20)ロキの世界「吸血鬼的人生」
文字数 13,238文字
20ー1)
気が向いた夜に屋敷を出て、女の生き血だけを吸って、それで全てを満たして、亡骸を足元に残して、また一人きりの棺桶の中に戻って。
吸血鬼ドラキュラは、いや、別にドラキュラではなくてもいいのであるが、吸血鬼でさえあればいいわけであるが。
とにかく、人の形をした吸血鬼が主人公の物語の魅力はそういうものではないのかと思うわけである。
そして、そういう生活が理想的ではないだろうかと。
そのとき吸血鬼は、獲物の女性に何か優しい言葉も掛けるだろう。ちょっとした遣り取りを楽しんだりもするのかもしれない。
いや、行きずりの相手を突然襲って殺すのではなくて、以前から声を掛けていて、それなりの関係を築いたあと、牙をその細い首筋に突き立てたほうが、血の味にも深みが増したりするかもしれない。
最適ではない例を持ち出してしまって、随分と焦点がぼやけてしまっているが、何が言いたいのかというと、人付き合いなどは面倒で、ちょっと気が向いたときにだけ誰かと会うだけで充分で、それよりも狭い棺桶のような部屋に一人でいるほうが快適だってこと。
しかし結局のところ、ずっと独りでいることには耐えられないわけである。ときどき誰かに会いたいと思ってしまう。
吸血鬼であるということはそういうことだ。他人の血を吸いたくなってしまう。
そうすると、そこに関係が出来上がってしまう。とはいえ、本当に吸血鬼などではないのだから、用済みとなったからといって殺してしまうわけにはいかない。
殺さなければ客として再びやって来る。作家である私はその客に脅かされる。それが煩わしくて、私はイズンとの関係を進めなかった。
吸血鬼を例として、私はそのような自己弁護を試みようとしてしているわけだ。
自分は吸血鬼のような人物だと思い込むことによって、失いかけた自尊心を取り戻そうとしているのだ。
だとしたら随分と醜い行為に違いない。しかし吸血鬼的人生というフレーズに妙に心惹かれもする。私は今しばらく、吸血鬼について考えることにする。
いや、その作業は即座に中断された。吸血鬼を夢見るほどに客嫌いの私に、何と客が来たらしい。
もちろんイズンではない。梨阿とテフがやってきたのである。
まあ、その二人とはそれほど関係も深くないので、適当にあしらっても問題のない客であるが。私の仕事や人生を脅かすようなタイプではない。むしろ、暇潰しするには丁度良い相手。
「次の新作、書きたいことが固まりました。ロキ先生にまず話しておきたくて。先生がどんな感想を持たれるか知りたいんです」
そう切り出しのは梨阿の親友のテフである。
「本当です、私、決意を固めたんです。つまりどういうことかというと、これから忙しくなります。勉強もしません。恋愛もしません。書くことだけに集中です」
そんなことを喋りながら、彼女は隣に座っている梨阿の肩を突いたり、梨阿の腕にボールペンで何か書こうとしたりしている。
梨阿はそんなテフに抵抗するをことせず、しらっとした視線を送っている。
「聞いてくれますか? 新作のイメージ。梨阿にも話してません。あれ、ないよね? あったっけ?」
「ないよ」
「あれ? 昨日の休み時間に打ち明けた気がするんだけど」
「そうだっけ、知らない」
「言ったのに忘れているなんて酷い。それって印象に残らなかったってことでしょ? 私のあのアイデアには何の価値がないってことの証明じゃない! だとすれば先生に言うのも無駄な気がする」
「そうかもしれないね」
「え? そうかもしれないねって、随分と無慈悲な態度。あっ、そうだ、思い出した、梨阿に言おうとしたけど、ギリギリのところで踏み止まったんだった。今日、先生もいる前で宇宙初の発表をしようと思ったから」
「じゃあ、さっさと発表すれば?」
