫君の恋愛セミナーの取材をする必要がある。いずれにしろ有意義な時間になるはずである。



16―2)

 「なあ、ところで百合夫君、君は幽霊とか怨霊とか、そういったオカルトの類を信じるタイプかい?」

 百合夫君への取材、というよりも百合夫君の講義が始まる前に、世間話しとして私はそんなことを尋ねた。
 いくらか唐突な話題に思われるかもしれないが、まだ私は梨阿のあの言葉が気になっていたのだ。

 「オカルトについての僕の意見ですか? 難題ですね。見当外れの回答だったら、僕の評価が落ちるとか止めて下さい」
 
 「試しているとかではないよ。君もこの前会っただろ? 編集者の大野さんの娘さん、彼女には霊感があるらしい。僕に生霊が憑いているって言ってくるのさ。しかもけっこうタチの悪い奴だって」

 「はあ、それは恐ろしいですね」

 「その生霊はあの女性だと、大野さんの娘さんは言っててね」

 「え? イズンさんですか?」

 「あの女性とこれ以上関わらないほうがいいと、彼女の霊感が囁いらしい」

 「すると今からタチの悪い生霊が来ると? ヤバいですね、さっさと逃げましょう。僕はけっこうそういう話しに弱くて。ホラー映画とか絶対に観れませんからね。それに運とかジンクスも大事にしているんです。出来るだけ運勢が低下するようなことは避けたい。先生! 今ならまだ間に合いますよ」

 百合夫君は腰を浮かして、自分のカバンに手を伸ばす。あの女性が来る前に、このカフェを出ようというのだ。まだ私たちのコーヒーも来ていないのに。

 「ここを逃げなくてもいいさ。彼女と深い関係にならなければ、問題ないわけで」

 「まあ、そうですよね。生霊と聞いて、ちょっと動揺してしまいました」

 本当に動揺したわけではないだろう。大袈裟に演技をしていることは間違いないが、更に百合夫君は、わざとらしく額の汗を拭くような振りまでする。

 「霊感とかそういうものの全てを、僕は信じますよ。神とか精霊とか悪霊も。僕自身、大いなるものに守られている感覚があるんです。逆に罰せられることも。でも大野さんの娘さんのそれに信ぴょう性あるんですか? 何でも信じるわけじゃありまん。僕が信じるのは的中するものだけです」

 「自称、霊感少女だよ。勘は鋭い。観察力も長けている。それだけさ。それに彼女も実は作家志望で、これからは霊感少女ではなくて、文学少女になるかもしれない。小説を書き始めて、それが上手くいけば、自分のアイデンティティが変わって、オカルト的なことは一切口にしなくなるかも」

 コーヒーが来た。頼んだのはミルクコーヒーだ。大正がコンセプトのこのカフェでは、珈琲牛乳である。私はそこに少し多めに砂糖も入れる。

 「そんなものですかね」

 甘いコーヒーが好きなんですね。百合夫君が言ってくる。

 「そんなものさ、きっと」

 そうだよ、私はコーヒーを一口飲んで、その砂糖の量に満足して頷く。
 
 「だったら生霊かもしれなんて説、恐れる必要はありませんね。イズンさんの到着を待ちましょう。だけど先生、僕は思うんです。悪魔性がない女性なんていないと」

 「悪魔性がない女性?」

 「そうです、全ての女性は悪魔のようなものです」

 どのような真意があるのかわからないが、まるでこの時代に相応しくないような言葉を、百合夫君は平然と発してくる。

 「何を言い出すのだって表情ですね、つまり、こういうことです、ひとたび、女性に夢中になってしまえば、仕事は疎かになる。お金は無限に出ていく。女性は幸運なんて授けてくれません。それが普通です。彼女たちが与えてくれるのは快楽だけです。但し、この世で最高の快楽。それと引き換えに失うものは多い。だから女性なんて悪魔みたいなものだと言える」