「うん、でもどうしようかなあ・・・。そういえば昨日、寝る前にラジオを聞いていたんです。UFOは存在するのかって話題が交わされて。アメリカとかでUFOに誘拐されて、首にチップみたいなものを埋め込まれるって事件があるじゃないですか? そういうの、どう思いますか?」
「いや、別にどうも思わないけど、それと新作は何か関係するとか?」
「いいえ、別に」
「新作の話しの続きをしてくれよ」
私も吸血鬼を愛する人間である。UFOに乗って現実逃避を試みるテフを非難出来る資格はないが、私は彼女を少し厳しめに促す。
「そうですね」
いや、テフは照れ屋なのであろう。本題にすぐに入るだけの勇気がない。
その気持ちはわからなくもない。自分の作品のアイデアを人に披露するのはそれほど簡単な行為ではない。
しかしその照れ隠しの行為があまりに長々と続くので、私たちはうんざりさせられるのだけど。
20―2)
テフには作家としての才能があるだろう。今のところは特定の世代に留まっているとはいえ、多数の読者に受け入れられているようだ。
そうでありながら、何やら私を慕ってくれていて、梨阿と共に弟子のような存在になりつつある。
会ったのは今日で二回目。まだ私たちは何の紐帯でもつながっていないとも言えるのだけど、しかしこの作家ががどのような新作を書こうとしているのか興味はある。
「では、宇宙で最初の発表、かどうかわからないけれど、私の新作のテーマを発表します。うーん、でも、どうしよう、やっぱり今日は止めておこうかな。今日は新作のアイデアを思い付いたから、いつかまた次回に発表するよっていう発表だけに留めておこうかな。だってそういう気分じゃなくなってきましたから。まだ自信がない、というわけでもなくて、自信とか関係なくて、ただ単に気分が乗らないっていうか」
「さっさと発表してよ」
この期に及んでも、まだ焦らしてくる。いや、焦らしているのではなくて、本当に恥ずかしいのであろう。
「だって別に聞きたくないでしょ? 私の新作の話しなんて」
「いいから、言ってよ」
梨阿が私の代わりに代弁してくれる。
「はい」
しかし私たちが苛ついてきたことを察するのも敏感のようだ。テフは素直に頷き、ようやく宇宙初の発表をする。
「えーとですね、主人公は転校生。男子で、高校二年。『俺はこのクラスの女子、全員抱く』なんて宣言をするんです。いや、大っぴらに口に出して言わせるかどうか考え中だけど。そういう野望を抱く。超絶イケメンです。好きでもない相手とゲーム感覚でやるんです。悪い男でしょ? でも全員ですよ、逆に凄くないですか? クラスの女子全員と肉体関係なんて」
「凄いね」
「なぜそんなことをするのかは不明。まだ考えてません。何らかの根拠があるかどうか自体わかりません。あっ、今思いついたんですけど自殺の代わりとか? こうやって生きるための目的を強引に定めて、何とかこの退屈な日常を生き抜こうっていう。まあ、とにかくクラスの女子全員抱くぜって決意する」
テフは更に続ける。
「当然、彼氏がいる子もいる。その男子のことが嫌いな子もいる。美人な子も、そうじゃない子もいる。友達の彼女だっている。でも、そういうのお構いなしに。まあ、最終的にそのミッションが成功するかどうかはわかりませんけど」
「ジャンルは?」
「ラブストーリーっていうか、青春学園小説です。でも、これこそ純文学だって気持ちで書きますよ。で、どう思います? どう思われても書くんですけど」
テフは自信ありげな態度であった。この企画にそれなりに思い入れがあるようである。これを完成させたい、その意気込みは十分に見て取れる。
いや、この態度は不安の裏返しだって可能性もある。彼女の性格をよく知らない。不安なときほど、虚勢を張るタイプかもしれない。
本当に書きたいと思っているのであれば、他人に相談なんてしないのではないか。
しかし自分に照らし合わせて考えると、そんなことはあり得ないこともわかっている。
どれだけ書きたいという願望が強くても不安なのだ。本当にこの作品に人生を捧げるべきなのか。
一作品を書くのに一年以上は掛かる。たとえ数カ月でも、無駄な文章を書きたくないはずであり。
さて、私は何て答えるべきなのだろうか。当然、私たちの反応を見て、テフはこの小説を書き進めるかどうか決めようとしているはずだ。反応が悪ければ、呆気なく引っ込めるだろう。ならば迷うまでもない。
「面白そうじゃないか」
「そうでしょ! ヤバい感じがしますよね?」
結果的にこの作品が失敗作になったとしても、きっと彼女は後悔はしない題材だと思う。私にそんなことを見極めることの出来る才があるのか、それはわからないが。
しかし相談されたのだから、自分が信じることを言うだけ。
「有名な大先生から、とてつもない高い評価をしてもらえて、本当に感動です。絶対に頑張って完成させたいと思います」
「テフ、頑張って。私はもう書くの辞めるかもしれないけど」
一方の梨阿は、そんなことを言うのであった。
20ー3)
「昨日も、一行も書けなかったしね」
梨阿が言う。声に力がない。表情も沈んでいた。
梨阿は私の弟子だ。生徒と言うべきだろうか。書くことを志し、私に教えを求めてきた。
しかし私のその指導は少しも上手くいっていないようである。
「新しいことに挑戦するのは難しいものだよ」
とはいえ、まだ指導らしき指導もしていない段階であるが。
何も始まってもないないのに、彼女はとてつもなく早い決断を下そうとしているのだ。
「向いてない、私には」
「そうだろうか」
「もっと簡単なものだと思っていた」
「あり得ないくらいに簡単だよ。そんなに深刻に考えるものではないだろ」
「そうなのかなあ」
「ああ、簡単だよ、とは言いつつも、小説の最初の一行目は難しい。何ならば、それだけが難しと言えるのかもしれない。しかも人生で最初の作品の一行目だから尚更だ。上手く書こうとし過ぎているんだ、とりあえず思いついたシーンを言葉にしていくべきだ」
「だから、それが出来なかったんだけど。それはまあね、書こうと思えば書けるんだけど。でも書けたとしても、ありきたり過ぎて。別に私が書く意味がないというか」
「なるほど」
「所詮、趣味だし。追求する面白みがない趣味かなって思って。勉強以外で苦しみたくないしね。だから」
「だから?」
「辞める方向で」
そうか、だったら諦めればいい。
いや、とにかく続けていれば、いつか楽しさを見出せるさ。
目の前にそんな二つの選択肢が存在しているだろう。さて、私はどちらのセリフを口にするべきであろうか。
冷たく突き放すのか、頑張れと諭すのか。
いや、これは梨阿にとってこそ、意味のある分岐点だろう。ここでサラッと諦めるか、書き続けるのか、この程度で彼女の人生の大勢が決めらることはないとしても、それなりには意味のある決断。
「どうしたの、梨阿ちゃん? 元気ないね」
自分の世界に入り込んで、物思いに更けていたテフが、そこから出てきて私たちの会話に介入してくる。梨阿に掛ける口調は不気味なくらいに優し気で、演技がかっている。
「別に」
「書けないって?」
「聞いてたんだ」
「ま、そんなものよ、神様は残酷だからね」
「何、それ」
「選ばれた者だけしかな書けない、それが小説よ。神様がそれを選んでいるってわけよ」
「ふーん、神様はみみちい仕事もさせられてるのね」
「更に、その中から選ばれた者しか完成させられない。そこはもう神様の手を離れて、自分の努力次第。何が何でもこの作品を完成するっていう運命を、自分自身の強い意志で選ぶわけよ」
テフは梨阿に人生訓を垂れている。会社の社長か校長が口にするレベルの、有り触れたというか有り勝ちな。