 「ああ、なるほどね」

 それに関しては私も同じ意見だ。「イズンは生霊である説」を唱えた梨阿に向かって、同じような反論をしたはずである。
 最終的に全て別れで終わる、恋愛は極端である。最高の喜びと、最悪の絶望、その二つのセットで出来ているもの。
 絶望のほうに目を向けると、それは悪魔的であり、快楽のほうを見ても、やはり悪魔。
 何やら百合夫君と私の意見は一致したような気配である。

 「それでも僕たちはやるんです。やるしかないんです。女性たちだけが、この人生において充実感とか幸福感を与えてくれるからです。仕事を頑張って、お金を稼ぐのだって、全てモテるためじゃないんですか? 悪魔であれ何であれ、臆することなくそれと戯れましょう」

 酒を飲みながら交わすべき会話を、私たちはコーヒーを飲みながら進めているようだ。



16―3)

 「だけど先生、大野さんの娘さんが彼女のことを生霊呼ばわりなんてするのは、一種の嫉妬じゃないでしょうか?」

 その話題は続いている。まだ依然として、霊たちが私たちの周りを跳梁している。
 しかし少しずつ、その不気味さは消えていっているだろう。霊とはつまり、何かのメタファーではないかという解釈の話題に変わっているから。前近代的なものに、LEDの蛍光灯の灯りが当てられているみたいに、霊性が融解していく。

 「つまり、先生が別の女性と仲良くするのが気に喰わないんですよ」

 「そうかな」

 いや、そうであろう。私も当然、そんなことを考えていた。

 「先生は愛されているんです。その子はお幾つでしたっけ?」

 「高校生さ」

 「では、そちらにターゲットを移しますか?」

 「まさか! 霊感占いに頼るまでもなく、梨阿こそ悪魔だよ。彼女と関係して、その事実が明るみになれば僕の作家人生は終わりだ。しかも彼女は編集者の娘だ、重要な仕事のパートナーも去っていくだろう」

 「そうなるでしょうか」

 「そもそも、梨阿は僕に恋しているのではなくて、ただ単に僕の幸せを邪魔したいだけだよ。友達に恋人が出来たら、何となく嫌だろ?」

 「どうですかね」

 「姉や兄の恋とか邪魔したくなる気分と似ているというか」

 「まあ、梨阿さんは先生にとって、ホームに所属する女性ですね。そういう女性に下手に手を出すな、というのは僕の恋愛セミナーで教えていることです。しかし例外はあります。何が何でも抱きたいというならば、裏技を伝授しますよ」

 「ここで例外を適用する気はないさ」

 「では当初の予定通り、イズンさんを実験台に。実験台という言葉は品がありませんね」

 透き通るような地中海の青空か、少年の頃に夢見た宇宙旅行について語るみたいに、百合夫君は爽やか表情で言うから、こちらも何か勘違いしてしまいそうになるが、彼はとても残酷なことを言っている。

 「実験台なんて、酷い言葉だ」

 「本当に酷いです。何というべきでしょうか?」

 小説家である私が代わりに、耳触りの良いの言葉を考えろと、百合夫君は私にボールを放り投げてきた。

 「いや、ちょっと待ってくれよ。僕はやっぱりイズンと深い関係になる気はないよ。確かに心は動いている。偽善者振りたくないから、それは認めるけど。しかし君のセミナーの理論を、実践で利用したいなんて思ってない。そもそも、それが成功したところで君への評価は変わったりしない。もう既に、僕は君に一目も二目も置いているからね」

 「大変、有り難いお言葉です」

 「それにさ、僕にとって重要なことは、君のセミナーが実践的かどうかなんてことではない。理論が面白ければ、それでいいのさ。小説の題材向きかどうかだけ。だからこれ以上、けしかける必要はない」

 「はあ、なるほど、それが作家さんの考え方なんですね。僕は別に必死に、この理論の実効性をアピールする必要はないと」

 「そうさ」

 「ですが先生、いずれイズンさんはこのカフェに来ますよ。それはもうすぐかもしれない」

 「彼女が来たら、嬉しいことだ。声を掛けて、盛大に歓待して、それで帰す」

 「もちろん、それでもいいと思います。イズンさんは感動して帰るでしょう。でも、それは先生の読者として感動しただけで、人間として、女性としては、何も満たされることなく帰ることになりますね」