「更に更に、そこからまた選ばれた者だけしか、読まれない。そこが最も残酷なんだけどね。読むかどうかは、読者が選ぶ」
自分はその全てに選ばれた、そんな誇らしげな態度をテフは見せる。
「神様に選ばれ、自分で運命を選び、そして最後に、我儘で掴みどころのない読者に選ばれる。・・・えーと、逆のほうが良かったですかね?」
テフは偉そうな態度を引っ込めて、耳打ちするような仕草で私に尋ねてくる。
「逆って?」
「まず書く運命を自分で選んで、それから完成させらるかどうかは神様次第で、っていうほうが説得力あったですかね?」
「いや、どうかな。そもそも神とか運命なんて持ち出さないほうがいいかなって思うけど」
「ああ、そうですね、何もかも努力次第という考え方ですね。あと、読者だけに選ばれるわけでもないですよね? 編集者に選ばれたら、もうそれで勝ちだっていう売れ方もありますよね?」
20―4)
梨阿はホラー小説を書きたいらしい。目的は定まっている。具体的なアイデアも思いついている。あとはそれを作品として形にするだけ。
いくつかのハードルはクリアーしているように思えるのだ。何かを書きたいが、何を書きたいのかわからないという、あの初心者が陥りがちなシチュエーションにはいない。
書けばいいのだ。簡単ではないが、単純な作業。それなのに彼女は、その一歩を踏み出そうとしない。
「君が書かないのならば、僕がホラー小説を書こうかな。学園を舞台にしたホラー小説だよ」
私は言った。
「本気ですか、ロキ先生、なかなかのおもしろ発言じゃないですか、それ」
テフが反応する。
「おもしろ発言て何よ、その言い方。先生のファンが聞いたら、驚くような重大発言でしょ。でも誰より驚くのが、私のママで」
「梨阿のお母さん、編集者さんだっけ? 大阪で一番か二番目くらいに有名な」
「そんなに有名ではないけど」
「いや、それを次の作品にしようとは思ってない。そういうことを決定するには、それなりの手続きが必要だ。それこそ梨阿の母と相談しなければ決められない。しかし候補の一つとして検討するのはありかな」
私のその発言に対して、二人はそれぞれの性格に合った相槌を打ってくる。
「検討するのも楽しい作業さ。その作品について、考えられるだけ考える。具体的な執筆の一歩手前まで行くわけだ。いや、一歩か二歩は、執筆作業に入っていくかもしれない。なあ、梨阿、君が書かないのなら、君の小説のアイデアを全部譲ってくれ。それを見事形にしてみせる」
「え? 譲ってって?」
「そう、この前に、君が披露してくれたあのアイデア全てさ。僕がそれを完成させてみせるから」
「本気で言ってるの?」
「ああ、けっこう本気だ」
「うーん、でもそれは、嫌だ、いつか書くかもしれないから」
少し迷ったあと、梨阿は断固として返答してきた。
「たいしたアイデアじゃないかもしれないけど、誰かに譲るのはもったいない気がする。先生だから嫌とかじゃなくて。・・・まあ、別に良いと言えば良いんだけどさ、どっちでもいいよ」
「いや、すまない、自分の作品は自分で考える」
梨阿の言っていることが正しい。むしろ、アイデアを譲れなど、何という無礼なことを言ってしまったことか。
梨阿が小説なんて書くのを辞めるという発言に対しての、これは私なりの回答ではあったのだけど。
「そうか、だったら諦めればいい」でもなく、「いや、とにかく続けていれば、いつか楽しさを見出せるさ」でもない回答。
「だったらそのアイデアを譲れ」という選択。
君のアイデアは作品にする価値があるという伝えたかったのだ。
しかし私は傲慢であった。彼女のアイデアを形にして、梨阿に見せつけてやろうなんて気になっていたに違いない。
私と梨阿のちょっとした緊張感のあるやり取りを、テフもしかと聞いていたようだ。その結果、テフは妙にニヤニヤとしている。