 「それは彼女に聞いてみないとわからない」

 「いえ、イズンさんだって、それなりの期待と覚悟を持って、ここに来るんですよ!」

 百合夫君は結局けしかけてくるのである。有無を言わさぬ圧力で、じりじりと押してくる。
 しかしその態度に不快な感じはなかった。
 「先生、もう逃げられませんよ」と、にこやかに押し迫ってくる姿に、嫌みな感じがないからではない。私自身、その崖の下に突き落とされることを望んでいるからに違いない。
 刺激が欲しい。イズンがどんな女性でも、たとえ私を破滅に導く悪女であろうと、そんなことはどうだっていい。それよりも快楽。
 私はそんなことを思っているのだ。しかしそれはまだ心の片隅のほうで。



16―4)

 確かに百合夫君の言う通りであろう。取材しただけでは、他者の価値観を受肉することなんて出来ない。ましてや彼をモデルにした登場人物を小説で描写するなんて、そんなもの簡単にはいかないだろう。
 それを知るために、やはり体験しなければいけない。
 その通りであろう。体験することはとてつもなく重要なこと。人生は体験によって出来上がっていて、体験したからこそ私は何かを書き始めた違いない。

 しかしリスクも大きい。体験すればいいというわけでもない。当事者であればいいということではないのと同じで。
 体験することで失うものだって多い。想像力もその一つだろう。想像力こそ、小説の本質なのに。
 もちろん、体験が必ず想像力を殺すわけではないだろうが、体験が必ずしも想像力を刺激するわけでもない。想像したからこそ、私は何かを書き始めたとも言える。

 体験と想像、どちらが重要なのだろうか。その相反する二つ。
 いや、それも結局、この世のあらゆることと同じで、どちらとも言えないという回答しか待ってはいないのだろうけど。
 何か一つのものだけが突出して重要であれば、何と世界は単純であったろうか。
 さて、百合夫君の私への説得行為は続いている。

 「記念日でもない日に、恋人や女友達を喜ばせるため、贈り物をあげたりするじゃないですか。いはゆるサプライズってやつです。ああいうのは無価値だと、セミナーでは教えています。それよりも、いかにして女性たちの期待に応えるか、です。それこそが女性の心を掴む秘訣です。サプライズなんて必要ないんです。待っている人に、その人が待っていたものを手渡す。とても単純な作業ですが、それで充分なんです。つまり、このカフェに来たイズンさんは待っている状態です。そのイズンさんに、彼女が待っているものを手渡す。それが先生の義務です」

 百合夫君はにこやかな笑顔で言う。しかし強い圧力も伴っている笑顔。

 「もう逃げられませんよ。僕はむしろ、先生がまだ覚悟を決めていないことが驚きなんです」

 「覚悟なんて何もないよ。昨日の僕は一種の酩酊状態というか、混乱状態にあった。時間が経って冷静になってみれば、君の提案はまるで合理的ではないと判断した」
 
 私も百合夫君の表情に釣られてにやけてしまうが、彼の誘いをきっぱりと断る返事を返す。

 「じゃあ先生、逆に聞きます、なぜイズンさんを喜ばせないのですか? 先生と仲良くする。ズバリ言うと、先生の女になることが彼女の望みです。先生も得をする。彼女も得をする。ビジネス用語でいうところの、いはゆるウィンウィンではないでしょうか」

 「それは結果的に、彼女を幸せにすることではないと思うのさ」

 いや、私は情けないことを言っている。何か「永遠」のようなもの、清らかな愛なるものについて語ろうとしているに違いないから。

 「最終的には捨てるからですね? 先生は重い人間であられる」

 「何だって?」

 「重い人間、ヘビーなタイプだってことです。生真面目と同義でしょう」

 「まあ、そうだろう。今、この瞬間が良ければ、それで良い、なんて発想になれないからね。続いていく時間が重要なんだよ。そういう意味において、百合夫君、君と僕はかなり違う人間だよ」