「プロの作家先生がどのようなホラー作品を書くのか楽しみです、普段書いている分野とは違うところに手を出したとき、どうなるのか」
「気のせいかもしれないが、挑発的な発言だね」
「いえ、本当に楽しみなんです。楽しみっていうのが挑発的なのかもしれませんが、でも楽しみ、期待感が半端ありません」
私は後悔し始めている。次の作品に、出来るだけ早く向かい合わなければいけないのに、ペースを乱されている。
ホラー小説なんて書いている時間などあるわけがない。何よりも心の余裕がない。
楽しみだね。
本当に楽しみ。
しかし、二人は美しいほどに残酷な笑みを浮かべ、私への期待感を無邪気に示してくる。
20―5)
「私が書けないのは良い文章が思いつかないだけじゃなくて、他にも理由があるんだけど」
梨阿は言う。
「書こうとした途端にやってくるの、背後から、黒い何かが」
「何かって何よ?」
「何て言えばいいのかな、黒いあれよ。何者かの怨霊」
「え、え、え、ちょっと梨阿、そういうのやめてよ」
テフは念仏を唱えたり、十字を切ったりし始める。彼女は神にも仏にも何のリスペクトもないに違いない。効力がありそうなことならば何でもやっておこうという、超自然的なものに対して最も不敬な態度。
「小学生の頃ね、ゲームを買ったの。でさ、やろうとしたら、部屋の電気が消えたり、変な足音が聞こえてきたり。中学のときに好きな人が出来たの。その人のことを考えたときも不気味な出来事が起きた。昔からそうよ、それは私が何かを楽しもうとしたり、頑張ろうとするとやってくるわけよ」
「うそ」
「本当、まさかよ。私だって驚いている。小説執筆でも、そいつが来るとは思わなかったから」
私はその会話に口を挟まない。梨阿が「それ」のことを、テフに打ち明けていたという事実を前に、「なるほど」という思いで聞き入っている。
二人はその秘密を共有し合うほどの仲だということだ。霊能力なのか、狂気なのか、定かでない何か。
「本当に怖いのよ。背筋がぞっとして、全身に鳥肌が立って、ここから逃げなきゃヤバいって心の底から感じるんだけど、逃げるところなんてなくて。しばらくしたら消えるんだけど、とにかく最悪。だから書かない。私には無理。書こうとしてから本当に調子が悪くなってきた」
「梨阿、本当に可哀そうね。聞いてるだけで泣けてくる」
「そうでしょ?」
「でも、それって、梨阿にそんなこと言いたくないけど、絶対にそうだって断定するつもりもないよ、でも何て言うか一種の言い訳じゃないの。書けないことを、お化けのせいにしているだけ。って私は思ったり思わなかったり」
「はいはい、そうかもしれないね」
「もしかして怒っている? でも、お化けのせいにして、サボってるわけじゃないって言い切れないでしょ」
「言い切れるよ、まるで逆だって言いたいから。苦しいことをしているときは、何も現れないって」
「ああ、そうか。確かに梨阿は勉強してるよね? 私よりもテストの点はいいから。この子も、その気になれば頑張れるタイプなんですよ」
何も口を挟まず、二人の奇妙な遣り取りを静観していると、テフは私をその話題に巻き込もうとしてくれる。
「クラスで十一位くらいの成績だよね、私は十二位くらいで」
「勉強しているときだけは、あいつらは出てこない。小説を書くのも、それと同じかなって思ったわけよ。しかしそうではなかったってこと」
「ああ、そういうことか、確かに一人で机に向かうって意味では同じよね。私なんてテスト一週間前とか、逆に作品の執筆が捗るから。でも勉強と執筆じゃ、きっと使っている脳の部位が違うんでしょうね。タンとサーロインで味が違うようにね」
「それを言うなら、前頭葉とか側頭葉とかでしょ」
「書くと頭がすっきりして、書かないでいると頭が痛くなる。だから私はどんなにやる気が出なくても頑張って書くわけよ。じゃあ、前頭葉か側頭葉かわからないけれど、その辺りのモヤモヤがキレイになっていくっていうかね。窓を拭いてピカピカにするみたいな感じ。私と梨阿は逆ね。書こうとして調子が悪くなるのなら、あんたは勉強だけ頑張れば?」
「何か嫌な言い方」
「勉強することは偉大だと思うよ。誰かが既に知っていることを、知らない自分が学んでいって、その誰かに似ていくって行為。梨阿はきっと素晴らしい社会の歯車になれるわ! 私はそういうの無理。無から有を生み出すクリエーターとして生きるから」
「小説家なんて自分の妄想を垂れ流しているだけじゃない。別に何か新しいことを生み出しているとは思えないけど? それにさっき適当なこと言ってたから訂正しておくけど。私はクラスで五位に入る成績よ。テフ、あんたは平均以下でしょ」
「私は勉強なんてもうしてません。勉強していると、背後から黒い何かがやって来るんです。いえ、白かピンクの何かかもしれません。その白かピンク色の何かが、勉強よりも楽しいことが人生にはたくさんあるぞって囁いてくるんです。例えば何? って聞いたら、お腹減っただろ? 何か食えよ。で、夜食にラーメンとか餃子とかを食べてしまって」
その会話はただの退屈しのぎ。放課後、ファーストフードでも食べながら喋っている女子高生たちそのものであろう。いや、最初のほうはまだ何か真剣な話し、創作論とか小説について語っていたようであるが。
いつしか、そのシリアスさは消え失せて、ただ単に言いたいことを二人で交互に差し出し合っているだけ。
しかし私は楽しんで聞いている。二人の遣り取りが愉快でならない。
むしろこういうものこそ、人生の本質なのではないか。そんなふうな感じで、胸が締め付けられそうになっている。
確かに梨阿は投げやりな決断を下そうとしていて、何か手を打たなければいけないと思うのだけど。
しかし小説を書いたり、何かを作ったりして自己実現を狙うことよりずっと、重要なことがあるに違いないのだ。
20―6)
小説を書いたり、何かを作ったりして自己実現を狙うことよりずっと、重要なことがあるに違いない。それが人付き合いとか社交とか。
いや、重要などということではなくて、そっちのほうが端的にずっと楽しい。
梨阿とテフの会話に立ち会って、そのようなことを考え出した私であるが、それは先程、考えていた吸血鬼的人生と真っ向から反する思想ではないか。
いったい私の本音はどこにあるのか。
いや、こんな私だって社交とか人付き合いに喜びを覚えることはある。その真っ最中は楽しいものなのだ。その事実は決して否定しない。
しかしパーティーの始まる前が嫌なのである。億劫なのだ。
人付き合いが好きなタイプは、きっとその逆のはずだ。パーティーが始まる前からウキウキしているに違いない。
むしろ、余りに期待感が強くて、実際のパーティーは物足りない。だからこそ、また別のパーティーを求めてしまう。その結果、人生は社交に次ぐ社交となる。
実際の読書の行為の最中よりも、どんな本を買おうか選んでいるときに幸せを感じてしまう、読書家の心理に通じるものがあると言えるだろう。
読書家にとっての読書とは、買ってしまった本の処理の時間でしかなく、真の楽しさは買い物のときに果たされているのである。だから次々と買い足してしまうわけだ。
「私も読書は好きで、次々と本を買いますが、しかしその意見にはまるで賛同出来ませんね」
「つまり、読書自体も楽しんでいるってことだろ? それは僕だってそうさ。ただの極論だよ」
梨阿とテフは去り、事務所には私と秘書の佐々木二人きりになった。あれほどの騒がしさのあとだから、その反動で妙に静かである。
いや、静かであることはどうでもいい。それより何か取り残されたような気分を感じてしまう。いったい何から取り残されたというのか?