 「僕だって未来とか先のことを考えて生きています」

 「それはそうだと思うけど。でも人によって、きっと時間の把握の仕方は違っているのさ」

 「そうなんでしょうか」

 「さあ、わからないけれど」

 「だとすれば、生徒たちにそのような講義が新たに必要だということになりますね。先のことよりも、今このときを重視しろ。それを徹底的に叩き込む」

 「僕と相容れない思想だ。邪悪にすら感じる」

 「本当ですか? とても貴重な意見を伺えていると思います。こうやって逆の意見に触れることが少なくて。セミナーの生徒は僕の言葉に反論なんてしませんよ。僕だって聞く耳を持てませんし。しかし今、先生の一言一言が心に刺さります。時間の把握ですか、人によってそれがどれだけ違うものか調べてみます」

 百合夫君は言ってくれる。その態度は真摯にして誠実。私たちは意見の相違で対立しかけたのに、彼があまりに素直で、私に対してキラキラした眼差しを向けてくれるものであるから、そんな雰囲気は一瞬にして掻き消える。

 「先生と話せて、僕は本当にラッキーです。とても学びが多くて、参考になります。僕はまだまだ未熟な半端者でした」

 とはいえ先生、それはそれとして。



16―5)

 「とはいえ先生、意味深な態度で女性をここに呼び寄せて、何も与えずに帰らせる、そんなものは一種の嫌がらせじゃないですか。彼女にトラウマを残しますよ。残虐な行為だとすら思ってしまいます」

 私を師として持ち上げた百合夫君は、しかし一転して再び私に決断を迫ってくるのである。
 先生の発言はとても参考になります。なるほど、人の心理というものはこのように出来ているのかと学べます。しかしそれはそれとしてですね。

 「ただ端的に、イズンさんを喜ばせるために行動すればいいと思うんです。自分のためではなく相手の女性のための行動です。私利私欲ではないということです。尊い利他的行為です。彼女を幸せに出来るのは今、この世界に先生しかいないんです!」

 僕は先生のように難しい本を読んだりして来ていませんよ。単純にしか考えられません。ですが、これが人間にとって最も重要なことではないでしょうか? 

 「ちょっと待ってくれ、百合夫君。これも『サイコパスの勧め』に描かれる考え方なのかい? 彼女を幸せにするための行動、それをモチベーションにして動け、と?」

 「そうですよ、これも僕の提唱するサイコパス論です。この人は魅力的な人物だ、そう思わせるために計算をして、偽の人格を演じる。自分の感情に左右されないこと、つまり自分に対する冷酷さも、サイコパス論の大きな柱の一つです。自分が得すること、利益を得ること、快適になること、快楽を感じること、そういうことを第一義に求めるな。他人を幸せにすることだけを考えろ。結果的にそれが自分に返ってくるぞ。そのように指導します」

 「自分の感情に耽溺しないってことか」

 「はい、徹底的に他人のために動く。相手が何を考え、何を欲しがっているのか見極めて、淡々とそれを与える。そうして心を支配して、思い通りにする」

 「そこまで聞くと、サイコパス的になってきたね」

 「はい、しかしです、真に魅力的な男は、他人のために生きているだけではいけない。そんな男、物足りなく思われることも事実です。端的に言えば、優しいだけの人はモテないわけですからね。ときには残酷さも必要で」

 「それは不良っぽい男がモテるっていう、そんなレベルの話しだね?」

 「そういうことです。『残酷さ』という言葉が適当ではありませんが、優しさではない何か、危険な魅力の演出、そういうのも重要です。ただただ相手が欲しがっているものを与えているだけだと、退屈な奴だと思われてしまう。短期的な付き合いの場合であれば問題ないんですが、しかし長期的となると変わってきます」