青春から? 若さから? 楽しい人生から? 何かそのようなことから。
「そうだったんですね。極論を真に受けた私が馬鹿でした」
「いや、極論を弄して、良い気になっている僕こそ愚かだった」
祭りが終わったあとのように寂しくて、その寂しさを佐々木とのコミュニケーションで埋めるという選択肢が存在していることは確かであるが、その寂しさこそ、書くこと、創作行為が埋めるのである。
それが私が選んだ人生の道。
「せっかく梨阿たちが気を使って、さっさと帰ってくれたんだ、仕事をしてくるよ」
私は部屋を出ることにする。この事務所の向かいの部屋に私の仕事部屋がある。
「はい、どうぞ、と言いたいところなのですが、ちょっとお待ち下さい。実は今朝早く妙な仕事の依頼が来ていまして」
佐々木が私を引き留めてきた。
「妙な依頼って?」
「これまでの人生を振り返るインタビュー、それと今現在の仕事の完全密着ドキュメンタリーを作りたいとのことです」
「誰の?」
「さあ、わかりません。しかし先生宛てに来た仕事ですから、きっと先生のでしょう」
「なるほど、確かにそれは妙な依頼だ」
いや、いったいどこが妙だというのだ。私だって作家の端くれで、私の実存に興味を持つ層はいる。新作を発表すると、それについて聞かれることだってある。
それなのに妙な仕事が舞い込んできたなんて、佐々木も随分なものである。
「いえ、妙だと言ったのはそれではありません。実はそのインタビュアーが驚きなんです」
「超有名人とか?」
「いえ、その逆です。私、らしいです。常に一緒に居る秘書に、それを勤めて欲しいって」
20―7)
自分の部屋に戻るのを取りやめて、その代わり私は冷蔵庫に向かう。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、それをグラスに注いで、またソファに座る。
「えーと、何だって。順を追って説明してもらおうか」
いや、大体のところは把握はした。妙な依頼だと説明してきたが、それほど妙ではない。私はインタビューを受けるのである。
そしてそのインタビュアーが秘書の佐々木であると。それにはいくらか意表を突かれたが、理解はした。
私が引っかかっているのは、それではない。
「密着ドキュメンタリーだって?」
「はい、そうらしいです。生活も全てカメラで撮り続けたいという依頼です。テレビでは流れませんが、ネットの配信で商品として流通する可能性があるとか」
「だから君がインタビュアーだと?」
「はい、そういうことです」
「断ろう、とんでもないストレスだよ」
「嫌です、是非やりましょう。私にも謝礼は出るんです。今の給料の五倍くらいの額ですよ。滅多にないボーナスです」
「君をまず篭絡すること、それが向う側の作戦ってわけか。大野さんが噛んでいるのだろうか」
編集者の大野さんである。私の仕事の全て、ありとあらゆることの黒幕は彼女である。
「わかりません、しかしその密着が始まれば、先生は次の作品に取り掛からなければいけませんよね。このモラトリアムな時期も終わりです」
「それが大野さんの狙いか、わかりやすいね。しかし密着され出したからといって、見栄を張って作品を書く振りをする気はないけど」
「それではいつまで経っても密着ドキュメンタリーは終わりませんよ、きっと」
「書きたくても、書けないのだから仕方がないさ」
「そのインタビューで先生にどんなことを聞くべきか、向こうから色々と指示はあるみたいです」
「その映像作品? 番組? それがどれくらいのクオリティか気になるところだね。本格的な文学談義を要求されているのか、それともちょっとした有名人として扱われるだけなのか」
「そうですね、これまで他の作家さんも、そのスタッフさんたちに密着されたかどうか」
「そう、過去の作品があるのなら、それに目を通してから決めたいし」
佐々木は送られてきたメールに再度を目を通す。「何も書いていませんね。ということはこれが最初の企画なのかもしれません」
「いずれにしろ大野さんが噛んでいるのなら、彼女から連絡が来る。断るにしても、どうせ、そのスタッフたちと直接会うことになるだろうし、決めるのはそれからだろう」
「はい、そうですね、今、ちょうど大野さんから連絡が来ました」
そう簡単に慌てたり驚いたりしない佐々木が、目をパチパチさせて、そのタイミングの良さに動揺している。
「あれ? だけど、そのことについて、まるで触れていませんね」