 「サイコパスなのに」

 「そうです、板についた残酷の振る舞いとでも言いましょうか、実はそれを教えるのが最も難しいと考えています。僕もまだ、そのノウハウの研究は手探りの状態で。でも、先生にはもとから、その危険な魅力が漂っている」

 「何だって?」

 「女性が恋愛対象として選ぶのは男性の十人に一人、上位10パーセントの男性だけです。容姿、雰囲気、コミュニケーション力、社会的な力。それらを総合した上位10パーセント。その男性だけが恋愛対象として考慮される。それでも可能性の段階です。それ以下の男性は異性ですらないというわけです」

 「本当だろうか、その統計は」

 「それはもちろん客観的なデータがあるわけではありませんが、充分に実感出来る数字だと思います。その10パーセントに入ることが出来なかった男性たちが、僕のセミナーに来るわけです。どうすればその10パーセントに割り込むことが出来るか、それを理論化したのが僕のサイコパス理論だと言えるでしょう。先生は既にその10パーセントの中に居られる。持って生まれた特別な魅力があるんです。それこそある種の冷たさ、人を寄せ付けないクールな感じ。孤立しているのではなくて、孤絶しているというオーラ。そのようなものに恵まれておられる。それが逆に、誘蛾灯のように人を引き寄せるんです」

 百合夫君のお世辞だろう、あまりにも大袈裟だから、からかわれているような気にもなるが。しかしとても上手いタイミングで放り投げてくることも事実。
 それを聞いて気分が悪くなることはない。私のことを特別だと言ってくれているわけである。
 しかし彼のおだてに浮かれるのも嫌なので、私は出来るだけ厳めしい表情をする。

 「先生に必要なのは行動力です。それが著しく欠けているせいで、とても損をなさっている。それをお金に換算すれば、きっと一億二億とか、それくらいの損失レベルです」



16―6)

 彼女は来ない。まだその時刻に達していないからであろう。私と百合夫君は長々と語り合っているが、時計はそれほど進んでいない。
 しかし時間がこのまま進んでいっても、何だかイズンが姿を現しそうな気配はなかった。
 本当に彼女が私に逢いに現れるのか? イズンを形作る成分が集まって、このカフェで凝結して、その姿を形作るという物理現象。そんなことは起きそうにない気がする。
 その一方、その対象が来るかどうかわからないまま、百合夫君は私に行動しろと強い語調で促してくる。

 「僕が生徒たちに最初に教えることの一つに、こんなことがあります。全ての女性は実はつながっているんじゃないか説です」

 百合夫君が言う。

 「何だよ、それは? パンゲア大陸的な話しかい?」

 その昔、ユーラシア大陸もアメリカ大陸も南極大陸も、そしてこの日本列島も一つの大きな大陸で、全てが地続きでつながっていたという説がある。それが少しずつ別れていって、今の世界地図が出来上がったという説。

 「多分、少し違いますね」

 「それじゃあ、ユングがいう集合的無意識?」

 「そっちに近いかもしれません。つまり簡単に言うと、一人の女性を冷たくあしらうことは、全ての女性に冷たくすることと同義だってことです。だから全ての女性に対して、完璧に同じ態度で接するようにするべし。結論はそういうことです。この世にいる全て女性を同じように愛し、慈しめ」

 「何だか聖書のようだね」

 「気取って聞こえるかもしれません。どこがサイコパスだって言われるでしょう。でも、これはとても重要です。僕のセミナーの初日で叩き込むことです」

 だとすれば、この話しはとても重要であり、本質的なことなのであろう。

 「この女性がタイプだ、好きだ。だから声を掛けよう。仲良くなろう。そういう発想では駄目だってことです。自分の好みによって、行動するかどうか決める。そういう態度だから、いざというとき、行動に踏み出せないわけなんです。全ての問題の根幹はそこにある」

 「この人に興味がある、俺にとって特別だ、だから口説こう。それが普通の考え方だろうけど」

 「はい、そんなのは高校生までに卒業しなければいけない。しかしこの世の中の90パーセントの男たちはそういう生き方をしているでしょうね。自分の恋愛センサーが反応したときだけ行動しようとする。好きだ、興味がある、彼女のためならば全てを犠牲にしてもいい、それくらい魅力的な女性だ! そんな想いに捉われ始めて、やがて怖気ついてしまうんです。諦めてしまうんです。だって特別なことが起きてしまったから。恋愛という大事件が発生したからです」

 「はあ、なるほど」

 完全に同意しているわけではないが、私は頷く。

 「えり好みは駄目です。女性と仲良くするということ、そこに主観を介在させない。自分の近くにいる女性、全てと仲良くする。チャンスが転がっていれば、何も考えずに即行動、それが僕のセミナーの教えです」

 「そんなことをしていれば、とても忙しい人生になりそうだね。それにあらゆる女性に声を掛けたりしたら、逆に意中の女性を逃しはしないかい。どうでもいい女性とだけ関係を持って」

 「いいえ、逃したように見えて、いずれ抱いている、それが『サイコパスの勧め』です。確かに慌ただしい人生です。趣味に没頭している時間なんてなくなるでしょう」

 「それは困るね」

 「何ならば、仕事にだって支障を来たすこともある」

 「最悪だ」

 「たくさんの女性と仲良くしているから嫉妬されて、それで逃げていく女性もいることは事実です。しかしそれ以上に、モテるんです。たくさんの女性と仲良くしているという事実こそが、モテにつながるからです」

 その通りなのかもしれない。繁盛している店は、それだけで何か味を保証されているようなもので、安心してその店に入ることが出来る。それがまた客足を伸ばしていく。

 「生まれながらの容姿や能力では上位10パーセントに入ることが出来ない男性であっても、このテクニックを使えば、ぐんぐんと自分のステージを上昇させることが出来ます」

 百合夫君は自信満々の口調で語る。彼の言い分はそれなりに論理的だろう。無茶なことは言っていない。しかしそれを実行することはどれだけ難しいことか。
 出来ることならば、独りで生きていたい。気が向いたときだけ、誰かを求める。そういうのは我儘な態度だ。自分勝手極まりない。
 しかし私はこうやって生きてきた。いや、多くの人がこのような考えているのではないだろうか。

 「先生は気軽に女性を声を掛けられるタイプではありませんよね」

 「ああ、そうだね。だけどこの年齢まで、それなりに充実した人生ではあったよ」

 「それはそうですよ。先生はモテるんですからね。しかしきっと、人生においてそこまでの幸福感を得られなかったはずです」

 「そんなことはないけれど」

 「わかりました、先生は有名人でもあります。片っ端から声を掛けまくれなんてことはアドバイスしません。それこそが『サイコパスの勧め』の本質ですが、特別にそこは免除ということで、どうぞお好きに。しかし忘れないで下さい。女性は一つだけの存在であること。女性全てを神だと思えばいい。女神です」

 百合夫君は大変なことを言い出した。

 「あらゆる男性に目を背けられる醜女も、あの広告モデルの疲れたときの横顔なんです。その醜女に優しくすることは、あのモデルの女性に優しくすることでもあって、その醜女に冷たくなんてしたら、そのとき全て女性から背を向けられる、そういうことです」



16―7)

 全ての女性に分け隔てなく声を掛ける。区別してはいけない。それをしたとき、お前は女神から罰を受けるぞ。これが百合夫君のセミナーの初歩の教えらしい。

 「しかし先生にそこまで要求することは酷でしょう。僕は大いに譲歩します。だからこそ、イズンさんからは逃げないで欲しいわけです。先生の本気を見せて下さい」

 「ちょっと待ってくれよ、百合夫君。僕だって一応作家としてやっているわけで、その辺の女誑しに負けないくらいの愛はあるつもりさ。全人類を救済したい、世界を平和にしたいという愛さ。そのために小説を書いているくらいでね。小説でもって、全ての人類とコミュニケーションを試みていると言っても過言ではない」