このタイミングで送信されてきた偶然こそ、大野さんが裏で噛んでいる証拠だと思ったのであろうが、彼女は首を振っている。
「大野さんは関係ないわけか」
「はい、いつもの挨拶のメールです。仕事の進捗はどうか、何か変わったことはないか」
「その密着ドキュメンタリーの仕事について質問してみてくれないか。いや、僕は電話で聞こう」
私は大野さんに電話した。大野さんは「何ですか、それ」と、なぜか私に対して怒りを向けてくる。「そんなことよりも新作に取り掛かって下さい」
大野さんではない、だとすればもう他に思い当たるところはない。強いて言えば百合夫君。
しかし彼にとってのメリットは何だろうか。いや、百合夫君と大野さんは通じている。百合夫君の作戦であるとすれば、大野さんが知っていてもおかしくはないのに、その気配はない。また別の誰か。
20―8)
謎だ。謎の組織が私たちに関心を寄せている。しかもその組織は私の生活に四六時中付きまとい、様々なことを洗いざらい尋ねたいということなのである。
とはいえ、謎だ、不思議だと騒いでいる場合ではない。
当然、その謎の組織を私たちは積極的に調べることにする。メールの送り主、そのプロダクションを検索してみる。
確かに何かの番組を作っているようだ。しかしその情報だけでは要領を得ない。なぜ彼らが私に関心を寄せているのか、どうしてそんな番組を作りたいのか。
ただ単に私の作品の熱心なファン、そうなのかもしれない。だから、この番組を作ろうとしている。
しかしきっとそのような動機でビジネスは始まったりしないもので。
このような番組を作ろうという人たちは、私の作品、いや、文学全般に通じてはいない気がするのである。私へのリスペクトなんてないのだ。だからこそ厚かましい依頼をして来られる。
最初は乗り気であった秘書の佐々木も、その謎が混迷を極めるにつれて、徐々に表情は沈んでいった。
「私のボーナスは夢と消えそうですね」
彼女は言う。「怪しいなんてものではありません」
「いや、その番組が存在していなくても、何か邪な目的が裏にあったとしても、約束通りに報酬を得ることが出来るのなら、その依頼を受けよう。しかし全てが怪しげだから、その肝心の報酬が手に入るという保証がないのだけれど」
「では、先に半分の報酬を振り込んでもらうという約束を取り付けるってことで話しを進めますか?」
「いいだろう、それでいこう。しかし君にもそれなりのギャランティが発生して、当の私にも当然、発生する。けっこうな制作予算が組まれるわけだ。僕のインタビューにそんな価値があるだろうか」
「まるでないと思います」
「でもまあ、その番組か作品だかが大ヒットしたら、向こうはこの賭けに勝てる、大儲けするかもしれない」
「大ヒットなんてするはずないと思います。先生の読者の方々以外、誰も観ませんよ」
佐々木は辛口である。お世辞という概念を知らないはずはないのだけど、どうやら私を相手にしているときは、それを失念するようだ。
しかしこれに関しては私も彼女の意見に同意する。我々にこれだけのギャラを支払う価値は見い出せない。だからこそ、この作品だか番組だかを作ろうとしている相手方の動機が理解出来ないという話しに戻るわけであるが。
「それでも話を前に進めることにしよう」
「では、先方と会う約束をします」
「出来るだけ早く会いたい、明日でも明後日でも。いや、面倒だから今からすぐに会いたいと吹っ掛けよう」
佐々木はメールの返信を始める。
自分でそのような遣り取りをしないで済む。秘書とは何という便利な存在だろうか。
私を称えたり褒めたりは一切してくれないが、きっと報酬分の働きはしているだろう。
「今から会えるらしいです。むしろ先方はそっちのほうが良くて、それというのも、この企画のプロデューサーがフランスの方で、日本側のスタッフが近日中にフランスに行くらしくて、その前に会えるのならば是非ということで」
「フランス。つまりこれはグローバルな何かだったわけか」
なるほど。と思うべきなのか。だからこそ、予想もしていなかったことが身に降りかかってきたわけか。
そのように理解をすれば、これを受け入れることが出来るわけであるが、しかしこれこそが騙しのテクニックかもしれない。
「電話での向こうの印象は?」
「悪くないと思います。かなり前向きで、是非、この企画を実現したいという意気込みを感じました、そう言い切れると思います」