 いや、この言葉は正確ではなくて、かなり大袈裟に言葉を飾り立ている。実際にその理想が実行出来ているわけではないだろう。
 百合夫君にあんなことを言われて、思わず返してしまっただけ。
 今のところ、私が全人類に向かって書いているわけでないことは明らかである。わかってくれる者、自分と似ている者、そんなごく一部の人間の姿しか、視野に入っていない可能性はある。
 一方、百合夫君は本当に、この人類の半分、全女性をその眼下に収めているのかもしれない。
 確かに彼は女性を救済する気はなく、むしろ奪おうとしている側の人間ではあるが。
 それでもそのスケールの大きさは認めないわけにはいかないであろう。

 「それは失礼しました。そうですね、先生は作家ですよね、その職業を甘く見えていたわけではありませんが、愚かなことを言ってしまいました」

 「何度も言っているけど、百合夫君、だから僕は君のセミナーを取材したいだけで、実地で研修するつもりはなくて」

 「わかってます。しかし先生、先生がイズンさんを前に足をすくめているのは、彼女が好みの女性だからでしょう。彼女に関心が無ければ、彼女を弄ぶことが出来るはずなんです。先生は恐怖に慄いているんです」

 実地に研修するつもりはないという私のその言葉に対して、「わかっています」と返事をしておいて、百合夫君は何もわかろうとしてくれない。依然としてその話題は続く。
 それどころか、とにかく行動しろと迫ってくる。

 「先生が感じておられる具体的な恐怖、それは未知なるものへの恐怖、そして責任に対する恐怖でしょう」

 「そうなのかな」

 百合夫君の執拗さ、その凄み。これだけしつこく口説かれれば、ほとんどの女性は音を上げるに違いない。それと同等の攻撃を今、私は受けているわけだ。

 「それから、彼女の前で何か失敗をしでかしてしまうかもしれないという恐怖。自分の名誉を失う失敗を恐れている。誰だって恐れますよ。でもそれもこれも全て、僕のセミナーの教え、『サイコパスの勧め』で克服することが出来ます」

 「それは確信している。何も疑っていないよ。君のセミナーに通えば、きっと人生は楽しくなる。疲れるかもしれないけれどね」

 「ありがとうございます。でも先生は僕のセミナーの凄さを、本当の意味においてわかっておられない。それをわかってもらうには、やっぱり実地に体験されることが必須です」

 「またそれか。だとすれば平行線だね」

 「本当のことを言えば、先生のことを何も知らない女性を実験台にするべきかもしれませんでした。小説家ロキではない、もう一つの人格を作って、その仮面を被って、先生のことをまるで知らない女性と好き勝手に遊ぶ。最初はそちらのほうが良かったでしょう。しかし先生はきっと、そんなオリエンテーションを必要としない。時間の無駄だって思われるはずです。それよりも自らを演じる、つまり今の御自身のキャラクターを強化するほうが楽しいと思われるはずなんです」

 「ほう」

 何か面白いキーワードを出してきたことは事実である。ロキを強化するなんて。
 自分とは何者か、考えているようで私は考えていない。把握しているようで、把握していない。それは女性の前だけでの問題ではなく、作家として、全てにおいて。
 ロキとは何者なのか?  
 ペンネームではあるが、私は特に何者かを演じてはいない。しかし本名とは別の存在であることも事実で、あるイメージに沿って行動していることも間違いない。
 しかしそのイメージを自分でもハッキリとさせていない。
 イズンという女性を前にして、それをはっきりさせてみるのはどうだろうか。
 はっきりさせるというよりも、新しく作り直してみるのだ。
 それは机を前にして一人で考えたりなどするよりもはるかに刺激的であろう。いや、むしろそんなことは書斎で出来ることではない。
 百合夫君が唐突に放り投げてきたその提案に私は密かに興奮してしまった。今日の百合夫君との会話で最も興味を惹かれたフレーズとすら言えそうだ。
 しかし百合夫君はそれに気づいた様子はなくて、まだまだ必死に私を言いくるめようとする。


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